火曜日

「今週末、両親が旅行に行くんだ」


 Dは昼休みの喧騒の中、そう言った。どこか落胆したような、溜め息が漏れ出そうな声だった。


「へえ、どこに?」


「松島へ、一泊二日」


 他県だが近場ではある。しかし、何でもない七月初頭の土日に行くということは、そこしか都合がつかなかったということか。どうせなら海の日を挟む三連休などにしたいところだが。


「じゃあ両親はいないのか。親のいない家で過ごすのは快適だぞ」

「ああ……」


 そんな気概はどうやらDにはないらしい。今思えば、話の切り口からテンションが低かった。旅行に連れて行ってもらえずに僻んでいるというわけでもなさそうだ。話を聞くと、自分は面倒だから行かないと、自ら両親に言ったらしい。


「やけに元気がないな。どうした?」

「何でもない」


 Dは前を向いて話を切った。そしてそれ以降、今日はDとは話をせずに別れた。


 俺は所属している委員会の雑務があって放課後は残って仕事をした。それが終わると、部活には入っていないためすぐに帰る。運動部の掛け声や、楽器が奏でる音の中を縫って玄関を出た。


 小高い西の山に高校はあり、俺は住宅街に向かって夕日を背負いながら自転車で坂を下りていった。もう夕日は低い位置にあり、濃いオレンジ色が町を彩っている。ゆるい勾配の坂を、何の力も入れずに下り切り、街に入った最初の十字路を真っ直ぐに行く。


 坂を下りてからも、継続して夕日の暑さを背に感じながら、オレンジに照らされたアスファルトを東に向けて真っ直ぐ走っていった。しばらくすると次の十字路が見える。俺はそこで立ち止まり、右、つまりは南の方を見た。その先にはDの家がある。


 家々の高い塀により、夕方になると道は西側から影が伸び始める。それは反対側の塀まで届きそうなほどに広がり、道路にはまるで黒い布が敷かれているようだ。


 俺は最近のDの様子を思い浮かべていた。


 本当にどうしたのだろう。今日だって昼の会話ぐらいしか言葉を交わしてはいない。


 二人ともずっと親しく会話をしようというような積極的な性格ではない。しかし、これからの予定や今日の授業の課題など、何気ない会話すらないというのはおかしい。


 中学からの友人だ。席は前後の位置だ。あの会話以外に全く言葉を交わさなかったのは、違和感を覚えざるをえない。


 最近のDの様子にしろ、どこか元気がなくなったように感じる。まさか本当に霊に取り憑かれたとか――。


「日比谷か?」


 背中に水を浴びせられたようにビクッとなった。慌てて振り返ると、そこにはDがいた。


 夕日に照らされた表情には、少し狼狽したような表情がある。手には近くのスーパーの袋があり、中身はパンパンだった。「アクセス」と緑の筆記体のロゴが、中央から大きく膨らんでいる。そのスーパーの位置から察するに、俺が見ていた方とは反対の方から歩いて来たようだ。


「おう、奇遇だな」


 そう声を掛ける。


「……」

「どうした? 何かあったか」

「いや、あのさ。周りに誰か、いないよな?」


 その言葉に疑問を感じ、俺は周りを見た。


 太陽が眩しい高校へと真っ直ぐ続く道、そして影に覆われた二つの横道。それらが交わった十字路に俺たちはいるが、その見晴らしのいい場所には誰一人としていなかった。近くの家の生活音すら聞こえない、閑散とした道だった。


「いや、誰もいないぞ」

「そ、そうか」


 目が泳いでいる。明らかに何かに動揺しているような気がした。


「おい、どうかしたのか? 最近何か変だぞ。まさか本当に幽霊に取り憑かれたとかじゃないよな」


 その冗談に返事はなかった。


「おいおいまじかよ。否定してくれよ」


 俺は乾いた笑いをあげながら、Dの様子を見る。


「やつらがいる」


 唐突に、そんなことを言った。


「へっ?」

「じゃあ、俺はこれで」


 自分の家の方向へ立ち去ろうとするDを止めるため、慌てて自転車を路肩に停めて腕を掴んだ。


「おい。やつらってなんだよ」

「……」


 Dが振り返ったそのとき、彼は大きい目をさらに見開いた。


 その視線は俺の左肩を掠め、後ろの何かを凝視していた。誰もいなかったはずのこの道で、口をあんぐりと開けて何かを見ている。


 なんだ。何がいるんだ。


 心臓が鐘のように、一つ一つの鼓動の音をはっきりと立てて脈打つ。そんなものはいるはずはないのに、彼の視線の先に異形の者がいるように感じてしまう。


 俺はおそるおそる、信じてないくせに振り返る。夕日の光が通る道を挟み、Dが来た反対側の道に目をやる。


 ……いや、誰もいない。道は真っ直ぐに続いて、その黒に染まった場所はその静寂さを保っていた。身を隠せるような電柱にも目を凝らしてみたが、やはり人はいない。


「おいおい。誰もいないじゃないか」


 と、後ろを振り返ろうとすると走り去る足音が聞こえた。振り返るとDはもう何メートルも先を走っていた。


「お、おい! ちょっとまてよ」


 遮二無二駆け出すような走りだった。手にはアクセススーパーの袋を持ちながら、全速力で自分の家へと向かっていた。それに呆気に取られ、俺は追うことをしなかった。それよりも別の意識に支配されていた。


 やつらとは、一体誰なのか。あいつは何を見て、あんなに驚愕したのだろう。

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