第64話 多くの人と付き合うのは罪悪?



 処女信仰というのは現代においても一部根強く生き残っている現象だと思うが、生物学的には全くそれ自体に大きな意味はない。私たちは理想の相手に上手く出会う確率を適切に算出することなどできやしないが、時間をかけても見付けるのだという強い意思を持っていれば少しでも多くの人との交流を持ち、その結果として経験と目利きを重ねることで理想の出会いに対する確率を上昇させることを望む。場合によれば、素晴らしい出会いを信頼できる人に委ねることもできない訳ではないが、仮にそうであっても最後の判断は自らが行う必要がある。

 また、もし自分の理想のタイプだと思う人を見付けたとしても相手側が同じように感じているかどうかは全くわからない。片思いは伝えることに意味があるが、その成否は事前の準備も一定の価値を持つ。両者の合意なしに理想の付き合いを得ることはできない。


 私たちは、結婚を別として社会における成功を望む場合においては、知識の習得や情報収集だけではなく基本的に相応の経験を経ることを必要とする。ただ、結婚の場合にはその経験が必ず意味を持つかどうかが今一つはっきり分からない。要するに、多くの人と付き合ったからと言って良い人を見つけることができるとは限らず、付き合いの経験が浅くとも幸せな家庭を築くことができない訳ではない。

 むしろ、手に入れた関係の中で改善して理想の形に近づけていくことを貴ぶような風潮も少なからず存在する。職業の場合であっても、自分に合っているかどうかを探すためにころころと変えていくことはあまりポジティブにはとらえられない。結果として成功すれば経過は問題とならないかもしれないが、そこに至らなければ我慢強さなどの面でマイナスの評価を受けがちである。同じようなことが恋愛における付き合いにおいても問われることもある。恋愛遍歴を自慢する男性は少なくないが、女性の場合にはそれが必ずしも良い方向には捉えられない。

 現代社会では昔ほどのネガティブさはないだろうが、それでも恋多き女性を恋愛に対して軽いと見る向きが消えてはいないのだ。これは男性の場合であっても、傾向としては同じであるように思う。


 ただ、そのことをもって多くの付き合いを重ねることが正しくないかと言えばこれもまた疑問がある。理想の関係の構築には、知識だけでなく経験も必要なことは間違いない。人を商品と同じように考えれば、最初が最も優れた状況で徐々に劣化していく存在と捉えられなくはない。もちろん、手に馴染む道具のように劣化と並行して使い心地が向上するという面もあるだろうが、それでも新しいものを望む気持ちは常に湧き起こりやすい。

 他方、人をサービスやソフトウエアと同じように捉えたならば、使われれば使われるほどに品質や内容が向上していきよりよい存在となっていくと考えることもできる。もちろんソフトも陳腐化していく存在ではあるが、適切なメンテナンスが続けられれば長く使えることも事実であろう。


 人は、商品的なハードとしての存在と更新され向上していくソフトの部分が混在しており、そのどちらに目を向けるかにより新しい方が良いか、あるいは一定以上に経験を有する方が良いかの評価が分かれる。容姿に重点を置けば商品的な認識となり、向上心を捉えるならば身につけた経験に重点を置く。

 また、自分の所有物と考えれば新しいものを自らの手で馴染ませていきたいと考え、意外性を追いかけたければ自らの知らない部分に惹かれる。両者は結局のところ好みと言うことになるのかも知れない。あくまで私個人の現時点での認識から言えば、新しさよりは身につけた能力や深みを重視するが、これは自ら経てきた経験や環境などにも大きく左右されるであろう。

 この問いかけに明確な答えなどあろうはずもないが、付き合いの遍歴が自らの価値を高めるものになっているかどうかは、その経験をどのように生かしているかにより決まる。その場の享楽を繰り返してきたのであれば、経験がプラスになっていると考えにくい。

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