第四章 〈探偵〉――または調査

 とても素晴らしい夕食を終えると、ルードヴィッヒは無言で立ち去るカーターを見送りながら、アーサーに銃を見せてくれるように頼んだ。

 ピックマン家に今ある銃は、すべて今は亡きトマス・ピックマンが使っていたものなのだという。写真も見せてもらったが、パーシィ・ピックマンとは似ても似つかない容姿ながら、目の眼光だけは同じだった。

 銃はすべて古く、故パーシィ・ピックマンの手によってすべて手入れされていたらしい。まだ充分使えると言ってよく、大狼退治の品としてこれだけは手元に置いておいたらしかった。

 その上、もっとすごいのはその弾にあった。保管されていた鉛の弾丸にはすべて外側につる草の彫り物がされていて、はたして気軽に使っていいものかどうか憚られる代物だった。すすんで弾丸を見せてくれたのも、この彫り物のせいもあるのだろう。

 アンティーク品や装飾としても充分通用しそうな出来に、思わず感嘆の息を吐く。

「ありがとう。参考になりました」

 部屋に戻ったルードヴィッヒは、少しだけ書きものをして、探偵協会の封筒に入れた。窓を開ける。夜闇の向こうで光る瞳が、サッと音も無く飛んでくる。

「やあ」

 部屋の中には入らず、窓枠に着地したそれに軽く挨拶をする。

 見返すように、じっと小型のフクロウがルードヴィッヒを見上げていた。複数の色合いが複雑に絡み合った、三十センチにも満たない茶色いフクロウだ。

「協会まで頼んだよ。なるべく早く」

 封筒を差し出すと、フクロウは嘴でそれを抓んだ。その頭を軽く撫でてやると、フクロウは少しだけ気持ちよさげな顔をして、飛び立っていった。その後ろ姿を見送ってから窓を閉めると、ルードヴィッヒはチェアに腰かけ、一息ついた。

 翌朝、ルードヴィッヒはチェアに腰かけたまま銃口を眺めていた。黒い銃身に、金の装飾が彩られたシンプルな回転式拳銃だ。今では時代遅れだったが、最近主流となっている、歯車とスチーム式の――つまりは蒸気タンク式の銃では持ち歩くに不便すぎるのだ。これでも遜色はなかった。

 不意に窓の外を羽ばたいていく鳥の声に耳を傾けると、緩く笑った後、円柱状の弾倉を確認した。銀に光る弾丸を眺めてから、もとに戻してホルスターにしまいこむ。息を一つついて目を閉じる。

 暫くすると、小さなノックの音がした。目を開け、声をあげる。

「どうぞ」

 ノブが回され、執事の声がかけられる。

「ルードヴィッヒ様。朝食の準備が整っております」

「わかりました。すぐに行きます」

 振り返らずに声をあげると、ドアはすぐに閉められた。

 一階のダイニングルームに入ると、既にカーターとアーサーは席についていた。

「おはようございます、ルードヴィッヒさん」

 最初に声をかけてきたのはカーターだった。

「よく眠れましたか?」

「ええ、まぁ――特に問題はありませんから、どうぞ、お気にせず」

 ルードヴィッヒはにこりと笑ってから言うと、用意された席に腰をおろした。

「どうやら、私が最後のようですな」

 ドアからした声に目をやると、グレンフィード医師がちょうど中に入ってきたところだった。

「おはようございます。この年になると、どうも朝は苦手で」

 執事の案内で席につく。それから頭を下げてキッチンに向かおうとした彼を、ルードヴィッヒはすぐに引き留めた。

「すまないが先に珈琲を頼む。ブラックで構わないから」

「かしこまりました」

 執事はすぐに湯気の立つ珈琲を運んできた。引き立った香りが鼻孔をつき、やや鈍りかけた脳細胞に刺激を与えてくれる。

 朝食もすぐに運ばれ、水分の豊富で歯ごたえのいいサラダと、皿に乗ったベーコンとオムレツ、そしてパリッとしたソーセージとともに、ロールパンの入れられた籠がすぐに並べられた。何もしなくても出て来る食事は、シンプルだが腹を満たすには充分すぎた。ルードヴィッヒは暫く何も考えずに食事を楽しむと、二杯目の珈琲を口に運んだ。

「そうだ、お二方に一つお願いがあるのですが」

「なんでしょうか」

 二人ともがルードヴィッヒを見たが、代表するように口にしたのはカーターだった。

「〈狼少年〉クラブ……でしたっけ、ハンターさんたちの。昨日はわざわざ連絡をとっていただき、ありがとうございました。それでですが――一応、あなた方の名刺か何かにサインをもらいたいのですが、よろしいでしょうか」

「サイン、ですか?」

と、アーサー。

「集まってくれているのは有り難いのですが、本人と確認できないのでは困ってしまいますので。もちろん、後でサインはお返ししますので」

「はぁ、それは構いませんよ」

「すみません。僕の癖のようなものでして」

「ヴァン、私の名刺とペンを」

 カーターが手を叩き、執事を呼んだ。すぐに名刺と羽根ペンが、銀の盆に置かれて恭しく持ち込まれた。まずはカーターがそれを受け取り、右手がさらさらと書き慣れたように動いた。

 そしてすぐにアーサーの方へ名刺が流れ、同じよう光景が繰り広げられる。アーサーは右手のペンを置くと、すぐに名刺をルードヴィッヒに寄越した。

「これで宜しいですか」

「ああ、ありがとうございます!」

 名刺を受け取ると、名を確認してから胸ポケットの中へ入れる。

「それから、もしもの時のために――お二人はあまり外へ出ないようにお願いします。できればグレンフィード医師にも、滞在していただきたいのですが――」

「ふうむ」とグレンフィードは顎を摩る。

「構わんよ。お二人さえよければな。何かあればうちの若いのに連絡を入れるようにしてもらおう」

「宜しいですか?」

 ルードヴィッヒがピックマンの兄弟へと視線を向ける。兄弟はお互いに見つめあっていたが、やがてカーターが向き直って大きく頷いた。

「ええ。此方としても喜ばしい。ですが――そのもしもが――何かがあったとしても、私が見事撃ち抜いてみせますよ」

 カーターは芝居めいて片目をつぶり、マスケット銃を構える仕草をしてみせた。

「……あまりご無理はせぬよう」

 ルードヴィッヒはそう言うにとどめた。

 それから四人は解散すると、ルードヴィッヒは軽く身支度を整え、コートを片手にかけて玄関へと歩んだ。

「おっと」

 玄関先にいた執事とぶつかり、蹈鞴を踏む。コートがするりと落ちた。

「すまないな、よそ見をしていた」

「いえ、大丈夫ですか」

 この執事にしてはあわてたような様子だった。突然の事で驚いたのだろう。ルードヴィッヒがコートを拾うよりも早く、浅黒い右手がコートを掴んだ。軽く汚れを叩き落とすと、それを広げてみせる。

「馬車は使われますか」

「ありがとう。大丈夫、歩いていくよ。夕方には戻る」

 ピックマン家の忠実な執事にコートを着させてもらうと、ルードヴィッヒは愛用のモノクルをひっかけた。


 町の中は確かに田舎ではあったが、水晶に彩られた都よりは不思議な懐かしさを感じるものだった。

 馬車の中からでは良く見えなかったが、建物はみな煉瓦造りで、切妻屋根の古い町並みが続いている。道路は整備されてはいるものの、ほとんど徒歩で移動していた。似たような建物が続いていることから、ほとんど同時期に建てられたものらしかった。

 少なくとも贅を尽くしているはずのピックマン邸よりは、まだ居心地のよさを感じる。

 来た時は馬車を使ったとはいえ、町の中を自分の目で確かめておきたかったのも事実だ。教えられた道を歩きながら、ルードヴィッヒは赤煉瓦で統一された町を見回した。

 〈狼少年〉クラブまでの道は、それほど複雑ではなかった。大通りをまっすぐに進んだ先の、地下にあると教えられていたのだが、ちょうど地図通りの、大通りの真ん中にある建物の前で立ち止まると、微かな不安を覚えた。

 ――確かに、ここだよな。

 目の前にあるのはクラブというよりは町の大衆酒場だ。顎に手をやると、軽く首を傾ぐ。クラブは地下にあるらしいが、外からではそれらしい階段は見えない。酒場の前を行きつ戻りつしたものの、そもそも階段はもとより扉のようなものも無かった。

 とはいえ、いつまでもそうしているわけにもいかない。意を決して戸を押し開けると、ようやくルードヴィッヒは中に入り込んだ。

 薄暗い酒場の中は、円形のテーブルとイスが乱雑に、それでいてきちんと歩きやすいように並べられ、奥にはバーカウンターがあった。地下へと続いていそうな階段は、カウンターの向こう側にしかなかった。まだ午前中だというのに開いているのは不思議に思ったが、仕事でなければ並べられた酒瓶の一つでも注文したいところだった。

 ――地下、と言っていたが。

 入口に突っ立ち、まるで場違いな所にやってきたような自分の姿に、カウンターの中にいた男が不審げに近寄ってきた。

「あんた、まだ店はやってないよ」

 髭を生やした、浅黒い肌のがたいのいい男だった。黒いズボンに白いシャツを着たきりだ。カウンターの中にいたことから、酒場のマスターだろうと思われた。

「申し訳ありません。会いたい方がいるのですが、地下への道がわからなくて」

 ルードヴィッヒは申し訳なさそうに言うと、胸元を探った。

「ああ?」

 脅すように見下ろす男に、胸ポケットから名刺を差し出す。

「僕はルードヴィッヒ・エインと申します。〈狼少年〉クラブの方とお会いしたいのですが」

 男は胡散臭そうな目で名刺を受け取り、油断のない目で眺めた後、裏に書かれたサインを一瞥すると、眉を顰めた。

「あんたがピックマンに呼ばれた――探偵とやらか」

 視線を名刺からルードヴィッヒに移し、じろじろと遠慮のない目で見つめる。

「はい。クラブへはどこから繋がっているのでしょうか?」

 ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らすと、男は踵を返して歩き出した。奥へと向かう彼を追い、ルードヴィッヒは歩き出す。

「ここで待ってろ」

 男は何もない壁の前でそう言うと、自分はカウンターの板を押しのけて中に入った。

 ルードヴィッヒがその中を何となしといったように覗くと、カウンターの下に、歯車がむき出しになった真鍮製のレバーがあった。男は掴んだレバーを、力をこめて思い切り引いた。

 歯車が噛み合い、床の下で轟々と音がした。

 酒場の床に微量な振動が起こる。

 うまく作ってあるもので、酒瓶は揺れもしない。

 ルードヴィッヒは周囲を見回したが、途端、目の前の壁紙が扉の形に奥へずれこんだ。十数センチ分が奥に引っ込み、いまだ轟々と音がしているのにあわせて、右側へと更に壁がスライドしていく。

 ごうん、と音がして、スライドが止んだ時には、目の前に地下への階段が出現していた。

「凝った仕掛けですねえ」

 隠し部屋の機構にルードヴィッヒが感心していると、男は見慣れたような、面白くもなさそうな顔で近寄ってきた。軽く手招きすると、地下の穴倉の中へと降りていく。

 追っているのがウサギではなく、がたいの良い男だというのが残念でならなかった。

 階段は狭く、人一人が歩くだけで精一杯だった。すれ違うには片方が道を譲らなければならないだろう。本来は下に何かあるようには見えない。床にはワインレッドの絨毯が敷かれているが、何度も人が行き来したようにぺったりと床に張り付いてしまっている。

「しかし、酒場の地下とは――クラブとは聞いていましたが、まるで秘密クラブのようですね。あなたがたはハンターの集まりだと聞きましたが」

「ああ。旦那の――ピックマンの旦那の趣味だよ。と言っても、大元を作ったのは先代――トマス・ピックマンだが」

 男はちらりと、壁に掛けられた額を眺めた。

「こんな風になったのは息子のパーシィになってからだ」

「……中々いい趣味をしている」

 ――死んだパーシィ・ピックマンとやらは、相当趣味が悪かったようだな。

 地下に存在するクラブといい、秘密扉めいた入口といい――そこまではまだわかる。

 だが、階段の壁にかけられた額だ。中には狩猟用とは思えない、回転式拳銃がおさめられていた。ルードヴィッヒが持っているものよりも古いタイプだ。

 ルードヴィッヒ自身詳しく通じているわけではないが、いわゆる社交界の華やかな世界と、銃と女が闊歩する裏の世界に対する、憧れと空想の入り混じった幻想のようなものを感じた。

 ――おそらく、意図したところはギャングか窃盗団かな。

 その思いは口には出さず、ルードヴィッヒは別の事を尋ねた。

「会員の方しか入れないのですか?」

「基本的にはな。そうしておいた方が秘密めいていて良いってさ。まあ、形だけだよ。女を連れてきてる奴もいる――ほら」

 男は、そう言って階段が終わった先にいた人物を示した。

「……これは、これは」

 ルードヴィッヒは思わず声を出した。

 下の部屋は、いかにもという印象だった。絨毯が敷かれ、胡桃材で出来た洒落たテーブルが鎮座している。テーブルにはもたれかかるように中年の背の低い男が一人立っていて、更に向かい合わせに男が二人座っていた。ゲーム用のトランプが無造作にばらまかれている。

 壁際にはソファが置かれ、そこには蜂蜜色の髪をした愛らしい女性が一人座っていた。

 全員の視線が一斉に突き刺さる。

 ソファのその上の壁には、装飾のなされた額の中に、狩人が狼を追い立てている絵が収められている。その横には、同じタッチの絵で、羊飼いの少年が狼の到来を知らせる絵があった。誰が描いたかまでははっきりしなかったが、このクラブにはぴったりの画風であり、シチュエーションだ。

 反対側の壁には使い込まれた形跡のあるマスケット銃が所狭しと並べられている。他にも本棚や蓄音機までもが置かれ、酒場の地下とは思えなかった。

「変な事だけはするなよ」

「肝に命じておきます」

 ルードヴィッヒが頭を下げると、酒場の店主は大きく舌打ちをして階段をあがって行った。それを見送り、踵を返して秘密の部屋の住人たちに視線を戻すと、彼らはお互いを見つめあった。

 合図のような交錯のあと、テーブルの前に立っていた男が前に進み出た。

「あなたは?」

 テーブルの前にいた男は、紺のズボンに一番上だけを開けたシャツを着て、少し出て来た腹をズボンと同じ色のベストで隠している。どうやら彼がこのメンバーの中で中心的な役割を担っているようだ。

「失礼。ルードヴィッヒ・エインと申します。ピックマンさんに呼ばれた――グリム探偵協会の、調査員です」

 ルードヴィッヒが挨拶をすると、男はすぐに目を丸くした。

「ああ、あなたが探偵さん!」

 男の驚きにつられるように、イスに座っていた二人の男たちも目を丸くし、女は口元に手を当てた。

「すみません、もっとお年を召した方かと思っていたので」

「中にはそういった方もいらっしゃいますが。残念ながら、すぐに動けたのが僕しかいなかったもので」

「いえ、驚いただけです。どうも、アルフレッド・バートンといいます。〈狼少年〉クラブのメンバーです」

 名乗った男は片手を差し出し、二人は握手をした。

 後ろで椅子から二人の男たちが立ち上がり、まず手前側に座っていた男が茶色の鹿射ち帽を脱いで胸に当てた。

「……ヘンリ・バルロイといいます」

 鹿射ち帽の男は、三十代くらいの男だった。頬骨の飛び出た馬面の男で、顔のあちこちににきびの跡がある。すぐに帽子をかぶったところを見ると、癖のある髪を扱いきれずに帽子の中に沈めていたらしい。

「ケヴィン・バーグです」

 その後ろにいた男はヘンリと同じか少し若いくらいで、茶色のスーツを着込んで、快活そうな笑みを浮かべていた。元は快活そうではあったが、この状況にいくらか緊張しているようにも見えた。それからソファから立ち上がった女性を示す。

「彼女は、婚約者のルーシーです」

 彼女の存在は、この男ばかりの空間で一際目立って見えていた。この場に似つかわしくないと言えばいいのか、清楚なワンピースに身を包み、その肩口に蜂蜜色の髪を緩やかに流している。悪戯っぽく見えるピンク色の頬は、いまだ少女性との間を揺れ動いているようだ。

「ルーシー・イヴァンです。私は――その、お暇した方がよろしいでしょうか?」

 ルーシーは自分の恋人とルードヴィッヒを見比べて、不安げに言った。

「いらっしゃって結構ですよ。あなたも恋人と一緒の方が安心なさるでしょう」

 ルードヴィッヒの言葉に、彼女は喜んだように笑みを浮かべた。薄暗い人工の秘密部屋がぱっと明るくなり、花が咲いたようだった。

「此処にいるみなさんで全員ですか?」

「ええ、そうです」とアルフレッドが頷く。

「ここを作った――トマス・ピックマン氏の時代はもっとたくさんいたらしいのですが」

「町も発展して、娯楽も今は充実してますからね」

「それとも、軟弱な奴が増えたかのどっちかだよ」

 ケヴィンが口をはさんだ。

「銃よりも蒸気機関で出来る事の方がずっと多いからだと私は思うがね」

 アルフレッドは肩を竦めた。

「唐突にお集りいただいて申し訳ありません。少しお話を、と思いまして」

 ルードヴィッヒが切り出すと、クラブの中の空気がピリッと締まった。

「パーシィさんの事は、本当に残念でした」

 沈黙を破るように、アルフレッドがぽつりと言った。

「あの日出かけたのは、ヘンリとケヴィンの二人です。私は所用がありまして」

「何か急ぎで?」

「ええ。私は普段、牧場の手伝いをしているんですが……急に牛が産気づいたので、ついていてほしいと言われて」

「では、最初は参加する予定だったのですね?」

「経営しているのが、私よりも若い夫婦でしてね。まだそういった事に慣れていないんですよ。なんなら、彼らに連絡をとってもらっても構いません」

 アルフレッドの物言いは、まるで化け物がいたことを前提にしているようだった。あるいは、そうでなければ狼を操った何者かというところだろう。

「なるほど。――ところで」

 ルードヴィッヒが話題を変えるようにいうと、一瞬にして部屋が緊張した。

「みなさん、もう少しリラックスしませんか。何か飲み物でも」

 続けられる配慮の言葉に、ほう、と緊張した空気が抜けたようだった。

「僕は水で。みなさん、どうされます?」

 他の四人に尋ねると、アルフレッド以外の三人はそれぞれ飲み物の名を口にした。当のアルフレッドは、壁に設置された歯車式の通話機のスイッチを押す。

「ああ――グレン? 悪いが、飲み物を持って来てほしいんだ――そう。水と、ジンジャーエールと、それから――」

 ルードヴィッヒは注文を待っている間、じっくりと部屋の中を見ていった。本棚の中にあったアルバムを取り出して、何となしにぱらぱらとめくる。勝手にとったにも関わらず、誰もそれを咎める事はなかった。気が咎めているわけではなく、閲覧は自由らしい。

「あのう、それ……、昔の写真です」

 代わりに、ヘンリが陰鬱な声で横から言った。

「トマス・ピックマンさんもいるはずですけど」

「ほう」

 ルードヴィッヒが声をあげると、通話を終えたアルフレッドが振り返った。

「ちょうどこのクラブができる前の写真ですよ」

 写真はどれも何人かで集まったもので、記念のためや、狩りの前にとられたようなものばかりだった。だがそのほとんどの写真にはトマス・ピックマンが映っていた。やや色あせた写真ではあるが、鋭い眼光だけはそのままだった。三人の子供たちは、目だけはしっかり受け継いでいるらしい。

 ぱらぱらと頁をめくると、不意に見た事のある面が飛び込んできた。

「この顔は――ひょっとしてグラーシーですか。〈赤ら顔〉の。彼もいたんですね」

「今はしょうもない飲んだくれですけどね」

「何故やめてしまったんでしょうね?」

「そいつは――、たぶん。私が言っていいのかはわかりませんが――」

「何か?」

「その、三十五年前の狼騒動の時、グラーシーの兄弟か誰かが、狼の餌食になったとかで。確か弟だったかな」

 ひっそりとした声に、ルードヴィッヒは緩くうなずいた。

「この時に――〈狼少年〉が発足した時、ですけど。結構な人数が辞められたりしたんですか」

「いいえ、グラーシーを含めて二人くらいですよ。そのうちの一人も、自分から森番を引き受けるとかで、町の方には顔を出さなくなりました。ですから、実質やめてしまったのはグラーシーだけです。相当ショックだったんでしょうね」

 ルードヴィッヒは暫くアルバムを見ていたが、やがてぱたんと閉じて元の場所にしまった。

「グラーシーも」

 ヘンリが虚ろな声で小さく言った。

「当時から、化け物の事を言ってましたね」

 ルードヴィッヒは一瞬ヘンリを見たが、それ以上何も言わずにアルフレッドに向き直った。

「森番の方は、現在もいるんですか?」

「いえ、数年前に亡くなったそうです。今は奥さんが――といってももうおばあさんですけど。一人で住んでるそうです。といっても、署長さんが危ないと伝えたようなので……もう家族がいるなら戻ったんじゃないでしょうか」

「ほう。そうですか」

 ルードヴィッヒが返事をしたちょうどその時、酒場からマスターが仏頂面で降りてきた。歩き出そうとするアルフレッドを手で制し、盆を受け取る。そしてマスターが階段をのぼっていくのを軽く見送ったあと、盆を差し出した。

 あらかじめ注文はしてあったというのに、男たちは三者三様に、さしずめ毒の入った杯を誰が選ぶかといった緊張感とともに、各々の右手で盆の上からグラスを持っていった。

 最後におずおずといったように近付いてきたルーシーに、ルードヴィッヒはできるだけ柔らかい笑みを作ってグラスを渡した。白くほっそりとした頼りない左手が透明なグラスを受け取ると、四人は思い思いの場所へと散った。

 ケヴィンはソファへ、ルーシーはその隣でひっそりとケヴィンにくっついて座る。

 アルフレッドとヘンリがテーブルの向かいの席についた。

「さて――これからお話を聞かせていただくわけですが。狩猟には、ケヴィンさんとヘンリさんがついていったということでよろしいですね? ――結構です。まずはあなたがたを疑っているわけではないという事をご理解ください。しかし、パーシィ・ピックマンさんを――殺した獣が人狼である確率は高いと思われます」

 誰知らず、溜息が漏れた。

「あのう……」

 アルフレッドの右手が挙がった。

「そもそもカーターさんのいう人狼とは一体なんなのでしょうか。狼とは違うんですか」

「狼は、ただの獣です。そちらに対しては、あなたがたの方が詳しいかもしれません」

 ルードヴィッヒは壁のマスケット銃を眺めながら言った。

「人狼とは、狼男とも呼ばれる生き物のことです。――狼または半獣――この場合は半狼半人ですね、その姿に変身できる生物の事を言います」

 どことなく、視線がケヴィンに集中した気がした。

「ひとになれるんですか」とヘンリが続ける。

「良ければ説明いたしますが」

「お願いします」

 ルードヴィッヒは頷き、水を口に含んでから、少し考えるようにして言った。

「先ほども言ったように、人狼とは半狼に変身できる生物の事をいいます。以前――ほんの二十年ほど前までは、人狼とは狼憑き、つまりは狼になんらかの形で憑依された人間と考えられていました。しかし、これは今では既に否定されています」

「教会で破門された者がなると聞きましたが」

 ケヴィンが口をはさむ。

「それも今では否定されています――教会側が示したのは、いわゆる神を否定したという意味合いですね。神を否定する事で、見た目は人間でありながら卑しい獣になってしまったもの、という意味です。それが人間と狼の姿を持つ人狼と混同されただけで、本来はまったく違うものです。いずれにせよ、昔の話ですね」

 あっさりと否定され、ケヴィンはそのまま引き下がった。

「人狼と狼の違うところは、住処ですね。狼は森に。この町のように牧畜を行う場所では、喰うに困って家畜を襲う事はありますが――人を喰うようになるのは、血の味を覚えたとか、そういう理由があります。しかし、人狼は違う。人狼は最初から人間を餌とし、そのために人間に擬態します」

「じゃ、じゃあ、人狼は人間の中にもぐりこむんですか」

 アルフレッドが尋ねる。

「はい。もっとはっきりいうと、町の中に」

「町」

 またもやあっさりと返された答えに、アルフレッドは言葉を繰り返すしかなかったらしい。

「人間がいる町や村などに入り、元の住民に成りすます事もあります。基本的には単体、都などの大きな集合体ではその限りではありませんが、大抵単独行動をします」

 クラブの中に走った動揺は、瞬く間に見てとれた。

「おまけに、人狼はほぼ不死身です。単純に撃ち抜いただけでは死なない。死ににくいともいえるかもしれませんが――特に心臓を撃ち抜いたとしても、生き延びる場合があります」

「ええっ」

 驚いたのはヘンリだった。

「また顕著な特徴として――人狼は、自分を一度傷つけた者と、その血を引く者を執拗に殺そうとする習性がある事が確認されています」

「なにか、しるしのようなものでも……?」

「いいえ。彼らには超能力があるわけではありません。だからこそ人に紛れて、餌を探し、自分を傷つけた者を探し出すわけです」

「で、では、ピックマンさんが殺されたのは」

 アルフレッドが眉間に皴を寄せながら尋ねる。

「ピックマン――トマス・ピックマン氏が、三十五年前、本当は人狼を退治したのではないか、と考えられますね。むろん、これについては否定要素も存在します。例えばピックマン氏が執拗に狼であると主張していることだとかね」

「そりゃあ確かに――人狼殺しの栄誉なんて、ハンターにとっては垂涎ものだろうな」

 アルフレッドは戸惑いながらも認めた。

「しかし私は――人狼なんてものは――」

「いますよ」

 ルードヴィッヒは断言した。

「小さな村では壊滅した所もあります――その多くは、人狼を見つけるという目的で無関係の私刑が行われたのも原因だと言われています。この現代でそんな事、と思われるかもしれませんが、紛れもない事実です。しかし、この二十年あまりで、彼らに対する防衛策や対抗策、弱点――かなり集まりました。魔女の力添えもあります」

「――魔女!」

 アルフレッドの唸るような声に、ルードヴィッヒは僅かに頷いた。

 蒼褪めた顔をしているルーシーに気付いたケヴィンが、すぐに彼女を抱えた。全員の視線がケヴィンに集まる。

「大丈夫か?」

「ごめんなさい、あまりに恐ろしいお話で――私」

 ルーシーは頭を抱えるように手を当て、ソファにぐったりともたれた。

「ルーシーは体が弱いんです」

 と、ケヴィン。

「なるほど――これは、申し訳ありませんでした」

 ルードヴィッヒはルーシーに近づくと、胸に手を当てて最大限の敬意と謝罪を含んだ。

「あなたのような方を怯えさせたのは僕としても大変心苦しい」

 ルーシーの僅かに震えたような仕草を見てとると、片膝をついて左手をとった。軽く口づけてから離す。ルードヴィッヒは立ち上がると、ヘンリが懐疑的な目線でケヴィンを見ているのに気付いた。

「ヘンリさん。あなたはどう思いますか?」

「な、何をですか」

 ヘンリはぎくりと肩を跳ねさせた。

「パーシィさんを襲ったのが人狼であるかどうかです」

「あ、ああ、そういうことですか。それは――そのう――アーサーさんは、その、恐ろしい狼だと。でも、ただの狼が、あんな風に――できるのでしょうか」

 ヘンリはたどたどしく尋ねたが、ルードヴィッヒが何も言わずに見ていたので、汗をかきながら自分の言葉を探した。

「で、でも僕は――そのう、カーターさんたちと一緒にいたので……誓って一緒でした! 何も見ていないんです。人狼も狼も見ていないし――けれど、あれは狼よりももっと強くて、恐ろしい存在に殺されたようにしか見えませんでした」

「ええ、そうでしょうね」

 ルードヴィッヒは頷く。

「あの日、森で他に気付いた事はありますか?」

「気付いたことと言っても――」

 ヘンリははっとした。探偵が本来ここに来た目的を果たそうとしていることに気が付いたのだ。途端にヘンリはそれまで以上にきょろきょろと辺りを見回して、それからごくりとつばを飲み込んだ。

「ぼ、僕は――そのう、あのう――最初は五人だったんです――え、えものが見つからなくって、途中で別れたんで。アーサーさんや、カーターさんと、一緒にいたんです――誓って――本当です! カーターさんが鹿かなんかを見つけて――「見てろ、あいつを一発でやってやる」って言ったんです――でも、その途中で――パーシィさんの悲鳴が――銃声が――」

 ヘンリは今にも泣き出しそうになりながら、そう訴えるように言った。

「それで、カーターさんが急いで――行きました。アーサーさんと一緒に追っていったんです! ぼ、僕はなにか、事故でも起こったのかと――そのあとは――ううっ! カーターさんがパーシィさんの死体を前にしてました。僕とアーサーさんが到着して、それからケヴィンが茂みの中からやってきました」

 そこでヘンリはちらりとケヴィンを見たが、ケヴィンは無言のまま、誰の方も見なかった。

「そのあとは――カーターさんが、警察を呼びに行きました。僕らがその間中ずっと、お互いや、他の獣が来ないように監視していました。カーターさんはケヴィンを疑っていたみたいですけど」

 ケヴィンはじっと黙り込んでいた。右手で掴んだグラスを見つめたまま視線を落としていた。今は十も老け込んだように見える。不意に顔をあげると、ケヴィンはルードヴィッヒへと真っ先に視線を向けた。

「ヘンリが言っていることは本当です。あの日森で二組に分かれたとき、パーシィさんと一緒にいました。けれども、結局獲物がいなかったので、お互いに一人になったんです。あとはヘンリの言った事と同じです」

 妙な空気が満ち満ちて、今やケヴィン以外の全員がルードヴィッヒを見ていた。沈黙が落ち、ついこの間まで親しい間柄の者たちだったのだろうが、どこかよそよそしい。

 ルードヴィッヒはぐるりと周囲の者たちを見回し、全員が黙っているのを平然と眺めた。

「他に何かありますか?」

 ルードヴィッヒは尋ねた。しかし、まるで審判の言葉のように聞こえたに違いない。

 パーシィと一緒にいたケヴィンを疑いの目で見ている事は、明白な事実だった。それは彼らの沈黙と視線が物語っていた。

「ち、違います!」

 沈黙を破り、ルーシーが声をあげた。立ち上がり、ルードヴィッヒをしっかりと見つめる。

「ケヴィンは人狼なんかじゃありません! ケヴィンは――」

 ルーシーはそこまで言うと、急に目に涙をためて顔を覆った。可憐な女性の涙ながらの訴えに、少し気まずいような空気が流れた。

 その場で平然としているのはルードヴィッヒだけのようだ。

「いいよ、ルーシー」

 ケヴィンは立ち上がって、彼女の肩に手を置いた。アルフレッドとヘンリが身構えたような気がしたが、ルードヴィッヒはそれを流した。

「今怪しいのはたぶん僕なんだ。でも、本当に僕はパーシィさんと別れたんです」

「僕はあなたが人狼だなどと一言も言っていませんよ、ケヴィンさん」

 ルードヴィッヒがそう言うと、ケヴィンは茫然と立ち竦んだ。

「それでは、今日はありがとうございました。とても参考になりました」

 軽く頭を下げて、階段をのぼっていく。後ろからは一言も聞こえなかったが、事態が動くその前に、酒場のカウンターへとたどり着いていた。胡散臭そうな目を向けて来たマスターに、軽く頭を下げる。

「お邪魔しました」

「もういいのか」

「ああ、いえ、もう一つ――いえ、三つだけ」

 カウンターの男は面倒くさそうな舌打ちを隠しもしなかった。

「たいした事ではありませんよ。今の時間にもまだ開いていそうな食堂と、〈赤ら顔のグラーシー〉の居場所を知りませんか?」

 男は、フン、と鼻でせせら笑ってから、メモに何やら書き込んでルードヴィッヒに差し出した。

「あと一つは?」

「何か良い酒を一つ。いつも道路に寝そべっているような酔っぱらいが好みそうなもので」

 酒瓶を手にオープン前の酒場を出ると、時間はまだ十一時半だった。メモ食堂の名は書かれていたが、グラーシーの居場所に関しては”道路”とだけ書かれていた。

 大通りを三十分もかけてゆっくりと歩き回ったが、めぼしい成果はなかった。

 ルードヴィッヒはその足で、先に昼食を済ませるべく食堂に向かった。

 食堂は酒場と同じく大衆のためのものだった。ヴァンの料理に比べるとやや物足りない気がしたが、それでも充分だ。職業柄、色々な場所に――例えば、この蒸気渦巻く現代科学の時代になろうとも、大衆専用のパブにはいまだ貴族は立ち入ることはできない――出入りできるのは便利だが、きっちりと区切りが出来ている分、どちらの領域に入っても自分が浮いてしまうのがやや難点だった。

 ――警察署長どのも同じなのかね。

 ルードヴィッヒはあの老齢の署長が偉ぶって捜査をしているところを想像すると、クッと小さく笑った。

 そして、それ以上食べられなくなる前に、パスタにフォークを突き刺した。

 昼食を終えて外へ出ると、道路を見回して見覚えのある姿を探した。

 だが、その日に限って酔っ払いの姿は町から消えていた。少しばかり眉を寄せる。

 大通りを歩き回りながら、昨日〈赤ら顔のグラーシー〉が酔っぱらって転がっていた場所を一瞥したが、それらしい人物はてんで見当たらない。

「あ、あの!」

 急に聞いたことのある声がして振り向くと、追いかけて来たのはケヴィンだった。ルードヴィッヒは立ち止まって振り返り、表情を変えないまま相手を眺めた。

「どうされましたか」

「あの――ルーシーの前では言いにくい事だったので。申し訳なく思います。ですが、俺がパーシィさんと別れた理由は納得されると思います」

「どうぞ」

 ルードヴィッヒの一言にケヴィンは一瞬戸惑ったが、話して良いという意味だと気付くと、人通りの少ない裏路地の方へと歩み、手招いた。声を潜め、辺りをきょろきょろと気にしながら、蚊の鳴くような声で言った。

「その――パーシィさんは、ルーシーを――何と言いますか。あまり口では言いたくありませんが、下衆な目で見ていたんです。死人に鞭打つような事は言いたくなかったし、何よりあの場では言えなかったので、黙っていました。とにかくそれで――頭を冷やそうと、一旦別れたんです」

「……そうですか」

「そ、それだけです。失礼しました」

 特に表情を見せないルードヴィッヒに、ケヴィンはしばらくどうしていいものかわからないようにおろおろしていた。

 元は快活だったのであろう男がこうしてきょろきょろとしているというのは、逆に哀れに感じられてしまった。

「ルードヴィッヒさん」

 ただ頷いただけのルードヴィッヒに、ケヴィンは当惑したまま声をかけた。

「本当に人狼はいるんですか?」

「いますよ」

 ルードヴィッヒの答えは簡潔だった。

 茫然とする可哀想なケヴィンにはやや憐憫の視線を向け、軽く挨拶をすると、そのまま踵を返して歩き出した。

 歩みの先は決まっていた。

「まったく」

 ルードヴィッヒは我知らず、声に出した。

「もう少しばかり時間が欲しい」


 ルードヴィッヒが大通りの道を抜け、郊外の森に程近い警察署に到着すると、そこは権威というには小さいように思えた。

 町を睨みながらも、町から森に迫る手のような建物は、角に悠然と立ちすくんでいる。

 戸を開けると、中にいた署長がデスクの向こう側から立ち上がってこっちを見た。自分が誰であるかに気が付いたのか、少しだけ緊張したようだ。

「探偵さん! どうされましたか」

「やぁ、署長さん」

 ルードヴィッヒはできるだけ相手を刺激しないように努めて言った。

「〈赤ら顔のグラーシー〉の居場所を知りたいんですが」

 予想通り、署長の顔が曇った。

「あの酔っぱらいなら、地下の牢屋に放り込んでありますよ」

 苛ついたような口調に、ルードヴィッヒは心の中だけで思わず笑った。

「一体何をしたんです?」

「どうもこうもありませんよ!」

 署長は呆れたような声を張り上げた。

「今度通行の邪魔をしたらぶち込んでやると言いましたからね」

「お仕事熱心なのですね」

「わしの仕事の邪魔をするのはあいつぐらいなものです」

 どうも署長はこの町の階級そのものを上げようと必死らしい、とルードヴィッヒは思った。都の道路にはゴミすら落ちていない、というぐらいのイメージに近しいものを感じたが、それ以上何も言わなかった。

「まぁなんですか、噛みついてきたよしみと言いますか。少し彼と話をしたかったのですが、そうなると少し予定が狂いますね。見舞いをしたいという言い方に変えましょうか。その様子だと、また随分酔っぱらっているようですしね」

 署長はしばらく渋ってはいたものの、そのまっすぐすぎる職務へのプライドは、高すぎて逆に折れてしまったらしい。署長はごそごそとロッカーの中を漁った。

 署長が鍵を開けている間、ルードヴィッヒはデスクに置かれた日誌をちらりと盗み見た。


 収監――グラーシー・バッヘム


 さすがに日誌にまで〈赤ら顔〉などという、誰にとっても有り難くない通称では書かなかったらしい。

 署長が壁につけられた鍵穴に鍵を通して、ぐるりと回す。かちりと向こう側で機構が動く音がして、轟々とシンプルな扉がスライドしていった。

 酒場と似ていたが、面白さに関しては酒場の方が上だな、とルードヴィッヒは思った。その上、スライドした先に出て来た地下階段は、冷たいコンクリートがむき出しの壁だったのである。

 ――これはこれでアリかもしれないが。

 ルードヴィッヒは感想は口に出さず、代わりに礼を言った。

「ではどうぞ。三十分以内にお願いします」

「わかりました」

 その中に入り込んでしまうと、後ろから声が聞こえた。

「あんなろくでなしに何を聞きたいのか――」

 署長はぶつくさ言っていて、ルードヴィッヒは僅かにほくそ笑んだ。

 階段を下りていくと、冷たい鉄格子の檻が一つだけ、唐突に現れた。地下室が牢屋になっているというよりは、まるで巨大な鉄格子の籠を置いただけのような気さえする。

「やあ、〈赤ら顔〉。また会ったな」

 牢屋の真ん中で寝転がっている男にフランクに声をかけた。

「あんた、探偵か」

 どうやらグラーシーは起きていたらしい。

「寝起きで悪いんだが、聞きたい事があるんだ」

「ふん」

 グラーシーは鼻を鳴らした。

「あんたみたいなのがあ、おれに何を聞きたいっていうんだ」

「それはまぁ、聞きたい事ぐらいあるさ。特に君が知っている事とかね」

「あんたはあの化け物を信じているかもしれんが、おれの言うこっちゃまったく信じないんだろう、ええ? なぁ、探偵さんよ」

「僕は、何か知っているというのなら君からも話を聞いておきたいんだがな。水でも被せてやろうか? 男前になるかもしれないぞ」

 ルードヴィッヒの冗談にも反応せず、男はぐったりと横を見た。

「グラーシー」

 呼びかけにも応じず、相変わらず寝そべっている。

「とにかく、ちょっと耳を貸してくれ。そこからでは遠すぎるんだ。それとも、差し入れは必要かい?」

 ルードヴィッヒは酒場で購入した酒を取り出すと、揺らして見せた。

 檻の向こうで興味をなくしていた酔っ払いが、呻き声をあげながら酒を視界に入れる。酔いで潤んだ目が酒を見た途端に輝いたように見えて、ずりずりと体を引きずりながらグラーシーは近づいてきた。

 どうにも酒の力は、彼の活力そのものらしい。檻の合間から渡してやると、グラーシーは酒瓶を受け取って軽く撫でまわし始めた。だが、口を割るつもりはないらしく、しばらくそのまま蕩けたような目で酒瓶を見ているだけだった。

「まぁ、いいや。勝手に聞いてくれ。きみは、昔ハンターだったらしいな?」

 ルードヴィッヒはそう言ったが、グラーシーはそれについては沈黙を守ったままだった。代わりに、酒瓶のコルク栓を素手でどうにか開けようと必死になっている。

「ええい――くそっ、開かねぇ」

「今の〈狼少年〉クラブができる前の話だ。狼騒動のあとに、ハンターをやめているな」

「この――なんでこの中には、細いもんがねぇんだ」

「きみは――三十五年前に人狼を見ているんじゃないか?」

 ルードヴィッヒは本題に入ったが、グラーシーはしばらくコルク栓を開けようと必死だった。垢の詰まった黒ずんだ爪を立ててどうにかコルク栓を削り取ろうとしていたが、やがて開かないと知ると濁った目をルードヴィッヒに向けた。

「古いコルクなら、ぼろぼろ崩れっちまうのにな! なんてぇもんを渡してくるんだ」

「それは劣化しているというんだ」

「ハッ!」

 グラーシーは馬鹿にするようにせせら笑った。

「信じるかい、探偵さんよお――あんたの言う通りだ! あのころのおれはバカ正直すぎたんだ。だれも信じなかったのさ――だれもだ! ピックマンはきっと、あの化け物を飼ってたのさ」

「何故、飼っていると?」

「俺が知るかよ。カンだよ、カン。飼っておいたのを撃ち殺して、金をせしめたんだろう。あいつは人殺しさ!」

 ――そのカンは妄想とも言うのではないかね?

 ルードヴィッヒは喉から出そうな言葉をのみこんで、代わりに頷いて流した。

「飼っているかどうかはともかく――」

「信じてくれたのはアンディだけだった。だが、あいつもハンターをやめて森の番人になっちまった」

「アンディ?」

「アンダーソン・レッドリーフ。わかるだろう、ええ? おれだってあの人を追って、森番になれるもんだったらなりたかったさ。でもおれは、おれはあれ以来――森がおそろしいんだよ。あの化けモンは、あの狼みたいな化けモンは、森から来るんだろう?」

 ルードヴィッヒは黙ってうなずいた。

「なるほど」

「あんたになにがわかるっていうんだ」

 グラーシーは急に噛みつくように迫った。牢屋の鉄棒が、がしゃんと音を立てる。

「弟はあっけなく殺されちまった――俺は息を殺してぶるぶる震えることしかできなかったんだよ! おれは隠れたまんま――情けねぇ、ほんとに情けねぇ」

 ルードヴィッヒはしばらく黙って、相手が嗚咽するままにしておいた。

「グラーシー、一つだけ尋ねたい」

 ルードヴィッヒは、グラーシーの態度を気にもせずに、その耳にそっと耳打ちした。その途端、酔っぱらった表情がみるみるうちに変わっていく。

「あ、あんた――なんでそれを知ってるんだ」

「きみの見たものが本当だったからさ。それを確かめたかっただけだ――さて、あなたがそれほどまでに恐れる人狼は、その震える手の代わりに僕が撃ち殺す事をお約束いたしましょう。後悔するぐらいだったら、弟さんの墓掃除でもしなさい。ですから、あまり飲み過ぎないよう僕からも進言させていただきます。酒は飲み過ぎると体に障りますからね。では、お騒がせいたしました」

 ルードヴィッヒは踵を返すと、グラーシーを牢屋に残して階段をのぼった。署長へと軽く挨拶を交わすと、後はもうピックマン邸へと足を進めた。夕暮れを過ぎた空は、やや曇りがちで少し暗い。ルードヴィッヒは早足で邸宅へ辿りついた。


「今帰ったのか」

 ヴァンの出迎えを受けた後、声をかけてきたのはカーターだった。

「ええ。有意義な時間でした。其方は何かありましたか?」

「特に何も――どこかの子供が来ていたぐらいだな。人狼が子供に化ける事なんてないと思うが、ヴァンに言って追っ払わせた」

「そうですか」

 ルードヴィッヒはただそれだけ言うと、自分の部屋へと戻り、チェアに腰かけてゆったりと夕食を待った。

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