第71話 不倫と幼さ




 近頃、芸能人たちの不倫報道が華々しい。かつては芸人は別世界の人間として、芸の肥やしになると許容する時代もあっただろうが、現代社会においては私が思うに過剰な厳格さを義務付けている様な気がする。もちろんこれは不倫を推奨しているわけではない。また、夢を売ることで報酬を得ている芸能人たちが、夢を売れなくなれば地位を追われることはある意味当然であり、報道の話題性云々よりはその先に再び社会に受け入れられるのかということが問題であるのもわかっている。

 ただ実際極論を言うならば、現代でも芸の力が突き抜けていたなら十分にやっていける可能性はある。確かに、一部マスコミやネットの執拗な追求は甘んじて受けなければならないが、それを跳ね返せるだけの力を芸は有していると思うのだ。もっとも、「会いに行ける」「身近な」を売り文句にしている現代の芸能界では、一般社会との違いを理由に自立などできないというのも現代ならではの流れかもしれない。芸能界は芸のみを突き抜けさせることから、リアリティにより人々の心をつなぎとめる方向に変わってしまっているのだから。


 ところで、現代の一般的な社会通念としては法律的にも倫理的にも不倫が許されない。だが、離婚率が婚姻数の1/3にも届く時代、あちこちで不倫に関する話題が巻き起こっているのも事実である。火の無いところに煙は立たない。情報が多く漏れ出すということは、それが蔓延しているかあるいはそれを望む潜在的な声が大きいかのいずれかである。学級委員長的に不倫などごく一部の出来事であって、単に興味本位の都市伝説的なものではないかと言いたいとkろではあるが、幽霊やUFOなどと比べてればずっと現実的な事象であろう。

 ただ、倫理面の慣習より不倫は常識的に日陰の存在とされ、表面にはあまり出てこなかった。ところが、ネットの発達(しかも匿名情報の氾濫)によってそれが急速に身近になった。情報の拡散が先なのか、それとも実情が先なのかはわからない。しかしながら、多くの人は良きにつけ悪しきにつけ関心を抱くものになっている。溢れるのがゴシップ記事としても、それを望む無意識の何かが存在していると言ってよい。もちろん離婚理由の大部分が不倫(新たな恋愛)によるものではないが、こうした現状にどのような状況が含まれており何を意味しているのかについて少し考えてみたい。


 まず、私が不倫に関する情報が社会に広がっている状態を見て最初に考えたことは、反応が「子供っぽい」というものであった。通常は不倫というキーワードから想起されるのはどろどろとした大人の恋愛模様ではあり、それ故に子供っぽいというのも奇妙な感じもしよう。そもそも性を扱うということ自体をもって、子供には適さない内容だと考えることもできる。だが物事の適用性ではなく行動そのものを見ると、理性で感情を抑えきれない状態を仮に精神的に成長できていないとした場合、建前ではあっても社会的に許容されていないこうした問題が生まれてくるのは、その人の心(精神)が大人になりきれていないからと考えても良いのではないか。

 確かに、感情を抑えることがそのまま大人の証拠と定義するには違和感のある人もいるだろう。私自身、日々自分が持て余す感情に振り回されることも少なくない。また、時には俳優など感情表現の利用が職業や専門の道で求められることもある。だが一方で、抑えるべき感情と吐き出しても良い感情を使い分けることは社会生活を送る上でのマナーである。社会というものは多くの異なる価値観や考え方を持った人間の集合体である。それを適切に維持していくことは、少なくとも大人たちの義務であると言ってよい。

 あるいは表の顔と裏の顔を使い分けているというケースもある。感情を抑えた表とそれを振りかざす裏。だが、裏が無ければ生きていけない訳ではない。だとすると、生きていくために必須のものとそれ以外のを区別できていないと考えることもできる。不倫は自分が社会生活を送るために必須の条件なのか。そこに問題の根本があるのではないかとひとまず考えてみた。


 ところで、そんなことを言えば恋愛どころか趣味も必須ではないだろうと考えるのは当然だ。生きていくために求められるのは物理的な条件や社会的な条件以外に、自分自身の心の安定が何より重要である。私たちは目標や目的なしでは人生を漂ってしまう。不倫問題を考える時に、満たされない心を満たすための一つの方法としてそれを選択していると考えることは理解しやすい。問題は、それが本当に最も良い方法なのかということにある。

 だが、止めたくても止められないのが恋心。困難さが目の前にあるほどに燃え上がることも多い。さらにそれを深く辿れば、最後には本能的な性欲に行き着く。人間に性欲があり、それが子孫を育てていくという本能から離れるほどに、不倫が生じる可能性は高まる。いや、考え方からすればより良い相手を探して放浪することも本能の導きかもしれない。

 現実の不倫の形態については様々なケースがあると思う。最も容易に想起できるアバンチュールから、暴力等からの逃避の場合もあれば、経済的理由のものもあろう。最後は不倫と呼ぶべきか商行為と見るべきかは判断しづらいが、一概に言えないことだけはわかる。


 このように満たされない何かを埋めるために恋愛に溺れるという姿もあり、逆に地位や権力並びに財産といった余裕があるからこそ自分を満足させる虚栄心も存在する。ただ、どちらも満たされない理想の自分と現実の自分のギャップを埋めるために恋愛(そう呼んでも良いのかわからなくもなるが)を利用している様にも思えてくる。

 現代で言えば愛人や過去においては側室と呼ばれる関係は一定以上の財産が無ければ成立しない。それを推奨するものではないが、社会や人間が完璧ではないことを知っている身としては、それを断罪することなどできやしない。だが、それが幸せなものかと問われれば必ずしも言い切れないとは考える。ベストを追い求められないからこそ生まれてくる存在。不倫も同じような存在と考えても良いかもしれない。


 ここで、私が考える理想の恋愛形について書いておこう。もっとも、私がそれを実現できているという訳ではないので、あくまで理想と割り切ってほしい。それは、お互いに与え与えられる存在であることであり、同時に何かを相手に与えるために努力する状態を意味している。まずGIVEがあって、その後にTAKEが来る。一方的に与えられるのも異なるし、相手から与えられることのみを探し求めるのも違う。

 人は子供時代には親から一方的に与えられる存在である。幼ければ、当然一人では生きていくことはほとんど不可能であり、親に依存するのは自明のことである。一方で親は満足感を子供から得ることは有れど、それが感じられなければネグレクトへと一直線となる。実際には倫理観や社会的な立場が抑止力として働くが、村社会が消えてそれが働きにくくなっているのが現代の特徴とも言える。


 さて、話をもどそう。先ほど例示した愛人や側室は、財産的にはそれを持つ側に寄生するものである。対価として精神的な満足感を逆に与えられるのであれば、歪だとは思うが相互補完的な関係は成立する。GIVE&TAKEの関係としては満足している。ただ、先ほど私はGIVEが先でTAKEが後と書いた。これは、(恋愛に限らず)相互補完関係の成立ではなくその意地を意識してのものである。問題は、関係性を維持し続けるモチベーションがどこから生まれているのであろうかということだ。

 本来、恋愛は刹那的であるかどうかを問題としない。理想の形として永続性を夢想はしているものの、理想を追求することが最初からの目的ではない。逆に考えれば、不倫とは結末を考えない恋愛の典型とも言える。先ではなく現在を考える。だが、それのみを繰り返すことは冷静に考えれば生産的ではない。


 例えば、既婚者でも夫婦関係が上手くいっていないケースは多々あろう。それが悪いというつもりはない。実際理想を掲げて、あるいは大恋愛を経てきたとしても、その感情が維持されるづけるとは限らない。むしろそんな状態が継続する方が稀であると思う。

 しかし、抱える問題点を別の恋愛で紛らせるとしても、それは最初の結婚時と基本的には同じではないかと思うのだ。もちろん、相性が合わなかったという事はあるだろう。本当に解決できないような状況があれば、離婚という選択肢は可能である。要するに、不倫は一時しのぎの可能性が高いと思うのだ。

 確かに、略奪婚などという不倫から始まる夫婦もある。社会的な非難は別にしても、それを一時しのぎとは言い切れない。だが、長期的な展望をもって行うものなのか、感情の赴くままに行うのかによって考え方は異なるように思う。


 少なくとも、一定以上の覚悟を決めて行うケースを幼いとは言い難い。だが個人的な感想を言わせてもらえば、そこまで覚悟を決めてそして将来を展望してのものは多くはあるまい。そして、破滅的あるいは刹那的なそれは、結局のところ短絡的な指向や判断により導き出されたものと感じるのだ。私が「子供っぽい」と呼んだ部分はまさにそれに当たる。

 これは、人生における覚悟が衰退していることが関係しているのかもしれない。社会の発展に伴い、あるいは文化の変遷に伴い、収入問題などはありながらも生きて行くことは容易になり、家を守るという概念はどんどんと消えつつある。生きていくのに必死にならなければならない状態は決して素晴らしいとは言えないし、家に縛られた生活は窮屈極まりない。どちらもそれを無くせばより良い社会が来ると考えてきた。

 だが、現実に手に入れた時に同時に失ったものがある。その一つが覚悟ではないだろうか。もちろん江戸時代の様子を見れば、現代で不倫と呼ばれる以上の様々な事例があるようだし、今私たちが知る倫理観とは異なるものが存在していた。すなわち電がのそれを考える時、実は現実と理想のギャップは現実がおかしな方向に行き過ぎているのか、あるいは理想を変えるべきなのかと考えるに至る。


 ただ私が男性だからであろうか、あるいは個人的な趣向のせいかもしれないが、こうした問題を考える時に精神的に大人として振る舞いたいという気持ちが先に立つ。人それぞれ様々な理由があるだろう。厳しい状態もあるだろうし、不満もたまることがあろう。だが、少なくとも逃避の代償として不倫というものを用いて束の間の不安の解消を得たいとは思いたくない。そう考えてしまうのだ。

 それは恋愛を、人生の昇華ではなくパッチワークのように使用しているように見えるから。それはすなわち、自分自身の葛藤を他者に押し付ける行為に見えるから。もちろんこれは私の個人的な視点に過ぎない。不倫の全てがこうした代償行為とは限らないのだから。だが、仮にその要素が大きいのであるとすれば、やはり私が感じた「子供っぽい」という感想を変えるには至らないように思うのだ。これは、社会が自分自身で責任を取らないことを正当化しやすい時代が来ているからなのかもしれない。

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Love on Alternative Issue 桂慈朗 @kei_jirou

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