第4話 過度な優しさが氾濫する理由



「情けは人のためならず」とは、人にかけた情けが巡り巡って自らに返ってくることを言った言葉ではあるが、その情けのかけ方によっては全く逆の結果になることさえあり得る。「恩を仇で返す」とはそのまさに逆の結果なのだが、そこにはどのような違いがあるのだろう。


 優しさとはエゴということについては以前書いた。人にかける優しさは基本的には自分のために行うことである。それは相手のことを思いやったものではあっても、結局のところ優しい自分を感じるの行動に帰結する。それ故、本当の意味の優しさとは優しいだけではなく、厳しさも兼ね備えたものであると考える。


 おそらく、優しさにはいくつかの種類があるのであろう。

 ここで言う優しさは情けと類似の意味として捉えている。人に対する善意と言っても良い。

 それは、傷ついた心を癒す面もあれば、甘える心を叱咤する面もある。

 優しさ故に厳しい態度をつることも含めての優しさを考えている。

 優しさを受ける人にプラス足らんことを意識した行動なのだ。


 ところが、言葉の上での「優しさ」とは表面上の優しさで語られることが多い。

 それはケースによっては甘えを助長するものでもある。すなわち、当人にとってマイナスになる可能性も十分あるものである。仮にそうだとすれば、それは表面的には優しくとも実質的には無関心に近い軽い扱いとも言えなくはない。適当にあしらったと言っても良い。

 表面的に優しく接することが一時的には効果を示すこともあろうが、長期的に続けばそれは慣れになり、甘えになり、傲慢を招く。その優しさの意味を当人がきちんと理解しているというのが癒しとしての優しさを与えられるための大前提なのだ。


 だから優しさをかける側からすれば、相手の反応に気をかけて必要なときには癒しや労りの優しさを与えても、それが過度になると判断すれば当然やめる必要がある。それをやめないというのは、溺愛にも見えるが相手を見ていないという意味で自分勝手な行為でもある。溺愛は、相手を愛しているのではなく相手を愛する自分を愛しているという証拠でもあろう。


 それでも、社会的には愛は尊ばれ、優しさは賞賛される。

 だから、相手の状況を考えない優しさが氾濫するのであろう。

 優しさを受けるのが当然になれば、その状態が当人にとっては日常になり、それを失うことがマイナスだと感じられてしまう。その結果が「恩を仇で返す」という事態を引き起こす。


 恩を仇で返すのは、表面的な優しさの過多なのだと思う。

 もちろん、では常に厳しければよいというものでもない。厳しすぎるそれは、耐えられるだけの気力があるときには効果があるだろうが、気持ちが萎えたときにはマイナス効果の方が大きい。

 やはり社会には表面的なそれであっても優しさは必要だ。


 実際、社会では優しさのバランスが必ずしも良いようには見えない。

 それは、社会的な合意として表面的な優しさのみが誇られる現象が、結果として優しさを溢れさせる原因になっているのではないかと考える。

 繰り返しになるが、本当の意味での優しさは本来表面的な優しさと厳しさを併せ持ったものである。

 そのことを知らないわけではないものの、報道等では表面的な優しさのみがまず取り上げられる。

 それはわかりやすいという意味では理由はわかるのだが、その表面的な優しさを過度に取り上げることが結果として社会の歪みを生み出しているかもしれないと考えれば、そう安穏ともしていられない。


 その最も極端な例が、おそらくプロ市民と呼ばれるような人々の活動ではないかと思っている。

 それは弱者保護とも結びつくことも多い。

 弱者を保護するという優しさが社会において必要不可欠なものであるのは間違いない。

 それでも、本当に必要なのは真の意味での優しさを与えることであって、表面的な優しさを続ければよいというのではない。

 マスコミは、自らの報道価値を高めるために表面的な部分のみを取り上げる。

 それは、ジャーナリズムとはかけ離れた商業主義の具現化であるが、それが大きな問題となることは今のところまだ無い。


「優しさの目的は自律を促すことである。」

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