第61話 女であるのか、になるのか



 性別上の女性は一部の特別なケースを除き生れた時既に決定しているが、性格的なそれは一定の時間を経過しないと判らない。例えば、関係者の努力やメディアによる広報などもあり、近年性同一性障害(あるいはLGBT)に対して社会はある程度寛容になったように思う。それでも、今でも日本国内における偏見や差別はいくらでも存在し、特に雇用においてはトラブルは決して少なくない。アメリカの大企業では性的少数者の保護は当然の風潮もあるようだが、その動きが徐々に日本にも広がりを見せている。


 女性らしさ、男性らしさを性差別として糾弾する向きからすれば、性別を理由とした差別などあってはならないということであろうが、それでも差別が存在するということは人間の中にある本能的な何かが関与しているのであろう。無論差別を肯定するつもりはないが、その存在を無視してしまうことも妥当ではない。性別的な女性は本人の意思とは関係なく「女」であることを義務付ける。一方で、後天的に獲得する意識は「女」となることを自ら意識する。そこには主体性が存在し、自らを女性と考えるという過程がある。

 その主体性については本能により生み出された幻想かもしれないが、それも含めて性というものが存在することを考えれば、後天性そのものは全てを網羅する訳ではないが確実に幻想ではない。この両者が一致しなかったことは社会的には不幸だと捉えられるかも知れないが、個人レベルで考えれば自らの意識と乖離しなければならない現実の仕組みが苦痛の根源となる。

 私達は、それが本能からの命令かそれとも環境的要因なのか、あるいは主体的な意思によるものかは別として、後天的に獲得する「女」の性質を女性と認識する。これは男性の場合も基本的に全く変わらない。肉体的性質よりも精神的性質の方が本質的である。


 結局、女性はほとんどの場合自らの趣向や意思により精神的な「女」になる。それは実質的に本能に突き動かされているのかもしれないが、仮にそうであっても一定の成長後に後天的に獲得される資質であり、そして社会は先天的なものと後天的なものの一致を後押ししようとするだろう。これが所謂、「女の子は女の子らしく」といった風潮である。

 性別と成長と共に得る性が一致するかどうかは別として、「女」はあるものではなく「女」になるものであり、「男」も男ではない(もちろんおそらく女でもない)何かから男に変わる。

 ただ、私達は男であれ女であれ一日中ずっとそうであるのではない。おそらく、多くの時間は男でも女でもなく、必要な時に必要なだけ変わるのだ。「男」になり「女」になるとはその変わる方向が決定することではないだろうか。

 もちろん、変わっている時間の長さは人により大きく異なる。何ヶ月に一度しか変わらない人もいれば、一日の大部分を明確に性を意識している人もいよう。


 意識としての性は変化する。一度明確に意識されればその時から方向性は決定するが、だからと言って人は常に男であり続けたり女であり続ける訳ではない。普段の生活において多くの時間をそのどちらを意識することもない状況で過ごしており、必要な時に(意識が)切り替わるのだと思う。

 性別を強く意識しすぎることは、その人が自らの感覚としてそれを意識する時間が長いことにも関係するのかも知れない。

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