第60話 信じたい



 「信用」という言葉がある。ビジネスにおいても良く使われるし、国家においても利用される言葉だ。もちろん個人の間においても、あるいはグループにおいてもありとあらゆるところで用いられる。しかも単なる約束事からプライベートな情報のやり取りまで、この信用を担保に私たちは情報のやり取りを行い契約を交わす。契約は信用を外部的(法的)な拘束力により別途担保させたものだが、担保の代償として厳格な手続きが増加し作業が煩雑になりがちだ。もっとも、多くの場合「信用」という言葉は契約のような強制力を伴わない個人・団体・組織・国家のイメージについて語られている。

 言葉のイメージとして言えば、名詞形の「信用」はかなり固い意味のとられがちだが、動詞形の「信用する」となると言葉のイメージは一気に身近になりやすい。


 さて、この「信用」についてであるが信用とは主体的に獲得するものであろうか、あるいは受動的に付与されるものなのであろうかという疑問を私は常々抱いている。信用を与える(すなわち信用してもらう)側からすれば、信用を獲得すべく誠心誠意努力するわけでありその面では獲得すべく主体的に行動する。しかし、あくまで信用は与える側が顧客(あるいは信じる側)の心を直接操作できるものではないため、能動的に行動したとしても信用を得るという一点においては受動的にならざるを得ない。信用するかしないかは、個々人の勝手なのだから当然だ。

 では、信用する側から同じようなことを考えてみよう。こちらには、原則として信用するかしないかの決定権を絶対的に保持している。だから、合理的に考えれば自らの判断により信用するかしないかは比較的明快に決定できる。ただ、与えられる情報が正確であればと言う前提があってこそ合理的な判断が可能になる。現実の社会ではこうした情報は不完全なことが多く、他の情報で類推するしかない。信用に値する人や企業は、過去の行為や仕事などが信用を想起するに値すると判断できるということだ。


 しかし、信用するということはこうした合理的な判断のみによりより決定されないことを私たちはよく知っている。実のところ、私たちの大部分は信用できると明確に判断できたから信用するのではない。以前にも書いたことがあるが(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20111004/1317656334)、信用したいと思ったから信用するのである。これは、理性ではなく感情の発露と考えることができる。信用は理性により導かれる結論だと普段考えているが、現実には感情の方がその判断に大きな影響を及ぼしているのではないかと言うことだ。

 よく「愛は盲目」などと言う言葉が用いられるが、これこそは信用するという過程において理性よりも感情が優先されている典型ではないかと思う。信じられるから信じるのではなく、信じたいから信じるのだ。なぜ信じたいのかと言う根源的な部分については、「人はなぜ愛するのか」という哲学的な証明が伴うので正直私の手には余る。少なくとも、ここではそれを考える余裕はなさそうなので機会を別に譲りたい。

 あるいは、決定すること自体を避けたいという心理が擬似的な信用として他者に与えられる場合もあるだろう。自ら決めない理由には様々なケースが考えられるが、面倒くささや煩わしさもあれば、決定することに対するプレッシャーもあるかもしれない。


 もう一つ典型的なケースでは、自らのポリシー(主義主張)に殉じる形で信用と言う手形を相手に与えてしまうケースも少なくない。「○○であるべきだから」信用しなければならないといった具合のものである。この場合、本来相手を評価したうえで与えるべき「信用」というパスを自らの信念から擬制してとり行ってしまうパターンである。この場合、相手のことを個別としては十分には信用していないことを理解しているにも関わらず、自分自身の主義主張故に信用した形に置き換えなければならない。

 最もわかりやすい形は、日中や日韓の間における紛争に対する考え方かもしれない。相手が信用できないからこそ疑ってかかり対立も生じるような事例について、平和であるためには信用し合わなければならないという主義主張があり、それゆえに譲歩を促すような識者も少なくない。

 こうした場合、トラブルがない間は大手を振って自説を主張できるのだが、一旦紛争が巻き起こると歯切れが悪くなる。本来であれば、いつでも相手が信用に値するかどうかを常にその時ある情報で値踏みしなければならないはずだと思うが、ポリシーゆえにそれを為すことができない。結果として、言い訳のような曖昧な議論や感情論を持ち出さなければならなくなる。もちろん、そうなっては説得力には大いに欠けるであろう。

 これも、結局は自分のポリシーを信じたいからこそ導き出される消極的な信用ともいえる。あるいは、信用を与えるかどうかの思考を回避していると考えられるケースもあるのではないか。


 どちらにしても、この「信じたい」という現象は次から次へと決断(信用)を迫る社会において、決断疲れから(あるいは決断しないという安寧から)導出される一つの形ではないかと感じている。無論、それだけではないだろうし、他にもさまざまな要因はあると思いたい。ただ、これには信じるということにより人が得る精神的な快適性が関係しているのではないか。

 人を信じることにより得られる満足感、それを通して感じられる自己肯定、そして煩わしい作業(判断)を避けたいという忌避の感覚、あるいは寂しさを紛らわせるための代償としての信用、同じパターンを踏襲することでの安心感、等々。こうして考えると条件やケースは様々である。その類型などを考えるのも意味があるだろうし、どこかでは研究が行われていると思う。


 もちろん、すべての人が感情に大きく左右されたうえで信用を抱く訳ではなく、あくまで合理的かつドライに判断する人も多く存在する。しかし、信用という行為が普遍的に得られなければならないものの場合であればともかく、一部の人との間のみで確立できればよいケースであれば信用を勝ち取るのはこうした感情に働きかけることで確率が大きく向上するだろう。もちろん対象者の性格や立場によりありようが大きく変わるであろうが、それを的確に分析できれば恋愛においても大いなる効果を発揮するだろう。


 人は、信じられることを客観的に判断するより信じたい感情を正当化しがちである。ケースにより形は違うかもしれないが、信じたいと思わせることが信用を勝ち取る上で最も重要かもしれない。

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