第15話 人が感傷的になるわけ

 秋はセンチメンタルな季節だという。


 そもそも、「センチメンタル」とはどう言う意味なのであろうか?

 意味を牽けば、感じやすい、感傷的な、情緒的な。。などという意味が見られる。

 その言葉をそのまま受け入れれば、理性よりも感情を優先しがちな時期とも言えなくはない。

 しかし、単純に感情的になると言うよりは、もの悲しくなるという意味の方がしっくりと来る。


 では、「もの悲しくなる」とはどう言った状態であろう。

 無性に寂しくなる、ものの哀れを感じやすくなる、すぐに悲しくなる、、、などがそれに当たる。

 悲恋ものの映画を見て涙を流したくなり、友達と寂しさを慰め合ったり。


 秋がその感情を呼び起こすのは、冬を迎えるという季節感が大きく左右しているとためであろうという予測は容易に付く。夜が長く、寒く寂しい冬の時代を自らの感情に重ねるのだ。

 こうした理由付けは非常にわかりやすい。私達人間の想像力が厳しい冬の到来を予感させるからこそ、そういう気持ちに至るのであろう。では、赤道に近いところに住む人には感じられない感情なのだろうか?

 正確なところはわからないが、感傷的な気持ちになるというのは季節だけによってもたらされるわけではない。

 先ほども触れたが、悲しい状況の話が身近にあればそれで感傷的になれる可能性がある。


 これは、感情移入の一種である。しかも、悲しい側の感情移入だ。

 楽しく愉快な状態は、センチメンタルとは表現しない。

 秋によりそれを感じるのは、一種人生の終わりをイメージしているからかもしれない。

 四季というのは、誕生の春があり、成長の夏があり、夏と秋の間に頂点を極めて後は衰退していく。

 要するに、人生を四季に重ねているのであろう。


 だとすれば、逆説的ではあるが四季がない地域に住む人々にはその感覚はわからないか、あるいはわかりづらいのではないかと思う。ただし、季節感とは別のもらい泣きをするような状況では同じようにセンチメンタルな気分になる可能性は高い。


 さて、では四季の擬人化が行われる、しかもかなり一般的に行われるのはなぜなのだろうか?

 わざわざ擬人化して、センチメンタルな気分になる必然性はないはずだ。

 それにも関わらず、擬人化が行われるのはおそらくそこに自分自身の記憶を重ねているからではないかと思う。

 記憶の少ない幼児は、秋だからと言ってセンチメンタルな気分にはおそらくならない。

 センチメンタルな気分は、自分自身の有する(自らが経験したのか、あるいは他者のそれを知識として持っているかは別として)悲しい記憶を引き出す行為なのだろう。

 そして、秋はその記憶を引き出すのに適した季節なのではないだろうか。


 徐々に寒くなり、木々は枯れ、生命観は減っていく。

 それは私達の知性を刺激して、知識の中の悲しさを共鳴させる。

 だとすれば、悲しい側の知識の共鳴が起こることをセンチメンタルと呼ぶのだ。

 そして、その共鳴は無意識に本人が行っている。

 おセンチな人はその共鳴が非常に生じやすく、冷徹な人は共鳴しない。


 では、同じような共鳴現象は悲し場合以外にも生じているはずである。

 実際、私達は人の幸せに共鳴し、友人の成功を自らのように喜べる。

 ただ、なぜかその共鳴現象はセンチメンタルという言葉ほどメジャーな言葉にはなっていないようだ。

 悲しい記憶の方が長く引きずるからではないかと考えてみたりしている。


「心の共鳴は他人のことを深く知ることではなく、他人の状況を自分に置き換えることである。それ故、自らの知る以上のことは理解しがたい。」

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