水曜日

 次の日、Dは学校を休んだ。


 普段なら風邪でもひいたのだろうと思えるのだが、昨日のことを思い返してみればとてもそうは思えない。


 様子でも見に行こうか? いや、明日も休んだら行こう。今日は少し調べたいことがある。


 やつらがいる。


 頭の中でその言葉が何度も再生される。


 幽霊の存在は信じていないが、テレビや映画でホラーを見るときは純粋に怖がったりもする。心のどこかではまだいるかもしれないという淡い期待を残しているのだ。架空の世界だからと割り切ることで、純粋に恐怖の追体験ができる。そのためそういった期待を、弁当の蓋の裏についたご飯粒ほど心に残しているのだ。


 それ故に、誰もいないはずの薄暗い路地を見て驚愕の顔を浮かべたDを思うと、背筋に寒いものが走る。


 あのときDが見たものは何か。もしや本当に古賀の言っていた防空壕の被害者が、あの都市伝説を形作っているのかと思えた。


 その防空壕のことが気になった。幽霊の存在の有無は置いておき、果たして本当にそんな事件はあったのだろうかと調べてみたくなった。さっそく放課後に図書室へ行き、目的の本を探してみる。この町の歴史について書かれた資料があるはずだ。

 古賀が言うには、この辺りは空爆の被害があり、例の都市伝説の場所は防空壕で死んだ人間が大勢いたという。空爆による直接的な被害ではなく、瓦礫に閉じ込められて餓死したようだ。


 図書室に入ると、明日の予習や課題を済まそうとする人や、単純に本を借りようとする人が数人いた。この町の歴史に関する本がある場所へ移動する。


 入り口から最も遠い、奥の角に行き着く。窓際からも遠く、行き交う人間は、夕日も届かない人工灯の白色でのみ照らされるここを通らなかった。周りは郷土資料のジャンルだ。調べ物でもない限り、ここには誰も来ないだろう。


 俺は屈み、一冊の本を抜き取る。この町の歴史について記された資料だ。来た道を戻り、机に向かって本を開く。少し視線を感じるが、気にしないでおこう。


 重厚な中身を開きページを捲る。第二次世界大戦の話なので、ページを後ろに捲らなくてはならない。左手に重さを感じる頃に、ようやくそのページが見つかった。


 結論から言えば、この辺りに空爆の被害があったのは本当だったようだ。規模は代表的な被災地と比べれば小さいものだが、死者の数は三桁にも及んだらしい。その中の一文には、防空壕で生き埋めにされて死亡した人間にも触れているものがあった。ただ、餓死や閉じ込められたといった記述は見受けられなかった。しかし、あの祠の石がある場所が、防空壕の跡地だとしても納得はできる。


 やつらがいる。


 やつら、という単語が引っ掛かる。もし仮に、あくまで仮に、Dが幽霊が見えるようになったとしよう。そうなのだとしたら、Dはこの防空壕で死んだ人間が見えていたということなのだろうか。


 そんな不安が頭によぎり、俺は懸命に首を振る。何を考えているんだ。仮定の話じゃないか。


 資料を戻し、図書室を出て階段を下りた。自分とは縁遠い部活の掛け声を聞きながら帰路に就く。途中、あまり夕日の当たらない道は選ばないように気をつけた。


 陰影が特にくっきりと分かれるこの時間帯は、今の自分にとっては恐ろしいものへと変貌していた。その暗闇に何が潜んでいるのか。Dが見たものがいるのではないか。そんな考えが、いつの間にか無意識下の中で沸き上がっていた。幽霊を信じていないくせにどこか臆病になり、塀が作る影を避けながら自宅へと帰った。


 その影が藍に染まり、やがて街全体は黒に沈む。点状の光が家々に灯り、若干の抵抗を夜に向けている。俺はその中の一つ、二階の部屋の窓から外を見ていた。


 先ほどLINEで、Dに「大丈夫か?」とメッセージを送った。今はその返事を待っている。


 通知が来た。携帯のバイブが二回、静かな部屋に響いた。俺は急いで画面を開く。


(ちょっと風邪をひいただけだ。もう大丈夫。明日は学校に行くよ)


 その言葉を見て安心した。やはり考えすぎだったようだ。そのまま画面を開いていると、ふいに新たなメッセージが飛び込んできた。


(なあ、明日話したいことがあるんだ)

(話したいって何を?)


 疑問をそのまま返事にした。


(詳しいことは明日で話す)

(人にはあまり言えないことだ)

(だけどお前には話しておきたい)


 そんな通知が連続で三件ほど来た。やけに押し付けがましく見えてしまうのは、このアプリの仕様のせいだろうか。


 俺はそれにわかったとだけ返すと、じゃあまた明日とすぐに返事が来る。そこでやり取りは終わる。


 とりあえず元気そうでよかった。休む前から少し様子がおかしかったが、明日は話をしてみよう。


 明日の話についていろいろ思案していると、また携帯が震えた。どうやら電話のようだ。画面を見ると古賀の文字が目に入る。俺はそれを取った。


「どうした?」

「いや、新情報があってね。あの都市伝説のことについてだ」


 俺はベッドの上に座り直した。


「あの噂の発端がわかったんだ」

「発端?」

「ああ。N高校にいる生徒らしい。名前はわからないけど、どうやら三年生で野球部の人だってさ。で、その人がこの高校の知り合いにその噂を広めたらしい」


 N高校とは、この町の東側に位置する高校である。進学校である自分の高校とは違い、あちらは工業系だ。スポーツが盛んで、全国大会に行く部活も多い。


「しかしこんな噂を信じるとは思えないなあ。信憑性がないし」

「その噂が爆発的に広がったのには理由がある。覚えているか? この町で二週間前に自殺した人がいたって話。その人こそが、噂を広めた張本人なんだ」


 一瞬思考が止まり、その後源泉でも吹き出すかのようにある事柄を思い出す。


 そうだ。思い出した。あまり事件のないこの町で起こった事件だ。二週間前に学生が自殺したというもの。


「その自殺によって、うちの高校にも噂は瞬く間に広がったんだよ。さすがに自殺と呪いは偶然だとは思うけど」


 古賀は噂に興味のあるような素振りをしていたが、内心は信じていないようだ。ただ話のネタが一つ増えれば、としか考えていないのだろう。


「でさ、その自殺なんだけど……これが変なものでさ」


 古賀が言葉に詰まっているのが、電話越しでもわかる。何かをためらっているようだった。


「自殺の場所は風呂場で、手段はリストカットだったんだ。傷もそれ以外に見当たらず、自殺として処理された。だけどその遺体の口の中に」


 古賀は何かをためらうように、少し間を空けて言った。


「血が大量にあったんだ。その遺体の血がな」


 その異様な答えに、俺は一瞬呆然となった。


 口や舌でも噛み切ったのか、と最初は思ったがすぐに否定する。手首以外に傷はないと古賀が先に言ったばかりだからだ。


 ということはつまり。


「手首から流れた血が、口の中にあったということか?」


「ああ、そういうことになるな。自分の手首から出る血を舐めた、としか考えられないんだ」


 いまいちい状況が掴めない。止血するために舐めた、というわけではあるまい。じゃあ血しぶきが口に偶然入った? いや、古賀は口の中に大量の血があると言っていた。偶然でそこまで入ることはないだろう。


「……よくわからないな」

「だろ? まあこの事実が広まったら、さらに不気味さが増してまた噂は広まるだろうな」

「その情報ってどこから聞いたんだ?」

「切っ掛けはネットだな。そこからちょっと事件のことを記事なんかで調べたらそんな事実があると知った」


 ネットか。俺もその被害者の事件を調べてみたい。普通に携帯から調べてもいいが、この町の歴史の調査もまだ不十分のため、明日の放課後は図書館に行ってみようか。


「あいつは大丈夫かな。まさか呪いで体が蝕まれてないといいが」


 Dのことだ。


「大丈夫だ。そんなことはない。さっきLINEをやっていて明日に来るって言っていたから」

「ん?」


 古賀はそこで言葉を切った。何かに引っ掛かったようだが、どうしてそこで疑問符が出てくるのか謎だった。


「どうした」

「い、いや。俺もついさっき連絡したんだけどさ、今は何も話したくないって一言だけで終わったんだ」

「えっ? それっていつだ」

「だからついさっきだよ」


 そこで詳しい時間を教えてもらうと、先ほどDから通知が来た時間と同じだった。


「お前には普通に連絡が来たのか?」

「ああ。明日には学校に来られるから大丈夫だって」

「……」

「……」


 明らかにおかしい。全く同じ時間に来た二つのメッセージへの返信が、文面も、内包する意味合いも全く違っていたのだ。まるでそれぞれ、別人が文字を打っているかのような対応だ。


「まあ明日になればわかることだ。うん」

「そ、そうだな。それじゃあ」


 拭い切れない余韻を残し、俺は電話を切る。


 窓の先に広がる闇を見つめる。街灯や家の明かりがあるが、ほとんどの建物の外装は見えない。月明かりさえもない。そういえば台風が近づいているのだと、いまさらながら気づいた。

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