第48話 愛情の強弱



 愛情の裏返しは無関心と言うが、愛情に疲れたことから自らをわざと無関心に追い込もうとするケースがいくつかのケースで見られる。もちろん最初のうちは半分以上煩わしさから逃れるために、狙って無関心を装うことでスタートするのであろうが、それが継続すると無関心状態から抜け出すきっかけを失いがちだ。もちろん、そんなことを気にせずに奔放な関係を続けられる人もいるだろうが、愛情を煩わしく感じたり無関心を怖く感じたりと、とかく人と人の関係は微妙なものである。

 しかし、人は無関心に対しては無関心で応える習性がある。下手な無関心は、相手の意識の硬化を招き疑念を生む。自らの心のバランスを取るための行為が、相手のバランスを崩すという可能性はなかなか否定できない。


 無関心の反対は上記の論法で行けば愛情となるが、それは同時に大きく関心を抱いている事でもある。関心があるという事は多く関わるという事でもある。それは会話でもあるいは様々な接触でもいいだろう。全てを含めて、深く関わりを持つことが相手に対する関心の結果であって、それが愛情と認識されやすい。もちろん、一方的な関心は得てして勘違いやすれ違いを生み出しがちではあるが、それとて無関心では生じないのも事実。愛情とは関わりの深さであることに違いはない。

人 によってはその発露が非常に激しい人もあり、第三者的に見れば躁鬱的な行動に見えるかもしれないが、どちらかと言えば二者間ではそれを愛情と受け取るケースが少なくない。簡単に言えば、愛情の強弱を繰り返す事は人を縛り付けやすい(もちろんタイプによるから絶対ではないが)。これは、「飴と鞭」という言い方にも似ている。それは、厳しく当たるのと優しく接することの振れ幅が大きいほど、接する相手は愛情によって縛り付けられるという事である。もちろんものには限度があり、一定の閾値を超えればその愛情は崩壊する。


 なぜ、世の中でDVの問題が消えないかと言えば、上記のような愛情が人を縛り付けるからだと思う。強い叱責も、その後の強い甘えや優しさが打ち消す事が出来たなら、むしろ愛情による行動だと人は感じ取りやすい。もっとも叱責はやはり辛いものであるので、逆に相手に対して素直な行動を取るということにもつながる。その叱責が暴力で為されるのがDVであり、傍目からは明らかにDVだと思われるようなケースであってもそれを愛情の発露だと感じていることも少なくないのは、この感情の振れ幅のせいでもあると思う。

 強い否定と強い肯定は同じくらい人を惹き付ける。もちろん、それは両者が交互に繰り返された場合であり、否定のみでは耐えられないし肯定のみでは付け上がる。世の中で一部にマニアの多いツンデレとは実のところ見事にそのパターンに当てはまるではないか。


 そして、愛情の勘違いは行動ではなく相手の願いと自分の願いを混同するところから始まる。ただし周囲から見れば勘違いに他ならないと思えたとしても、当人の心において真実であればそれは紛れもない愛情である。

 振幅の激しい愛情は、その激しさ故に視点がそこに集中しやすく俯瞰的に眺める余裕を持ちにくい。だから、その振幅を受ける側にとっては自分独自の願いを構築するよりも相手の願いをかなえるというより安寧な方向に傾きやすいのだろうと思う。逆に言えば、相手をコントロールする意図があるならば、振幅の激しい愛情を注ぐ事でうまくいくケースもあるだろう。ただ、そこには前提があって注がれる愛情や甘えは常に叱責よりも強くなければならない。それが劣るような事があれば不信感が募りやすくなってしまう。

 愛情に振幅がない方が上手くいくカップルも存在する。それは、両者の嗜好がそういう安定を望んでいる場合だろう。ただ、多くの愛情においては振れ幅が大きい方がむしろ結びつきが強くなるのではないかと思う。

 実際には、その愛情であったり甘えを表現する事を潔しとしない(というよりはむしろ恥ずかしいので、逃げを打つ)男性も少なくない。そしてあまたの女性はより甘くより辛い相手に惹かれてしまうのかもしれない。


「相手の事を思慮して抑えるよりも、強い愛情と強い主張を混ぜ合わせた方がむしろ好まれやすい。ただし、主張よりも愛情が勝っている場合に限られる。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます