第66話 恋愛体質



 「恋愛体質」という言葉が用いられることがあるが、多くの人が既に気づいているであろうとおりこの言葉は基本的に自己弁護としての言い訳に過ぎない。用いられる言葉の裏には二つの意味での恋愛依存症が垣間見える。一つには恋愛に対する精神的な依存であり、もう一つは肉体的なものである。ただ、実のところ肉体的なものも最終的には精神に起因しており、根源までたどったとすれば理由はたった一つしかない。それは与えられる快楽(快適性)に身を任せている状況である。

 この快楽は単純な字面としての意味にはとどまらない。肉体的なそれは直接的ではあるが受働的で、たばこや飲酒、極端な例で言えば麻薬なども同じカテゴリにあたるだろうが、肉体から生み出される快適さ(多くの場合は脳内分泌物質による)を抑制できない状況である。こうし傾向がある場合には、恋愛から得られる精神的な満足よりもより強い快楽を与えてくれる関係を好む。

 もっとも、多くの場合には止められない自分を意識しており、社会的規範から逸脱した(あるいは逸脱気味な)自分を弁護するために「恋愛体質」といった類の言葉により自己弁護を図る。それは、外に向かって言っているようでありながら、実質的には自らに投げかけているメッセージでもある。


 他方、精神的な依存の場合には状況が異なるのかと言えば、繰り返しになるが元をたどればあまり変わらない。ただ、肉体を利用した快適さを強く感じ取るか、あるいは精神的に得られる快適さをより好ましく思うのかの違いのみである。こうした快適性についてはかなり前に触れたと思うが、私たちが快適と受け止めるものにも積極的な快適性と消極的に快適性が存在する。前者は刺激を意味し、後者は調和を意味する。「どきどきする」、「スリルを楽しむ」などと言った感じが前者であり、「暖かい」、「安らげる」などと言った感じが後者だ。

 正反対に見える感覚ではあるが、もちろんどちらも私たちに快適という感覚を与える。ただ、その好みは性格や自らを取り巻く環境により反応は大きく変わる。仮に同じ人物であっても、刺激を楽しみたいときもあれば安定が欲しい時も存在するのは、決して奇妙なことではない。

 恋愛の精神性に依存するのは、安定したベースの中にある微妙なドキドキ感を味わいたいと言った渇望が大きい場合と考えることができる。一方で肉体的な刺激に強く惹かれるのは刺激そのものへの強い欲求があると考えても良い。


 幼いころからの生活環境がこうした好みに大きな影響を与えるのは間違いないが、刺激と調和のどちらが正しいと言った類のものではない。両者が自分に取ってどのような形でブレンドされているかが重要なのだと思う。それは単純に量のみではなくタイミングや刺激の強さ、調和の継続時間など様々な要素により満足感は影響を受ける。

 さて、こうした快適さは私たちが生きていく上での指標として重要だと思うが、この快適さそのものが全ての目的と化してしまうことには気を付けなければならない。そもそも快適さを私たちが必要とするのは生きていくための活力としてであり、目的ではなく手段として利用するべきものだと考える。

 もちろん刻々の簡易な目標としての価値はあるだろうが、あくまで道標としての短期的な目標であって大きな流れの中ではステップアップを図るための道具である。それに依存するという状況は、更なる向上を考えた時には決して生産的ではない。


 とは言え、現代は成長を目指さない生き方も許容される社会である。「プア充」などという言葉が市民権を得るというのは、ある種の諦めや閉塞感が社会に蔓延している結果でもあろうが、同時に個としての成長を望まない人が増えている結果でもあるのだろう。

 「恋愛体質」という言葉も、恋愛を活力に日々を強く生きていけるのであれば意味があるかもしれないが、それが自己弁護としての恋愛依存を隠す言葉だとすれば決して良いものではない。人生における達観を含めた言葉だったとしてもである。勝手なお世話だと言われそうではあるが。

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