第41話 無償の愛



 正直言えば、私は「無償の愛」について何かを書くだけの知識も徳も有していないと思う。

 自分自身にそれが為せるかどうかは全くもって疑問であるし、そこに至る心理を十分には推し量る自信がない。そうではあるが、伴侶との間あるいは我が子に対してなら、部分的にではあってもそれが垣間見えるのは知っている。

 今回は、人の心の奥底に存在するであろう無償の愛に対する心理について少し考えてみたい。


 血族間、特に家族あるいは恋人に対する無償の愛というものは、比較的想像しやすい。それは、わざわざ「無償」などと言う修飾語が必要ない単純な「愛」で説明できる関係だからであろう。

 そもそも種を守るという本能的な行動でもあり、その理由は理解しやすい。

 ところがわざわざ「無償」という修飾が為されると言うことは、一般的に考えてそれは無償では為されないものという言外の意味が込められている。だとすれば、無償の愛とは家族間や恋人の間においては用いられる言葉とは言い難い。

 むしろ、そうした関係がないにも関わらず、最大限の愛情が与えられることに対しての形容となる。


 家族間のそれは、無償であっても本能的な行動として理解できなくはないのだが、全くの他者に対するそれは本能で表すことはできない。だとすれば、一種のイデオロギーとしてあるいはそれ以外の何らかの行動論理によって行われていると言うことになる。仮にイデオロギーとすれば、すなわちそれを成し遂げたいという究極の自己満足である。

 別に、無償の愛を貶めるつもりで言っているわけではない。ただ、その行動がどこに価値基準を置いているかについて考えたいのだ。


 そもそも私自身がイデオロギーに殉じられるほど純粋でも高尚でもないため、それを守るために全てを捨てることなど考えることもできやしないのだが、無償の愛は仮にそれがイデオロギーの発現だとしても全てを投げ打って他人のために奉仕するのだとすれば、十分に尊敬に値する。

 ただしその時の尊敬は無償の愛を与えていることに対してではなく、生き様として自ら信じる道を貫いていることに対してでのものある。イデオロギーが他人を不幸にし自分自身のために用いられる種のものであれば、倫理的な意味で尊敬を感じることはないだろう。あくまで、それが広く多くの人に対する慈善の心だということを倫理的に評価していると考えることが出来る。専門家としての矜恃・覚悟に惜しみない尊敬を表するものなのだ。


 しかし、多くのマスコミなどの取り扱いを見れば倫理面と言うよりは「愛」そのものを前面に押し出す報道が目につく。「無償の愛」を崇高な行為として取り上げるということである。すなわち、その行為に至る思想や信条および倫理に対する深い洞察なしに、結果としての行為のみを賞賛しているという状況である。

 これを考えたとき、日本社会においてはスペシャリストの倫理や矜恃が受け入れられるよりも、「情熱」などの情緒的な側面がもてはやされるのだなと感じざるにいられない。


 情熱などの情緒面も需要なのは間違いない。ただ、それが前面に押し出されて評価されるからこそ、偽善的なそれが社会のあちこちで跋扈するようになり、社会においても黙認されやすいと感じている。綺麗事を言うのは容易で格好いい話ではあるが、それを実現することは多大なる苦渋と覚悟を持って当たらなければならない。ところが、多くの場合には口先ばかりの覚悟でしかそれをが見えないのである。


 考えてみれば、政治とは本来この「無償の愛」に相当する行為なのではないかとたまに思う。


「矜恃という言葉を国民は思い出す必要があるのではないだろうか。」

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