第65話 忘却と認識



 時間が人の消してしまいたい記憶を融解させ、あるいは徐々に埃の中に覆い隠してしまうことは一定根の年齢に達したものなら少しは知っている。若い頃には年齢を重ねた人より体感的な時間の経過が遅く、理性的には時間が解決することはわかっていても受ける感覚からその実効性に疑念を抱いてしまう。社会人になれば、学生の時以上に生活が多くの逃れられないものにより支配されるため他のことに気を配る余裕がなくなり、結果的に意識が嫌な記憶にアクセスする機会も減少しがちとなる。

 考えることは人間に付与された最高の能力だが、考え過ぎてしまうことは人間に与えられた試練ともなる。忘れるために何かに没頭するというのは、記憶へのアクセスを無理矢理シャットアウトしようと試みることだと言えるが、ただ悲しいがな完全に遮断しようと強く意識すれば意識するほどに、実のところ封じ込めてしまいたい記憶の片鱗に触れている。


 忘れるためには記憶から完全に消去するという考えもあろうが、おそらく現実を考えると問題となる事の重要性を低下させるというのが適当である。記憶は早々適当に消滅するものではないが、認識は変え得る。確かに、あまりに強すぎる刺激に対する防衛反応として忘却という選択を脳が自動的に取る場合もあるが、これは特殊なケースに該当するだろう。重要性を低下させようと忘れるために別のことに没頭するのは典型であるが、単に異なる分野な内容に取り組むという事実だけでは意味がない。心や気持ちが離れない限りにおいて、私たちはその束縛からは容易に逃れえない。

 ただ、私たちが忘れてしまいたいと思う多くの出来事は、日常生活においては自分が考えるほどに大きな問題ではないことも多い。学生時代などはその事で揶揄されたり、からかわれたりすることもあるだろうが、若さゆえの気真面目さが事態を複雑にするケースも見受けられる。「開き直り」という言葉もある様に小さなことを気にしないだけでも状況が変化することもよくある(無論ケースバイケースであるのは言うまでもない)。


 さて、上述で触れたようなトラブルやミスの忘却と、かつての恋人を同列に置いてよいかについては意見が分かれるところかもしれないが、個人的には両者がさほど変わらないものだと思っている。前者は隠ぺいしたいことで、後者は切り離せないことであろうが、どちらにしても尾を引いている状況に違いはない。

 そこには積極的であるか消極的であるかは別にして、本人の意識する重要度が高いままであるという状況がある。先ほども、これを記憶の問題として忘れようと考えるのではなく、認識の問題としていかに重要度を下げるかに取り組むべきことではないかと思うのだ。

 この認識に関しては、多くの場合において理性ではなく感情が先に立ちやすい。理性では拘ることにメリットはないと判っていても、感情がそれを許さない。この感情は、面子であったり未練であったりその他様々な複雑な要因が絡み合っているのであろうが、どちらにしても執着という言葉で表すことができる。

 人は容易に執着心を無くすことはできないが、これも通常は年齢を経るほどに意識は低下していく。別に達観する必要はないと思うが、無理にそれを意識から排除しようとするのではなく、徐々にでもよいのでその価値を低く認識するように変えていくことが重要なのだろう。


 「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」というフレーズは頻繁に用いられるが、まさにそのとおりであって好きでも嫌いでも自らにおける重要性(影響)が高いことを意味している。夫婦も永年を経ると無理な執着心が消えていくものだと思う。それが程よく消えている状態が自然ではないだろうか。もちろん一部には性格的に執着心を捨てられない人もいるだろうが、逆に言えば全ての執着心が消えれば他人と何も変わらない。

 お互いが必要とする執着心のみが残ればそれが理想形なのだろう。


 とは言え、感情を制御するのは誰にとっても難しい。それ故に極端に走り、憎悪に変えたり無視しようと執着したり。執着しないことが忘却の理想形なのだと考えておきたい。

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