第47話 囚人のジレンマ



 自らの幸せを追い求めることが、結果的に自らの幸せを遠ざけてしまう。よく知られていることではあるものの、その微妙な関係には囚人のジレンマのような切なさを考えさせられてしまう。


 囚人のジレンマとは、コンピュータを開発したFノイマンなどが数学理論として確立したゲーム理論の最もメジャーな例示の一つとして挙げられるものだ。具体的説明は長くなるので省略するが、似たような事柄を示す言葉として「合成の誤謬(ごびゅう)」があり、こちらの言葉はたまに報道においても見る事ができる。それぞれが理想を追求した結果、全体としての理想状態を得られない事を言うものだ。囚人のジレンマとは若干異なるが、これも私達の普段の生活においてもよく現れる現象であろう。

 人との関わりは、お互いに意思を持った人間同士の関わりであるが故の不確定さを有している。それ故に、一方がよかれと思って行う行為が必ずしも相手方にとっては理想的ではないことも起こりうる。その逆も真であって、両者が最も満足しうる結果は当事者には全く想像も付かないものであったりもするだろう。


 それは、社会において人と人の意思の疎通が常に完全ではないと言う事実から生じている。一人一人が明確な意思をもって行動しているかどうかすら絶対ではないだろうが、仮に各々が完全な意思を持っていたとしてもやはりそれは公知ではない。それ故に私達を取り巻き環境は誤解も思い込みもあり、結果として個人の行動は個人の範囲においては完璧であったとしても全体として完璧である保証は何もないのである。

 少し観念的なな話に入り込みすぎてしまったが、要するに自分がいくら完璧だと考えて行動しても、人が同じものを完璧だと考えているとは限らないし、それぞれの目指すものがお互いにわかっているわけではないと言うことである。わざわざ難しい言葉を使わなくとも当然のことだ。私達はこの現実を知っている。しかし、本来知っているはずのことを往々にして忘れてしまうのも私達なのである。


 幸せを追い求めることは、自己完結するもの以外は一人では決して完遂し得ない。むしろ、それを一人で追い求める行為が却って周囲に疑念を抱かせ、結果的に不協和音を響かせることになりかねないのである。幸せが自分と誰か(あるいは周囲)において成立させたいのであれば、その関係者とお互いに確認し会い続けなければならないのである。お互いの考えがわかり合えないことこそが囚人のジレンマの構図を成立させるのだから。

 特定の相手がいない状態で幸せを追い求める、すなわち誰とも幸せを共有しないとすれば確かに建前上齟齬は生じない。しかし、私達は本当に一人で幸せを感じることができるのかという根本的な疑念が湧く。仮に社会とあまり関わりを持たないようにしたとしても、その小さな接点ですら私達の心に大きな影響を与えるものである。すなわち社会の一員として生きる以上は、幸せを掴むという行為は限り無く困難であろう。

 あるいは、自分のみであるが故に成し遂げる行為に対して責任が曖昧になってしまう。幸せを掴むには仮に一人であったとしても満足感を得るにふさわしい相応の努力が必要であり、複数の人間がいたならばお互いに競い合いながらあるいは励まし合いながらそこに向かっていく。そしてお互いの理解や認識を通じて幸せというものを評価していくことができる。しかし、一人での追求は努力も評価も一人でしかない。そこに幸せが大きく育つ余地はあまりに少ない。

 人によっては、自然との対話によりそれを得ることもあるだろう。ただ、生きていくと言うことすら社会に依存しなければ容易ではないのだ。死と隣り合わせの生活の中で、自然と対話できるだけの肝の据わった人間はそれほどいないと思う。


 結果的に、私達が幸せを掴むには誰かと共にそれを作り上げなければならない。それは2人よりは3人、同じ気持ちを有する人が多いほどにその幸せも広がっていく。もちろん、その幸せに宿る人が増えるほどに意思の疎通は難しくなる。家族が最小の単位で始まる理由は、最も容易な関係体だからかも知れない。


「一人の努力は無駄ではないが、一人の努力のみでは成し得ない。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます