第二章 〈探偵〉――探偵ルードヴィッヒ
蒸気とパイプが縦横無尽に溢れる、煉瓦と水晶硝子の都はもうとっくの昔に過ぎ去っていた。
黒塗りの蒸気機関車は、黒煙を噴き上げながら田舎町のフェザッリへ向かっていた。時折聞こえてくるのは、調子の外れたようなラッパのようだとルードヴィッヒは思った。
蒸気機関車の中は四人用のコンパートメントにいくつもわかれていた。そのうちの一つを、ルードヴィッヒは一人で占領していた。青年は長身の体に程よく似合うスーツの上にツイードのコートを羽織り、両側に設置された座り心地の良いソファに深く腰掛けていた。足を組んだまま、車窓の景色を悠然と眺めている。白い肌と整った顔立ちからは、国籍すらすぐには見分けがつかない。鴉と見紛うような黒い髪からは、むしろ東洋人のような気すらする。どこの人間だと言われてもおかしくはなかったが、反対にどこそこの人間だと言われても、やっぱりどこか信じられないような外見をしていた。
そんな彼の憂いを含んだような視線が不意に動いた。片眼鏡をした瞳の奥に潜んだものを隠すように、紗のかかった灰色の瞳は手元の手紙へと向けられる。
協会専用の便箋には、次のような内容が書かれていた。
所属調査官第九号 ルードヴィッヒ殿へ
シュトガルトの南、境界に位置するフェザッリという町から調査依頼が入りました。明日、町へ向かって下さい。依頼人はカーター・ピックマンという人物で、兄であるパーシィ・ピックマン死亡事件に関する調査依頼となっています。
パーシィ・ピックマンはフェザッリの近くの森で狩猟中、狼に襲われて死んだという報告がなされていますが、依頼人であるカーター・ピックマンによれば、狼ではなく、狼の化け物、即ち人狼に殺されたと主張しております。
主張によれば身長は一般的な成人男性とほぼ同じかそれ以上で、二足歩行。いまだ詳細は不明。
またこの件では既にフェザッリの警察署長が動いておられます。
署長のスミシー・アラン氏の協力を得られることでしょう。
では、御武運を。
――参考までに、人狼なる種と、これまでの人狼事件の詳細が必要ならば別途送ります。
「事務担当、H・L」
思わずそれだけ出た声に、ルードヴィッヒは喉奥でくつりと笑いをこぼした。
――人狼、なぁ。
こういった”事件”がルードヴィッヒのところにくるのは、これが初めてではなかった。そして、探偵協会がこういった不可解な事件を引き受けるのも、初めてではない。むしろこういった事件をこそ、引き受けているのだ。その理由についてはさておくとしても、こうして事件として回されてくるのだから、所属探偵としては真実がどうあれ調査しなければならない。
懐から懐中時計を取り出して、時間の確認をすると、遅れさえなければちょうど十三分後に到着する時刻だった。手紙を畳む。それをしまう前に、テーブルの上に放り出されたままの封筒から、数枚の写真を取り出した。
フェザッリ警察署長スミシー・アラン
依頼人カーター・ピックマン
被害者パーシィ・ピックマン
署長と依頼人の顔と名を確かめると、裏にパーシィ・ピックマンと書かれた一枚と、更にもう一枚、名前の無い写真を抜き出した。
パーシィ・ピックマンは、写真では上半身しか映っていなかったが、それだけで充分だった。焦げ茶色の質のいいスーツでも隠し切れないでっぷりと太った体で、てっぺんの禿げかかった黒茶の髪はムースで固められ、潰れたような豚鼻をしている。気取った金縁の片眼鏡の向こう側には、茶色の目が眼光鋭く輝いていた。
そしてもう一枚は、そのパーシィ・ピックマンが草地に転がっている写真だった。目は見開かれ、恐怖に歪んだ口元はだらしなく開けられている。三本分の深い爪痕が、向かって左上から袈裟懸けについていた。指先が、写真の肩口から斜め下に向かって傷をなぞる。獣につけられたにしては深い。右腕にも噛み傷があったが、それ以上に胸の辺りがずたずたで、心臓付近をやられたに違いなかった。裏に書かれた注釈によると、直接の死因は心臓を一撃にされた事らしい。
ルードヴィッヒはようやく手紙を封筒にしまいこんだ。そのまま目線を車窓に向ける。
しばらくは仕事の事など考えず、こうしてのんびりと流れる景色を眺めても罰は当たらないだろうと思われた。何しろ車窓に流れているのは、人々の心の底にしか存在しないような広い草原と、小さな林と、ミニチュアのような家々が並べ立てられているだけなのだ。
これが現実だというのだから、驚かされる。
それからきっかり十三分後、汽車は予定通りフェザッリの駅へ到着した。
駅に降りると、構内は古びた造りで、所々蒸気機関の吐き出した煤で黒く汚れていた。屋根はなく、無声映画の中に迷い込んだような心地がした。追ってきたのが恋人でも新天地でもないのだけが残念だ。
外へ出ると、階段の下にきょろきょろと落ち着かなげに立っている制服姿の老人が見えた。一目で警官だとわかる制服はとても便利だ。老人の後ろには一台の馬車がとまっていて、立派な茶毛の馬が二頭、御者の前で大人しく立っていた。
ルードヴィッヒはゆったりと階段を下りていくと、彼に声をかけた。
「フェザッリ警察署長殿ですか」
写真で見た署長とは、ずいぶん印象が違って見えた。写真の中の彼はまだ髭をぴんと張っていたが、今はくたびれた老人といった風に見える。白髪交じりの髪の老人は、戸惑ったようにルードヴィッヒをまじまじと見返した。
「初めまして、協会より派遣されてまいりました。ルードヴィッヒ・エインと申します」
「あ、あなたが」
ルードヴィッヒが慇懃に頭を下げると、警察署長の狼狽はますます高まったように見えた。だが、すぐにそれも消えた。
「フェザッリ警察署長の、スミシー・アランです。このたびはどうも」
ルードヴィッヒは頭を上げると、差し出された手と握手を交わした。
「ここで出会えたのはちょうど良かった。一度ご挨拶に伺おうと思っていたのです。こちらへは見回りか何かで?」
「いや、いや、実は、あなたの事をお迎えにあがったのです」
「僕をですか、警察署長自ら」
「あなたの依頼人の――カーター・ピックマンさんに頼まれまして。それに、私のお話もお聞かせできると思いますし」
「そうですか」
ルードヴィッヒは納得したように頷きながら、ピックマンという人物について考えていた。町長や有名な弁護士だったというような話は聞いていないし、仮にも警察署長を執事か何かのように動かせる人物とは、いったいどれほどの権力を持っているのだろう?
「まずはこちらで話をしましょう。車を用意してありますので――まずはピックマン氏の邸宅へご案内いたします」
二人が黒塗りの馬車に向かい合わせに乗り込むと、署長はすぐに出発させた。
小さな窓から見えるフェザッリの町は、のどかで事件などとは無関係に見えた。周囲には煉瓦造りの商店や家々が立ち並んでいたが、車は一台も近くになかった。おそらく敷かれた石畳はほとんどが馬車の通行用で、車を持っているような人間はごく一部なのだろう。
だが、町の中ではあちこちに蒸気機関のパイプが通り、煙を吐き出していた。蒸気機関を取り入れているのだろう。見た限りでは急成長し始めた町といった風だが、成長途中で止まってしまっているようにも見えた。
「のどかで、いい町でしょう」
と、署長。
「ええ、そのようですね」
「それだけに、今回の事件は胸が痛みいります」
「心中、お察しいたします。確か、亡くなったのは――依頼人のピックマン氏のお兄様だとか」
「ええ、この町では有名でした。昔の名士の子孫の方でしてね。今でも町に良くしているのだとか――私はここに来て三年になりますが、良い方ですよ。少しばかり――その、良くないあだ名をもらっていらっしゃるようですが」
「良くないあだ名?」
「〈子豚ちゃん〉――ピッグマン、という。まぁ、なんといいますか」
――ああ。
ルードヴィッヒは困ったような苦笑をこぼしながら、内心、写真で見たパーシィ・ピックマンを思い出していた。
写真で送られてきたピックマンは上半身だけしか映っていなかったが、スーツもシルクハットも破裂しそうなほどにぶくぶく太っていた。ほとんど脂肪で出来ていたのであろうその顔は厭味ったらしくて、ただの写真だというのに内面が想像できるくらいだった。
しかし眼光は鋭く、いつも何かを見逃さぬようにしている――そんな印象を受けていた。
写真の中のカーター・ピックマンにも同じような印象を持っていた事もあって、おそらくこの家系の特徴なのだろうと思われた。
何かしら返事を返そうとしたとき、不意に馬の嘶きが響き、急に馬車が停止した。
ルードヴィッヒは咄嗟に壁に手をついた。下から突き上げるような振動がおさまってから、署長が舌打ちとともに御者のカーテンを開ける。
「おい、危ないじゃないか!」
署長が御者を叱りつける。
「何があったんだ?」
「すみません。道路にふらふらと出て来た男がいまして――」
「なんだと?」
署長がにらみつけると、御者は声を潜めた。
「あいつです」
その呆れたような言い方は、署長も知っている人物だと言いたげだった。
「グラーシーですよ!」
その言葉を聞いた途端、署長は大きなため息をついた。
ルードヴィッヒに向きなおると、片手をあげてすまなさそうにする。
「すみませんな、ちょっとお時間を」
扉を開けてタラップを降りていくのを、ルードヴィッヒはひょいと覗き込んだ。
”ふらふらと出て来た”らしい男は、今は道路際に座り込んでいたところだった。逆さまにした瓶を口につけ、最後の一滴を楽しもうとしている。
「また――お前か――グラーシー!」
署長の怒鳴り声が響いた。
「次に交通の邪魔をしたら、牢屋にぶち込んでやると言ったとこだろう――この〈赤ら顔〉め! 聞いているのか?」
「あぁん、またあんたか、署長さん。おれのお楽しみを奪おうっていうのかい」
グラーシーと呼ばれた酔っ払いは、今にも吼えかかろうとする獣のような表情で署長を睨む。
「また昼間っから飲んでいるのか? 飲むのはいいが、こんなところをうろつくのはやめろ!」
「うるせぇなぁ、あんたに指図されるいわれはねぇよ」
シャックリをしながら、グラーシーは掴みかからんばかりの勢いの署長を手で払いのけた。今にも転びそうになりながら、立ち上がる。署長が出て来た馬車を見ると、フンと鼻を鳴らした。
「いい物に乗りおって。たった三年しかここにいねぇ新顔のくせにな」
「グラーシー」
署長が地の底から響くような声で牽制するが、グラーシーはそっけなく馬車に近づいてきた。そこでようやく窓と、その中にいるルードヴィッヒの存在に気が付いたらしい。眉をちょいとあげると、黄色く染まった歯を見せつけながら笑った。
「あんた、あんただろう、呼びだされた探偵ってのは!」
グラーシーはルードヴィッヒに噛みつかんばかりに窓にしがみついた。
「思ってたよりも若造だな」と言いながら、ルードヴィッヒをまじまじと見つめて胡散臭そうに息を吐く。窓を一枚挟んでいるとはいえ、今にも酒臭いにおいが漂ってきそうだ。
「聞いてるぜ。あの豚のヤロウが呼ぶって噂がこの耳に入ってきたからな。あんたはどう思ってんだ、え?」
署長が怒りに満ちた顔で近付いてきたが、グラーシーは意にも介さずにつづけた。
「本当に人狼はいるんだ。蘇ってピックマンを殺しにきたんだ!」
吐き捨てるように言うと、グラーシーは後ろから署長に羽交い絞めにされた。
「あんたもじきにわかるだろうよ、探偵さん! あれは狼なんかじゃねぇ――れっきとした化け物だ!」
「さあ、もう馬鹿みたいに酔っぱらうなら、もっとマシな所にしておけ!」
グラーシーは抵抗するように手を振り回したが、酔っているからか簡単に馬車の窓から引きずりおろされた。あらぬ方向を殴りつけながら、足を引きずられて連れられていく。
署長が道路の端に放ると、そのままぐったりと寝ころんで何事かぶつぶつ言っていたが、やがていびきをかきはじめた。しばらくは起き上らなさそうだった。
どちらにしろこのままなら、今後しばらくは邪魔にならないだろう。
「まったく! わしがこんな状況でなかったら、牢屋にぶち込んでやってもいいんだ――命拾いしたな!」
聞こえていないと知りながらも声を荒げる署長に、ルードヴィッヒは少しだけ笑った。肩をいからせながら馬車に戻ってくる署長は、タラップを上がってくるときにはもう落ち着いていた。
息を吐きながらルードヴィッヒの向い側に座り込み、カーテンを開けて御者に合図をする。カーテンが閉められると、すぐに馬の嘶きがして、馬車が動きだした。
「今のは?」
申し訳なさそうにする署長に視線を戻して、ルードヴィッヒは口を開いた。
「気にせんでいいですよ。〈赤ら顔のグラーシー〉――この辺じゃちょっと顔の知れた呑んだくれです。いつもああしてほっつき歩いて、通行の邪魔をしてるんだ。今はいいが、いつか事故にでもあったらとんだ事だ」
署長の言いぐさに、ルードヴィッヒは微かに口の端をあげた。
「心配しているのですね」
「この小さな町で――あまり事件なんか起こしたくないでしょう」
返ってきた言葉は、切実に思えた。きっと今回の人狼事件も、静かな晩年を望んでいた彼にとっては予想外の出来事だったに違いない。この生真面目そうな老警官が、心の奥底では平穏を――あるいは、今まで積み上げてきた実績を――最後の最後に乱されることを恐れているようにも見えた。
「彼も人狼だと喚いていましたが」
ルードヴィッヒが聞き返すと、署長は肩を竦めた。
「ピックマンの旦那方とは違う理由でしょう。ピックマンの旦那方は――おそらく、恐怖なんかで狼が実物より巨大に見えたと思っております。たとえば――そう、あるではないですか?」
署長は同意を求めるようにルードヴィッヒを窺っている。
「仲の良い友人同士や、ある同好のグループなんかでも――良くしゃべったり、リーダーのような事をしている人は、実際の体の大きさよりも、ずっと大きく見えたりするでしょう? この場合は少し、違うかもしれませんが」
「あなたの言いたい事はわかりますよ。その人に対する印象が、見え方に影響を及ぼすということですね?」
「同じように、わしは――あの、襲われた恐怖が、より大きく見せたのだと思っているんです。狼は、狼です。それに、狼にしたって、今までそんな大きな獣がいるという話も聞いた事がありませんし」
署長は一旦そこで言葉を切った。
「それに、人狼などというのは――伝説のものでしょう?」
同意を求めるような、冗談交じりのような言葉に、ルードヴィッヒは明確な答えを示さなかった。
「ともかく」と続ける。
「依頼人の――カーター・ピックマン氏にお話を伺いたいところですね。実際に見たのは確か――カーター氏ですか」
「ええ、そうです」
署長は頷きを返して、ちらりと窓の外を眺めた。
「あともう少しで着きますよ。ああ、吃驚せんでくださいよ。ピックマン氏の邸宅は、この町でも唯一の大邸宅ですから」
「期待しておきましょう」
まるで自分の物か、町の誇りであるように振る舞う署長に、ルードヴィッヒは静かに返した。
署長の視線につられたように目線を窓の外へやる。しばらく眺めていると、町中というには少し離れた場所へと向かっていた。閑散とした牧場へ続く道ではなく、きちんと整備された石畳が突き進んでいる先には、遠くに白い邸宅が見えていた。
馬車がとまると、外から扉が開けられた。
「足元に御気を付けて」
「どうも」
御者に軽く頭を下げるようにして外に出る。石畳に降りて前を見ると、ピックマン邸は、何者をも拒むかのような空気で建っていた。
小さな町には似つかわしくない仰々しい鉄柵が周囲を取り囲み、良く手入れのされた正面の庭と、その先の屋敷を覆っていた。
中に入る者はだれであれ、礼儀と正装以上に麗しき血と肩書きを必要とされているようだった。
庭の左手側には噴水には溢れんばかりの髪をした女神像が鎮座し、彼女の抱えた壺からは贅沢に水が零れだしている。周囲には妖精やノームを模したと思われる小さな像が配置されていた。
右手側にはきちんと整備されるように植えられた花畑の中央に向かって、石畳が敷かれていた。バラのアーチに囲われた先にあずまやがあり、そこから辺りの景色を見渡せるようになっている。
だがその光景のどれもこれも、見得というべきか、虚勢のような空気が醸し出されていた。ルードヴィッヒはこの感覚をどう捉えるべきか考えあぐねていたが、やがて真似事のようなものだと気付いた。
噴水も、あずまやも、どれも単品でこそ屋敷に似合いのように思えるが、全体の構成としてはちぐはぐなのだ。
一つ一つに贅を凝らしてはいるが、全体的な統一感が無い。
「成金趣味だな」
ルードヴィッヒは聞こえないようにそう呟いた。
鼻で軽く笑い、先を行く警察署長の後ろをついていく。
白壁の二階建ての邸宅は、少し古さが垣間見えたものの、この地の領主的な存在として町を見下ろしているように見えた。庭園の方の趣味の悪さは、ごく最近の主の趣味であるらしい。
重厚なドアがノックされると、すぐに扉は開かれた。
「これは、警察署長どの」
髪をぺったりとはりつけた陰鬱で寡黙な男が、署長に頭を下げた。浅黒い肌の男は、小奇麗なスーツに身を包んでいて、彼が従僕でなく主人というのなら驚いたところだが、おおかたはルードヴィッヒの想像通りのようだった。
「ヴァン君、こちらは、探偵協会のルードヴィッヒ・エインさんだ。カーターさんはいるかね」
従僕の青黒い目がルードヴィッヒの方に向き直る。無表情の男は軽く挨拶をした後「こちらへどうぞ」とだけ言った。
ピックマン邸の中は、外に負けず劣らず贅を凝らしていた。
だがそれはルードヴィッヒが外の雰囲気から観察したように、成金趣味の一言で切り捨てられそうなものばかりだった。
廊下に飾られた丸みを帯びた中国製の青磁器も、壁に掛けられた絵画も、どれも本物には違いないだろうし、一つ一つを見れば趣味が良いと言えないこともない。しかしやはり全体的な統一感がとられておらず、苦笑すら浮かびそうだった。
「こちらへどうぞ。しばしお待ちください」
執事は部屋の一つの前で立ち止まり、慇懃に礼をした。署長に続いて部屋に入る。二人が部屋に入るとドアが閉じられ、足音が遠ざかっていった。
コートを脱ぎながら部屋の中を見回す。床には分厚い黒と金色の装飾が施された絨毯が敷かれ、靴音を消していく。
向かって右側に、焦げ茶色のロココ調の、座り心地だけは良さそうなチェアが二脚。そして反対側にはソファが向かい合わせになったその間には、同じく焦げ茶の木製テーブルが置かれている。その上に置かれた燭台。
更にはチェアと同じシリーズであると思われる本棚、ライトとチェスト、そしてテーブルの向こう側に見える壁の中央には、装飾の施された暖炉とマントルピースがあった。暖炉からはぱちぱちと火が燃える音がしている。
「うん?」
マントルピースの上の壁にはマスケット銃三丁が掛けられていたが、その左右にはそれぞれこちらを睨みつけるような狼の首が飾られていた。
――狼?
ご丁寧にその表情はどちらも少しずつ違って、左の狼は口を閉じているのに対し、右の狼は僅かに咢を開いてその牙を見せつけている。その上、左側の狼は、右の狼よりもずっと頭が大きい。
頭でこれなら、どれだけ少なく見積もっても、体の方は普通の狼よりも二倍は大きいと思われた。剥製にされた銀色の毛皮を見るに、どちらも本物のようだ。
客間であるにも関わらず、客を威圧するために作られたような部屋の中で、その二匹の狼だけが妙に真に迫って見えた。
「凄いですよなあ」
横へ歩いてきた署長が感嘆の声をもらす。
「ピックマンさんは、狩猟がお好きなのですか」
「は。ああ、ええ、お父様の代から有名だったとかで」
署長は一瞬ぽかんとした後に答えた。どうやら、狼ではなく部屋そのものに対する感想だったらしいと気付くまで、しばらくかかったようだ。ルードヴィッヒはソファを大回りして狼の飾られた奥の壁に近づくと、下から獣の姿を見上げた。
もっと良く見ようかと頭をかくりと動かした時、背後から扉の開く音がした。振り向くと、二人の人間が部屋へ入ったところだった。
「ああ、ピックマンさん!」
署長が声をあげた。
「カーター・ピックマンだ。このたびはどうも」
「はじめまして。探偵協会のルードヴィッヒ・エインです」
二人は軽く握手を交わした。
カーター・ピックマンは、写真の中で見るよりも数倍疲弊しているように見えた。潰れたヒキガエルのようだった兄よりも細くがっしりとしていて、日に焼けた浅黒い肌をしている。筋肉質な体は、少なくとも兄よりは、体を動かす事を嫌わないようだ。しかし、軍人めいていた目は今や落ち窪み、恐怖を受け止めきれなかった者の表情をしていた。
それでもこうしてしっかりと地に足をつけられているのは、ひとえに彼自身の心の強さなのだろう。その証拠に、茶色い目の光は失われていない。
「こちらは弟のアーサーです」
カーターはもう一人の男を手で示すと、軽く顎で合図をした。
「アーサー・ピックマンです。お会いできて光栄ですよ、探偵さん」
ルードヴィッヒはもう一人のピックマンとも握手をすると、軽い挨拶を交わした。
弟であるアーサー・ピックマンの写真はなかったが、カーターよりも頭一つ分背が低く、体格は中肉中背。茶色の髪や目の色は兄と同じであることから、この一家の特徴であるらしい。
縁なしの眼鏡をした顔は冴えない男といった風体だが、やはり色以上にピックマン家の特徴であると思われる、茶色い目の眼光だけは鋭かった。
「座ってください。コートはその辺りへどうぞ」
ルードヴィッヒは示されたソファの背にコートをかけると、そのまま座り込んだ。隣に署長が座ると、向かい側の席にカーター、アーサーが座り込んだ。
「それでは、改めまして。オレが依頼人のカーター・ピックマンだ」
「ええ。お話の方は大体聞いております。さっそくですが、お兄様の死に、化け物が関わっているということですね?」
「その通り」
カーターはやや興奮したように声をあげた。
「あれを見たのはオレだけなんだ。もちろんオレだって、あの光景が今でも信じられない」
「あなたがたは全員、狩猟をなさるのですか?」
ルードヴィッヒはカーターを落ち着かせるように、ゆっくりとした丁寧な口調で言った。
「は? ああ。親父の代からの趣味で」
「お仕事なども同じなのですか?」
「いや、そこまでは。オレたちは三人とも別で仕事を持ってたから――でも、狩猟だけは唯一共通した趣味だったんで、時間を見つけてはよく行っていたんだ」
「なるほど。では、そのご趣味の最中に、という事ですね。心中お察しします」
改めて確認するように言ったあと、口を結んだ。
「では、発見されるまでの様子を教えてください」
「ああ。ええと――」
カーターはいくらか思い返すように話しはじめた。
「あの日――オレは、兄と弟と一緒に森に狩りに出かけた。他にも二名、町のハンターが同行してた。ヘンリという男と――ケヴィンという若いのだ」
ケヴィンの名を出した時、カーターは少しだけ戸惑いのようなものを出した。ルードヴィッヒはその違和感には今は何も言わずに、ただ頷いた。
「この町には、親父が作った〈狼少年〉という狩猟クラブというか、ハンターたちの集いのようなものがあるんだが、オレたちもそこに所属している。――自分で言うのも何だが、名誉会員のようなものだな。狩猟に行く場所はいつも決まっていて、この近くにある森、〈狼の森〉と呼ばれているところだ」
――また狼か。
ルードヴィッヒは何も言わずに続きを促す。
「それでまぁ、時間もできたから五人で午後から狩猟に出かけたんだ。あの森は〈狼の森〉とは呼ばれているが、狙うのは大体狐や鹿が主流だな。名前通りに狼がいるのはもっと奥の方になる。あの日は確か、中々獲物が姿を現さずに――オレたちは途中から分かれて行動していた。オレとアーサー、ヘンリの三人と――兄貴とケヴィンの二組にな。雨も降りそうだったんだが、できれば大物を仕留めてやりたかったし」
「続けてください」
「それで、ええと――運よく此方は獲物を見つけて睨みあってたんだが、そのうちに、兄貴の悲鳴と銃声がしたんだ」
「時間などは覚えていますか?」
「別れてから、三十分か……一時間は経っていなかったと思うが……はっきりはしないな。もう夕方に近くなっていたし、暗かったから、具体的な時間までは覚えてない。おかげで獲物を逃がしてしまったが、何か事故でも起こったのかと思って探し回ると――」
カーターは片手で自分の顔を覆った。
「黒い毛におおわれたあいつは、倒れた兄貴を覗き込んでいたんだ! 最初は巨大な狼だと――思って――でも、あいつはオレを見ると、後ろ足だけで立ったんだ! そして唸るような声でこう言ってのけた――あれはオレの気のせいだったのかもしれない。でも確かに、あいつは笑っていた――「約束通り殺しに来た、次はお前だ」と……」
――二本足で歩き、言葉を話す……。
それだけでも怪物、化け物と形容するには充分すぎた。
「オレは叫びながら銃口を構え、一発ぶちこんでやったよ! 化け物はすぐに走り去っていった。とにかく、情けない事に腰が抜けかけていたんだ――化け物が行ってしまってから、慌てて兄貴に近寄ると、もう息はなかった」
思い出すだに恐ろしい出来事のようだった。
「では、その……化け物が、お兄さんを殺したのは間違いないようですね」
ルードヴィッヒは少し迷ってから、化け物という言葉を選んだ。
「一発ぶちこんだと言いましたが、当たったのは見ましたか?」
「当たった――ような気もするが、ちょっとわからないな」
「わかりました。他に何か覚えていることはありますか?」
「ええと」
カーターはしばらく記憶を探るように顎に手を当てていた。
「すまないが、思い出せない」
「そうですか」
ルードヴィッヒからの質問がなくなったので、カーターは安堵したような息を吐いた。おそらくその場に居た誰からも、同意を得られなかった事からの不満があったのだろう。
「もう一度確かめておきたいのは、あんたに依頼したいのは兄貴を殺した化け物が実在するかどうかだ。できればあの化け物はオレの手で殺してやりたい」
「ですが、あなたの証言からすると、次はあなたなのでは」
「オレだって、いつまでも怯えたままじゃない! ――それに、化け物殺しなんてめったにあることじゃない」
そう言ってカーターは笑ったが、兄を殺した化け物に対する憎悪を隠しきれていないようだった。そこに混じる、化け物殺しの栄誉に対する欲も。
「そもそも、オレたちには化け物に殺されるいわれなど無いんだ」
「そうでしょうね。誰だってありません――ところで」
ルードヴィッヒは、壁の銃に視線を向けた。
「いい銃ですね。ここにある銃は、これで全てですか?」
「ああ。三人もいるとまぁ、趣味が多かったから、親父が使っていたもの以外は、クラブに置かせてもらっているんだ」
「少し、見せてもらっても宜しいですか」
「それは構わないが……」
「もしかしたら化け物が来るかもしれませんし、いざという時には頼りにさせていただきたいと思いますので――弾はどちらに?」
ルードヴィッヒがそう続けると、カーターは納得したように頷いた。
「そこの棚に全て入れてあります」
部屋の中の棚の一つを指さし、それから立ち上がる。
「此方で部屋を用意しよう。今日はゆっくり休んでくれ。銃はいつも手入れしているから問題はないと思うが――もし何かある時のために、クラブの人間にも来てもらわねばならないかもしれないしな」
カーターは人間という言葉を強調したようだった。
「銃なら、ゆっくり見てくれ。親父の物だからあまり使いたくないのも本心なんだが――いざというときは、いつもあるからな」
そして、部屋の扉へと歩むと、ドアを開けた。
「もしあんたたちのどっちかが人狼で、銃に何かするつもりでも――アーサーが見張っていてくれるだろうよ」
捨て台詞のような言葉には、不敵な笑みが含まれていた。カーターはそのまま部屋を出て行ってしまった。
――どっちか、ということは。
署長の事も疑っているのだろうか、とルードヴィッヒは思ったが、多分挑発のようなものだろうと受け流すことにした。とはいえ署長の方は多少なりとも不本意だったようで、目を白黒させていた。
いずれにしろ、宿を確保する必要が無くなったのは僥倖だった。無駄な時間が省ける事には違いない。ルードヴィッヒが銃を見ようと立ち上がりかけると、不意にアーサーが顔をあげた。
「ルードヴィッヒさん。少々よろしいですか」
引き留められたルードヴィッヒに、署長がちらりと目配せをする。
「居てくれて構いませんよ。それほど込み入った話ではありませんから」
視線の意図するところに気付いたアーサーが声をかける。ルードヴィッヒがもう一度ソファに腰かけると、アーサーは署長を見た。
「私は仕事がありますから、お暇させていただきますよ」
「おや、そうですか。ヴァン、ヴァン! 部屋を工面する前に、署長をお送りしてくれ」
アーサーが手を叩くと、呼ばれた執事は「かしこまりました」とだけ言った。廊下へと署長を連れだし、扉を閉める。アーサーは一つ息を吐くと、ルードヴィッヒに向きなおった。
「せっかく来ていただいたのですが――そのう――」
アーサー・ピックマンは、兄と違ってまだ冷静に見えた。
「そのう、実は――あなたを呼んだのは、兄を納得させるためなのです」
アーサーはルードヴィッヒの反応を窺うように、ちらりと目線を上げた。怒りはしないかという気遣いよりも、わざと下手に出ることで同情を誘おうとするような仕草だった。
「わかりますよ」
ルードヴィッヒがそれとなく頷いて理解を示すと、アーサーは少しばかりほっとしたように肩の力を抜いた。
「それはよかった。私自身、兄の言う事を疑いたくはないのですが……さすがに、人狼というのは――ねぇ。魔女に比べたら、非現実的すぎる気はしませんか」
唐突に出て来た魔女という言葉に、ルードヴィッヒは僅かに目を細めた。
「協会について色々とご存知のようだが」とルードヴィッヒは言った。
「確かに魔女は、悪魔と通じた女性という意味で使われますし、協会の設立者が魔女を多く相手取っていたことも事実です。しかし、それだけです」
自分とは関係が無いと言うような含みを持ったルードヴィッヒに、アーサーは少なからず鼻白んだようだった。ルードヴィッヒはそんな相手に何も返さず、じっと見つめた後に言った。
「あなたのお兄さんは、人狼とおっしゃっていますが」
話題を変えるような穏やかな声に、アーサーが視線を戻す。
「あなた自身は今回の件について、どうお考えになられますか」
「私、ですか」
アーサーは少し考えるそぶりを見せてから、唸った。
「私の考えは、署長さんと同じですよ」
「署長と?」
「ええ、少し話し合ったのです。兄抜きで。あの森は〈狼の森〉と呼ばれるくらいですし、今も奥には狼がたくさんいると思います。外側はともかくとして、今でも奥へは入りすぎるな、と言われているくらいです。パーシィ兄さんは――そういう事はいまいち気にしないタイプでしたから――奥へ踏み込み過ぎたのでしょう。最近でも、羊が襲われたりという話は、少なくとも私は聞いたことはありません。狩猟の時にも見る事はありましたが、正しい去り方を知っていれば、たいてい向こうから離れてしまうんです。でも、パーシィ兄さんは森の奥に入り込み過ぎたんだ。ですから、兄を殺した狼を撃ち殺してやりたいとは思っても、妙ちくりんな化け物がいるようには思えませんね」
「なるほど」
ルードヴィッヒは頷き、先を促す。
「ですから、私の結論は変わりません。だいたいそれほど大きな狼がいれば、もうとっくに見つかってますし、私どもの耳にも入っているはずです」
アーサーの自信に満ちた言い方に、ルードヴィッヒは視線をあげた。
「それに、ここだけの話ですが」
興奮を抑えるように、一度坐りなおした。ネクタイの結びを軽く整え、息を吐く。
「兄は――カーターは、疑心暗鬼になっているのです。パーシィ兄さんを殺した人狼が、ケヴィンという男だと疑っているのです。人狼は人に化ける生き物だと聞いていますし、二組に分かれた時、一緒にいたのはケヴィンですから」
「……ああ、なるほど」
ルードヴィッヒは、カーターがケヴィンの名を出した時に感じた小さな殺意のようなものの正体に、ようやく納得した。
「もしケヴィンがパーシィ兄さんを殺した犯人だったとしても、あの傷はさすがに銃ではできないでしょう。ケヴィンが巨大な狼を操ったというなら別ですが、そんな事ができるのは魔女ぐらいなものでしょう。そもそも、私たちがこういう生活をしているのも、昔そういった大きな狼を退治したからですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。親父の代にですが。それに、名士と呼ばれるほどの事はしていないと――僕は思うのですけどね」
そうは言ったが、僅かにその顔に自慢げな色が浮かぶ。
「三十五年前に、化け物じみた巨大な狼がいたらしいのです。それを親父が仕留めたと。実物が見たければ、ほら、あなたの横にいますよ」
「ああ……」
ルードヴィッヒは、部屋を見下ろしている狼を見上げた。
「家畜の方もそうですが、人間も偶に襲われたりしたようですよ。だいぶ凶暴だったとかで。それで、現在の〈狼少年〉の前身であるメンバーたちと一緒に、森に入って仕留めたそうです」
隣の狼よりも二倍近い大きさの頭。ルードヴィッヒはもう一度見上げてはみたが、顔の周囲についている銀色の毛皮は、凶暴というよりも神秘性すら感じる。
「体の方はどうしたんですか」
「それは聞いていません――でもそれ以来狼もあまり見ませんし、出たとしても逃げてしまったとかばっかりで。噂も聞きませんしね。でも、もしそんなものがいれば、僕たちが知らないはずはありませんよ」
ルードヴィッヒは少し考えるように黙ってから、口を開く。
「わかりました。ところで、あなたのお父様やパーシィさんは、何かを恐れているとか――、人狼やそれに似た怪物に殺されるとか、逆に殺してやるといったような事を言っていませんでしたか?」
「……いいえ? まったく」
アーサーはぽかんとして答えた。
「そんなものがいるなら、恐れるよりもとっくにそう豪語していたと思いますね」
「そうですか。いえ、気にしないでください」
その時、ドアがノックされる音が響いて、執事が中に入ってきた。
「アーサー様。グレンフィード医師が到着なされました」
「ああ! これはちょうどいいところに。通してくれ」
執事が立ち去るのを眺めてから、ルードヴィッヒはアーサーを見る。
「この屋敷には、彼一人で? それとも他の方も?」
「ええ、彼一人です。ヴァンと言いまして、パーシィ兄さんが見つけてきたのですが、素晴らしい何でも屋です。でも、ほら、あの通りあまり笑わないでしょう――ユーモアを理解しないのだけが不満ですが、料理の腕に関しては保障します」
「ほう。それは楽しみだ」
再びノックがされ、ドアの向こう側からどかどかと恰幅のいい男が雪崩れ込んできた。白衣を着こみ、焦げ茶の使い込まれた医師鞄を手にした小柄な老人だった。剃りあげた頭にベルトをぴったりと巻きつけ、ごついゴーグルを固定している。
「君が例の探偵卿か!」
「そういうあなたが、グレンフィード医師ですね」
ルードヴィッヒは立ち上がり、片手を差し出した。
「このたびは残念な事になってしまった」
医師はゴーグルを広い額へと押しやると、青い小さな瞳でぱちぱちと瞬きをしながら握手をした。
「パーシィ・ピックマンはお得意でもあったし、ピックマン家とは先代から私的なつきあいもあったからな。――本当に残念でならんよ」
「心中お察しします」
手を離すと、グレンフィード医師はアーサーへと視線を向けた。
「アーサー、すまんが、少し席をはずしてくれないか。探偵――調査官か? まあどちらでも同じことだろう。ルードヴィッヒ君と少々話をしたいのでな。あまり気分のいいものでもないだろうし」
この一家にこうしてある程度の指図ができるのは、この人物ぐらいかもしれなかった。それは付き合いの事もあるだろうし、先代から世話になっているからという理由もうかがえた。
「そういう事でしたら」
アーサーは立ち上がった。
「では、お部屋の準備を致しましょう。グレンフィード医師も、今日はお泊りください――兄も歓迎するでしょうし。お話が終わりましたら、ヴァンをお呼び下さい。それまでには準備も終わるでしょう」
「悪いな」
先に立ち上がって部屋から出ていく際、アーサーはちらりと二人の方を見た。だがそれも一瞬で、すぐにドアは閉められた。アーサーが出て行ってしまってから、医師はようやく落ち着いたように溜息をついた。心なしか、一気に老け込んだように見える。ルードヴィッヒの方を向き直ると、どんぐりのような眼がぱちぱちと瞬きをした。
「すまんな、ルードヴィッヒ君。改めて、わしがグレンフィード、この町で医者をしている。さっきも言ったが、ピックマン家とは先代のトマス・ピックマンの頃からの付き合いだったんだ。さ、座ってくれ」
ルードヴィッヒが元の位置に戻り、医師はその隣に座る。
「僕にお話というのは?」
「君はもう見ているかもしれないが」と続けると、彼は胸ポケットから数枚の写真を取り出した。
「パーシィ坊やの遺体についてだ。こんなこと、他の兄弟たちの前では言えんよ」
テーブルの前に置かれた写真は、パーシィ・ピックマンの死体を色々な角度から映したものだった。その中には、ルードヴィッヒの元に送られてきたものもある。血にまみれた姿は、凄惨という以外に言いようがない。
「ピックマン氏の御遺体……ですね」
「そうだ」
そのうちの一枚を自分の手でとると、他の写真をすべてルードヴィッヒの方へと滑らせた。
「わしはこの町に長く住んどる――学校に入るために離れとった時期もあるが、医者になってからは四十年近くここで営業しとるんだ。それ以前は医者がいなくてな。風邪だの何だの、沢山のケースを見て来た。助かったものもあるし、助からなかったものもある」
ルードヴィッヒも、テーブルの目の前にある写真を手にとる。
「むろんあの狼の森での事故もだ。足を滑らせただの、挫いただの、転んだだの――大人も、子供も関係なくな! もちろんその中には、興奮した獣に襲われたとかもあったよ。そういう事故というのはたびたび起こる。だがこんなケースははじめてだ」
医師は睨むようにその写真を見つめた。
「わしは言ったよ、狼にやられたに違いないとね。だが確信がなかった。いくら狼といえど、こんな傷を残せるはずがない――まるで狙ってつけたようじゃないか!」
ルードヴィッヒは自分のところにきた写真を手にとり、特に別アングルから撮られた写真をじっと見つめていた。
「それにだ。この――信じられないような傷をつけた後は、心臓を一突きだ! 相当の殺意と、爪のような武器がなくてはならん。わしは都でこういう武器を見た事はあるが、使いこなせる者は少ない。腕のところに隠さなければならんからな。もしあのメンバーの中でそんなものをつけているような奴がいたら、すぐに指摘できただろうよ」
医師は一息に言った。
「人狼の存在は確認されているのは知っとる。あんたたち探偵や、都の部隊が、ああいった生き物を相手どることもな。だからこそ、カーター坊やが人狼だと言った時、わしは何も言わなかった。何も反対する事はないと思ったからな」
医師は持っていた一枚をもテーブルに置いて、ルードヴィッヒへと流した。その右手のやり場に困るように、握ったり開いたりしている。
「だが、なあ、探偵君。本当に人狼はいるのか?」
医師の問いは、疲れ切ったように聞こえた。自分の理解の範疇を越えた生物の突然の到来に、戸惑っているようだった。
「人狼は確かに存在します」
ルードヴィッヒは暫く考えてから、言葉を紡いだ。
「不死身の肉体を持ち――これは死なないという事ではなく、死ににくいという事なので――正確にはほぼ不死身の肉体を持ち、実際に、寿命は人間の数倍と言われています」
写真のうちの一枚を手にして、指に挟む。
「唯一わかっているのは、銀製品で傷をつける事です。それで確実に殺せます」
「聞いた事がある」
医師は唸った。
「そして、今回考えられる人狼の特徴の一つは――」
言いかけた時、ノックの音が二度響いた。
「どうぞ」
「ルードヴィッヒ様。グレンフィード様。お部屋のご用意が整いました」
扉が開くと、無口な執事が、ドアの前に立っていた。ルードヴィッヒは立ち上がり、軽く医者に目配せして、手に持った写真を懐にしまった。
「わかりました。――銃を見るのは夜になりそうだな。医師殿、僕は先に荷物を置いてまいりますので」
「ああ、わしも若いのに荷物をとってこさせるとしよう。ヴァン、後で電話を借りたいのだが」
「わかりました」
先に歩き出したグレンフィード医師に続いて、ルードヴィッヒはその後を追う前に、壁にかけられた狼を振り返った。
――しかし、参ったな。
壁からは、相変わらず巨大な狼の屍が見下ろしている。銀色の毛におおわれた金色の瞳は、何を考えているのかわからなかった。
――必要なのは人狼の情報なのか、それとも狼なのか……。
その疑問に答えられる人間は、今はまだいなかった。
暫く狼とにらみ合ったあと、コートと荷物を持って扉へと歩いた。
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