第2話 男女の友情は成立するか?

 これからも良い友達でいよう。。。。。

 ありがちなシチュエーションだが、、、、


 よく問われるものとして、「男女間での友情」の問題がある。

 表面的には、当然成立することはわかるのだが、突き詰めたときにそれが言えるかどうかになると、ちょっと判断に躊躇してしまう。


 これは、「愛情」と「友情」に明確な境界線はあるのか?という問題に帰着できるように思う。

 考えてみれば、性別も無視して問題を論じられる。


 まず、同性愛についてはその存在を忌避するものではないが、確率的にはやはり非常に少ないものと言えるであろう。それは生物の種を残すという本能から考えても当然のことである。

 もし、それが普遍的になってしまえば種の維持すらままならないかもしれない。

 となれば、やはり原則的には、

   「友情」=「同性間」、「愛情」=「異性間」

の構図は、全てとは言わないが大きくは間違いない。

 ただし、これが異性間で友情が成立しないという話になるわけではない。


 さて、もう少し視点を変えて考えてみる。

 「友情」とは、一体どのような感情になるのであろうか?

 「愛情」についても議論はいろいろとあるだろうが、私はその根本に種の保存という本能があるのだと考える。だから、異性を愛し、家族を愛する。それが広がれば、一族を愛し、そして社会を愛する。その根源たる相手に対する愛情は、種を維持するというまさに直接的な存在である。


 国を愛すると言うことも、換言すれば「自らの子孫を安定して残しやすい社会を維持していく」という本能に突き動かされる行為だとも言えなくはない。

 それは、自己がなじんだ環境を守ると言うことになる。・・・場合によっては、自己が信じる思想を体現する場所となるかもしれない。


 友情をこの延長線で考えるとすれば、現状の体制を維持する、あるいは自らの種を守るために同じ考え方を持つ同士、共同戦線を張れる仲間、ケースによっては自らの力を増してくれる(結果的に種を維持できる可能性が高まる)存在ではないだろうか?

 それは、直接的ではない、間接的に種を維持することを強化する存在。

 だから、そこには本能に加えて理性が作用する。


 結果として、大原則としては「愛情」は「友情」に勝る。

 もちろん、高度で複雑な脳を有する私達は、そう単純な存在ではない。

 理性という、本能とは別の思考に突き動かされることもあって、ケースによっては社会的地位を守るために、友情を愛情よりも優先することもあるだろう。


 さて、かなり独断と偏見ではあるが、

   「愛情」=本能的な情愛

   「友情」=理性的な情愛

という構図が見えてきた。もちろん、それを証明するにはここの思考程度では全く不十分であり、根拠はほとんど無いに等しい。それでも、個人的にはこの分類は比較的しっくり来る。


「愛情」は制御できないことが多いが、「友情」は制御しやすい。

「愛情」は打算を超えることが多いが、「友情」は打算から始まることもある。


 もちろん、上記の逆が全くないわけではない。

 しかし、大きな傾向としてはイメージしやすいと思う。


 確かに、打算で進む愛情もある。しかし、それは愛情と呼ぶに値するのか?そう考えると、面白いものだ。


 あくまで仮説ではあるが、この仮説に基づいて考えれば、

おそらく男女間でも友情は成立する。しかし、それは理性で制御できている間。

理性を本能が制御できなくなった段階で、それは成立しなくなる。


 本能に突き動かされやすい人は、男女間の友情は成立しがたい。

 理性の制御が強い人は、男女間の友情を成立させられる可能性が高い。

とも言えると思う。


 ごく当たり前のことなのだが、考えてみるとなかなか面白い。


「関係に依存が含まれるようになれば、男女は恋愛関係の方が楽である。理性で律する努力が少なくて済むのだから。」

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