第8話 与えうる人



 飢餓状態が人の寿命を延ばすという話をたまに耳にする。現実には生命に危険があるような飢餓を想定している話ではなく、過剰なカロリー摂取を控える方が寿命が延びるということが種々の実験よりわかってきたということのようだ。

 「腹八分目で丁度良い」というのは昔からの言い伝えであり、意味としては言葉の通りその方が寿命が長くなるという実益を説くものであるが、別の面に思考を巡らせば食べ物以外でも人の欲求にはきりがないので満足と思う少し手前で止めるくらいが丁度良いと読むこともできる。


 食べ物に限らず湯水の如くモノやお金を子供に与えることは、人生にプラスとして働かないであろうことは誰でも容易に想像つくが、他方で経験や知識・知恵を与えることには制限がないようにも考える。そもそも、子育て時や成長過程に何を与え逆に何を与え過ぎないかは、親としてあるいは教育者として大きな問題でありテーマであり続ける。

 いくら大人の側から与えたいと願っても子供の気分次第で拒絶することは多々あるし、何より適度にかつ的確に吸収してもらうためにどうすればよいのかと与える側は常々頭を捻らなければならない。もちろん子供の個性に応じて処方箋は変わってくるだろうし、既に取得した情報や知識によっても方法論は異なる。さらに言えば知識は精神面の成長ともリンクしており、心の成長を見ながら行わなければ誤った用い方をすることにも気を配る必要が生まれる。

 教育のように子供が自主的に望むとは限らない分野では、適切に知識を与えるのはなかなかに難しい。ただ、それでも成長や経年と共に学習の必要性等を自覚し、自分自身の意思で新たな知識や能力を獲得するよう変化するケースは少なくない。「子供のころにもっと勉強しておけばよかった」との反省は今も昔も社会においては定番である。


 逆に、美食、お金や玩具等に関しては自己の欲望を理性で制御する術を学ぶ必要がある。可愛さのあまり無秩序に孫に与えようとする祖父母は、多くの場合これを適度に制御しようとする父母から厄介がられるケースはあまりに日常的な光景でもある。とは言え多くの場合教育の場においては飴とムチは必要であり、片方に偏りすぎるとモチベーションを失ってしまう子供たちも数多く存在する。

 厳しすぎるのも駄目だが優しすぎるのも駄目。塩梅は子供の能力や性格により異なるものではあろうが、どちらにしても極端が良くないのはこれまた誰もが知っていることでもあろう。ただ、人のケースは冷静に見ることができても自分(我が子)に降りかかると途端に暴走してしまうのもなかなか難しい。理性と感情がコントロールできなくなっているのは親の方だということである。


 知識の獲得についても、単純に学校で教えられる内容を獲得すればよいという話ではない。実社会に出れば、知識のみでは不足するし、必要とされる知識も学校で習得するものは限られている。社会勉強と言えば聞こえは良いが、社会の善悪全てを冷静に見切ることができる知識があった方が良い。

 善悪を判断できる知識の習得には、それを適切に理解できるような経験や知恵を保持する段階まで精神年齢が至っている必要がある。親はそれを見極めきれずに過保護に接したり、あるいは自分なりの経験で早くから教え込もうとしたりするが、いつ頃から教えるのが正しいかは子供の個性や能力に依存する。

 ただ、幅広い知識や考え方を持っている方が社会に出てから有利になるのは間違いない。ひけらかすだけの皮相的な知識では意味ないが、深い洞察力を伴う知識は様々なケース(ビジネスにおける判断から宴会の話題提供まで)で必要とされる能力である。


 さて、知識のみならず様々な何かを人に与えられることには意義がある。恋愛における白馬の王子様信仰ではないが玉の輿のように誰かから与えられることを望む声は単純な願望ではあるとしても非常に多い。与えるよりも与えられる方が簡単であるというのは間違いないが、どちらの立場にいる方が楽しい人生を送ることができるかと考えれば、私は迷うことなく与える側にいたいと思う。

 もちろん何を与えるかについてはいろいろな事例も考えられるので、最もわかりやすいお金から曖昧ではあるが重要な安心感まで、ありとあらゆるものがそれに該当するようにも思う。ただし、社会は与える側と与えられる側のみで成立しているわけでは無く、ほぼ全ての関係性はお互いに与え合うことで相互的に成立している。

 与えるモノと与えられるモノ(これを仮に「個人貿易収支」としよう)が対等かどうかは受け取り方次第ではあるが、労働環境では勤務と対価の問題は常について回る。現実には価値観は様々な尺度により判断されるので、単純に給与の多少により全てが判断される訳ではないものの、個人的な尺度の中で人々は常に自分が与えられる量を高めようと努力する。

 この感覚は絶対的な指標が明確ではないため相対的に認識されるケースが多い。要するに、得した損したを感じ取るということだ。


 容易に「個人貿易収支」を黒字ににしようとすれば方法は二つしかない。相手にねだる(与えられる量を増やす)か、自分が与える量を減らすかである。どちらも長い目で見れば良い結果を招かないことは自明のことだが、長い付き合いをするつもりがなければこうした極端な方法も取り得るであろう。もっとも、全ての関わりをそれで賄うことは社会生活を送る人間としては難しく、こうした行為は特定の場面のみで用いられることとなる。

 しかし、考え方を変えて絶対的な指標に目を向ければ話は大きく変わる。これは損得という相対的な比較ではなく、仮に収支は赤だとしてもトータルの自分が受け取るものを増やそうという考えだ。与える与えられるとは言っても、お金の収支とは異なり自分がそれによりどれだけ満足感を受け取るかということだとすれば、絶対的な量に目を向けるべきという単純なことである。


 考えてもみよう。恋愛においても「モテる」人とは基本的に他者に与えられる人である。それは、容姿が良いパートナーを持つことによる心理的優越感かもしれないし、お金をふんだんに使える自由さであるかもしれないし、あるいは暖かな落ち着きを与えてくれるという心理的な効果かもしれない。その人の醸し出す刺激に虜になることもあれば、知識や知恵の豊富さが尊敬を勝ち取るかもしれない。

 特定のパートナーのみでは一方的に与えるだけで終わることもだろうが、多くの人にも与える能力を持っていたとすれば相応の別の何かを返してもらえる可能性は非常に高まる。世の中は対等の関係においては基本的にギブアンドテイクであって、対等でないと見なされた時にはその感情に変化が生じる(上下共に)。また、与えられたものを財産として活用できるかどうかは本人次第ではあるが、得てして与えることを厭わない人の方が与えられたものを上手く活用できるような気がしている。

 ギャンブル(カードゲーム等)の世界では「金持ちはお金に頓着しないから勝ちやすい」などと心理面での落ち着き取り上げる事もあるが、同じように心に余裕(ゆとり)があることは他者に安心感や信頼感を自動的に与えることができる。与えようとして与えるのではなく、勝手に与えられたと感じる状態こそが最も理想的な関係なのかもしれない。


 短期的な損得勘定で物事の良否を計る人は世の中に多い。損得勘定は、与え・与えられたといった相対的な比較でしか物事を捉えられないため絶対量を軽視しがちになる。しかし、人生において本当に大切なことは「個人貿易収支」における黒字か赤字かといった相対的な差ではなく絶対的な取引の総量であると私は思う。逆に言えば与え与えられる量を増加させることができる人は、最終的に自らのやり取りの収支もかなり改善させられるかもしれないと思っている(便利屋に使われる懸念がない訳ではない)。

 そのために行うことは、多くの人に自然に与えられたと感じ取ってもらう事。子供の教育において勉強の機会を与えることに四苦八苦するが、人に与えようと思っても相手がそれを(自分にとって意味あるものとして)受け取るかどうかはわからない。

 私たちは普段の生活の中でも、物質面・精神面の双方で様々なやり取りを意識しながら、あるいは無意識のうちに繰り返している。人に与えられる何かを持つことは人それぞれ努力すべきことではあるが、与える方法や手順は狙って上手くいくものではない。また、与えるということを気にしすぎること自体が実際には損得勘定に左右されている証拠にもなろう。


 他者に配慮しつつ、自分が面白い・良いと思うことをどんどんとやっていくこと。結局のところこうした雰囲気が自然に自らの持つものを周囲に広げていくのではないか。自らの知識やノウハウを守ることも企業経営的なものや職人技能・技術などでは重要なことも多いが、一般的な社会生活においては与えられる人ほどより多いリターンを受け取るのだと考えられる。

 家計や企業経営では赤字を出さない方が良いのは言うまでもない。ただ、どちらも出入りが大きくなれば信用というものを獲得できる。この信用が広がるほどに付加的な効果はどんどんと大きくなる。

 押しつけではなく、自分自身の持つ何かを欲しいと感じる人たちに上手く分け与えることができること。もったいぶる訳でもなく、高慢になることも無く、与えると共に次の新しい何かを作り出し続けること。そこにこそ、人を惹き付ける大きな要素があるように思う。そして他者とのやり取りが増えるほどに、また自分の成長していけるのではないか。だとすれば「個人貿易収支」が赤字であることは必ずしも忌避すべきものとは限らない。

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