第9話 憧れ



 人は他者に憧れを抱くことがあるが、この感情は恋愛とは似ているようでやや異なる。異性のみならず同性にもそれを感じるし、ほんの僅かな齟齬でさえ少し間違えば決定的な乖離を招くように、憧れは反発と紙一重と言う面もある。それはおそらく「憧れ」の対象物が自らの理想の投影であるからなのだろう。理想に近い限りにおいて憧れという状況に変化はないが、予想外に理想と異なると言うことを知るとその微妙な違い故に大きな反発心を抱いてしまう。その思いが強ければ強いほどに生じる斥力も大きくなりがちだ。

 「好きの反対は嫌いではなく無関心」という言説はよく知られているが、好きにしても嫌いにしても一定の心理的な反応を示していると言うことにおいて似た面がある(しかし、全くの表裏と言う訳でもないと思う)。


 このように憧れは自分がなりたい存在であったり、あるいは自分が求める理想の状態(それになりたいとは限らない)であったりする。前者は主に同性に対するもので後者は主に異性に対するものであることが多いが、それもまた絶対的ではない。ただ、どちらにしても憧れとは「手に入れることができない」という諦めと共に存在する。もし手が届くと思えば、それはもはや憧れではなく明確なターゲットとなり得るのだ。

 しかし、一方で憧れは手が届いてはいけないものだという禁忌のイメージをうっすらと帯びる。あたかも神の如き存在に頭の中で置かれることすらある。憧れが手に届くものになれば本来その地位を喪失するが、逆に憧れでなければならないという自らの意思が手を届かせなくしてしまうこともある。

 夢が夢であるからこそ美しく尊いように、憧れも手が届かないからこそ素晴らしいという固定観念に基づき、自らのイメージを優先することで心理的な安定を図ろうとしてしまうのだ。ファンがアイドルを神格化するが如く、実像ではなく理想像としての姿をアイドルに投影している事例がそれに当てはまる。


 このように憧れの存在はその存在故に憧れるというよりは、意識してか無意識なのかはあるだろうが人が既に持ち抱いている心理的な理想のイメージを誰かに投影することにより生まれると考えることもできる。そのイメージが強烈であればあるほどに憧れは絶対的な意味を持つ。いや、持たなければならない。

 イメージと実像の乖離が小さければ小さいほどに心理的な満足感を得る。そして、両者の齟齬が小さければ自分自身の認識を強引に捻じ曲げてでも無理やり理由をつけて納得し、大きくなれば葛藤の原因を実像側に求める。自らが生み出した理想的な姿を守るための行為なのであろう。


 さて、恋愛と憧れが恋い焦がれる状況は似ていながらも必ずしも一致しないのは、この理想像の投影にどこまで拘泥するかではないかと思う。自らが抱く理想像を守ろうとすれば、近づきすぎることは却って状況の崩壊を早めることになりかねない。遠くから見守ることは個人としての恋愛感情と変わらないものなのかもしれないが、その対象たる個人を恋愛対象としているのかそれとも自らが抱くイメージを恋愛対象としているのかで大きく違うのだ。

 あくまで理想像のみを追い求める場合、恋愛に感情に近い意識を抱いていたとしても恋愛としては成立しない。なぜなら恋愛は、自らの理想を押し付けることではなくお互いの距離を近づけることを考えているからである。その際には、理想の姿はむしろこれを妨げるものとして働きかねないのだ。

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