第10話 本能と言い訳
恋愛を面倒くさいと言う人が増えているそうである。
別に恋愛には限らず、勉強もそうだし、様々な仕事もそう。
面倒くさいという言葉を使って忌避する人はよくみかける。
確かに面倒くさいだろうけど、同時にその問題と直面したくないという逃げの理由に「面倒くさい」を使っているケースも多い。
「面倒くさい」はしなければならないものをしたくないときに使う言葉なのだ。
じゃ、恋愛ってしなけりゃならないものなのか?と考えてみれば、別にそんな法律があるわけもない。恋愛を誰かに強要されているわけでもない。しなけりゃ死ぬわけでもない。
勉強や仕事と違って、誰かに追い立てられるものでもない(確かに友人や親からのプレッシャーはあるかもしれないけど)。
だとすれば、殊更面倒くさいなどと言わなくても良いはず。
「私は恋愛などしたくありません。」
でいいんじゃないかと思う。
でも、それを「面倒くさい」という言葉を使って言い訳しているのは、心のどこかでそれをしなければならないという心理が働いているからではないかと思う。
いや、人間という種の本能として子孫を残すというのは最も重要な本能であるはずだ。
だから、子孫を残す行為につながる恋愛は、ある種人間が逃れられない呪縛なんだろう。
凄く割り切った考え方をすれば、種を残すというだけであれば、性行為が行えればいいわけであって、そこに恋愛という要素を介在させる必要がない。
だから、動物のように強い雄が雌を支配する構図があってもおかしな話ではないのである。
もちろん、動物の関係に恋愛があるのかどうかはわからない。でも、人間の恋愛感情を取り巻く多様性は、動物の様々な関係性を超えているようにも思う。
動物に恋愛感情があるかどうかは別として、人間にそれがあるのは間違いない。そして、それは子孫を残すという行為に結びつくプロローグである。
だとすれば、私達が恋愛しないことに対して言い訳する理由はよくわかる。
私達は、自分の本能に対して言い訳しているわけだ。
「面倒くさい」と。。。。
そして、逆に考えれば本能を誤魔化すためには様々な別の楽しみを得ることを続けなければならないわけであって、その代償行為自体が無意味に感じられたときに、人生の無常を感じるのかもしれない。
「本能は私達の無意識を束縛する。無意識は私達の行動を束縛する。そこには二段階のステップがある。」
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