第三章 〈赤ずきん〉――または遠回りな道筋
「どうしたの?」
「えっ?」
顔をあげると、お母さんがロビンの顔を覗き込んでいた。
「誕生日会で何かあった?」
「ううん、そういうことじゃないの。ちょっと疲れただけ」
「そう、ならいいんだけど」
お母さんはすぐに顔をあげて、腰に手を当てた。
「もう寝なさい。歯はちゃんと磨くのよ」
「うん」
ロビンはあれから、お母さんが帰ってくるのを待っていた。帰り際に見たあの金色の視線のことがずっと頭から離れず、かといって他に何かしようという気にもなれずに、ダイニングの椅子に腰かけて待っていたのだ。
お菓子も少ししか食べていないからお腹が空いてきたけれど、寝ちゃえばきっとわからなくなる、とベッドに入ることにした。
電気を消して、眼鏡を外す。ケースの中にしまっておいた後、棚に置いた。
少しするとすぐに目が慣れて、暗い部屋の中を見回せるようになった。ロビンの部屋は家の裏側に通じる窓があって、そこにも木々が生えている。窓と平行に並べられたベッドに座り込むと、外を見るのにちょうどいい。いつもそこから星空を眺めたりするのが好きだったが、今日に限ってはどうしてかそんな気分にはなれなかった。
――せっかくの十三歳の誕生日なのに。
いつものようにベッドに座り込んで窓辺を眺めてみたが、それとは違う胸騒ぎがするようだった。林の中を四つ足の獣がそっと行きかっているような、そんな妄想がよぎる。
――それに、なに?
窓の外では、妙にフクロウたちが夜の中を飛び交っているようだった。彼らが騒いでいると、妙に不安になる。
仕方なくカーテンを閉めて、無理やりベッドに横になっても、妙な不安は付きまとった。何も考えないでいようと思っても、誕生日会で聞いた森の話と、帰り際に見た視線の事が頭にはりついて、目はじっと冴えてしまっている。
それに加えて、このフクロウのせわしなさだ。
普段ならこんな風に鳴く事はないと断言できた。夜中に聞こえて来るフクロウたちの声は、優しくて落ち着いている。たまに大きく騒ぐこともあったが、大体今日はどんな風だとか、なんとなくわかるのだ。だけど今日は妙に行ったり来たりしていて、なんだかおかしい。
――もしかして、森に入ってはいけないと改めて言われたことと、何か関係があるんじゃあ……。
そんな事を思うと、余計に眠れなくなってきた。暗い部屋の中で慣れた目は、じぃっと天井を見つめるしかなかった。ううん、と呻きながら、転がって横を向く。布団をかぶって少しうとうとしてきた頃に、ロビンはもう一度上半身を起こした。
脇の時計を見ると、まだ一時間くらいしか経っていない。
ロビンはそっと扉を開けて、キッチンに向かった。眼鏡が無い方が、灯りがなくともそこそこ見えるから便利だった。
お母さんの部屋からは、まだ少し灯りが漏れている。
床板がぎぃぎぃ鳴らないように気を付けながら、ロビンは冷蔵庫の前に立つ。静かなキッチンで、冷蔵庫に繋がった蒸気パイプが微かに音を立てていた。
中で保存している飲料用の水を取り出してコップに半分だけ入れ、少しだけ手で温めてから飲んだ。お腹の中が少し冷たくなったが、逆に頭はすっきりした気分になった。
ようやく一息ついて、ロビンは来た時と同じように、そろそろと部屋に戻った。別に悪いことをしているわけでもないのに、音を立てないように慎重にドアを閉めた。ほう、と安心してまっすぐにベッドに向かって、そのままベッドに腰かける。
息を吐きかけたとき、後ろから視線が突き刺さった。
後ろにあるのは窓だけ。薄いカーテン一枚を挟んだ向こう側に何かがいるのだ。振り返ると、カーテンは静かにそこにあるだけだった。
じっと、動きもせずに見ているのだ――窓の外から。
それがあまりにも、帰り際に感じた視線に似ていたせいで、ロビンはそっとカーテンの裾を掴むと、隅の方を少しだけ開いた。
――なにかいる……
カーテンを揺らさないように、気付いてないふりをしながら覗き込む。しばらく目を凝らして、向こうの林の方から見ているものをそっと探ると、普段は見ないはずの姿かたちが、夜の中にうっすらと浮かび上がった。
四つ足の、獣の姿。
太い足と尻尾。
金色の視線。
――狼……!
パッとカーテンを離し、窓から離れた。
心臓がどきどきと高鳴る。お母さんに言った方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか、いろいろな事が頭をよぎったけれど、何よりも、どうしてこんなところに狼がいるのかさっぱりわからない。そもそも今までだって、こんなところに出て来ることなんてなかった。
〈狼の森〉に狼がいるのは、もっと奥の方だっていうのに!
それに、狼はじっとこっちを――ロビンを見ているようだった。
もう一度カーテンをそっと開けると、狼の姿がより近くにあった。さっきよりも近づいてきている。ぎょっとして口に手を当てると、狼の金色の瞳と目が合った。
そのとたん、不意に狼は後ろを振り向いて林の方に走り去っていった。はっきりと見えた口元には、何か咥えていた気がする。
狼は林の方にまで後退して、じっとこっちを見たままだ。心臓は相変わらずどきどきしていたが、不思議と怖くはなかった。距離があったし、まるでお互いがお互いの出方を窺うような感じだ。
妙な好奇心に突き動かされて、そろりとカーテンを全開にした。鍵を開け、窓をそっと押し開く。一度後ろを確認してから、そっと窓に乗って、下の草むらに降りた。あまりにも大胆な自分の行動に、自分でも少し驚いた。だけれども、はだしの足は靴を履くよりも少し心地いい。襲われないかという心配は、少しもなかった。気のせいかもしれないが、何か見守られているような気分だった。
そろそろと、パジャマのまま草地を歩くのは新鮮だった。ずっと昔にもこんなことをしていたような気分になる。
誘われるように、そっと林の方へと近づく。足元からの心地のいい音と、夜の冷たい空気は寒いというよりも気持ちいい。段々と、林が近づいてくる。狼はじっとこっちを見ていたが、微動だにしなかった。やっぱり口元に何か咥えているようだ。
――なんだろう、包み?
狼と距離をとって、ふと妙な不安感に立ち止まる。
狼が怖くなったわけではなかった。恐ろしさという意味では、狼よりも別のところに感じていた。
ロビンが何よりも戸惑ったのは、林の向こうにある暗闇だった。乱立する木々の向こうは森に通じているが、そこには何も見えなかった。ただ暗く陰鬱に沈んだ暗闇だけがあった。巨大なものが、自分を見下ろしているような気がする。
森が怖い。
何か得体のしれないものがやってくるような恐ろしさを覚えて、ロビンは立ち止まったのだった。何より、林の奥にある暗闇が――森がこんなに恐ろしいと思ったのは初めてだった。
「どうして……」
森で何が起こっているのか、てんで想像もつかなかった。むしろ今は森が自分を拒んでいるような気さえして、恐ろしさと困惑の間で揺れ動いた。後ろを振り向き、自分と家との間を確認する。
「きゃっ……」
気が付いたときには、眼前に狼が迫っていた。
視界がくるりと空を向いて、銀色の毛の感触がした。
はっと気が付いた時、ロビンは自分のベッドの上で横になっていた。曇天ではあったが、明るさが少し眩しい。外からはスズメの鳴き声が暢気に響いていた。
視線の先にはいつも見ている天井があったし、横たわっているのは確かに自分のベッドだった。慌てて上半身を起こしてみたが、どこからが夢で、どこからが現実だったのかはっきりしない。ぱっと窓を見たが、窓は閉められていた。ただ、鍵は開いたままで、カーテンも開きっぱなしだ。おかげで眩しく感じられたのだ。
ひょっとして途中で眠ってしまったのかとベッドに座り込む。窓の外を見る気にもなれずに、ぼうっとベッドから降りたその時だった。足元の違和感に、足の裏をちょいと確かめる。粒のようなものがぱらぱらと床に落ちた。
それが土だと確認できるまで、しばらくかかった。振り返ってベッドの上を確かめると、微かに乾いた土がついている。手でシーツの上を払うと、床に落ちた粒が同じ音を立てた。
ロビンは――自分は――確かに昨夜、外に出たらしいとは確信した。
そして狼と出会ったのだ。
けれども、その後どうなったのかがどうしても思い出せなかった。
しばらく茫然と窓を見つめていたが、やがてその視界の隅に見覚えのないものを見つけた。
「……なにこれ」
窓辺に座するぬいぐるみの隣に無造作に置かれたそれは、昨日まで部屋の中には無いものだった。結構大き目の包みで、包装を固定している紐に、白い封筒が括り付けられている。
――ハト郵便……は、窓の中に入ってこないし……
都だと、ここ数年で本物のハトから宝石の動力を用いた機械製のスチームバードに変わっていると聞いたが、この辺は今だに郵便にハトを使う事が多い。まだ本物のハトを使っているのは、田舎か、科学よりも魔法に近い考えを持っている人たちのどちらかだとお母さんが言っていた。
再びベッドの上に戻って、包みを手にとる。包みが置かれた窓辺にも少しだけ土がついていた。それと、指先にざらついた感覚がある。
最初はゴミかと思ったが、手を広げてじっと見ると、毛のようなものが着いていた。窓辺のところに一旦置き、包みの白い封筒を見る。封筒には一言、「ロビンへ」とだけ書かれていた。薄い糊付けはすぐにはがれて、中の薄い手紙を取り出す事ができた。手紙を広げて、中に書かれた文章に目を通す。
ロビンへ
誕生日おめでとう
昨日は行けなくてごめんなさいね
だけど、プレゼントだけは贈ります
気に入ってくれるといいのだけれど
おばあちゃんより
――おばあちゃんから!
頭の中もすごくすっきりしたみたいだった。あわてて包装紙を破こうとしたが、紐が邪魔だ。起き上って机からハサミを持ってきて、一思いに切り取った。包装紙を破いていくと、次第に深い赤色が姿を現し、白い包装紙の上に綺麗に畳まれたワインレッドの布が現れた。
手についたゴミを窓辺に落として、布を広げる。
立ち上がると、ロビンにぴったりのダッフルコートだった。フードがついていて、寒い日にはぴったりだ。
銀色のボタンだけは少し変わった形で、ダッフルボタンにそっくりだったけれど、なにか違う気がした。角に似た先の部分は銀色で、後ろの部分とは素材が違うようだ。穴はその後ろの部分に通すようになっている。わざわざ普通のボタンを一度削って作り直してあるようで、少し変わっている。
自分の顔が火照って、ほころんでいくのがわかる。しばらくコートを手にしたまま、あふれ出る嬉しさをどう表現したらいいのか、ぐるぐるとその場を歩き回って、小さくガッツポーズをした。
だけど、考える事はたくさんあった。
面と向かって渡してくれるいつもだったら、手紙だというのに、お母さんの言う事を聞くようにとか、ちゃんと友達は作りなさいとか、長い文章で色々と書いてあったはずだ。それなのに、どうしてこんなに短い手紙なのかという事も気になったし、そもそも誰がこれを置いたのかというのも問題だ。
コートをベッドの上に綺麗に置くと、今度は窓辺に直行する。
窓辺に落としたゴミは、光に反射してきらきらしていた。やっぱり毛のようだ。昔は、荷物に郵便鳥の羽毛がついていると幸運だとか、地域によっては不吉だとか言われていたらしいが、これは明らかに鳥の毛ではない。
思い当たるものは一つしかない。
「……狼……」
指先についた銀色の毛を見つめながら、ロビンはじっと考え込んだ。
でも、この毛が意味するものが幸運なのか不幸なのかすらわからなかった。
「ロビン! 起きてる?」
急に後ろから声が聞こえたせいで、肩が跳ね上がった。でも扉は開いてなかった。急いでコートだけは丁寧に元の通りに畳むと、白い包装紙で乱暴につつみ、ベッドの下に潜り込ませた。
「大丈夫! 起きてる!」
何が大丈夫なんだろうと自分でも思いながら、服を漁る。青色の地味なスカートに白いシャツを着ると、足を充分に近くにあったタオルで拭いてから、靴下を履いた。髪の毛を左右二つにわけて、三つ編みにする。眼鏡をかけて、なんでもないように鞄を持ち、部屋がいつも通りであることを確かめてから部屋を飛び出た。
お母さんにも何も言わずに、いつものように忙しく歩き回っていて、ダイニングのテーブルにはいつも通りに朝食とお昼のお弁当が並べられている。何も言わず、朝食の食パンにバターを塗りこむ。
「おはよう、お母さん。おばあちゃんから何か連絡はあった?」
お母さんたちがたまにやるように、世間話みたいに切り出した。
「いいえ、来てないわよ!」
奥からお母さんが大声で対応する。
「そう」
それだけ答えると、ロビンはいつもと同じようにジャムを塗りたくりながら、食べ終わるまでどきどきしていた。いつ、昨日の事について言われるかと思っていたが、結局何も言われなかった。
ただ一言だけ「今日も早く帰ってらっしゃい」と言われただけだった。
ロビンは何もなかったようなふりをして、学校に向かった。
その日の午前中は、飛竜虫でもなく、植物のハーブでもなく、今朝の出来事をずっと考えていた。いまや、あの狼がおばあちゃんのプレゼントを運んできたのは決定的な事実として、ロビンはとらえていた。だけどどうして狼がおばあちゃんのプレゼントを運んできたのか、どうしてもわからなかった。
手紙からではおばあちゃんは助けを求めているようには見えなかったし、ただいつもよりずっと文章が短いというだけだ。
急に誕生日に来られなくなったのは誕生日の前日か夜の事。コートがお店に売っているもので、ただ単に届いてなかったというなら、わざわざ狼が届けるだろうか?
ロビンの方が、決定的な助けを必要としていた。
お昼をすぎ、ホームルームが終わっても、答えは出なかった。向こうの方では、女の子たちがまだ昨日の誕生日会の事で盛り上がっていた。朝も聞いたような気がしたが、はっきりとは思い出せない。
「だから、〈赤ら顔のグラーシー〉が言いふらしてるんだよ」
クロードの声がする。
「でも、あいつの言う事もあんがい本当かもよ。オレなんか森に入るなって言われたし」
「それはクロードが変な事しそうだからじゃなくて?」
「なんだと!」
「クロードは落ち着きなさいよ!」
と、リリー。
「なんでもいいけど、だからって探偵なんか呼ぶものなの? 事件なら最初に警察が動くはずでしょ」
「確かに今、森が危ないのかもしれないね」
ジークが言った。
「なんだかそわそわしてる感じがするし」
――探偵……
どうしてかはわからないが、〈探偵〉という言葉は、とても甘美な響きがした。フロックコートを身に纏い、蒸気の霧がかかった深い夢の中からひっそりと歩み出てきたような響きだ。そうして冒険のために町に降り立った――〈探偵〉。
クロードのいう化け物の調査に呼ばれた探偵が真実かどうかはわからなかったが、それでも縋りたかった。
思わず視線がそっちの方を向いていたのだろう。輪に加わっていたジークが視線に気付いて、軽く手を振って、ロビンの方に歩み寄ってきた。途端に、エラがこっちを睨む気配がする。
でも、今日はそんな事どうでもよかった。
普段だったら、顔が火照ってうまく返す事もできないのに、自分の口からは唐突にすらっと言葉が飛び出した。
「それ、ほんとうなの?」
「えっ? さぁ、ほんとうかどうかはわからないけど、でも大人たちが何か妙なのは確かだよ」
エラが何か割り込んでくる前に、ロビンは勢いよく立ち上がった。
「もう帰るの?」
「ええ。今日は、早く帰らないといけないの!」
言い訳でもなんでもない本心からのものだった。自分でもびっくりするくらいに鞄の整理を終えると、体はもう動きだしていた。風のように教室から飛び出すと、廊下を歩いてきていた先生に声をかけた。
「先生、さよなら!」
つむじ風みたいに走り去ったロビンの姿に、先生は驚いて目を白黒させていた。
「……なに、どうしたのあの子」
エラのぽかんとしたような呟きも、ロビンに聞こえることはなかった。
教室を飛び出したものの、ロビンは何処に行けばいいのかすら見当はついていなかった。走って、走って、町の大通りまでやってきたところで、ロビンはようやく息を吐きだした。
思えば、〈探偵〉がいそうな所をまったく知らなかった。
そもそも、森では何が起こっているのだろう?
不審にならないように注意しながら、大通りの道を歩く。手がかりになりそうな〈赤ら顔のグラーシー〉だけだが、いつもなら道で寝転がっているはずの路上の住人はてんで見つからなかった。これぐらいの時間だったら、ぐでんぐでんに酔っぱらって道路に寝そべり、警察署長に怒られていても不思議はない。
――こういう時に限って!
かといって、〈赤ら顔〉の潜んでいそうな場所なんてまったく知らないのだ。森に馴染んだロビンは、自分の住むところだというのに、迷宮に入り込んだような気分になった。
大衆酒場の窓をちらりと覗いてみたが、まだオープンすらしていない。こんな時間にお酒を飲むのもどうなのかしらと思っていたが、今はそれが恨めしかった。かといって、自分がこうして乗り込んでいっても、情報を貰えるとは思えなかった。
大衆酒場を通り過ぎ、角から住宅密集地に続く小さな裏路地を覗き込む。
少し中に入ると、少し日陰になった、大通りよりも古い町並みが広がった。
――こんなに入り込んだ事なんて、無いかも……。
本当は違いなんてないのだろうけども、煉瓦の壁に這った蔦やそのままにされたひび割れ、日に焼けて色の変わった煉瓦が、より古びて見えたのだ。どこかに貼られていたのだろうポスターの切れ端や、小さな瓦礫のような細かなゴミが隅の方にそのままにされ、中身のない酒瓶が転がっている。
石畳のあちこちからは雑草が生えていて、手入れもされていない。立ち並んでいる建物は家なのか何かの施設なのかどうかもわからず、ただ不安な想像を掻き立てるだけだった。
奥に進むにつれて、次第に人の姿が目立つようになっていた。エプロン姿のおばさんたちが、ひそひそと噂話をしている。
「それでね、森の狼が出て来たって」
「そんなこと、ずっとなかったのにねぇ」
「〈子豚ちゃん〉の――お父さんのトマス・ピックマンさんが撃ち殺したんだっけ」
「大体三十年くらい前だったかしら、子供の時だったんだけど、家から出るなって言われたのは覚えてるわ」
「今の〈子豚ちゃん〉たちじゃ、どうかしらね」
「さぁ、狩猟が好きなのは知ってるけど」
ロビンはそっと隣を歩いていったが、おばさんたちはロビンには気付きもせずにぺちゃくちゃおしゃべりをしていた。
住宅密集地は、狭くて色々な物が混在していた。表札はついているから、人が住んでいることには違いない。上の方では、建物にまたがって紐がつながっていて、そこに洗濯物がぶら下がっている。
窓辺に置かれたプランターは、窮屈そうだが健気にも咲いた花を住まわせている。日の当たる小さな広場には、木製の車輪や使い古されたミルク缶が放置されてはいたが、逆にほっとする光景だった。
窓越しに話しているおばあさんが、外の様子を見ながら眉間に皴を寄せていた。
「明日くらい、晴れないかしらねぇ」
「おとといあたりに降ったし、晴れると思ったんだけど」
「洗濯物も乾かないしね」
「風があればいいんだけど、あったらあったでまだ寒いし」
愚痴られる内容は、空に対する嘆きばかりだ。
「そういえば、森で狼がね……」
その上、交わされる噂話は、どれも聞いたことのあるものばかりだった。
「……おや、今の子、どこの子だろうね」
「ここらへんじゃ見ないね」
たぶん自分の事を言われているのだと思うと、ロビンは急いでそこを駆け抜けたくなった。うねうねと、後から後から継ぎ足したかのような石畳を進む。
広場を通り過ぎると、また狭い密集地に入った。さっきの道よりもずっと暗くて、住宅地だというのに日陰になっている。
もう使われていなさそうな二輪車には雑多に物が置かれ、欠けた鉢の中からはにょきにょきと勝手に何とも知れない植木が伸びている。自転車はさびついていて、放置されているようだった。外に置きっぱなしのじょうろには、雨露がたまっていて、葉が浮いている。
路地の終着点ともいえる場所に辿り着くと、ロビンは辺りをきょろきょろと見回した。
ここが行き止まりかと思っていると、唐突に赤煉瓦の前にあった布が動いた。驚いて飛び退くと、布だと思ったそれは着膨れしたおばあさんだった。
「なんだい、見かけない子だね、うちに入るんじゃないよ」
じろじろと睨むように、不審な目でロビンを見る。
「ごめんなさい、迷っちゃったんです」
「ふん」
老婆は鼻を鳴らして、もう興味を失ったように続けた。
「今来たところを戻ればいいじゃないか。さっさと行っちまいな」
ロビンは頭を下げて、仕方なく今来た道を戻った。
途中で噂話をしていたおばあさんたちが、奥からそれほど経たずに戻ってきたロビンを眺めて何やら言っていたが、またすぐに別の話題がのぼった。
似たような作りの住宅街を逆戻りし、複雑に入り組んだ道をうろ覚えのままで進んでいく。短い階段が目の前に現れたとき、ここはこんな風なつくりだったかと疑問に思った。
――あれ?
きょろりと辺りを見回す。どうやらいつの間にか別の道を来てしまったらしい。裏口のようなドアが定期的に並ぶ、狭い裏路地のようなところに立っていた。
道を間違ったのかと戻ろうとしたが、戻るべき道もどちらに行けばいいのかわからない。間違ったのではなく迷ったのだと気付いたときにはもう遅かった。
――うそ、こんな所で?
自分の町くらい知っていると思っていたが、こういう道には来たことがない、というのを忘れていた。辺りは人もおらず、十字路や突き当りの道が続いている。裏道は迷いやすいとはいうが、こうまで複雑だとは思わなかった。蒸気機関を繋げるパイプがそこかしこに複雑に通っていて、しゅうしゅうと音がしていた。
どれも同じような光景だ。
というより、まさか、森の中よりも町中の方が複雑だとは考えもしなかったのだ。
とにかく自分ひとりしかいないのだから、自分で何とかするしかなかった。人を探して右へ左へ歩き回ってはみたものの、ゴミや木材が積み上げられていたり、狭くて猫ぐらいしか通れない道だったりといった所しか見つからない。
それでも歩いていれば元の道に戻れないかと色々と歩き回ったが、よけいに妙ちくりんな狭い路地のようなところに辿り着いたり、同じような十字路が幾重にも続いていたりと、ますます自分のいる場所を見失ってしまった。
疲れて、そのあたりの木箱に座り込む。辺りを見るのも疲れ切って、ふうっとため息をついた時、目の前をふわふわしたものが通り過ぎていった。つられるように、なんだろうと目で追う。視線の先に、その正体が四つ足で立っていた。
――狼!
驚いて、ロビンは声を出すのも忘れていた。犬かとも思ったそれは、間違いなく狼だった。その銀色の毛は見覚えがある。だがこんな町中の、しかも路地裏に、こうもはっきりとした狼が現れるなんてあるんだろうか?
狼はしばらくロビンを見ているようだった。びっくりして動けなくなっている自分をじっとその金色の目が見つめたあと、狼は悠然と歩き去っていった。だが十字路の前に立つと、そこでロビンを振り返ってまたじっと見つめる。
「あの、あなた、ゆうべの?」
答えなんか返ってこないとは知っていたが、問わずにはいられなかった。案の定狼は、尻尾を揺らしながら路地の道を進んでいく。
――でも、本当になんでここに?
ロビンは一も二もなく狼を追いかけ、ぱっと狼が姿を消した通路を覗き込む。ゆらりと揺れた銀の尾は、また違う通路に行っていた。追いかけていいものかどうかはわからなかったが、とにかく今はあの森の獣がどこからやってきたのか確かめるためにもついて行ってみようと思ったのだ。
追いつこうとするたびに、狼はその分前に進んだ。常に一定の距離を保ち、ロビンがついてくるのを待っている。ロビンが立ち止まっていると、その分戻ってきて、睨みつけるような鋭い目でじっと見つめていた。
どこかに連れていこうとしているようだった。
案内されるように狼の後ろをついていっても、同じような道はずっと続いていた。相変わらず裏口は見えたりするが、本当は誰も住んでいないんじゃないかと思うくらい、誰もいない。狼が見つかりはしないかどきどきしていたが、杞憂だった。
何度目かの路地を曲がった時、人一人分ぐらいの幅だが、まっすぐな道に辿り着いた。タバコの吸い殻や酒瓶が落ちていて、路地を作っている壁の左右に、剥がされかけたポスターが貼りついている。その先で狼の尻尾だけが揺れていた。
ロビンは臆する事もなくまっすぐ進み、光の中に飛び込んだ。
「あ、あれ?」
急に広いところに出たせいで、ロビンはぽかんとしてしまった。後ろを見ると、今自分が出て来た狭い路地が見える。大通りの端っこに出たと気付くのにしばらくかかったが、大体の自分の位置は把握できた。目の前には町の郊外の方へと続く道がある。ロビンの家のある方ではなく、遠くの方にピックマン邸が見えた。
――こんな方に繋がってたんだ……。
裏道は入り組んでいるから、出口がいくつあってもおかしくない。けれども、狼はいつの間にかいなくなっていた。狼だけでなく、獣の気配はもうどこにもいなかった。
ロビンは町から離れるようにそっとピックマン邸に近づいた。遠くからは見た事があったが、これほどまでに近づいた事は今までなかった。きちんとならされた道を歩き、大きな入口の門へは行かずに、庭が見える辺りへとたどり着く。
――そういえば。
〈探偵〉を呼んだのは確か、ピックマンではなかったか。小さな希望に縋りつくように、ロビンはピックマン邸の外から中を見ようとした。
外側から見ると、とても大きな屋敷だ。ぎらぎらした鉄の柵が、広い前庭を囲っている。バラは綺麗に手入れされていて、他にも花がたくさん咲いている。
それでも不意に動くものが見えたかと思うと、それは人間でも生き物でもなく、真鍮色の球体だった。真ん中には大きな丸い硝子のようなものがはまっていて、中では緑色がぴかぴかと光っている。
球体からは長くて細い手足と小さな頭がついていて、胴体と同じく丸い硝子を嵌めこんだような目は、左右で大きさが違う。時折背中の上側のパイプが集まった機関からしゅうしゅうと蒸気が上がっていた。細い腕よりもさらに細い手が、背中から繋がったタンクからホースで繋がったじょうろを持っていた。
それが二、三体、前庭をうろついていた。どうやら庭師代わりの機械人形のようだった。単体で動く蒸気の機械人形を、ロビンは初めて見た。
細い足が動く度にかしゃんかしゃんと音がしていたが、他には誰もいない。むしろ、いつもよりも静かだ。普段も静かな邸宅ではあるのだが――むろん〈子豚ちゃん〉たちが外にいるときは別にして――今日は目に見えてひっそりと静まり返っている。それに、パーシィ・ピックマンはたいてい弟二人を引き連れてどこかを歩き回っている印象があった。
邸宅の方が見えないかとつま先立ちをしてみたが、とうてい何とかなるものではない。垣根のように張り巡らされた蔦が邪魔をしているし、前庭も広すぎて遠くまで見えない。〈探偵さん〉がいないかと前の道をうろついても、それらしい人はいない。そもそも〈探偵〉がどんな人なのかを知らないのだ。
一体どうしようかと思っていると、不意に肩を叩かれた。びくっとして振り向くと、浅黒い手が自分の肩を掴んでいた。
「なにか」
服装からすると、たぶん〈子豚ちゃん〉の執事のように見えた。手は離されたものの、深い青の目がじっと無表情に自分を見下ろしている。
「あ、あの、ここに探偵さんが来てるって聞いたんですけど!」
執事らしき人物は、無表情のまま何も反応を示さなかった。怒りもしない代わりに、眉すら動かない。相手に戸惑いだけを与えるような人物だった。
「お引き取りを」
口調は丁寧だったけれども、有無を言わさぬ迫力があった。ロビンはちらりとピックマン邸を見たが、男はそれ以上行かせないように微かに動いた。ロビンは仕方なく踵を返して歩き出し、ピックマン邸から離れるしかなかった。
暫く歩いてからちらりと後ろを振り返って見たが、男はまだ門の前に突っ立っていた。まるで完全にいなくなるまで監視されているようだ。とはいえ、自分のような――子供までも、立ち去るまで監視しているというのは異様に思えた。
ともかくロビンは家までの道を辿りながら、どうすべきか考えていた。
狼もいなくなり、ピックマン邸からは締め出しをくってしまった。
ロビンに残された道はもうあと一つしかなかった。
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