第5話 非結婚時代

少し前のものだが、こんな記事がある。


そもそも「結婚したくない」人たちが急速に増加中!(http://npn.co.jp/article/detail/05351207/)


 日本の少子高齢化の主因が、結婚しない(できない)人の増加に起因していることについては以前にも何度か書いた。これまでの社会は、それでも結婚していないことに対する一抹の後ろめたさが存在していたのではないだろうかと思っている。結婚イコール子供ではないが、それがないことの寂しさをつづる文章は少なくないし、35歳を越えることで卵子の老化により出産成功率が大きく低下することは、社会的に大きな話題となった。結婚しない理由が、「今はできない(しない)」という先延ばし続けた結果の消極的なものではなかったかという感じがしているからである。


 しかし、仮に最初から「結婚はしない」と考えるとなればこれはかなり話が違ってくる。結果的に結婚しないのも最初からしないと決めているのも、単純な少子化問題と捉えれば結論として変わらないのかもしれない。ただ、車を持つ必要がないと考えるのと同じように結婚をしないことも個人の選択のひとつという認識が広がれば、現在の日本という国家や社会制度を大きく揺るがす事態ではないだろうかと思う。あくまで法制度や事実のみを考えるならば、確かに結婚は個人の自由である。一部には家の都合や親の世間体などに拘束される人もいるかもしれないが、それでも個人の意思により結婚を選択できる人の方が数の上では多いだろう。

 結婚という制度に捉われたくないという主体的意思による結婚回避と異なり、結婚という現実的な選択すら自らの人生の上に描くことを躊躇うような消極的行動が蔓延しているとすれば状況の持つ意味は小さくない。婚姻が理想的な社会制度かどうかをここで議論するつもりはないが、少なくとも人類社会の叡智として現状のシステムがあることを前提で考えれば、婚姻は社会における必要条件である。

 過去から個人レベルで結婚に疑問を呈しあるいは拒絶するケースはまま在ろうが、それが社会的な広がりを得なければ局所的かつ単発的な現象と捉えることができる。また、結婚を先延ばしにしているという流れは、一種流行のようなものでもあってその弊害が大きくなれば自然に早く結婚しようという人も増える。ところが望んでもそれが維持できず、あるいは理想とは別に現実の婚姻にデメリットが大きすぎて選択する気持ちになれないのだとすれば、主義としてしない場合や変動する社会的な空気とは違う。もちろんこれもまた一時的な社会のひずみと捉えることもできようが、最初から諦めるという認識の拡大は結婚の社会的価値を大きく下げてしまう。そして、こうした認識が漠然とした雰囲気の中で醸成され、ライフスタイルの中で固定化されてしまう危険性について考えてしまうのだ。「したいけどできない」が中心だったものが「したくない」が中心となることは、すぐに社会に変化が現れるわけではないものの想像することが恐ろしい。


 社会制度の不備という意味では、一般論としてよく持ち出される子育て環境の不十分さ等が挙げられる。加えて、若者の低給与であるとか将来的な夢が抱きにくいとか様々なことが主張され、議論されている。ただ、私はこれらは決定的な要因ではなく言い訳のように用いられている要素ではないかと思っている。もう一つの側面としては、道徳的な価値観の崩壊が隠れているのではないかと感じている。結婚のデメリットが誇張されそこに目が行くことで、夢により義務を覆い隠してきた状態が脆くも崩れ去るという流れである。ネットや雑誌において語られる多くのパターンは、結婚が見栄と権利取得の権化となってしまい、お互いの自己主張が容易に調和に勝つようになった状況であろう。

 こうした現象が出てきている最も大きな要因は、結婚しなくても暮らしていくことができる豊かな社会を得た代償だと考えることもできる。女性の社会進出における逃げ口として結婚が語られ、結婚の逃げ口としての離婚が話題となる。すべての人がそうだとは言わないし両者を見事に成功させている人もいるのは間違いないが、結婚が人生における一つの成果と見られてきたものが社会におけるそれ以外が全て整備されたことにより、相対的に社会的ポジションが失墜してしまったということだ。

 心理面においてあたかも結婚が罰ゲームか何かのように遇されてしまったとすれば、私たちはそれを得ようとするどのようなモチベーションを抱けばよいのであろうか。確かに結婚が無条件でバラ色だなんて言うことは馬鹿げている。ただ、結婚生活をバラ色にすることは双方の意志と努力により可能だろうし、全てがバラ色ではなくとも生活の一部にそれを見出すこともできる。結婚は0点か100点かという最終結果を見出すゲームではなく、変動する点数を常に高め合う過程なのだ。

 こうした認識を阻害する最も大きな要因が感情であり、多くの離婚は感情のすれ違いが原因となる(セックスレスも性格の不一致も)。これが必ずしも正しいかはわからないが、打算で結婚し感情で離婚するとすれば悲しい問題ではなかろうか。離婚を推奨するつもりはないが、本来は感情の高まりにより結婚し目論見が外れることで打算的に離婚するものだと思うのだから。結婚時に打算がないというつもりもないが、大部分の人が打算のみで決めるという社会は何かおかしい。


 結婚をするのが当然という社会認識が、するかしないかという選択的存在となり、最後にはする方が奇特であるというような社会が現れるとすれば、少なくとも現在の慣習や制度に基づいた社会は崩壊する。その先に、結婚に捉われない共同生活的な社会が新たに生み出されるのかもしれないが、仮にシステムが変わったとしても今よりもより良くなるとは言い切れない。婚姻制度については世界中にいくつかのパターンがあるが、それぞれの環境や宗教などに基づいて一定の最適化が図られた結果だと私は思う。小さな不具合は常に存在しようが、全体を覆さなければならないようなものではないが故に落ち着いている。これは、社会が現状を求めてきた証左でもある。

 現状が求め続けた理想ではなくとも一定の均衡点にあるとすれば、結婚という恋愛の先にあるイベントすら打算が感情に大きく勝つような社会を生み出している現状に問題があると考えるべきなのであろう。

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