第59話 友人のフリ



 人間同士の関係性が希薄になれば、元来自然に出来上がるはずの友人関係すらが人工的なものになりがちだ。人間の行動は、通常時には自分が有利になるような選択をするのが原則である。もちろん、熟考の上で自分が不利になる選択をする場合もあろうし、衝動的に判断してしまうこともある。あるいは、自分よりも相手のことを優先して考えるのは家族関係や十分親しい間柄では頻繁に見られる関係でもある。しかし、場合によっては自らの立場や状況を維持するために、自らを一時的に不利な状況に追い込むケースもまま見られる。

 良く報道されるいじめのケースなども、嫌がる相手を追いかけてまでいじめるという場合もあろうが、多くの場合にはグループ内におけるものが多い。そしていじめられる側がすがっているのは、希薄な友人関係という虚像であったりもする。冷静になってみれば、そのような関係は友人でも何でもなく自らを利することなど無いように感じるのだが、関係性に依存してしまえば異常な状態が当たり前となりかねない。


 これは、それ以外の関係性を築けていないという結果的に生じている知識の乏しさに基づいている。虐待を受けている子供が、それにも関わらず親を擁護するのも似たような状況だ。他の世界がいくらでもあると言うことを知っていれば、異常な関係性を異常だと認識することができるのだが、それ以外の状況を知らなければその異常性を「何かおかしい」とは思いつつも正しき認識できない。

 これはいじめている側にも同じようなことが言える。広い世界を知っていれば自らの行為のバランス感覚を養うことができるのだが、狭い世界に嵌り込めば嵌り込むほどに自らの立ち位置がどこにあるのかを見失っていく。

 暴走族や愚連隊が、自分の居場所がそこにしかないと思い込んでしまうのは、世間からの疎外感を感じてのことかも知れないが、それ以上に他の世界を知る機会を自ら閉ざしているからと言うのが大きい。知ってしまえば当たり前のことなのに、知らぬからこそグループの外に憎しみを抱いてしまう。


 本人達にとってはそれでもかけがえのない友情を感じているのかも知れないが、この関係性は本当に友人だと言えるのだろうか。そう考えてみて、私達が普段から友達と言っている関係性もそれが本当に「友人」と呼べる存在なのかは意外と怪しいものだと感じる。

 もっともその定義で言えば、「友人」と呼べるのは無二の親友でもなければ値しないとなりかねないのだが、狭い世界の中で培われる信頼感と広い世界を知った上でそれでも感じられる友人関係は果たして同じなのであろうか。

 私達は、予想以上に自らを騙して「友達」ごっこに精を出しているのかも知れない。この関係は一時的な結びつきとしては何ら問題ではない。だから、子供の頃には「友達」ごっこをすることで「友人」関係の練習を繰り返している。「ごっこ」はごっこにしか過ぎないから、グループという関係性が壊れてしまうと「友達」関係は容易に壊れてしまう。

 本来の意味で「友人」は個人と個人の関係であり、グループ関係に依存したものでは無いと思うのだが、グループが前提にあってその関係性に依存した「友人」であるからこそ、その「友人」関係は不可思議なのだ。確かに、スタートはグループの中の関係性で始まったとしても、個人同士の付き合いに発展する「友人」関係も少なくない。


 私達は「友人」という概念において、個と個の場合とグループという縛りの中で発生しているものを意図的に区別しないようにしているのだろうか。両者は同じように見えても非なるものではないか。前者は「友人」として認識できるが後者は「友人」のフリを演じているのである。

 グループの目的を同じように捉えている範囲においてはこのフリは擬似的に友人関係を成立させるが、その目的を外れた時には関係性は解消される。個と個の関係性を構築できない人は、リアルな「友人」関係を自分に関係ないものとして諦めるか、あるいはグループにそれを求めることとなるが、その依存性がバランスある認識を阻害している。

 しかし、私達は擬似的でも関係性を渇望しているのが普通なのかも知れない。

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