金曜日

 昨日は震える足を懸命に押さえて家に帰った。


 俺は元来幽霊というものは信じていないはずだ。そのくせに、なぜ昨日はあんなに震えてしまったのか。


 台風が持ってきた分厚く鈍色な雲で、太陽の光は遮断されている。その代わりに人工的な照明が点けられた午前の授業中、先生の教鞭そっちのけでそんなことを考えていた。前にいるDは、いつものように授業を受けているように見える。しかしその顔をこちらへ向ければ、その異様な状態に気づくことができる。


 目の下のさらにはっきりと出た黒い隈。そして青白い顔。普段なら体調が悪いのかと思えるのだが、昨日のネットの記事を見た後では、そんな悠長なことは考えられなかった。


 授業が終わって昼休みが始まると、Dは机の何かを掴んで駆け足で教室を出て行った。


「お、おい」


 その声はDの耳に届かなかった。諦めて彼の席を見ると、そこ置いてあったノートが目に付く。俺はそれを見て、身震いがした。


 ノートのページが何故かクシャクシャになっており、その上にシャーペンで書きなぐったような線がある。それが消しゴムで消されて薄くなっていた。


 異常な行動の軌跡が、そこにはあった。それはそのまま恐怖の輪郭を型取り、俺の頭の中で肥大していく。


 なあ、お前は本当にどうしたんだ?


 俺は教室を出て行くと、Dの行方を捜した。昼休みに行きそうな場所というのは限られている。だが、廊下やトイレを探しまわってもどこにもいなかった。職員室がある一階へ下りようとしたとき、階段の横にあるトイレから古賀が出てきた。


「よう、どうした?」

「Dを見なかった?」

「いや、見てないけど」


 これ以上探しても埒が明かないと思い、古賀と話をする。学校は大勢の人がいるため、何か異常があったらすぐに耳に届くはずだ。


「そうか。ならいいんだ。ところであの都市伝説について話したいことがあるんだ」


 俺はポケットに入れていた携帯を取り出し、ネットで昨日見た記事を開いた。


「なあ古賀、この記事を知っているか?」


 古賀がその記事を見てはっとするように目を大きく開く。


「俺が参考にしたサイトと一緒だ。でも、前に見たときよりも更新されているな。被害者の素性まで見られるようになっているとは知らなかった」


 しばらく携帯を注視していた古賀だったが、あるところで顔をしかめる。おそらくはBの事件の詳細を見てだろう。その後はもう見たくないとでも言うように、すぐに俺に返してきた。


「幽霊は信じないけど、この記事を見たらさすがに怖いな」


 古賀は顔をしかめながら、携帯を返してきた。古賀の言う通り、Bの事件がこの近くであると思うとぞっとするものがある。


「いや、でもネットの記事だ。どこまで本当なのか――」

「本当だよ」


 無理して笑ったのを、古賀に真顔で否定された。


「少なくとも、最後の事件に関しては本物だよ。Dから先輩の話を聞いて、俺も調べたことがある」

「古賀も聞いたのか?」

「ああ。まだ都市伝説のことは知らない時だったが、異常な現場だったということで興味……というとさすがに不謹慎だな。まあとにかく調べたことがあるんだ。だから事件の詳細はある程度知っている。この記事の現場の説明は、調べたものと一致しているよ。それにこの町で学生が自殺したっていうのは、Dの先輩以降はないはずだ」


 やはり憶測通り、CはDの先輩だった。あの記事を信じるとしたら、次に死ぬのは……。


「本当にあるのかね。呪いなんて。実際にこの目でその幽霊とやらを見なければ信じられない」と古賀は無理して笑う。


「……」


 俺は、Dの変化を知っている。中学からの付き合いだから、そういった歪なものは目につきやすいのだ。だから、笑って済ませるようなものではないということはわかるのだ。


「具体的に霊の対処法ってどうすればいいだろうか」

「はあ? お前は霊とか信じないって言ったくせに」

「いや、もちろん信じてはいない。けど、心持ちってのがあるだろ? Dが先輩からあの噂を聞いて、そして前の被害者と同じように先輩が死んだ。そうなったらいても立ってもいられなくなるに違いない。ようするに気が楽になるだけでもいいなと思って」

「ああ、そうか。そうだな」


 無意識下での恐怖というものは、なかなか取り払われない。気休めでもいいから、何か心の拠り所となるものをと思った。


「まず代表的なのは塩だな。それから清酒。あとは……」


 おそらくは本当に気休めにしかならないのだろう。だがそれでも、Dの心が少しでも和らげればと思えた。先輩が異常な死に方だったことに対して、心が荒んでいてもおかしくはない。


(なあ、こんな都市伝説があるのを知っているか?)


 それにも関わらず、ギラギラとした目でそんな話を切り出したのは……いやいや考えるな。


 古賀の話を聞いていると、階段の方から見知った顔が現れた。久坂と言って、古賀やDと共通の友人である。


「よう、日比谷か。ちょっと聞きたいことがあるんだが」

「何?」


 神妙そうな顔持ちで久坂は話しかけてくる。


「Dってさ、どうしたの?」


 緩んでいた緊張の糸が張り詰めた。


「どうしたって何が?」


「職員室に用事があって一階に行ったんだけど、Dが保健室に入るのを見たんだ。あいつ具合悪いの?」


「一昨日に風邪はひいていたけど、もう治ったはずだ。顔色は悪かったけど」と古賀は答える。


 特に会話は長くは続かなかった。相手からしたら、ただ保健室に友人が入ったのを見ただけのことである。しかし俺の中では違う。


 俺は二人に別れを言い、今いる二階から一階へと向かった。


 階下へと下りると、人の姿はない。職員室や体育館は、この廊下のずっと先にあるからだ。そこからの歓声や生きた音は、ほんの少ししかこの空間には響いてこない。そんな賑やかなところから離れた場所に保健室がある。


 体育館から離れた西階段のすぐ近くにある。美術室や技術室、そして理科室など、昼休み真っ只中ではまず人が寄らない部屋に面する廊下と交差する場所。


 厚い雲が空に掛かってくることもあり、喧々たる場所とのコントラストで、静けさを保ったこの廊下が余計に薄暗く感じた。


 保健室の扉にある小さな窓からは、白い光が漏れている。俺は扉を開けて中に入った。


 先生はいなかった。カーテンは開け放たれ、今にも雨が落ちそうな暗雲は、陰影をくっきりさせて空を覆っているのが見える。風はないが、おそらく今夜は荒れるだろうと、天気予報では言っていた。


 窓から左を見ると、ベッドの周りにあるカーテン越しに、布団の膨らみが奥に一つ見えた。近づくと、そこには横になったDがいた。


「ああ、日比谷か」


 Dの声を聞いて、すぐに変だと気づいた。声が嗄れているとか、掠れているとかではなく、純粋に変わっているように聞こえた。


「おい。大丈夫か。何だか今日は変だぞ?」


 体に響かぬよう、声を抑えて話しかける。


「ああ……なんか、変だな。体調は悪いわけではないんだが、なんかさ」

「声も変だ」

「声? ああ、これは……うっ!」


 突然口を押さえてベッドから下りた。近くにある洗面台に行き、まるで身体から何かを絞りだすような嗚咽を、手で口を押さえながら繰り返す。


「おい! 大丈夫か。先生を呼ぶか?」

「いや……」


 そう一言言うと、洗面台の蛇口を思いっきりひねった。彼は脇にあったコップで水を汲み、押さえていた手を外してそれを口に含む。数秒ほど病的なくらい念入りに口をゆすぎ、中のものを勢い良く白い洗面台の上へと吐き出した。


 俺はその瞬間の光景を見て、目を疑った。


 水とDの嗚咽と共に何かが吐き出される。彼の口からは無数の黒い点のようなものが出てきて、水と同じように洗面台全体に散った。何かの種のように小さな黒いものは、白い洗面台にびっしりと、ブツブツの斑模様を描いていた。


 それが何なのか、全くわからなかった。しかし、まず間違いなく人の口に含むようなものではないことは確かだ。


「なんだよ……これ」


 嗚咽を繰り返すD越しに、洗面台をもう一度近くでよく見てみる。


 水に濡れているが、近くで見ればすぐにその正体がわかった。しかし、それと同時に理解を拒絶する。そんなものは、口に入れるわけがないからだ。


 洗面台にこびりついたものは、夥しい数の消しゴムのカスだった。


「なんで……お前、こんなことを」

「こうでもしないと、衝動に駆られてしまうんだ」


 口を拭い、震える唇でそう呟いた。


「何の衝動だよ」

「……」


 Dはそれ以降口を閉ざしていた。窓の方をチラチラと見ながら、


「なあ、お前には何が見えているんだ?」


 これ以上は埒が明かないと思い、話を変える。


「わからない?」

「そりゃあな。俺には何も見えないからな」

「そこにいるのに」

「えっ?」


 その言葉に反応し、急いで辺りを見渡す。扉、窓の外、ベッドに視線を次々と移す。


 だが、俺たち以外には誰もいない。白色の光に照らされた、整然とした保健室があるだけだ。窓の外にも、人などいなかった。


「俺以外には、見えないんだな。やっぱり」

「教えてくれ。お前は一体どうしたんだ?」


 しばらく考えるD。やがて、顔を上げて話を始める。


「あの都市伝説を試してからだな、おかしくなったのは。幽霊がぼんやりと見えたり、自分が自分でなくなるような感覚が襲ってきたり、もう何が何やらわからなくなってきた。しかも日増しに強くなっていく。昼は何も見えなかったはずなのに、今はぼんやりと見える」


 微かにだが、震えているのがわかる。どう見ても嘘をついているようには見えなかった。


「興味本位で行くのは、本当に止めといたほうがいいな。何が起こるかわからない」


 Dは本当に参っているようだった。隈や顔色などもそうだが、彼の声や雰囲気からもそれを感じ取れる。何とかしてやりたい、が何をしていいのかわからない。


 そこでふと、子供の頃に見た番組を思い出す。そして口から自然と、前の俺では絶対に言わない言葉が出てきた。


「お祓いに行こう」


 Dは、はっとしてこちらを見る。


「お前、そういうの信じてなかったんじゃなかったのか?」

「確かに俺は見えるものしか信じない。だけど、お前がこうやって苦しんでいるのは事実だ。お祓いに効果があるのかわからないが、やってみて損はない」


 Dは俯いた後、こくりと頷いた。


「よし。それじゃあ俺が適当な場所を見つける。それでいいな? 今日はどうする。このまま早退するか?」

「いや、なるべく人の多いところにいたい」

「そうか。わかった」


 大勢のところにいれば多少は気が紛れるらしい。体調自体は、睡眠不足と精神的なものだったため、授業には出られる。俺はDの様子を心配しながらも、何とか今日一日を過ごし、放課後となった。


「親を呼んだほうがいいんじゃないか?」

「……」


 間を空けて、Dは話す。


「まだ仕事だ。それに家に帰れば、何とか。気休めだけど、御札とか部屋に貼ってある」


「塩と清酒は?」

「塩はある。前に粗塩を買っておいたからな。清酒って日本酒のことか?」

「ああ、そうだ」

「それなら家にあったはずだ」

「いいか。ネットで調べたところによると、盛り塩と紙コップに入れた清酒を入り口と窓に並べるのがいいらしい。そして部屋の四隅にも盛り塩だ」


 今日携帯で調べたものを、一通りレクチャーをする。どれほどその「見えない相手」に通用するかもわからないし、Dの支えとなるかはわからない。


 しかし明日だ。明日の土曜日に、近くの神社などに行ってお祓いをしてもらう。普段はそんなものを信じていないはずだが、今回に限ってそのことが頼みの綱だった。


 放課後、家まで送ろうと二人で並んで帰った。


「雨が降りそうだな。早く帰ろう」


 道中Dは、終始周りをキョロキョロしていた。彼が言う「何か」がいるのだろうか。


 太陽が雲に遮られて暗いが、街灯が点くにはまだ早い。道には影があり、それにくわえて雲が作るうっすらとした灰色も広がっている。言いようのない不安を抱え、Dの家へと急いだ。


「今日は、ありがとうな」


 Dの家に着くと、彼はお礼の言葉を口にした。


「いいよ、別に。気をつけろよ」


 そう言い残して別れた。彼は家の玄関を開け、中へと消えていった。


 木造の二階建ての、大きいとは言えない家である。一階は広く、二階はそれの一回りほど小さい。屋根は瓦で出来ており、波がうねっているような形を全体で作っている。


 中は和室が多く、雨戸や縁台もある古い日本風な造りだ。窓に光はない。まだ両親は帰ってきていないようだ。


 今日さえ乗り切れば何とかなるだろう。明日両親が旅行に行ったときに出かければいい。そうすれば余計な心配もかけない。


 そう思った矢先に、雨が降ってきた。一つ一つの点がコンクリートにはっきりと見えるほどの雨が、強かに服や頭を打つ。上を見ると、鈍色というよりは、夜の闇が混じった黒々とした雲が頭上に広がっていた。


 家についた頃には土砂降りとなっていた。地面を打つ雨は霧状に離散し、下に靄のようなものができる。うっすらとした白い膜が地面を覆っているようだった。


「おかえりなさい」


 仕事から帰ったばかりの母がタオルを持ってきてくれた。それで頭を拭きながら、母に頼んだ。


「父さんが帰ってくる前にパソコン使っていい? ちょっと調べたいことがあるから」

「ああ、いいよ。じゃあ許可取ってくるわね」


 家には父の部屋にしかパソコンはない。そのため使用には許可がいる。携帯で調べてもいいのだが、使えるのならパソコンの方が便利だ。


 湿ったタオルを手に風呂場に行く。そこでシャワーだけを浴びて、雨に濡れた体を温める。風呂場を出てジャージに着替えて戻った頃には、使ってもいいという許可が出た。自分の部屋に戻って携帯を取った後、さっそく父の部屋に向かう。でかい本棚の横の机にパソコンがある。それを起動し「お祓い 〇〇市」と検索をする。


 はじめは、そんなことをやっている所は少ないかと思っていたが、知っている神社の名前が一覧に出てくる。なるほど、神社であれば厄祓いなどはしているらしい。だが、厄年のお祓いと幽霊のお祓いを一緒にしていいものかと悩む。


 調べていくうちに、それは違うものだということがわかった。今度は除霊と浄霊を加えて検索する。すると、近くの町にある神社の名前があった。そして除霊の料金は、二万円となっていた。


 さすがに高校生に二万円は大きすぎる。親に工面させるのも難しい。Dの幽霊のことを信じてもらえるかもわからない。


 ……いや、俺も信じきっているわけではない。Dが信用できないなどではなく、彼が話すことが非現実的すぎるのだ。それでも、そのようなことはあるのではないか、という可能性も拭い去れない。


 しかしこんなことになるとは思ってもみなかった。前までは頭ごなしにそんな存在を否定していたはずなのに、今はこんな除霊のサイトまで開いている。


 数日前までは、普通の高校生活を送っていた。普通に友人と話し、普通に勉強をし、普通に暮らしていたはずだ。いや、今も特に霊体験をしてはおらず、表面的には変わらない日常だ。

 それなのに、今は異世界に迷い込んだような気分だ。見えないはずなのに恐ろしく、何よりDの様子の変化がその恐怖を掻き立てるのだ。


 幽霊はいるのだろうか。架空のものとして現実にあったら怖いだろうなと楽しみ、そして全く信じていなかったものが、今は現実に入り込もうとしている。


 とりあえず金のことも含めてDに連絡をしよう。要件が長くなると思われるため電話で話す。携帯を取って番号を入れ、無機質な呼び出し音と、断続的に響く雨音の中じっと待っていた。


 しかし、いくら待っても相手が電話に出る様子はなかった。風呂にでも入っているか、飯の最中なのか。


 今は午後の六時を過ぎている。Dの母親あたりなら帰っている頃だ。急を要することでもないが、Dの様子も確認したいため自宅に電話を掛けてみる。中学からの友人のため、自宅の電話番号も知っている。


 それなら普通に固定電話から掛けようと父親の部屋から出て玄関に向かう。電話の受話器を取り、Dの自宅の番号を押す。


 呼び出し音が一回、二回、三回……。


 駄目だ。十回目が鳴っても全く出る気配がない。親はまだ帰ってきていないようだ。飯ではないことは確定したから風呂だろうか。部屋に戻ったら携帯の着信に気づいて折り返しかけ直すだろう。


 そう思い振り返ると、そこに母親がいた。


「あら、固定電話から電話なんて珍しい」

「ああ、Dに用事があって」


 なんで携帯使わないの? という疑問がくるだろうと思い、その返しを考えていると、母親からは別の言葉が出た。


「ああ、そういえばあの子の両親。今朝から旅行に行ったらしいわね」

「えっ?」


 身体が硬直する。母が何気なく放った一言が、脳内の全ての思考を奪い去った。


「旅行は、明日の土曜日からって聞いていたけど?」

「昨日、あの子の両親とお店で会ったのよ。なんか休みが取れたからって今日の金曜の朝から旅行に行くって」


 どういうことだ? だってDはさっきの帰り道に言ったじゃないか。迎えに来てもらったほうがいいという問いに対して、親は仕事だと。


 今は家に親がいないのは間違いない。だとしたらなぜそんな嘘を? そしてなぜ電話に出ない。


 不吉な予感が、体の奥から沸々と出てくる。風呂に入ったばかりなのに、汗がじんわりと滲んできた。


「ごめん。俺ちょっと行ってくるわ」

「こんな雨の中どこに行くのよ」

「すぐ戻る」


 そう言って会話を遮断し、玄関の傘を持ってジャージ姿のまま外へと飛び出した。


 雨は地面を穿ち、夏にも関わらず冷気が足元から這い上がってくる。まるで行く手を阻むように、玄関の明かりに照らされた無数の銀糸は目の前を落ちていく。


 傘を差し一歩前に踏み出すと、雨の重圧が思った以上に強く傘に掛かる。自転車で行くよりは走っていく方が早いだろう。俺は目の前の水たまりを飛び越え、Dの家へと駆けていった。






 十分ほど雨の中を、ポケットに入れたままの携帯を押さえながら走っていった。人通りもない暗い道は、どこまでも果てし無く続くように錯覚してしまう。


 そしてようやくDの家の前に着いた時に、ある違和感を覚えた。見てすぐにわかるものだ。


 家からの明かりがない。Dの部屋は、玄関から見て二階の一番右にある。そこにすら照明はなかった。横引きの窓が四枚あり、中の障子も含めて全てが閉じられていることがわかる。


 これはいよいよおかしい。


 昔ながらの古めかしい木材を使った玄関に近づき、その脇にある呼び鈴を鳴らした。



 ピンポーン。



 甲高い音が雨の中でも聞こえる。しかし返事はない。人のいるような気配も今のところはない。

 いや、そんなことはないはずだ。この目でDが家に入ったのを見た。それにこんな雨の中、外に出ることもない。


 俺は試しに、玄関の扉を開ける。すると、玄関の扉は抵抗もなくするりと開いた。おそるおそる顔を入れる。


「日比谷だけど、中に入ってもいいか?」


 返事はない。俺は一歩中に踏み入れて、玄関の戸を閉める。


 篭もったような雨音が、家中に響き渡る。それ以外に音はない。祖父の代から使われているという古めかしい内装は、今は窓だけを避けて、壁や床、天井などは墨で塗ったように黒くなっている。


「おい、いないのか」


 声を大にして言ってみたものの、辺りは静まり返っている。


 西を正面にして建つ家の玄関は南西部分、一階の左端に位置する。目の前には玄関から真っ直ぐの廊下、その突き当たりとすぐ脇には右方向に続くものがある。ちょうどコの字を反転した形のその廊下は、居間と台所の二部屋を囲む。そして左手には、二階へ続く階段がある。


 傘を閉じて傘立てに入れ、祠の場所でしたように、携帯のライトを点けた。


 焦げ茶色の壁や床が白で照らされ、そこから下にライトを移すとDの靴が一足だけ置いてあるのがわかる。躊躇いながらも、濡れた靴を脱いで、板張りの廊下に足を置いた。まずはDの自室を探そう。左手の階段から二階へと上がる。


 吐く息が震えているのがわかる。大分見慣れた家の中のはずだが、制限された視界と心境のせいで、見知らぬ世界に足を踏み入れたような感覚に陥る。階段を上がる一歩が遅く、木の軋む音が、耳にねっとりとまとわりつく。


 二階に着くと突き当たりとなり、右に廊下が続く。そちらに向くと、左手にある奥まで長く連なる窓から、突然フラッシュのようなものが視界を一瞬だけ白に染めた。その直後、地を這うような轟音が鳴り響く。


 雷だ。それに呼応するように、雨音も家を囲むようにさらに激しく響いてきた。


 奥の部屋がDの部屋だ。時折不規則に光る稲妻と、携帯のライトしか明かりはない。


 木で出来た戸の前に立つ。取手に手を掛けて手前に引く。鍵は掛かっていない。申し訳ない気持ちもあったが、今は緊急事態だ。俺は一気に戸を開いた。


 中には誰もいない。窓からは街灯の光があるため、部屋の全景はぼんやりとだが見えた。奥の障子の前にあるベッドに携帯の光を当てるが、そこには人の形はない。床は特に荷物が散らかっている様子もない。畳と、ベッドや本棚など重いものにはカーペットが敷かれてあるのが見える。部屋の真ん中に視線をやると、何かがあるのに気づく。


 塩だ。四つ折りにされた紙の中央に塩が山状に盛られていた。


 しかしどうしてか、頂上あたりが黒ずんでいた。神聖なもののはずなのに、その黒のせいでいやに恐怖を帯びている。


 俺は思い立ち、ライトを消してDの携帯に電話を掛けた。しばらくしてバイブ音が聞こえる。暗闇の中に一筋、稲妻と街灯以外の光がぼんやりと見えてきた。ベッドの上だ。薄い一枚の掛け布団越しに光が見える。布団をめくると、それがDの携帯だとわかった。


 一体どこにいるんだ? それに、どうして両親がいないことを黙っていたのだろう。


 ……しばらく考えてみれば答えは簡単だ。俺に迷惑を掛けたくなかったのだ。


 もし俺が幽霊にでも取り憑かれたりしたら、なるべく友人に言わず自己解決を目指すだろう。そして特に今まで被害がなかったのだとしたら、両親がいなくてもきっと大丈夫だと思う。そして明日の除霊で光明が見え、一日だけなら一人でも、と思うかもしれない。


 思考の終了を待っていたと言わんばかりに、稲光が部屋中を覆った。一瞬だけ、畳の上にある盛り塩が見えた。


 もしだ。もし仮に、その慢心した一日だけ何かがあったとしたら? もしその幽霊とやらが、その日だけに手を出していたとしたら?


「うああああ!」


 甲高い叫びが、家中に響き渡った。戸は開けてはいたが、それでも振り絞ったように轟く声が、鮮明すぎるほどに聞こえてきた。


 Dだ。間違いない。俺は急いで部屋を出て、元来た道を戻る。


 不規則な雷鳴が轟く。雨音は際限なく鳴り響く。


 周りの環境音は、まるで俺を急き立てるように家を取り囲んでいた。


 息が詰まるような恐怖の中、ようやく一階に行く。そこからは場所の見当がつかない。二階は三部屋しかない狭さのため、一階からの声だということはわかったが。


 そのとき、俺の頭の中で稲妻のような閃光が走った。思い出したのは、ネットで見た記事のことだ。


 もしかして、風呂場か?


 被害者は三人とも、風呂場で事切れていた。全員同じように、自分で手首を切って……。


 即座に体が反応し、俺は奥の廊下の角を曲がった。玄関からまっすぐ行き、右に曲がって奥に行けばトイレと風呂場がある。俺はそこへ向けて一直線に走った。


 俺はおそるおそる脱衣所へと続くガラス戸を開ける。脱衣所があり、真正面の洗面台はライトを反射している。そしてその左にある、くもりガラスが嵌めこまれた戸。


 人の気配はない。ときどき稲妻が走るが、それを透過してできる影もない。隣接する窓もないため、雨音も遠ざかり不気味な静けさがこの空間に漂っている。俺はおそるおそる、戸を開けた。


 中には誰もいなかった。この家には似つかわしくはないシステムバスルームには、昨日の残り湯でもあるのかじんわりとした湿気が漂っていた。


 ほっと一息つくが、そのすぐ後に隣の部屋から物が落ちる音がした。


 ガタン!


 静寂を穿つような音に心臓が跳ね上がり、鼓動が囃し立てるように早くなる。


 廊下に出ると、音がした場所が台所だとわかる。廊下に面する引き戸を開けると、居間と隣り合った台所にそのまま行ける。そこに向かうと、俺は戸を慎重に開けて中を窺った。


 特に変わった様子はない。音も、少し遠くなった雨と雷鳴しかない。いや……俺はもう少し、耳を傾ける。


 何かが聞こえる。周りの音にかき消されそうだが、確かに聞こえる。すすり泣くような、掠れた声のような、何かが。


「おい、いるのか?」


 返事はない。俺は携帯のライトで辺りを見回す。


 台所の真ん中には四人掛けのテーブルがあるが、そこに四つ折りにされた紙が六枚置かれていた。そしてテーブルの脇に、塩の入った袋がひっくり返り中身がぶちまけられた状態で放置されていた。その側には、アクセスのスーパーのビニール袋もあった。


「うっ……うっ……」


 聞こえる。それは、台所の棚の方から聞こえてくる。俺はそちらにライトを向けた。


 そこに浮かび上がったのは、布に包まれたものだった。それは小刻みに震え、棚と壁との間に小さく丸まっている。俺はそれに、声を掛けた。


「おい。D、しっかりしろ」


 触れるとビクッと痙攣し、悲痛な叫び声を上げる。


「俺だ。日比谷だ」


 そう言った瞬間、ピタリと震えが止まる。そして布の隙間から白い手が出てきて、ゆっくりと体に纏った毛布を取っていった。そして、見知った顔が出てくる。


「日比谷……なのか?」


 白い顔に、白い半袖のシャツ。目の下には真っ黒な隈がある。若干やつれた表情というのが、はっきりとわかる。


「そうだ。俺だ。全く心配かけさせやがって」


 安堵の息をつく。


「ごめん、眩しい」

「ああ、悪いな」


 携帯のライトを消し、暗闇の中Dに向き直った。


「とりあえず明かりを点けないとな」

「あ……ブレーカーがたぶん落ちたから、それを操作しないと」

「ブレーカーはどこだ?」

「階段の下」

「じゃあそこに行こう。ほら、立てるか?」


 足が震えていたため、肩を貸した。そのままゆっくりと廊下へと出る。Dの体の震えが、こちらにも伝わってくる。


 階段の下に行ってブレーカーを上げる。すぐさま廊下には、眩しい電球の光が落とされた。廊下だけではなく、居間や、今出てきたキッチン、風呂場の方の照明も点いていた。


「全部の照明を点けていたのか?」

「暗闇が怖くて」


 情けないとは言うまい。この病気的な神経質な行動は、彼が感じている恐怖をそのまま表している。


「二階に行こう。そこでひとまず話をするんだ」


 二階に行くと、そこも一様に電気が点けられていた。Dの部屋に入ると、彼をベッドの上に座らせて一息ついた。そこから話を始めた。


「どうして台所であんな風になっていたんだ?」

「台所で、日比谷に教えてもらった盛り塩と酒の配置を試そうと思ったんだ。そしたらブレーカーが落ちて、そのまま真っ暗に。そしたらあいつらが、目の前に現れた」


 口を挟むことはせず、黙って話を聞く。


「昼は大丈夫なんだ。夜になると、やつらは現れる。ぼんやりとした状態でな。だけど今日は、やけにはっきりと見えるんだ。昼にも関わらず幽霊がぼんやりと見えていたから、今日は元々おかしかったんだ。ぼんやりとした状態ならもう驚くことはなかったけど、それがさっき、電気が消えたから怖くなって……足も震えて動けなくなって、呼び鈴や掛け声にも反応できずに蹲ってた。しばらくしたら、窓の外の光から実体がいきなり現れて、悲鳴あげて」


 今日の様子が特におかしかったのは、そのせいだったのか。いつもは夜にしか姿を現さないものが、昼にもぼんやりとした状態で現れた。そして今夜、ついさっき俺が二階にいた時に、はっきりとした姿を見て悲鳴をあげて布の中で震えていた。


 もちろんそんな状況が本当にあったことは信じられない。だが、否定はそれ以上にできなかった。


「そういえばブレーカーはどうして落ちたんだ? そのときにはまだ雷は鳴っていなかったはずだ」

「……」


 まさか幽霊が落としたと言うと思い、少し身構えてしまった。まああれだけ電気を点けていたら、何かのスイッチを入れた途端に落ちたことも不思議ではない。


「今更こんなことを聞くのは野暮かもしれないけど、お前には何が見えるんだ? 前に言っていたあいつらのことか?」


 Dはその返答に口を出すことはなく、なぜか手を出して何かを指差している。その方向を見ると、Dの机がある。


 俺はそこに近づく。机の上にはなぜかくしゃくしゃになった紙と消しゴムがある。脇には消しカスが集まっていた。それがまず目に入った。


 そこから視線を外すと、ある本を見つける。その題名を見てはっとした。


 図書館で唯一抜けていた、郷土資料の四冊目だった。そうか。あれはDが借りていたのか。


「これか?」


 こくりとDは頷く。付箋紙が貼られたページがあったため、それを開く。


 そこには、あの事件のことが書いてあった。大半はあの記事に類似したものである。ある男の手によって、中の人間はナイフで刺され死に、その犯人も餓死をした事実は同じだ。しかしその中身はまるで違う。中の人間を殺した動機と遺体の状況に、俺は目を疑った。


 殺された遺体には共通点があった。死因は刃物に刺されたことによる失血死であるにも関わらず、致命傷となった傷口からは一滴も血が流れていなかったという。そうなったのは、犯人の異常な行動が理由だった。


 犯人は、殺した相手の血を傷口から飲んでいたのだ。


 おそらくはじめは、食糧を奪うために全員を殺したのだ。しかしその食糧も尽き、果てには喉の渇きもあった。そこで目を付けたのが、自分が殺した相手から流れる血である。


 それに気づいたときには、もう血は乾ききっていたのではないかと推測できる。それでも犯人は傷口から血を吸い、体をつたった乾いた血も丹念に舐めた。遺体の状態は、一滴の血も付いていない綺麗な状態だったという。


 戦慄が走った。あまりにも衝撃的な事実を前に、俺は身震いをした。


「なあ、もしかしてお前が言ったあいつらって……」


 震える口でDは言う。


「おそらくは、その殺された人たちだ。みんな痩せこけたようで、それでいて首に傷があるのに、血が一滴も流れていないやつもいる」


 ふと視線を下にやると、照明の中ではっきりと見える盛られた塩が目に入った。頂上が黒く、変色したものを。今更ながら、台所にあった新しい盛り塩を持っていかないことを後悔した。


「消しゴムのカスは、どうして口に含んでいたんだ?」

「あれは……衝動を抑えるためさ」

「何の?」

「血を吸う衝動だ」


 言葉を失い、俺は金縛りにでもあったかのようにDをじっと凝視していた。


「おそろしいことに、血を吸いたいと思うようになってしまうんだ。ここまで言えば、もうわかるな」


 そして再度Dが口を開き、言った。


「俺には、その犯人が――」


 言いかけたその時、何の前兆もなく急に辺りが真っ暗になった。


 視界が急に奪われる。目を開けているにも関わらず、周りは黒一色だ。奈落の底へ突き落とされたような感覚に陥り、血の気が引いた。


「ひい!」


 悲痛な叫びが、雨に混じり部屋に響く。


「落ち着け! まずはライトだ。懐中電灯がないなら携帯でいい」


 震える手で携帯を取る。


「わ、わかった。確かベッドの下に懐中電灯があったはずだ」


 窓側からごそごそと音が聞こえ、やがてそれが止む。


「じゃあ、点けるぞ」


 カチッとスイッチを入れる。一筋の光と、丸い到達点が壁に浮き出る。その直後だった。


「うわあああ!」


 Dは叫び声を上げ、急に懐中電灯を床に叩きつけた。光は消え、床に落ちる鈍い音が聞こえた。


「もうやめてくれ! 来ないでくれ!」


 その叫びを残し、Dは部屋を出て行った。


 Dの後を追いかけようとしたが、周りの違和感に気づき足を止めた。はじめはいきなり電気が消えたため、目が慣れていないのかと思った。しかし、ある程度目が慣れた頃合いでも窓からの光が見えなかった。消えたのは家の明かりだけではない。窓の外にある街灯の光が無くなっていた。


 停電だ。


 そのことを認識するとともに、体が震えた。つい先ほどのDの言葉が耳から離れない。


 もうやめてくれ。来ないでくれ。


 この部屋に……いるのか? 痩せこけて、傷口があるのに一滴も血が流れていない霊が、先ほど照らした場所に。


 携帯のライトを点ける……いや、そんなものは見えない。見えないが、いつ暗闇からその姿をヌッと現すのかと考えると、全身の毛が逆立つようだ。


 Dを追いかけるため、闘志を奮い立たせ、部屋を急いで出た。


 さらなる黒に塗りつぶされた視界、そしてそれを裂くように走る稲妻。俺は黒の画用紙を切り取るように、ライトを正面に向ける。この中に、その幽霊とやらはいるのか。


 俺には見えない。あいつが恐れる、この世ならざるものを。


 しかしそれでも、俺は恐怖の片鱗を感じる。あいつが慄く度に、様子がおかしくなるのを見る度に、その影が徐々に形作られる。想像という寛大で粗野な補完機能を使いながら、俺の中で見えない恐怖はよりいっそう強まっていく。


 先ほどの叫びが、まだ耳に残っている。しかし、雨や雷鳴のせいでもあるが、耳に残る残響が嘘のように廊下は静まりかえっていた。


「おい、大丈夫か」


 震えた声を、あてもなく放り投げる。それは誰にも拾われず無情に響き、雨にかき消された。


 ライトの光を頼りに雨音の強い廊下を歩く。その白い焦点は定まらずに左右に動く。


「いないのか」


 そう言った直後、光の隅に動くものがあった。そこにライトをやる前に、影はいきなり肩を掴み、俺を窓際に押しやった。携帯を落としてしまい、頭が窓ガラスに当たって不快な衝突音が耳を劈いた。


「お、おい。何すんだ! やめろ」


 顔は見えない。この家にはDと俺しかいないからあいつのはずだ。しかし、闇の中には痩せこけた顔が、幻となって目の前の影と重なってしまう。


 稲光の一瞬の閃光が、周りの景色と目の前の顔を映した。


 Dだ。Dの顔が目の前にある。が、その表情は戦慄だった。目はギョロリと向けられ、歯をくいしばって震えていた。


 あまりの形相に、俺は声が出なかった。しばらくして、俺はやっと声を掛ける。


「何があった。何が見えた」


「い、いるんだ。この家に、あいつらが。あいつら、御札や盛り塩をしてあった部屋の中にまで入ってきやがった」


 やはり、いるのか。目に見えない敵が、この家にはいる。


 今は幽霊を否定なんてできない。こんなにも怯え、憔悴しきっているDが、異形の者がいるという証拠なのだ。


 幽霊。そんなやつにどう立ち向かったらいいのだろう。もしこのまま手を拱いていたら、前の被害者のように手首を……。


 いや、対抗できる手段はある。塩と清酒だ。Dの部屋に元々あった塩はどういうわけか黒ずんでいたが、おそらく幽霊が入ったのはそのせいだろうか。


 今度は新しい塩と清酒を並べれば、いけるのか? 子供のときに見たうさんくさい霊媒師が言っていたような言葉だ。だが、今のこの切迫した場面では、それが心の支えになった。


「台所に行こう」

「えっ?」

「台所に行って、塩と清酒を並べるんだ。そうすればあそこに幽霊はやってこないはずだ」

「……」


 Dは俺の肩を押さえていた手を離し、くるりと反転する。


「わかった。そこに向かえばいいんだな?」

「あ、ああ」


 俺がそう言うと、俯いて一言こう言った。


「じゃあ、行こうか」


 その声は、先ほどまでの震えていた声ではなく、落ち着き払ったものだった。その声の変わり様に、一種の不気味さを感じた。


 違和感はそれだけではない。


 照らされたDの頭は、なぜか右に傾いていた。歩き方も、妙にぎこちない。


 明らかに何かがおかしい。


 そう認識した直後、Dはその姿勢のまま廊下を走り、階段をダダダッと、落ちるように駆け下りていった。


「おい! 待てって」


 嫌な予感がした。その感覚は、今までにも味わったことがあるものだった。


 右肘をついているのを見たとき。目をギラギラさせて都市伝説を話していたとき。そしてそれが、親しい先輩の自殺の原因ではないかと、Dが考えていたことを知った時。


 それらの感覚に、今が該当している。いや、それらよりもさらにはっきりとわかる不吉なものだった。俺はそれを胸に、Dが走っていったほうへとすぐに向かった。


 階段を下りると、戸が勢いよく閉じられガラスが揺れるような音が聞こえた。


 ガラスが嵌めこまれている戸というのは、玄関と脱衣所、あとは風呂場しかない。


 風呂場……まさか!


 俺は急いで廊下の奥へと向かう。廊下の角を右に行き、居間の障子戸と台所の戸を横目に真っ直ぐ行く。


 脱衣所のガラス戸を開けると、先ほどと同じように真正面に洗面台が見える。


 その下の棚に、Dは頭を突っ込んでいた。


 洗面台の下にある戸棚で、何かを探している。石鹸や洗剤の容器が脇に散らばっている。そんな異様な光景を、携帯のライトが映す。


「おい、何をやっているんだ?」


 こちらの声など聞こえないように、その動作を止めない。


「おい!」


 俺はDの肩を掴む、と同時に相手は一気に身を翻した。


「うおおおおお!」


 低い、獣のような声が低く唸った。肩を掴んだ腕を払いのけられ、同時に鋭い痛みを感じた。俺は携帯を落とし、その痛みを覆うように腕を押さえた。


 少量だが、液体の感覚があった。傷は浅いが、痺れるような、刺すような痛みが止めどなく襲う。


 俺はDの方を見た。ライト無しでは何も見えない暗闇の中、一つの雷鳴が聞こえた。それと同時に稲妻が、左にある風呂場の戸越しに、ここの風景を白い模様で切り取った。一瞬だったが、その閃光は、俺の脳裡に写真のごとく焼き付いた。


 Dはカミソリを持っていた。そして、蹲ったこちらを虫でも見るかのような目で見下していた。


「お前……どうしたんだ」


 こちらの問いにDが答えることはなかった。代わりに、歩く足音が聞こえてくる。周りは完全な闇だが、本当にかすかな人のシルエットは見える。それが、風呂場の方へ向かっているのが目に見えた。


「やめろ!」


 立ち上がり近づこうとすると、またあの唸る声をあげた。それと同時に目の前で、風を切るような音がした。それが二度三度続き、Dは目の見えない暗闇の中でむちゃくちゃにカミソリを振り下ろしているのだとわかった。


 これでは安易に近づけない。


「おい、やめろ! 正気に戻れ!」


 刃の音と声は止まらない。


「頼むからやめてくれ!」


 会話はない。言葉はどこかに着地して、目の前の人間に拾われることはない。返ってくるのは、低く唸る獣の声だけである。


 どうすれば……どうすればいい。いや、所詮はカミソリだ。死にはしない。


 思案をしていると、Dの動きは止まり、ゆっくりと反転し、歩く音が聞こえた。やはり風呂場へと向かっているようだ。いや、待てよ。このまま待てば……あるいは。そう思案している内に、その好機は訪れた。一瞬の閃光が、辺りを包んだ。


 稲妻が光る。それと同時に脱兎のごとく、閃光に怯んで立ち止まったDへと走った。


「うおおおお!」


 Dを羽織締めにし、床に倒す。高い金属音が、遠くへ逃げるように二、三度響いた。


「はなせ!」


 野太い声が抵抗する。身長は同じくらいだが、元野球部の体躯というものは抑えるのに苦労した。しかし、俺は必死に脱しようとするのを防いだ。


 Dは身をよじり、逃れようとする。俺はそれを懸命に抑えこみ、一分の隙も相手に与えないよう努めた。だんだんと腕に力が入らなくなる。汗が噴き出る。しかしそれでも、絶対に力は弱めなかった。


 やがて力が弱まり、ついには完全に抵抗を止めた。Dが戻ってきたと、俺はとっさに思った。


「ごめん、ごめんよ日比谷」

「お前……なのか?」


 おかしな質問だ。しかし、今となっては最も優先的に確認すべきものだった。


「ときどき、自分が自分じゃなくなるときがあるんだ。おそらく取り憑かれているんだと思う。だけど、ここまではっきりと取り憑かれたのは初めてだ」


 あの記事が言っていた憑依、というものだろうか。今はそんなことを考えている場合ではない。早く台所へ連れて行かなければならない。だが、それまで正気を保っていられるかどうか。そう思案しているうちに、Dが言った。


「洗面台の下の棚、重曹の容器の後ろに塩の袋がある。それをやれば、一時的にでもなんとかなるかもしれない」


 塩、か。おそらくは風呂に入れる用のものだろう。


「わかった。ちょっと待って」


 床に手を置きながら、目処をつけた場所へと進もうとする。すると、後ろからDの呻き声が聞こえた。先ほど聞いた低い声だ。


 まずい!


 俺は暗闇の中、洗面台を目指す。その直後、恐ろしい力で足首を掴まれた。握力は増し、ぎりりと骨が軋む音がした。


 掴まれた足を見ても、暗闇ではっきりとは見えない。だが低い呻き声が聞こえ、相手がじっとこちらを見据えているのがわかる。


 前に手を伸ばす。だが、暗闇の中で空を掴み、あとどれほどで棚に届くのかわからない。それでも懸命に腕を伸ばす。しかし、それと比例するように足首の力も強まる。


「やめろ! 正気に戻れ」


 声を掛けても反応はない。ついには後ろへと引っ張られ、馬乗りにされた。完全に腹から下に力を入れられなくなり、上半身しか動かすことができなかった。


 そしてDは、なぜか顔を手で触ってきた。それを認識した直後、それは少しの握力を加えて俺の顔を掴んだ。その次には、顎を掴まれる。まるで品定めするような、場所を探しているような手つきだった。


 そして、首に手が来た。その直後、その手が重なって体重がのしかかる。


「ぐっ……」


 息が……できない。俺は必死に抵抗する。手をどけようとする。Dの頭を掴み上へと押しやる。しかし効果は全くない。抵抗すればするほど、手の体重は重くなる。


 まずい……このままじゃ。


 腕の付け根に手を置き、必死に上へと押しやると少しは体重が軽くなった。しかし時間の問題だ。息がしにくいのは相変わらずで、塩がどこにあるかもわからない。今まで信じなかったものが、今は地獄に垂れ下がる蜘蛛の糸のように望みのあるものへと変化していった。


 意識が遠のく。どれほど胸に力を入れて懸命に腕を突っぱねても、一向に首を絞める力が弱まることはなかった。そしてだんだんと右腕のほうから痺れてきて、押し返す力がなくなっていった。それと比例するように、首に指がめり込んだ。


 もう……だめか。


 絶望に浸りそうになった次の瞬間、耳が張り裂けそうな雷鳴が轟き、それと同時に稲光が走った。一瞬だけDの顔が見えたが、その顔は歪んでいた。俺はその瞬間を、見逃さなかった。


 チャンスだ!


 俺は腕に渾身の力を込めてDを引き剥がす。馬から起き上がり、そして相手を前方へと突き飛ばした。バランスを崩したのか、どすんと尻もちをついたような音が聞こえた。


 喉に痛みが走る咳をしながら、俺はとっさに反転し、這いずって手を伸ばした。指に戸の感覚があった。元々開かれたそれに手を掛けてさらに入り口を広げる。暗闇の中手探りで探すと、手前に四角の容器らしきものがあった。それに目処をつけて後ろを探す。するとすぐに袋と、そのすぼまった先に輪ゴムの感触があった。


 これだ。とっさに袋を取る。後ろからは呻き声が聞こえる。口を開き、中の物を一掴みすると、それを後方に振り返ると同時に振りまいた。


「うおおお……」


 低い声は、消え入るように小さくなっていく。そしてその声は、もう二度と聞こえなくなった。


 目の前の漆黒は、再び静寂と雨の音を取り戻した。その中にDと俺の荒い息が混じる。


 終わったの……だろうか。


「おい、大丈夫か?」


 返事はない。だが、目の前から漂う雰囲気に直感で大丈夫だと感じだ。無論、根拠など何もない。俺が勝手にそう思い込んだだけだ。


 Dに近づく。息が漏れる音を聞き、頭の位置を判断して手探りで肩を掴んだ。揺すってみるが、反応はない。


 そうだ。携帯はどこに行ったのだろう。確か、洗面台の前で、カミソリで切りつけられた時に落としたんだ。その情報を頼りに四つん這いで辺りを探すと、硬いものに手が当たる。それを掴んで、輪郭をなぞると、ボタンが側面にあった。それをつけて画面を照らす。


 その眩しさに目をやられると同時に力が抜け、安堵の息を思いっきり吐いた。崩れるように、床に突っ伏した。


 携帯の画面で、ここまで救われるとは思わなかった。


 安堵してからすぐに、刺すような痛みが蘇った。腕を見る。少しの血が一直線を引いたように付いていた。


 大丈夫だ。傷は浅い。


 ライトを点けてDを見る。白いシャツには、おそらく俺のものであろう血が少し付着していた。顔を見ると、悪夢にうなされているような顔だったが、特に怪我があるというわけではなかった。


 塩がどれほど効果があるのかはさっぱり見当がつかない。すぐに台所に行こう。まずは入り口を開けて、隣の台所の戸も開けて、そこに携帯のライトをつけっぱなしにして床に置いた。


 起きそうもないから仕方がない。脇から手を通し上半身を持ち上げ、Dを引きずって運ぶ。さすがに高校二年の人間は重く、腕も少し裂けていたため運ぶのには苦労した。

 ライトが照らす台所の入り口を通り、そこでDを下ろす。ライトを取って、もう二度と、何者も入れないよう願いながら戸をバタンと閉めた。


 テーブルの上には四つ折りの紙が六つ、そして少し中身がこぼれた塩の入った袋。まずは塩を取り、三つの紙に分ける。それを今入った戸、その反対側の廊下への戸、そして居間に続く戸の前にそれぞれ並べた。


 そして問題の清酒は、探すまでもなくシンクの上にあった。脇には開封したばかりの紙コップもある。俺は携帯を脇に置いて目の前を照らし、清酒の一升瓶の蓋を開けて紙コップに注ぐ。


 その直後、台所の上の蛍光灯がチカチカと明滅し、やがて部屋全体に光を落とした。慌てて振り返り、目を細める。ようやく停電が直ったのだ。


 終わったんだ。


 根拠などないが、なぜかそう思えた。この光が終戦の合図とでも言うように、俺はシンクにもたれかかり、溜め息を一つ、吐いた。


 しばらくしてから、清酒をそれぞれの塩の横に並べ終える。


「おい、起きろ」


 閉じた瞼が揺れ、ゆっくりと目を開ける。手で影をつくり、こちらを見た。


「日比谷。俺、とんでもないことを……」


 どうやら記憶はあるようだ。しかし、今はそんなことはどうでもいい。


 何もかもが終わった。非現実的な、残酷な時間はもう終わったんだ。Dも先ほどまで感じていた気配はもうないと言う。


 戻ってきたんだ、現実に。退屈と揶揄した世界に。

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