第13話 心の愛と身体の愛



 心の愛をプラトニック(Platonic love)と言い、身体の愛を単純に愛(Love)と呼べば、心の愛は愛という大きな概念に含まれる一要素である。もちろん、愛は心の愛と身体の愛により構成される。本来的な愛はこの両者が相まみえてこそのものではあるのだが、身体の愛が特に取りざたされることはない。身体の愛のみを持ち出せば、それは「肉欲」というやや下品な概念へと姿を変えかねない。

 そもそもプラトニック・ラブという言葉は、肉体的な欲求を離れた精神的な愛のことであり、文字通り哲学者プラトンに由来している。


 ただし、プラトンが精神的な愛を強く奨めたということではない。普遍的な愛を説いたことが歴史と共に転用され、精神的な愛を示す言葉となったようである。この精神的な愛は、中世の戦乱の中で禁欲的な愛として形を変質させていく。常に接することが出来ないからこそ、心の愛という象徴的なものが尊重されるようになったとも考えられる。このあたりにはキリスト教などによる宗教的な戒律も大きく作用されたと見られている。


 だから、原初的には心の愛は身体の愛が得られないことを正当化するための手段として、本来は切り離せない心の愛のみを分離して象徴的に扱ったのではないだろうか。

 もちろん、現代においても会えない関係はあるだろうし、歴史によって環境が劇的に変わったわけではない。ただ、宗教的な環境、家を巡る環境、社会を巡る環境などはやはり変化している。どちらかと言えば心の愛だけに限定しなければならない理由は減っているように思う。


 しかし、現代においても心の愛が尊重される傾向には変化がない。

 それには2つの原因があるのではないかと感じている。

 まずは、恋愛に対する臆病さがある。

 それは、身体の愛への畏怖。

 最初の頃の愛情は相手を信用できないからかもしれないが、まず心の愛から始めようと考える。

 現実には、心だけの愛を貫けるためにはお互いに深い結びつきがなければならない。

 相手をまだ十分信用できない段階で心の愛情を深めようとしても、実を言えば前提条件が間違っている。

 特殊な事例で、愛を抱く前に別の理由でお互いに深く知り合っていたならばそういうことが無いわけではない。

 ただ、一般的には稀な事例であると思う。


 次に、心の愛を守り続けることの困難さがあるだろう。

 相手をどれだけ信じられるかということがある。

 心の愛は、相手との愛を確認し合う行為が非常に困難な場合に期待される。

 それが困難だからこそ価値が高いのは確かであるが、その希少性が尊ばれるのかもしれない。


 心の愛における愛の確認は、自分自身が行うものである。

 自らの相手に対する愛情は、自分自身で感じることは出来るだろう。

 しかし、相手の自分に対する愛をどのような確認できるのか?

 それは自らの心の中に作り出した相手の虚像が、どれだけリアリティを持って感じられるかにかかっている。

 リアリティは、どれだけ相手のことを深く知っているかにより変わる。


 では、身体の愛は単独で成立しうるか?

 正直これは難しいと思う。身体の愛を感じている瞬間は、おそらく心も満たされる。

 身体の快楽のみが満たされて、心が満たされなければ、そこには愛は存在しない。

そう考えると、実のところ身体の愛の方が従属的である。

 身体の愛は、心の愛を感じるための手段の一つなのだと思う。

 だから、自分勝手に快楽を追求し合うような身体の愛は、心の愛を深めないのだろう。

 それは、誰のための愛情なのかがあやふやになっているためである。

 愛に溺れるという表現もよく用いられるが、実のところそれは自分が受ける愛にのみ満足している状況ではないかと感じる(与える愛は従属的なのだろう)。そして、心の愛を大切に考える人は、そのような状況を畏れることがある。


 愛の核心は、おそらく心の愛にある。しかし、心の愛は単独では育て上げることが難しい。

 だからこそ、様々な愛情表現を持って心の愛を育て上げる。その最たるものが身体の愛ではないだろうか。

 だとすれば、目的は心の愛であり身体の愛は手段だとも言える。

 目的を見失っては意味がないが、手段を間違っても目的に到達するのは困難なのだろう。


「心の愛は、お互いの精神的な相依存状態を作り出すことにも似ている。それは二者の関係性の到達点であるが、それ故に近づけない人も多い。」

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