第六章 〈探偵〉――または襲来

 あてがわれた部屋の隅から、コツコツと小さなものがぶつかる音が響いた。

ルードヴィッヒは腰をあげて窓を開けると、茶色い小型のフクロウが見上げて首を傾いでいた。足元には荷物がくくりつけられている。いわゆる伝書鳩ならぬ伝書フクロウだ。

 ちょんちょんと窓から入ってくるフクロウを腕に乗せてやり、窓を閉める。止まり木になりそうなものが見つからなかったので、仕方なしにテーブルの上に近付けると、フクロウは理解したようにそこに降りた。

足元に括り付けられた荷物を解いてやり、労わるように頭を軽く撫でる。フクロウは小さな声をあげて気持ちよさそうに目を閉じた。思わず笑みがこぼれる。

 フクロウをそのままにしてチェアに腰かけると、探偵協会専用の封筒を銀のペーパーナイフで切り取り、中身を確認する。中に入った数枚の紙の一番上には、「フェザッリの大狼事件について」と書かれていた。

 ――よくもまぁこんな短時間で。

 そんな事を思いながら、ルードヴィッヒはタイプされた手紙にじっくりと視線を落とした。


 フェザッリの大狼事件・概要


 一九××年、五月七日


 約三十五年前、当時のフェザッリでは、森で狼に襲われる事件が発生。当時の地方新聞によると、オットマー・ベンゲン、アルマ・バッヘム、ブルーノ・ベシュー、など死者三名が出ている。他に近郊の牧場の羊などが行方不明になるなどの被害。食いちぎられた跡などから、人狼の関与も早い段階より疑われていた。

 当時、町で会計士をしていたトマス・ピックマンが主導となり、町のハンター数名を連れて森へ入り、狼狩りを行った。そこでトマス氏が巨大な銀の狼を討ち取る。その時点ではいまだ関係はつかめなかったが、それ以降ぴたりと死者が止んだことから、ピックマン氏の討ち取った狼が原因だったと断定。以降、氏は町の英雄として財を成した。


「まったく!」

 呆れたようなその言葉は、自然と口から出ていた。

「僕が聞き及んだこととほぼ一緒じゃないか。でも、公式に提出されていることとクラブに伝わっている事は同じらしいな」

 一枚目の紙をつまみあげて、二枚目の紙に目を通す。


 大狼事件前後の町の動向


 大狼事件以前は、狼の出現はあれど目立った事件はなし。

 事件以降は、当時のハンターだった一人が自主的に森番小屋に住み始める。ピックマン氏と残りのハンターたちは、現在の〈狼少年〉クラブの前進となるハンター協会を設立。トマス・ピックマン氏が名誉会員とされ、今日に至る。また、氏の三人の子供たちには実質的には名誉会員の栄誉は与えられていない。

 補足として、その時トマス・ピックマンによって撃ち殺されたものが人狼だったという資料はなし。


 二枚目の手紙を読み終わったルードヴィッヒは、一つ溜息をついた。

「これも大体一緒か」

 何か違う情報があるのではないかという期待はなかったにしろ、ここまで町の外で言われている事と同じだと、溜息の一つもつきたくなる。


 森番について


 関係あるかはわからないが記しておく。

 名前はアンダーソン・レッドリーフ。フェザッリの生まれで、外に出た記録はなし。若い頃からハンターをして生計を立てていた。六年前に五十九歳の若さで逝去。その少し前に一人息子も亡くなっているが、此方は事故死で、不審なところはなく、自殺や事件性も否定されている。


 記 H・L


「……なるほど」

 ルードヴィッヒは書き手の心遣いに感謝しながら、チェアの背にもたれた。

 それから、封筒の中に入れられた数枚の写真を取り出して、一枚ずつ確認していった。中身はすべて人狼にやられた人物の写真だった。裏には全てどこの国のどこの村かという簡潔な説明と、人狼の末路が記されていた。


 F――南部、××市北の小村にて――写真の女は恐怖の表情を鋭い爪痕で隠されていた。女をおさえたのであろう小さな爪痕は各所に残り、そのうちでもっとも深いものは、右側から喉を裂いたと思われる一撃だ。辺りは血まみれで、柔らかな腹の部分は食い荒らされて穴が開いていた。

 末路――彼女は村で唯一発見。村に簡易の首つり台があったことから、次々に私刑が敢行されたと思われるが、おそらくは特定に失敗。逃亡したと思われる。この後、近隣の村にて同じ事件が起こり、銀のナイフによって刺殺。


 E――H県西部、××村にて――男は目を見開いたまま血の海に沈んでいた。抵抗の跡であろう小さなナイフは哀れにも地面に転がったままだ。向かって右側から袈裟懸けに引き裂かれ、腕は生え際から引きちぎられていて、どちらも存在しなかった。食事だけでなく殺人行為をも楽しんだかのようだ。

 末路――写真の男は五年前に人狼を殺し損ねた経験あり。人狼の情報を集め備えていた情報も。男を殺した後に村の人間が当協会に通報。あなたもご存知の探偵の一人、アリア嬢により正体を暴かれ射殺。


「ふうん」

 ルードヴィッヒは鼻を鳴らした。

「あいつ、人狼と対峙していたのか」

 面白そうに笑いながら、三枚目の写真へと視線を移す。


 E――F県南部、××町にて――太った男は血まみれで表情もわからぬままだった。下顎は引きちぎられたような跡があり、見たところその顎は転がってはいなかった。かろうじてその残りかすのような血まみれの歯が辺りに散らばっているだけだ。胸と腹に右側から袈裟懸けの傷が見えたが、ほとんどはその後に開けられた穴によって、端の方しか見えない。穴の方はご丁寧にも脂肪をほじくり出されていた。中身の方は空っぽで、ずいぶんと派手で本末転倒なダイエットを敢行されたようだ。

 末路――殺されたのはみな彼の屋敷に住む者であり、一か月の間にこの他二人を殺害。町に住んでいた魔女の助言により、下男として入れ替わっていた人狼を射殺。


 ルードヴィッヒは三枚の写真をしげしげと眺めたあと、グレンフィード医師から貰った写真と見比べた。

「夕食の前に見なくて良かった!」

 ばらりとテーブルに放り投げて、息を吐く。

 そこから逃れて飛んできたフクロウに腕を伸ばしてとまらせる。

「ヴァンの料理を食べられなくなるのは惜しいからな。しかし、写真だけでもよく残っていたものだ。ここ最近のものだけでいいとは言ったが――公になった事件だけでも三件とは、多いと見ればいいのか少ないと見ればいいのかわからんところだな」

 手袋を外して、フクロウを撫でてやる。指先を嘴に向けてやると、恋人のような甘噛みを受けた。

「もう少し待っててくれないか」

 一通り戯れた後、フクロウをチェアの肘にとまらせ、ルードヴィッヒはテーブルに向けて書き物をしはじめた。羽根ペンを動かしている間中ずっと、フクロウが隣でじっとその動く様を見ていた。視線を感じながら、ルードヴィッヒは書き上げた手紙を見る。


 親愛なるH・Lへ


・グラーシー・バッヘムについて

・レッドリーフの一族、主にその現在の家族について


 できるだけ早く、以上の情報を寄越してほしい。


 所属調査官第九号 ルードヴィッヒより


「帰ったら文句を受けそうだな」

 文面は手紙とも言えない箇条書きで、形式も何もかもを無視した用件だけのものだった。こんなものを自分が受け取ったら何事かと思うだろうなと、自分でも思った。

 とはいえ本当に文句を言われたとしたら、それがお前の仕事だと言ってやるところだった。実際そうだったのだが、ルードヴィッヒ自身に人使いが荒いという自覚はまったくないのだった。いずれにしろ心配しなくても、明日の夜には届いているという確固たる自信はあった。

 手紙を探偵協会指定の封筒に入れると、フクロウを呼び寄せる。

「では、これを。頼んだよ」

 労わるように何度目かになるフクロウの頭をなでると、手紙をくわえさせて腕に乗せてやる。窓を開けてその腕を外に出してやると、フクロウは瞬く間に羽根を広げて飛び立っていった。夜の闇にまぎれる小さな姿を見送ったあと、窓を閉め、チェアに腰をおろした。

 ルードヴィッヒはしばらく目を閉じてじっとしていたが、やがて三十分もすると目を覚ましたように飛び起きた。立ち上がり、灯りをつけっぱなしにしたまま廊下に出る。見回したが、誰も廊下には出ていない。執事の姿も、二階の廊下にはないようだった。

 ――さて……では、僕は……。

 ルードヴィッヒは密やかに歩き出すと、周囲を慎重に観察しながら歩き出した。赤い絨毯は、足音をよく消してくれた。廊下をわたり、自分にあてがわれた部屋から斜め前となる、アーサーの部屋の前に立つ。中には入る事はせずに、扉の隣の壁に背をつける。木製の扉は装飾がなされ、ピックマン家の象徴とされている口を開いた狼の図式と、中央に緑色の石が嵌めこまれている。部屋から何度か動く音がすることから、中にアーサーが居る事は確かだった。

 ――アーサー氏は中にいる、と。

 それからそっと壁を離れると、今度はその隣のカーターの部屋の隣まで行き、同じように耳をすませた。木製の扉の装飾は同じだが、中央に黄色の石が嵌めこまれている事だけがちがう。部屋からは音はしなかったが、人の気配がするのは確かだった。カーターも部屋にいると、ルードヴィッヒは確信していた。

 ――カーター氏も部屋か。

 そのまままた壁を離れ、自分の隣の部屋を窺う。此処は自分の部屋と同じく装飾は華美ではなく、グレンフィード医師が使っている部屋だった。医師からはカチャカチャと小さな音がした。時折、唸るような声が聞こえた。たぶん、道具か何かを見ているのだという事は容易に推測できた。

 ――全員が部屋にいるのか?

 それから一番奥へ行くと、またピックマン家の象徴が見えた――最後は赤だ。これが今は亡きパーシィ・ピックマンの部屋だった。今は静かなものだった。カーターがほとんどの人間に抱いているのだろう嫌疑と、アーサーの持つ人狼は存在するのかという疑惑。そして、外側からは町と森。ぎくしゃくした空気が屋敷を包み込んでいるようだった。

 ルードヴィッヒは突き当りの窓から外を眺めて、仄暗い森を確認した。ここは郊外に近い事もあって、森がすぐそこのように見える。

 ――夜の森は魔法の世界と繋がっている。

 それは外側からでは確認することはできなかった。

 くるりと振り返ると、今度は気配を消すこともなく廊下を歩いた。

 まっすぐに続く廊下には、壁の天井付近に両側一本ずつ蒸気パイプが通っていた。二階にあるのは電燈ぐらいであるからか、それほど太くも細くもない。今辿ってきた道を逆に歩いたあと、自分の部屋を通り越して、一階へと降りる階段へと向かった。

 降りた先には玄関口があり、広めのホールがあるのを見てとる。そして一階の廊下を歩くと、すぐに食堂があった。今は中に入らず、廊下を歩くことを選んだ。

 廊下の壁に設置された、斧と剣が交差しているオブジェを眺める。どちらも持ち手に装飾が施され、一見よくあるオブジェ用の贋物に見えたが、よく目を凝らすと刃は鋭く、ぎらぎらと光に当たって煌めいている。よく手入れされた本物のようだと確認できた。

 反対側の、ルードヴィッヒから見て右側の窓の並んだ壁には、丸みを帯びた中国製の青磁器があった。この家に初めて来たときに目に入ったものだった。その時には柄ははっきりとは見なかったが、東洋の龍と花が描かれ、見事な品だ。相変わらず置き方は調和というものを考えてもいないものだったが、このままにしておくのが今の方針なのだろう。今は家の事よりも人狼の方に思考を裂かれているに違いなかった。そのまま廊下を進むと、その先が、この家に来た時に最初に連れていかれた応接間だった。

 少し行くと、奥からかしゃかしゃいう音が鳴っているのに気が付いた。

 ――今の音は……

 真鍮製の三十センチほどの掃除用自立機械が、廊下の隅を移動していた。帽子と、ゴーグルを模した”作動中”を示す青い光をぴかぴかさせ、取り込み口からゴミを吸い取っている。廊下に鳴り響いている音は、二つの小さな蒸気タンクが上下に動いている音で、時折蒸気を排出していた。どことなくコミカルな動きで、見ているだけでも飽きなさそうだ。ルードヴィッヒは何となしにそれを見て、少しだけ口の端を上げた。

 ふと視線をあげると、自動機械の先に、この家の忠実な執事であるヴァンがいた。黒のバインダーに紙を挟み込み、時折目線を動かしながら書き物をしている。ルードヴィッヒが見つめている事に気が付いたのか、書き物を中断する。

「どうされましたか」

 ヴァンは普段通りの浅黒い無表情な顔で、素早くバインダーを脇に挟むと、背筋を伸ばした。用事をいいつけられる何でも屋としては申し分ないものだった。ルードヴィッヒは親指で懸命に廊下の掃除をしている自動機械を示すと、視線だけをヴァンに戻した。

「ここはみなヴァンさんが何もかもしているのだと思っていましたが」

 ヴァンは少しだけ眉間に皺を寄せるような表情をしてから言う。

「パーシィ様が、こういったものがお好きでした」

「……ああ」

 表情の理由はその一言で納得できた。

「では、こういった――機械人形は沢山導入していらっしゃるのですか?」

「いえ、今は試験的に導入したものだけです」

「試験的に?」

「ええ。いくらお好きだといっても、屋敷を壊されたりしてはたまりませんから。試験的に動かして、どういう動きをするかだとか、資料としてお渡しするのも私の仕事でした。他にはたとえば――導入した際の利点だけでなく、欠点などもです」

 ルードヴィッヒは頷いた。先ほどヴァンが書き物をしていたバインダーの紙には、そういった資料となる前段階のものが詰めこまれているのだろう。

「例えば、どこかにぶつかりそうだとか――変なものをゴミと判断しないか、だとか?」

「そういう事です」

「パーシィさんはお亡くなりになりましたが」

「それでも、私の仕事でしたので」

 つまり、ヴァンはパーシィ・ピックマン亡き今もチェックを続けているという事らしい。ルードヴィッヒは心の中だけで称賛を贈った。

「それじゃあ、機械人形はあれ一体だけなのですか」

「いいえ。外の――庭師の役割をしているのが三体います。現在では一週間に一度くらいの頻度で、夕方の決まった時間に動かしていました。私が見ているときに限り、です。普段は奥の専用倉庫に収納してあります。かなりの大きさなので」

「取り寄せたのはいつごろだったのですか?」

「確か、三カ月くらい前でしたね。パーシィ様のところにはたくさんお客様がいらっしゃいました」

 無表情なヴァンの目に、昔を懐かしむような色が籠った。

「あなたはパーシィさんに雇われたようですね」

 唐突な質問に、ヴァンははっとしたようにルードヴィッヒを見た。

「ええ――まぁ」

 ヴァンの目は動揺したように動いていた。

「あのう、こんな事を私が言うのも差し出がましいのですが――」

「なんでしょう?」

「あの方は確かに町で色々と言われていらっしゃいました。あまり有り難くないあだ名も頂戴していたのも知っています。しかし、私にとっては仕事を斡旋してくれた恩人なのです。私はピックマン家に勤めてはいましたが、実際はパーシィ様に仕えていたといっても差し支えありません。ルードヴィッヒ様。探偵さん、どうか――」

 ルードヴィッヒは言葉を制すように手を翳して、無言で頷いた。ヴァンは気を取り直したように少しだけ姿勢を改めた。

「申し訳ありません。つい私事を」

「いや、いいんだ」

 ルードヴィッヒは手を下ろし、微かに笑んだ。この忠実な執事が、この件が終わった後にいったいどうするのかを思ったが、それは聞かない事にした。

「機械人形の話に戻ろうか。――他に何か導入しようとしていたものとかはあったのですか?」

「将来的には警備兵なども導入しようかという矢先でした。今はそれどころではありませんが――おそらく今後はカーター様が当主になられるでしょうし、もしそうなれば、検討なされるかと思います」

「なるほど。そうでしたか」

 ――それに、機械人形であれば人狼も化けられないでしょうし。

 ルードヴィッヒはその冗談をそっと心の中だけにしまった。今それを言うべきではないという自制と自重の心ぐらいは持ち合わせていたのだ。

「お邪魔をしてしまったでしょうか」

 代わりに、ヴァンを気遣った。

「いえ、まったく。そろそろ切り上げようかと思っていましたので」

「そうですか。普段はどこにしまっておくんです?」

「奥の倉庫です」

 ヴァンはかがみこむと、しゅうしゅういっている小さな下男のスイッチを切った。途端に丸硝子の奥の青い色が消えて、蒸気がぷしゅうと排出される。

「面白いですね」

 ルードヴィッヒは心の底から言った。

「最近のこの手の人形は可愛げがある。うちにも一体欲しいくらいだ」

 ヴァンはルードヴィッヒを見上げながら微かに笑ったようだった。この無表情の執事が笑うのを見たのは、初めてのような気がする。

「そうだ、ヴァン。少し客間の方を見たいんだが……」

「ええ、よろしいですよ」

 ヴァンは機械人形を窓際へと片付け、立ち上がった。

「いや、きみが片付けた後でもいいんだが――」

 ルードヴィッヒはそこまで言いかけて、はっと窓の向こうを見つめた。暗い庭のその向こうで――庭は暗すぎるようにも思えた――強烈な視線が此方を見ていた。

 いくら気配を隠しても、隠し切れない眼光――ピックマン家のそれとは違う、圧倒的な怪物の視線。

「伏せろ!」

 事態は唐突に動きだした。ルードヴィッヒは急いでヴァンに手を伸ばして、その肩を掴むように抱きながら窓硝子から飛びのき、前のめりに絨毯の上へと転がる。

 その背後で窓硝子が外側から爆発した。

 絨毯の上を滑るように転がった二人に、飛び散った硝子片と瓦礫が降り注いだ。正確には爆発ではなく、眠りの覚める凄まじい体当たりが壁ごと窓硝子を破壊したのだった。

 窓の近くを通っていた蒸気パイプが一緒に破壊され、千切れた箇所からしゅうしゅうと凄まじい音を立てながら蒸気を排出している。逃げ場を得た蒸気の勢いは凄まじく、入口が霧の幕で隠されてしまった。すぐさま安全装置が働いたらしく、けたたましい警報音が屋敷中に鳴り響く。やがてパイプを通る蒸気がやんだが、熱にまみれた霧の向こうから、黒い影が近づいてくる。

 太く黒い足が、衝撃に巻きこまれて青白い光をばちばちさせている掃除用自立機械を踏んだ。がしゃりと音がして、決して安くはない貴重で可愛げのあった道具が、この世から一つ潰えた。

 ルードヴィッヒは起き上ると、すぐさま背後を振り返った。

「る――ルードヴィッヒ様! これは一体?」

 ヴァンもすぐに衝撃から立ち直ったようだが、自分の見ているものが信じられないらしく、相応しい言葉を出せないでいる。

 やがて硝子をパキリと踏みしだきながら、そいつは姿を現した。


 後ろ脚の二本だけで大地にしっかりと立ち、やや前傾になった体。

 その強靭な肉体を黒い毛に覆われ、大きく突き出た鼻と顎。

 毛の合間から覗くのは、凶暴なほどに鋭く尖った牙と爪。

 金色の瞳は、夜闇に浮かぶ二つの月のようだ。


 人に化け、人に混じり、人を喰らう、狼に似て狼でないもの。


「これは――これは――まさか」

 ヴァンは言葉を失っていた。

「――人狼です」

 ルードヴィッヒは断定の声を発した。

 唸り声がして、突きだしたあぎとが笑うように歪んだ。

 廊下の向こう側からばたばたと足音がした。

「なんだ、今のは! 何をしている?」

 叫び声とともに、二人分の足音が近づいてきている。上から誰かが降りてきているのだ。

「来てはいけない!」

 時は既に遅かった。黒い人狼を挟んだ向こう側に、ズボンとシャツ、そしてベストという簡素な恰好をしたカーター・ピックマンが姿を現した。後ろからはアーサー・ピックマンも来ているようだったが、先に事態を把握したのはカーターの方だった。

 カーターはもうもうと立ち昇る霧を振り払うように手を動かし、眉を顰めていたが、薄れていく霧の中をしっかりと歩んでくると、目の前に立つ黒い影の正体に気が付いた。驚愕に茶色の目は見開き、湧き上がってくる怒りと、僅かな恐怖が混じったような表情で、彼の手は小刻みに揺れた。ぶるぶると売り震えた唇がぽかんと開けられた後、その喉奥からようやく言葉が吐き出された。

「こいつだ!」

 人狼の姿はぐっと縮こまったかと思うと、両腕――それは獣のように前足というより、両腕と言う方が相応しかった――を開いて腹の底から発せられた吼え声は、今は見えぬ月に向けて屋敷を小刻みに小さく揺らすほどに良く通った。

 遠吠えというにはコミュニケーションに欠け、単に吠えたというには足りなかった。びりびりと電に撃ち抜かれたような衝撃が走り、その場に集まっていた全員が怯んだ。

 獣はにやにやと見下すように笑っていた。

「くそ」

 ルードヴィッヒは悪態をつきながら、横目でいまだ茫然としているヴァンを見る。

「ヴァンさん、立てますか」

「う――な、なんとか」

 無理やりに起こし、背中を支える。

 向こうではカーターが後ろに下がりかけたが、すぐに思い直したように、視線が壁にかけてあった斧へと走った。

「くそっ――化け物め!」

 カーターは斧を掴み、乱暴に引き剥がした。

「見ろ、アーサー!」

 衝撃で剣が一緒に床に落ちたが、カーターはそれを惜しいとも思っていないようだった。

「見ろ、こいつだ! こいつが――兄貴を殺したんだ!」

「カーターさん! 下がってください、あなたの手に負える相手ではない!」

 ルードヴィッヒの牽制にも構わず、カーターは斧を掲げて突っ込んでくる。黒い獣は笑うようにカーターを見ていた。

 カーターの背後で、更にばたばたと音がする。グレンフィード医師が少し遅れて降りてきたのだ。気付いたアーサーが、階段のところで食い止める。

「グレンフィード、来てはだめだ!」

 そんな弟の姿も、制止するルードヴィッヒにも構わず、カーターは斧を振り下ろした。獣は腕を横に振り、斧を受ける。

 ルードヴィッヒは舌打ちをしながら、ヴァンの背を支えながら銃を探してホルスターを探った。

「こいつがっ……こいつが兄貴を!」

 カーターは斧を何度も振り下ろしていた。

 怒りに任せたままの攻撃は、三度も続いた。斧は鋭く砥がれていたにも関わらず、カーターがはっと気づいた時には、獣の腕に僅かに表皮を傷つけたにすぎなかった。

「馬鹿な」

 呻くように言ったカーターに、獣の左手が強襲する。

 構えた斧に激突したものの、爪がカーターの顔面を裂いていった。声にならない悲鳴が響き渡り、折れた斧ががしゃんと音をたてて床に落ちる。

 いくら絨毯といえども、その音を吸収するにはいささか瓦礫が多すぎた。

「兄さん!」

「カーター様! 銃――銃を」

 ヴァンは呻くように立ち上がろうとしたが、すぐには動けないようだった。目の前で起こっている事の理解が追い付いていないらしい。しかし、なんどか這うようにして立ち上がると、ずるずると客間へと行こうとする。

 ルードヴィッヒは止める事もなく、ホルスターから銃を引き抜いた。回転式の銃の弾は六発で、装填済みの一発があるといっても合計で七発だ。一発も無駄にできない。

 アーサーは兄を呼びながら、顔面を抑えて転げまわっている兄に飛びついた。事態はますます悪い方へと向かっているようだった。だが、アーサーの方へ向かうだろうと踏んでいた獣は、急にルードヴィッヒの方を振り向いた。

 ――こっちに来る?

 銃を構え、迫りくる獣に照準をあわせる。

 疑問の通り、すぐそこにアーサーが見えているにも関わらず、獣は呻きながらルードヴィッヒの方へと近づいてきた。その呻き声は笑い声に似ていた。

 ――どういう事だ?

 いくら獣とはいえ、相手は知性を持っている――人狼だ。獣の姿なのは見た目だけだ。

「そうか」

 ルードヴィッヒは眉を顰めた。

「さては気付いたんだな。先に僕を殺しにきたのか」

 その声に答えるように、人狼が笑った。

 心臓に狙いを定めて引き金を引く。

 鉛玉が獣目掛けて跳んだ。黒い剛毛の中に弾丸が埋まる。獣は一瞬怯んだような表情を見せたが、すぐに笑い顔に変わった。

 ルードヴィッヒは何も言わずに、身を屈める獣の心臓に再び狙いを定めたが、それよりも獣の方が早かった。

 跳躍し、ルードヴィッヒへと襲い掛かってきた。

「ちっ」

 舌打ちして、背後へと転がる。

 今まで立っていた床に打ち付けられた腕は、絨毯を通り越して床を一撃で破壊する。その剛力に内心冷や汗を垂らして、ルードヴィッヒは床に転がった。

 衝撃で銃が手から離れ、持っていた銀のペーパーナイフが一緒に転がり落ちた。

 獣が笑い、再び左腕を振り上げた時、背後から発砲音がした。

 弾道はまっすぐに獣に飛び、黒い剛毛の中に埋まる。

「よくもパーシィ様を!」

 銃を構えたヴァンが、そこに立っていた。

 ルードヴィッヒは振り返りはしなかったが、心の中だけでほくそ笑んだ。

 手を伸ばしてペーパーナイフを滑るように拾い上げ、その勢いで収納された刃を飛びださせた。カチリと音がしたのを聞きながら、一気に獣の片目に向けて投擲する。

 瞳にまっすぐに突き刺さったペーパーナイフに、獣が屋敷を震わすような吼え声をあげた。

「おおおお――!」

「うわっ」

 ルードヴィッヒは片耳を塞いだ。

 ヴァンも構えた銃を取り落とし、呻きながら膝をついた。

 通常のナイフのようにはいかないが、銀である分、人狼に対しては絶好の武器だった。獣はルードヴィッヒを睨むようにして、自らが壁に開けた穴に飛び込んだ。

 だがその睨んだ目は、ついて来いと言わんばかりだった。

 獣が金色の軌跡を残しながら行ってしまうと、ルードヴィッヒは急いでカーターの方へ振り向いた。瓦礫を飛び越え、しゃがみこむと声をかける。

「カーターさん、無事ですか? ――なんて無茶を!」

「探偵さん――ルードヴィッヒさん! あれはなんなんです」

 アーサーも、震えながらカーターを支える事しかできなかった。

「あれが人狼です」

 ルードヴィッヒの簡潔な答えに、アーサーも、今やその存在を認めざるをえなかった。

 目の前で見たのだから、もう認めるもなにもない。

 人狼は実在するのだ。

「グレンフィードさん!」

「なんだ、これは!」

 グレンフィード医師の叫びが廊下に響いた。

 彼の小さなどんぐりまなこに映った廊下は、惨憺たるものだったろう。

 ヴァンが誠意をこめ、哀れな機械人形が道化めいて掃除していた廊下は、今や壁がぶち抜かれ、埃と瓦礫とがあちこちに散らばっている。硝子はその皮膚を切り裂かんばかりにきらきらと煌めいていた。

 飾られていたはずの装飾のついた儀式物めいた鉄の斧は無残にも割れて転がっている。

 壁の大穴からは風がびゅうびゅうと吹き抜けて、体裁だけは整っていた屋敷を虚しく嘲笑っていた

「なんちゅう化けモンだ! あれが――あれが人狼なのか」

 グレンフィード医師は叫びながら、血まみれの廊下にどかどかと踏み込んできた。

 彼は混乱したような言葉を吐きながらも、医師としての使命には従順だった。すぐさまカーターの隣にしゃがみこむと、鞄を開いて中の医療器具を漁り始めた。

「想像以上ではないか!――一体なんなんだ、あいつは」

 悪態をつきながら、広すぎる額に追いやっていたごついゴーグルを下ろす。

 スイッチを押すとゴーグルの横についた歯車がすぐさまじぃじぃと動きだし、きゅるきゅる言いながら中の機構が入れ替わって、小さな青い光が点いた。

「ああ、兄さん、兄さん――」

「黙っとれ!」

 医師はおろおろと狼狽えるだけのアーサーを一喝した。

「うろうろするだけならタオルをありったけ持ってこい。清潔な物をな!」

「は、はい!」

 アーサーが足をもつれさせながら、命令に従ってばたばたと走っていく。

「なんて無茶をしよるんじゃ」

 カーターの腕を軽く消毒し、ゴーグルと同じくらいごつい注射器を取り出して、中の薬品を改めた後、黄色に仄かに光る薬品を注射し始めた。

 鎮静剤か何かの類だったのか、こわばったカーターの体は少しだけ力が抜けたようだった。

 ようやく放心状態から解放されたのだろうヴァンが、息を切らせて近寄ってきた、

「グレンフィード様、カーター様は?」

「今、処置をしとる。ヴァン、きみも大丈夫か? お湯を頼む」

「承知しました」

「それと、終わったらわしの診療所に連絡を」

「仰せのままに」

 ヴァンが目的の場所へ走るのと入れ違いに、ルードヴィッヒは立ち上がった。

 グレンフィード医師いまだぶつぶつ言っている。

「本当になんて事だ。あれが人狼なのか」

「その通りです」

 ルードヴィッヒは開けられた先の穴を見ると、銃を一旦ホルスターにしまいこんだ。闇の中に蠢く獣が走り去る方向へと視線を向ける。

「僕の予想通りなら、一度心臓でもやられてるんでしょう」

「はぁ?」

 グレンフィード医師は不可解だとでも言いたげな声をあげたが、下でカーターが呻き声をあげたので、そのまま医師としての仕事に集中したようだった。

「まったく。まさか今日乗り込んで来るとはな! 帰ったら本当にあいつにどやされそうだ」

 今日手紙を送った相手の事を考えながら、ルードヴィッヒは硝子を踏んで外に出た。こじ開けられた鉄柵の向こうを眺め、振り向いて声を張り上げる。

「グレンフィードさん! 僕はあいつを追います」

「待て! 向こうにあるのは夜の森だぞ?」

 釘を刺すようにグレンフィードが叫んだ。

「知っています。でも行かなければなりません」

「……気を付けてな!」

 グレンフィードは何かを言おうとしていたが、結局そう言うだけに留めたようだった。

「なんとか仕留めてみせます」

 ルードヴィッヒは夜の中に走り出した。こういう時に足代わりの生物も機械もないのは不便だが、今はその思考を片隅に追いやった。

 軌跡を残すような目の光を追い、夜の森へと駆ける。

 さしずめ、月を追うようだった。

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