第七章 〈赤ずきん〉――そして赤ずきんは狼と出会う

「ど、どこまでいくの?」

 ロビンは狼に尋ねてはみたものの、それ以上何も答えてくれなかった。

 狼が喋る事なんてないのはごく当たり前のことだ。けれどもその当たり前を、夜の森が打ち破ってくれはしないかと、心のどこかでは少し期待していたのだ。

 森の中は相変わらずだった。

 まだキラキラ光る小さな粒はたくさんあったし、一人と一匹が通過するのを興味深げに眺める視線もたくさんあった。

 影ウサギが二匹連なって、向こうの方からおっかなびっくり覗いている。けれどそれも視線を向けると、すぐに影になって消えてしまった。

 木の上から鳴いているフクロウは、木に完全に同一化してしまう。

 ひらひらと、蝶は燃えるような――本当に炎のような鱗粉をともなって飛んでいく。

 ――魔法の世界……。

 ロビンはどうしておばあちゃんがここに寄り道させるようにしたのかを考えていた。

 自分を守るためというのはどういうことなのか。

 確かに夜の森は危険だ。それは獣に襲われるという事もあるだろうが、暗くて周りが見えないぶん、思わぬ見落としがあって怪我をする事もある。

 けれども、どれほど考えてもわからなかった。

 多分ロビンが森の中に入ってしまってもいいように、ということなのか。

 ――全然、わかんない……。

 あのウンディーネも、重要なところは教えてくれなかった。

 でもそれは、ウンディーネ自身がそこには興味がなかったようにも思える。楽しそうだったから協力しただけで。

「あなたはどうして連れていってくれるの?」

 ロビンはもう一度狼に聞いた。

 やっぱり答えはなく、狼は森の中をどんどん進んでいった。

 ――やっぱり答えてくれないかあ。

 もしかすると、彼か彼女かは、本当に眼鏡を取り戻してくれただけなのかもしれなかった。だから、ロビンがこうしてついて行っているのは予想外というか、予定外というところなのだろう。

 でもロビンがこうして狼についていっているのも、ウンディーネに言われたからというそれだけでなく、あの町中での事もあった。少なくとも目の前を行く狼は悪いものではないと思っていた。

「ねえ、おばあちゃんと友達なんでしょう?」

 答えは無いのは知っていたが、ロビンは話しかけた。

「おばあちゃんもあなたみたいな友達がいるなら、もっと早く言ってくれても良かったと思うの」

 ざわざわと木々が鳴る。

「あなたはどう思っているかは知らないけど……」

 狼への問いかけとも会話とも言えない言葉だったが、ロビンはそれだけで少しほっとした。何か言わなければ落ち着かなかったのだ。

 狼が喋れたらよかったのに、とロビンはもう一度思った。

 不意に狼が歩みを止め、ロビンの歩みを止めるように後ろを振り向いた。

「どうしたの?」

 ロビンは尋ねたが、狼はもう目の前を見ていた。爪を剥き出しにして、何か忌むべきものがそこにいるように毛を逆立てる。

 狼がどうしたのかさっぱりわからず、ロビンは狼狽えた。

 ――なにかいる?

 狼が睨む方で、金色の光が一つ見えた。


 ――狼…?


 ロビンは最初に見た時、そう思った。

 それはあまりにも狼にそっくりだったからだ。

 けれども、それは――その獣は――二本足で立っていた。


 黒い鋼のような剛毛が全身を覆い、後ろ足の二本だけで突っ立っている様は、化け物のようだった。

 毛の奥でもわかるほどの筋肉は、鍛え上げたというより元からの力の強さを感じさせる。

 大きく突き出した鼻と口からは、凶悪ささえ感じる牙が覗いていて、唾液がだらりと落ちた。

 耳は大きく張り出し、顔からはぎょろりと光る金色の瞳。

 不思議なことに、その片目だけは潰れて血が噴き出している。

 その血は止まることなく流れ続けているようで、それがいっそう不気味さを増していた。


 ――に、逃げないと。


 本能的にそう思うほどの恐怖。

 目の前で銀の狼は、威嚇するように牙を剥きだしている。ロビンを守ってくれているようだった。

 それはゆっくりと頭をロビンへと向けた。ロビンの足が自然と後ろに下がる。


 獣は――笑っていた。


 まるで人間のように笑っていた。 

 それは正しく化け物と言ってよかった。魔法の世界の入口で見たどんなものよりも恐ろしかった。ゴブリンや、目をもった巨木よりもずっと。

 黒い獣は徐々に近づいてきた。狼が牙を剥きだし、果敢にも飛び込む。ロビンはぼうっとそれを見ていたが、やがて後ろへ逃げ出した。

 ぎゃん、と後ろから悲痛な声が聞こえる。

 ロビンは森を駆けながら、狼が無事であるよう祈った。


 ――神様、神様、どうか狼さんをあの化け物からお救いください……!

 ――どうかあの狼さんを守って……!


 瞳に涙を溜め、ロビンはどことも知れない道を走った。

「きゃっ…」

 飛びだした細い枝にフードが引っかかり、ロビンは悲鳴をあげた。

 ――こんな時に!

 慌てて枝を引き抜くなり何なりしようとしたが、焦れば焦るほど枝は外れない。

 焦ってはダメだと思うほど、枝は何度もロビンの顔にかかり、髪に絡まる。

 ――早く、はやく!

 ようやく枝を振り払えたと思ったそのとき、不意に闇が落ちた。

 ぱっと振り返り、最初に見えたのは振り上げられた爪だった。

 ――あ。

 死をも覚悟し、ぎゅっと目をつぶる。

 とても長い時間に思えた。

 引き裂かれた感覚と一緒に、鋭い痛みがくると思ったが、いつまで経っても痛みはなかった。

 ――?

 目を開けると、コートだけを小さく引き裂いたところで、爪がとまっていた。何か戸惑ったような、驚いたような、そんな気配がしたのだ。

 黒い獣は睨むようにしてロビンを見下ろしている。牙が剥き出し、今までよりももっと恐ろしい顔になっていく。コートを引き裂いていった爪を見ると、しゅうしゅうと小さな音がしていた。

 ――今のうち!

 ぐっと細い枝の根元に力をこめ、そのまま折る。木には可哀想な事をしたが、この際仕方がない。ロビンはその枝を黒い獣の顔面に投げつけると、その横をすり抜けた。

「狼さん……!」

 向こうから唸り声が聞こえてくる。恐ろしい事には違いないのに、黒い獣よりもずっと安心できる声だ。

 後ろからは、小さな不意打ちから立ち直った黒い獣が近付いてくる気配がする。

 ――早い……!

 また泣きかけた時、鋭い発砲音が聞こえた。振り返ると、黒い獣の視線が横へ逸れている。

 黒い獣は怯んだように見えたが、それは撃たれた事そのものよりも、唐突に違う場所からの襲撃を受けたからのようだった。

「やっぱり、銀でないとダメみたいね」

 聞き覚えのある声が響いた。

「ごめんなさいね、銃の使い方も、あの人に習っておけばよかったのだけれど」

 驚いて、声の主を見る。

 灰色の老いた髪を後ろで束ねて、動きやすい猟師のような恰好をしている。

「でも、それ以上うちの孫に傷をつけたら容赦しないわ」

「おばあちゃん!」

 そこにいたのは紛れもなくおばあちゃんだった。

 慣れない手つきで、おじいちゃんの家に飾ってあったマスケット銃を構えている。

 長い銃身が獣へと向けられている。

「長い間、あなたを探していたわ。ようやく会えたわね」

「探してたって、なに? おばあちゃん、あれを知ってるの?」

「あれはね、人狼。人を喰う化け物よ」

「じ、じんろう……?」

 ロビンは人狼と呼ばれた獣に視線を向けた。

 銃で撃ち抜かれたのにぴんぴんしているみたいだった。撃たれた場所からは血も噴きだしているというのに、それほど痛みを感じていないようだ。

 けれども、片目からは今も血が溢れている。それだけが不思議だった。

「その目、誰かに銀でも撃ち込まれたのかしら?」

 おばあちゃんはその理由を知っているようだった。じりじりと距離をとる。

「ガル、ロビンを連れて逃げなさい!」

 言うが早いか、おばあちゃんはもう一度引き金を引いた。人狼の体に銃弾が撃ち込まれる。

 ガルと呼ばれた狼が飛び出してきて、ロビンの横についた。

「今のうちに!」

「でも、おばあちゃんは?」

「早く!」

 おばあちゃんはいつもの優しい顔ではなく、叱るように言った。

「行きなさい――」

 焦っているようにも見えたおばあちゃんは、そのままもう一度人狼に銃弾を叩きこんだ。

「待って!」

 ロビンは叫んだが、狼がそれよりも早くロビンのコートの裾を咥えた。

「きゃっ…」

 もつれながら、狼が先導する方へと足を動かす。

 おばあちゃんと人狼の声が遠くなっていく。

 ロビンは暗い森を走りながら、ひどい無力感にさいなまれた。


 ここまで来たのに、まったく役に立たなかった。

 自分が行ってもどうしようもないというのはわかりきっていたのに、それをまざまざと改めて見せつけられた気分だった。

 悲しいというよりもひどく悔しくて、ロビンは唇をかむ。

 走れない所まで来ると、ロビンは近くの巨木に手をついて肩を上下させた。遠くまで行きかけた狼が止まり、ついてこないロビンを探して戻ってくる。

 ――こんなことしてる場合じゃないのに。

 ロビンは眼鏡を外し、額に落ちた汗をぬぐう。それが汗なのか涙なのかもうわからなかった。

「あ……」

 取り落した眼鏡を拾う気力もなく、ロビンはその場にしゃがみこんだ。狼が隣までやってきて、じっと自分の様子を見ている。


 ガサリ、と草を踏む音がした。


 今度は一体何かと、ロビンは辺りを見回す。

 狼も警戒の色を示し、隣で爪を露わにしている。

 草を踏む音は徐々に大きくなっていった。早足に、次第にロビンと狼のもとへ近づいてくる。ガサガサと枝葉が揺らされ――霧の向こうから、その人はあらわれた。

 ロビンは目を見張った。

 頭の中で、向こう側も見えないほどの白い霧の向こう、杖を持ち、帽子を被ってやってくる〈探偵〉の姿が重なる。

 杖も帽子もなかったが、杖の代わりにペンタイプの細いライトを持ち、黒い髪で、紗のかかった灰色の眼をしたその人は、ロビンが夢想した〈探偵〉そのままだった。

 その人はペンライトで照らしたロビンの姿を見て、少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに目の前に落ちた眼鏡を拾いあげ、ロビンに差し出してきた。

 狼もやや落ち着かなげに周囲をうろついてはいたが、それだけだった。

 ロビンは眼鏡を受け取ると、茫然としたようにその人物を見上げた。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

 その人はにこりと笑う。

 でもすぐに、自分の置かれている状況を思い出して、ロビンははっとした。

「あ、あの! 探偵さんですか!」

 ロビンは飛びついた。

「どこから聞いたのかわかりませんが。ええ、そうです」

 〈探偵〉は頷くと、静かに言った。

「僕はグリム探偵協会の、ルードヴィッヒ・エインと申します。あなたは?」

「ロビン。ロビン・レッドリーフ」

「ロビン・レッドリーフ……なるほど」

「おばあちゃんが危ないの、お願い助けて!」

 ルードヴィッヒはじっとロビンを見下ろしていた。引き裂かれた赤いコートを見ると、やや目を細めて何か考えるように一瞬あった。

「これは、どうしましたか」

「さっき、変な化け物――ええっと、人狼? に……」

「失礼」

 ルードヴィッヒは厳しい顔をしてしゃがみこむと、ロビンのコートを掴んで考える。

 そして外れてしまった妙なボタンを一つつまみあげると、まじまじと見つめた。

「あ、それ……」

「なるほど。これのせいですか」

 ペンライトで照らされると、ボタンはきらりと銀色に光った。

「ありがとうございます。これは大切にしてくださいね」

「え? うん」

「眼鏡は大丈夫ですか」

「大丈夫! 度は入ってないし」

「入ってない?」

 ルードヴィッヒはそしてもう一度、ロビンの瞳を見つめてきた。目を隠していた厚い硝子も、その色も消えた今、ルードヴィッヒの持つペンライトに照らされた瞳は、血のような赤い色をしている。

「あなたのおばあ様の名前を教えていただけると嬉しいのですが」

 ロビンは自分の頬がぱっと明るくなるのに気付いた。

「探してくれるの!」

「ええ、まぁ――」

「おばあちゃんの名前はね、マチルダ。マチルダ・レッドリーフ!」

「マチルダ、ですか。では――」

 遠くの方で発砲音がして、鳥たちがばたばたと飛び立っていった。

 ルードヴィッヒは立ち上がると、その方向を見上げる。

 狼が二人の前に立ち、くるりと振り返った。

「あれが案内ですか」

「え? う、うん。ガルっていうみたい」

「そうですか。では行きましょう」

 ルードヴィッヒはロビンに手を差し出した。普段ならばロビンは、紅潮して戸惑ってしまうようなところだ。けれども、今はそんな場合ではない

「おそらく今一番危ないのはあなたです」

 ルードヴィッヒは隠しもせずに言った。

「一緒に来て下さい。離れないように」

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