第6話 恋愛と自由



 「自由恋愛」という言葉があるが、現在の日本では何らかの背景がない限り恋愛は自由であることになっている。もっとも、この言葉には恋愛の自由が保障されるという意味合いより、婚姻や特定の人との付き合いという固定化した枠を取り払うことを意識して用いられることが多い。具体的には、人間が結婚などの社会的慣習(ここでは法も含む)に個人の自由である恋愛が縛られるのはおかしいという考え方である。社会規範を良しとしない面よりアナーキズムの一種と捉えられることもあるようだ。

 「恋愛体質」という言葉もあるが、これは精神的な依存症の場合を示しているものの、積極的にそれを肯定すれば「自由恋愛」につながるのかもしれない。


 「自由恋愛」は現代的な言葉のようではあるが、言葉が生まれたのは私が予想していたよりも随分古い。そもそも、恋愛や婚姻に関する社会規範が現在のように整備されていない時代や地域では、わざわざ自由恋愛と呼ぶ必要がないことは容易に想像が付くし、近代の一定の秩序が存在した時代であっても耽美的な趣味がもてはやされることもある(ex.ビクトリア朝時代等)。日本の場合にも大正浪漫を構成する一部の動きとして、一部の文化人などが個人主義に基づく恋愛の自由を主張したケースもあたようだが、封建的な社会が崩壊しつつあると実感する時ならではのこととして一部進歩的思想を持つ人々にこうした運動が広がりを見せたのかも知れない。

 ただ、当時の社会では幅広く庶民が意識するほどには封建的な呪縛が取り払われていた訳ではない。だから、「自由恋愛」という言葉が意味する状況がフィットするのはやはり現代であろう。


 他方、現在でも世界を見渡せば自由に恋愛ができない社会は数多く存在し、親や家の方針により好まない相手との婚姻を強制されるケースは後を絶たない(呪術的な意味で今回の事例としては適切ではないが犬と結婚させられた娘の事)。

 自由恋愛が忌み嫌う社会的束縛も、それを実行すれば社会的な反発を受けるケースも少なくない。社会における居場所を手に入れようとすれば、結果的には様々な形でのしがらみがついてくることになる。婚姻は契約であり、法律的には夫婦となる二人の契約と考えるべきものではあるが、慣習的には家と家(あるいは家族と家族)にまでその効果が及ぶと理解されることが多い。

 このあたりはあくまで認識論の問題であり、嫁姑問題やネット上のスラングである「エネme」などと呼ばれる状況も、家族関係をどのように理解しているかの齟齬、あるいはそれまでのカタチを維持しようとする行動により引き起こされる。


 ただ、今回のエントリは婚姻後のしがらみではなく恋愛と自由に関してをテーマとして考えているので、恋愛が婚姻と密接な関りを持つことは事実であるが恋愛部分に的を絞る形で若干の軌道修正をしよう。

 そもそも人は何故恋愛するのか。本能に支配された種としての行動であるのは間違いないが、他の動物と比べれば非常に複雑かつ特異な存在ではないかと思う。子孫を残すために女性は本年的に強い男性を求めるという話はよく耳にするが、狩猟時代ならともかくとして現代における強さは必ずしも肉体的なそれだけではない。むしろ、一見すると本能により導かれる強さの判断よりも、理性や感情が認識する結果の方が強いように感じている。


 例えば、結婚相手として公務員や大企業に勤める安定した収入を持つ者は基本的に人気が高い。ただ、恋愛においてはパートナーとしての選択肢が異なるという話もよく聞く。恋愛に向いている相手と結婚に向いている相手は違うタイプとなるという訳だ。恋愛の時から結婚を強く意識する人もいるだろうし、逆に恋愛と結婚は別物と考える人も決して少なくない。

 大雑把な言い方ではあるが、個体としての強さは恋愛相手を選択する上で大きな要因となるが、結婚となれば安定に着目点が移っていく感じと言っても良いだろう。これは恋愛を楽しむと考えた時に、より刺激的な相手を求めるのだと捉えられると思う。


 しかし、恋愛の持つ自由性は本能的な部分で強さを求めるという意見とは合致しない。本能は、初動(きっかけ)を与えるにすぎずそれを理性や感情が補強していくのかもしれない。私たちがごく当たり前に捉える恋愛は、本能に縛られる部分がないとは言わないが大部分を本能に支配されているわけではなかろう。感情においても本能の影響を受ける面もあるだろうが、それ以上に生まれてからの環境による景観の蓄積による影響の方が随分大きい。その上で、ある意味で社会的打算を司る理性が加わり個人としての恋愛価値判断が形成される。

 子どもや学生時代の恋愛が感情に左右されやすいのは社会的な拘束が少ないためであるが、これも成長過程における経験がかなり大きな影響を与える。恋愛は様々なしがらみが絡むものではあるが、本来は自由な存在である。


 恋愛の自由を積極的に考えてみれば「刺激」を追い求めることと考えやすい。一方で婚姻における重要な要素としては安定があるが私は「調和」という言葉を用いてみたい。人が感じる快適さにはこの両者がともに存在する。遊びに行く楽しみも、家でゆっくりくつろぐ状態も、方向性は異なるがどちらも快適性を感じる状態だ。

 「美」についても同様のことを考えたりもしている。これは美しさをどのように感じるかという内容ではあったが、実質的に今回の内容と変わるものではない。私たち人間は、刺激と調和の間を彷徨いながら心地よさを追い求めている。

 もっとも、美を観賞するということと恋愛(そこから至る婚姻)とでは対人性の有無という根本的な違いがある。言い換えればそこには強い社会性があり、相手に対する責任がある。自分の心地よさのみを追い求めることは、その関係を断ち切る事へとつながりかねない。そこに自由な恋愛を妨げる意識が対外的なものとして生じうる。

 とすれば、恋愛の自由は社会性の獲得と共に削り取られていくということであり、人間が保有する他の自由と基本的に変わりない。それでも、気付くのは婚姻という法的な責任を伴う事項を意識した時であり、意識する前と後で状態がかなり大きく変化する点では異なったものとも言える。恋愛時点では自由であっても結婚が絡むと意識の中で突然自由が大きく制限されるのだ。もちろんそれを責任と肯定的に捉えることもできるのだが、納得のいかない人も少なからずいるだろう。


 それでも、火遊びと揶揄されるような多様な刺激を追い求めることが、単純に自由な恋愛につながるとは限らない。例えば多様な安定性を望むことが複数の異性との関係として生まれるならこれもまた自由な恋愛であり、逆に一人の相手と刺激を求めあえる状態があれば別に問題ない。

 もちろん現実には、「相手をしてもらえない」、「つまらない」、と言った理由で世の中には不倫状態が溢れている。これは、婚姻という社会的な約束をしていても、それとは異なる恋愛を求めようという人が多い証拠でもある。不倫に至った理由として一生懸命説明する言葉は、一面の真実ではあろうが結果を塗り固めるための後付の理由でもある。そして、当初に書いた「自由恋愛」への流れがここにに存在する。


 ただし、不倫と言っても誰が相手でも良いという人はかなり特異な事例だろう。と言った具合に人々は不倫相手の数の少なさを一種の言い訳のように用いる。ただ、最初の障壁を越えてしまった後の違いであり、0と1の根本的な違いではない。

 結婚が与える物が独身時代の自由により得ていたもの以上であれば、不倫という状況は容易に生じないのだろうが、一人で暮らしていくことの容易なイメージが最初のハードルを容易に乗り超えさせているのではないだろうか。加えて、ヴァーチャルな出会いが更に意識のハードルを引き下げる。


 新たな「恋愛することのどこが悪い」という開き直りを心の中で認めた時、恋愛が本来持っている自由性が首をもたげる。それを表面に出すか否は本人次第であるが、不倫を巡る泥仕合が誰も勝者を生まないと考えるにつけ、恋愛の自由を行使する時期には間違いなく賞味期限があるのではないかと感じる次第である。

 繰り返すが、心の中に抱き続けるという自由は残されている。

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