第3話 優しさ、そしてエゴ



 かなり前の話であるが、ある人に「優しさとは何か?」と聞かれたことがある。その問いに対して、当時私は「それはエゴではないか」と答えた。「エゴ(自我)」とはあまり心地よい言葉ではないし、ある種非常に極端な物言いであることは間違いない。だが、人が生きていく上で人は他の人と干渉する。それは、良い意味でも悪い意味でも避けようがない。優しさもこの関わりの一つの形態ではないかと思う。


 人は優しくする、それは何故?それは誰のために?実は、その答えはよくわからない。「結局は自分のためである」と言い切るのは冷めた意見かもしれないが、「助けを必要とする人のため」と他利的に言い切ることは私にはできそうもない。

それは、「助ける」という行為が自己目的であって、「優しさ」がその手段として感じられるからである。何故そう感じてしまうのか。それが自分自身でも上手く説明できず、そのまま放置していた。


 太宰治の言葉に「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにもこれにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言いきれる自覚ではないか。」というものがある。

この言葉は、人が優しさを行使する理由について語っているものではないが、人が自らを認めることができる究極の要因が触れられている。自らが自らを認める、つまり人からの助けを得なくても問題なくなる条件ということである。


 もちろん絶対的なプライドを持ち得る人などいくらも存在しないだろう。だから、大部分の人は自らを認められないという葛藤を保有し続けているのだ。この葛藤は、様々な場面で人を落ち込ませる。そして、そこから回復するのは自我を認めがたい人ほど時間がかかってしまう。

 ところが、人は自らを認めることはできなくても、他者を認めることは比較的容易である。他者の葛藤は自らにほとんど影響を及ぼさない。葛藤の存在は認識できるのだが、それはあくまで他者のものであって当人の行動に制約を与えるものではないというわけだ。


 だが同時に、葛藤の存在自体は認識しているため、それを解消したという満足感を得ることができる。もちろん、自分自身の葛藤を打ち破るものと比較すれば取るに足らないレベルかもしれない。しかも、あくまで他人の問題であって自らが自らを認められたものでもなく擬似的なものである。


 優しさとは、他者の葛藤をサポートすることで擬似的にあるいは間接的に葛藤の克服を味わえるという代償行為ではないだろうか。まあ、そう言ってしまえば本当に身も蓋もないのだが。


 なぜ、優しさを人は必要とするのか?それは、普段の私たちはお互いのエゴとエゴが適度に干渉し合う状態を求めているからではないだろうか。そして、優しさは崩れたバランスを元の状態に回復させるための一つの手段として扱っているのではないだろうか。

もちろんこれが成立するためには、少なくとも複数の人間がバランスの回復を目指さなければならない。


 自我を主張するためには、そのバックボーンが必要となる。その一つは自己のプライドであり、あるいは他者(もしくは何らかの外部要素)のお墨付きがあるだろう。優しさは、そのお墨付きの一つでもある。優しさを受ける人にとっては、他者からのお墨付きによって自我の保有するプライドを回復する行為。そして、優しさを与える側からすれば、他者の回復を通じての代償行為。

ただし、私はこうしたエゴの発現を単純に悪いものとは見なせない。それは、人間の発展が調和ではなく葛藤の克服により生じていると思うからであり、エゴが人の進歩を後押ししていると考えるからである。


「社会とは、打算とも言えない無数のエゴが形を為したものである。」

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