第14話 感情と理性



 男女の喧嘩は感情と理性のぶつかり合いで語られることも多い。

 男性が論理で女性が感情論というのがステレオタイプなパターンであるが、必ずしもそればかりではない。近頃は感情的な男性も数多く見かけるし、同様に理性的な女性もいる。ステレオタイプが通用し難くなったと言い得るかどうかはまではわからないが、いろいろなケースがあるのは正直面白い。


 ちなみに、感情と理性で勝負をすれば、最終的には感情で判断した方が利得が多いという研究結果を聞いたことがある。しかし、人々は通常利得を得るために感情を廃し理性を選択する。

 もし上記の話が事実だとすれば、非常に興味深い。


 なぜ感情にまかせた方が有利なのか?

 実を言えば、感情論とは言ってもまるっきり全てを感情にまかせているわけではないからだと私は思う。感情とは言っても、したたかな策略があっての感情なのだろう。いや、元来感情とは自らの心情や立場などをを条件とした論理の展開を言う。その論理展開を理性的とまでは言わないが、全く論理的に飛躍した考えばかりではない。


 だから、感情と理性という対立構造ではなく、個人的環境とそれよりも広い社会的環境による対立なのだ。そう考えると、個と社会の対立と同じである。個の利益を優先することを感情的と言い、集団の利益を優先することを理性的だと言っているに過ぎない。なぜ集団を優先する方が理性的かと言えば、それは集団の利益が将来的に個人に反映されるという狙いがあるからである。そして、共存共栄は将来的な禍根を集団内に残しにくい。

 もちろん上記の個と集団は、小さな集団とより大きな集団の場合にも同じことが言える。


 ただ、小集団の考え方が大集団に受け入れられれば、それは感情であったはずのものが理性に変容することもある。

 感情が理性になるという言い方はちょっと不思議な感じがするが、感情的に取った行動が結果的に正しいものであるならば、それは理性的にも受け入れられるのは当然であろう。


 仮にそうだとすれば、理性的とは一体何を示す言葉なのかという疑念に行き着く。上記の展開からすれば、より多くの集団を納得させる考え方と言えるかもしれない。

 より多くの相手を納得させる論理展開、、、それは、様々な条件下・環境下にある人々を納得させるもの。だから、その言葉はまんべんなく受け入れられる曖昧で弱い言葉になりやすい。それに反発する人を減らすための言葉であるからだ。


 だとすれば、男女の仲で感情と理性が喧嘩すれば、自分のための強い論理と多くの人を納得させるマイルドな論理がぶつかるわけだ。二人の間だけでは感情が勝つ可能性は当然高い。

 もちろん、理性側も勢いだけで負けるわけにはいかない。だから、自らの論理を補強する様々なツールを勝負に持ち込もうとする。

 社会常識であったり、体裁であったり、はたまた羞恥心であったり。


 これらのツールがどれだけの功を奏するかは、感情を用いている側の抑えられた理性がどれだけ作用するかにかかっている。


 それでもここまで書いてきて、感情と理性で感情側の方がより大きな利得を得るという話に信憑性を感じてしまう自分の判断は、果たして感情によるものか理性によるものか?

 それは考えないようにしておこう。


「感情と理性の相克は、利益と確率の相克に似ている。」

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