第八章 〈探偵〉――または探偵と赤ずきん
ロビンから幾つかの話をかいつまんで聞いた後、ルードヴィッヒは道案内の狼を追った。
「アンダーソン、でしょう?」
ルードヴィッヒが問うと、少女はぽかんとした顔をした。
「えっ?」
「あなたのおじい様の名前です。アンダーソン・レッドリーフ」
返事が来なかったので、知らないのかと思って言葉をつづける。
「森で番人――森番をしていたという――ご存知ありませんか」
「そ、そうだけど、どうして知ってるの?」
どうやら少女は本当に驚いたようだった。
目を丸くしてルードヴィッヒを見上げている。
「探偵さんだから?」
「……まぁ、そういう事にしておきましょう」
実際は説明も後にしなければならないと思っただけだが、見下ろすと、少女が――ロビンがその赤に瞳に尊敬の色を宿したので、良しとしておいた。
ロビンの着ていたコートのボタンは、わざわざ一度切断されたあと、角の部分を銀につけかえられていた。丸みを帯びたそれは、おそらく。
――銀の弾丸。
外から見ただけではわからないように、そしてこの年の少女が身に着けていてもおかしくないものにわざわざ加工する理由は一つしかない。
人狼から守る。
町を暗躍する人狼。
そして人狼は自分を傷つけた者を必ず殺しに行く。
アンダーソン・レッドリーフは、人狼騒ぎの後に森に籠った。
彼だけがグラーシーの化け物の話を信じた理由。
彼の妻であるマチルダ・レッドリーフが、銀を加工したボタンを作った理由。
三十年ほど前までは、人狼とは狼憑きの一つ――即ち、森を拠点にしていると考えられていた。
ここまでくれば、なんとなく話は見えてきた。
あとはそこから導かれたものが真実かどうかを確かめればいいだけだった。
二人を導く狼は、まっすぐに森の中を突っ切っていった。
遠くでばたばたと鳥が羽ばたいていく。静寂は不安をかきたてるだけにすぎなかった。景色は次第に背後へと流れて、木々の間が狭まっていく。二人と一匹の行程から、次第に生物の気配は遠ざかっていった。今にも恐ろしい獣が飛び出してきそうな鬱蒼とした森の中で、ぱきりと枝を踏む音だけが妙に響いた。
二人はそれ以上何も喋らず、ただ前を走る狼を追った。
どれだけ離れていたのかはわからないが、実際の距離もわからなくなるほどの長い時間走っていたように思える。そうしていくらか走ったところで、急に狼が吼えた。速さを増して茂みの中に飛び込んでいく。
ルードヴィッヒは目を細め、ホルスターを探って手を突っ込んだ。
視界が開け、狼の姿が飛び込んでくる。
恐ろしい光景だった。
人狼は地面に向けて屈みこんでいた。その黒い影のような姿に向かい、狼はその小さな体――人狼に比べれば本当に小さく見えるその体で勇敢にも飛びついていた。
不意をつかれた人狼は蹈鞴を踏み、距離をとる。それでも喰いつかんとした狼を、左腕をふるった一撃だけで振り払った。
人狼が屈みこんでいたところへ目をやると、真っ先にロビンが反応した。
「おばあちゃん!」
ロビンが真っ青になりながら、地面に伏せている祖母に飛びついた。
祖母を呼びながらゆさゆさと揺らすと、祖母は僅かに目を開けた。
「ああ、もう……なんで来たんだい」
「だって、おばあちゃんが心配で。け、怪我は?」
まだ見た目にわかるような致命的な傷は負っていないようだったが、祖母が体力を消耗している事だけはわかった。でも、ロビンの目をもってしても、何をされたのかはわからない。
「でも、一人じゃあないんだね」
祖母の目が、ロビンから違う人物へと向けられる。
狼を引き剥がした人狼に、ロビンと祖母を庇う位置へとルードヴィッヒが歩み寄ってくる。
「あなたがたは向こうへ」
小さく言う声に、ロビンは祖母を引きずるようにしながら横へ退いていった。
人狼の目が、狼からルードヴィッヒへむけられた。
「良い夜ですね」
ルードヴィッヒはにこりとも笑わずに、銃を構えたまま人狼に近づいた。
「ルーシーさん」
人狼の金色の瞳が見開かれた。
ざあっと風が吹いて、沈黙が落ちる。ロビンにとっては初めて聞く名前だったが、唐突に人の名前を出した事には驚いたようだ。
人狼は最初こそ目を見開いていたものの、やがて笑うように目を細めると、伸びた口の端をあげた。
ざわざわと黒い毛がざわめいたかと思うと、徐々に体の中に収納されるように消えていき、白くほっそりとした肌が露出する。
胸を抱くように両腕を回し、撫でるように開くと、既にそこからは黒い毛がすっかりと消えてしまって、代わりに柔らかなふくらみが現れた。
全体の大きさが一回りか二回りほど小さくなっていき、頭からは蜂蜜色の髪が伸びて、やがてふわりとした髪の毛になった。
やがて突き出た鼻と口が引っ込んでいき、顔の毛が全て消え去った頃には、そこには全裸の美しい女が一人立っていた。
しかし、ペーパーナイフの襲撃を受けた片目だけは、蜂蜜色の髪によって隠されている。
「え……う、あ……え?」
初めて見る人狼の”変身”に、ロビンは口をぱくぱくさせた。
「落ち着きなさい。ゴブリンだの水の精霊も見たんでしょう」
ルードヴィッヒはこの程度は普通だと言わんばかりに言ったが、ロビンは納得しなかった。
酒場でルーシーと名乗った女は――人狼は、艶めかしく肢体をくねらせた。
「どうしてわかったの?」
「では、答え合わせといきましょうか」
ルードヴィッヒは軽く笑んだ。
全裸の女を前にしているというのに、まったく変わらぬルードヴィッヒに、ルーシーは面白くなさそうな顔をする。
「あなたが左利きだったからです。死体の状況から、左の方が、力が強いのはわかっていました」
「でも、左利きの人間なんてかなりの数がいるじゃない?」
「人狼は、比較的近い位置の人間になりすますか、潜り込むかします。ピックマン氏は三人とも共通しているのは狩猟の趣味だけですし、早い段階で〈狼少年〉の関係者に的を絞っていました」
「たったそれだけで?」
「あなたは〈赤ら顔〉も殺しておくべきでしたね」
ルードヴィッヒはにこりとも笑わずに言った。
「あの人は三十五年前から知っていました。人狼は存在し、しかも女だと」
「……ああ!」
ルーシーは気が付いたように目を丸くさせた。
「なんてこと、見られていたのね?」
「あなたが〈赤ら顔〉の弟を襲った時に。人狼はオオカミオトコ、という先入観がありますからね。それはもう恐ろしかったでしょう」
へえ、とルーシーは言っただけだった。
この牛はあなたの食べたステーキに使われた牛の兄弟なのですよ、と言われたような反応だった。
「でも、誰も信じませんでした。ただ一人、アンダーソン・レッドリーフを除いて」
ロビンは目を瞬かせた。
「……おじいちゃん?」
「そうです」
ルードヴィッヒはロビンに頷いてから、ルーシーに向きなおる。
「三十五年前にあなたの心臓を撃ち抜いた人物ですよ」
「そんな事まで知ってたの?」
「いえ、それは想像でした。そもそもパーシィ・ピックマンが心臓を抉り取られたのは、人狼自身が過去にそうされたからだと思ったからです」
「……ふうん?」
「それに、再生時間に三十年もかかるには、それなりの場所がやられたという事でしょう。事実、手足をもがれて殺された者は、前回に人狼と対峙してから五年ほどかかっていました。人狼は、生命力は強いが、負傷した際の回復に時間が掛かるのではないかと――」
「あなたの言う通りよ」
ルーシーは金色の髪をかきあげながら言った。
「まさかこんなに回復に時間がかかるとは思わなかったわ」
「そしてあなたが戻ってきた時には、町は様変わりしていた」
「あんな小さな村だったのにね。ご苦労様な事だわ」
「そして、その時に持ち上げられていたのが――ピックマン一家だった」
狼狩りの英雄。
村に平和を取り戻し、町へと発展させた名士。
トマス・ピックマンと、その三人の子供たち――
「それが、あなたがパーシィ・ピックマンを殺した理由だ。人狼は自分を負傷させた者に必ず復讐しますが、超能力が使えるわけではない。そして、人狼狩りをおこなった人間にも特別に何かあるわけではない」
ロビンは目をぱちぱちさせながら、自分の手を見た。
「カーター・ピックマンに次はお前だと宣言したのも同じ理由ですね。その時点ではまだ、あなたはピックマンの一族が自分の復讐対象だと思っていた」
「そうね。喰えばよかったと思ってるわ」
ルーシーの言葉は、冗談なのか本気なのかわからなかった。
ロビンは体を強張らせたが、ルードヴィッヒは構わずに続ける。
「あなたは〈狼少年〉クラブのケヴィンさんに近づき、婚約者の立場を利用してクラブに出入りし、情報を入手していた。そしてピックマン家の誰かが一人になる時を狙っていた。そして実際にパーシィ・ピックマンは殺された……だが、そこに捜査の手が入る事になった……」
「あなた、結構自信家だって言われない? もしくは、キッチリしてるとか」
「人使いが荒いとは言われます」
「そう」
「僕が動き回った事で、ピックマン家への疑問が生じた」
「でも、一つ間違ってるから、そこは訂正させて」
「なんでしょう」
「あたしも途中から、ピックマン家の事はおかしいと思ってたのよ。あれだけ狼殺しとして持ち上げられてるのに、人狼殺しではないのだもの。いつあの武器が出てくるのか恐ろしくもあったわ」
「わかりました。僕も最初は、人狼と狼が混同されていた時代の影響かと思いました。あの家で大狼の剥製を見てから、僕は家の中を徹底的に調べました。もし本当に人狼なら――銀製品の武器があっていいはずだ。〈約束通り〉ということは、何かしらの宣言が行われている可能性がある。ならば、対抗する為の斧なり、剣なり……銃の弾なり。人狼に唯一対抗できる銀の武器が」
「あたしたちを殺せるのはそれしかないからね」
ルーシーは忌々し気に言った。
「でも、何もなかった。そうなると、もうあとはあなたよりも先に本来の人狼殺しを行った者を探し出すしかなかった。協力を求めるなり、保護をするなり、まぁ何かしらコンタクトをとらねばならなかった」
「そしてあたしはそれよりも早く、邪魔なあんたを殺したかった」
「あなたがクラブで蒼褪めたのも、標的は違う人物だと気付いたからではないですか。……しかし、ケヴィンさんをかばったのは何故です?」
ルーシーは笑い声をあげた。
「だって、ああしておけばあたしへの疑いは晴れるかと思ったもの」
「……そうですか」
ルードヴィッヒは納得して頷くと、言葉を続けた。
「結局のところ、本物の人狼狩りとなった狩人は、そのまま森に残ったというわけです。そうせざるをえなかったからでしょう――いずれ人狼が自分を殺しに来ると知っていたから。狼に憑かれた者が人狼になるという、当時の誤解通り」
風が吹き抜けた。
木々のざわめきは、これから起こる事に対しての静けさのようにも思えた。
「ところで、謎解きは終わったかしら」
「これで終わりです。全てこれが真実ですか?」
「ええ、嘘偽りなく真実よ」
「あなたの口から嘘偽りなく、といわれると絶妙な気分になりますね」
「褒め言葉ね、ありがとう」
ルーシーは笑い、髪を撫でた。
蜂蜜色の髪の毛が風に流れる。
「ここからはぐだぐだ言う時間は終わり。死んで」
紡がれた言葉は端的なものだった。
ルードヴィッヒが手元の引き金を引く前に、ルーシーは横に素早く跳躍した。
弾丸は木の幹に当たり、音を立てる。
もはやその愛らしく美しい顔に何も隠してはいなかった。獣そのままに血走った目、鋭い牙、伸びた爪……。それはルードヴィッヒから、ロビンたちに向けられていた。大きく迂回して飛び掛かり、人間よりも狼よりも素早い驚異的な力を見せつける。
「だめっ!」
ロビンが祖母を庇ったところへ、ルーシーが鋭い爪を伸ばした。ルードヴィッヒの舌打ちと、其方に銃口をむけるのは同時だった。
銀の唸り声がして、横から毛を逆立てた狼がルーシーの腹に噛みつく。
「このクソ犬がぁ!」
銀の狼を殴りつけ、その肉を喰われながらも引き剥がす。
「邪魔すんじゃないよ!」
凄まじい暴力がその肢体を引きちぎろうとする。
ルーシーのその腕から、徐々に黒い毛が生えていった。限界まで引き伸ばされた口の端が裂かれ、鼻先がぐうっと前方へ伸びる。全身がざわめき、次第に肌色を黒い剛毛が覆い隠していった。牙が伸び、爪が凶悪さを増していく。蜂蜜色の髪が全て幻のように溶けて消えると、変化した黒い耳が現れた。
ぶぢりと嫌な音がして、銀の狼の体に爪が食い込む。
それでもなお黒い獣へと喰らいつこうとする銀色の毛に赤が混じった。その狼の体を投げ捨てると、その金色の片目がルードヴィッヒを向いた。
引き金を引きかけたルードヴィッヒの手を、爪が引き裂く。
「つっ……!」
腕をもっていかれそうなほどの衝撃が、銃を弾き飛ばす。
びりびりと痺れ、引き裂かれ血の溢れる右手を抑えて獣をねめつける。隣では血にまみれた銀の狼が、それでもなお立ち上がろうと毛を逆立てていた。
銃の無いお前など――
言葉はなかったが、笑みは雄弁に語っていた。
ルードヴィッヒはじわじわと縮められていく距離には表情を崩さなかった。
だが、その背を冷たい汗が伝う。
永遠とも思える時間が一瞬で過ぎ、最初に動いたのは獣だった。
ルードヴィッヒへ飛び掛かり、黒い手が振り上げられる。
鋭い爪がルードヴィッヒの体を切り裂く――その前に、鋭い発砲音がした。
「おおおお――!」
じゅうじゅうと煙を立てた体に、獣が吼えた。
驚愕に見開かれた瞳の片方から、血が噴き出す。一体何が起こったのかを確かめようと、獣の瞳が撃ち手を見る。
ロビンが引き金を引いていた。
飛ばされた銃を拾い上げ、狙っていたのだった。予想外の威力と反動に驚いたのか、ぽかんとしている。
獣が苦しげに撃たれた場所を爪で引っ掻きながら呻いている間に、ルードヴィッヒはロビンへと走った。
滑るように彼女の肩を掴み、その指先ごと中に手を添える。
「――お見事」
それが自分に対して言われた言葉だと気付くまでに、ロビンには一瞬の空白があった。
「な、何故だ。その銃には――」
「鉛だったのは最初の一発だけですよ。残りは全て、聖別された銀です。速いと思いませんでした?」
「おのれ、よくも――よくも!」
ルードヴィッヒは答えの代わりに引き金を引いた。
ロビンは思わず目をつぶる。
銀の弾丸が煌めき、夜の森に軌跡を残した。
白い線はまっすぐに獣へと向かい――心臓を撃ち抜いた。
絶叫が、夜の森に響く。
心臓を撃ち抜かれたというのに、いまなお月夜に向けて吼える生命力は凄まじいものがあった。
ロビンは小さな悲鳴をあげ、鳥たちはその叫びに怯えて夜空に飛び立った。
埋まった銀の力が心臓を浸食し、穴がみるみるうちに広がっていく。黒い煙がたちのぼり、両手の爪で掻きむしろうと、その穴は溶けるように広がるばかりだった。
ああああああ――
どろどろとした溶岩めいて、剥がれた黒いものが地面へと落ちる。
がくがくと顎が呻くように上下したかと思うと、獣は膝から崩れ落ちた。
ロビンはルードヴィッヒにしがみつき、異様な光景を見守っていた。
頽れた獣は、黒い獣の姿から次第に木炭のように変わっていった。さらさらと灰のようになって巨大な塊になっていく。
風が灰をさらっていく。
ルードヴィッヒがロビンの頭に手を置くと、ようやくロビンは我にかえったようだった。
「お疲れ様でした」
微かに笑いかけるその顔を、茫然と見上げる赤い瞳。
その瞳は銀の髪に良く似合っていた。
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