第7話 知らぬが仏?


 現在の伴侶の過去が全く気にならないと断言できる人は少ないだろうが、過去に囚われる方が不幸を呼び寄せやすいことも知られている。現実問題として、私も過去に執着することにはメリットを全く感じない。恋愛・夫婦関係に限らず一般的には過去よりも未来に重きを置くことが重要だと思うからである。過去に拘る思考が後ろ向きだということもあるが、それ以上に修正しえない事実を前に思考がループを回り続けることに意味が見いだせない。

 噂などの曖昧なものでなかったとすれば、基本的には過去は変えることのできない事実である。事実であっても、一時的には痕跡に蓋をしたり別の記憶と置き換えることもできるかもしれない。ただ、一度得た知識はひょんな拍子でこうした付け焼刃の誤魔化しを打ち破る。浮気の現場などで偶に見られる「知らなければよかった」という言葉が示すように、一度知ってしまったものは心の中の奥底のわだかまりになり、決して抜けることのない棘として突き刺さり続ける。

 自らの心証世界においては、事実はそれを知った瞬間に発生し一度生れたものは決して消えることはない。ただ、時間のみが記憶を色褪せさせることができるのみである。ただ、裏返せば知らなければ(認めなければ)存在しないのと同じであるとも言える。

 「知らない方がため」などと言いきれるほど極端な意見を持っている訳ではないが、少なくとも知らなかった方が良かったというケースはいくつか見聞きしている。結果論としてのみでしか読み取れないことではあるが、世の中の風潮である「どんなことでも知っておくべきだ」といった感じの意見には完全には首肯しかねる。


 とは言え、一切の過去に対して目を瞑る方が良いかと聞かれればこれもまた違う。どんな場合でもバランスが重要なのは言うまでもないが、そもそも個人にとって受け入れられる過去と受け入れられないそれは存在するであろう。これが厄介なのは、事前に内容を知らずに受け入れの可否を選択できないことがあり、だからこそ知った後に「聞きたくなかった」という言葉が出てくるケースが多発する。

 重大な過去も許容できるかどうかは、その事実に対する自分の立場が大きく影響する。例えば、事実に対して自分が客観的視点を保ちえる第三者的な状況にある場合には過去の出来事を無視することも比較的容易であり、場合によっては過去の事実に感情移入することですらある。仮にその受入れが自分にとって不利益となると判っていたとしてもだ。

 他方、過去の事実が自分の存在に直接大きくかかわる(客観視が難しい)場合には、その事実がこれからの関係に不利益にならないとしても許せなくなる場合もあろう。私は過去の事実の客観視の可否として分類したが、正直このあたりは少々曖昧だ。敢えて客観的に見ることができるかどうかを指標にしたのは、感情を抑えて考える(あるいは感情をポジティブに活用できる)ことができるかどうかという着目点によっている。制御できない感情を持て余してしまうのであれば、知らぬ方がずっと良かったということになるであろう。


 どちらにしても、誰もが一生で一度しか恋愛しない訳ではなく大部分の人には恋愛の履歴が存在する。もちろんその深さや内容は千差万別であり、また処女信仰に垣間見えるように恋愛経験の薄さが価値の高さだとは私は思わない。人生と同じように刻み込まれた経験が生み出す良さも強さも存在する。

 むしろ、社会としてはより深い恋愛を育む機会もあってよい。ただ、限られた出会いの機会の中ではそこに到達するのは容易なことではなく、また数多くの触れがたい痕跡を残すことになるだろう。単純に浮気がちな相手を許すか許さないかなどと言うことではなく、過去の受け入れ準備ができた上でどのようにお互いが対峙するかが問われるのではないか。

 そこへの道のりを苦難として忌避するならば、実のところ過去を知ろうが知るまいが形は様々であろうが個人として受ける反応には差異がない。なぜならばそこには受け入れる準備がないからである。知って駄目、知らぬが仏(あるいは無理して目を閉ざす)、どちらかしか道がないのだから。

 ただそれもまた過程であって、そしてこうした経験の積み重ねがより深い恋愛を形作ることになるのかもしれない。

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