第一章 〈赤ずきん〉――またはロビン

 ロビンは朝から、今日の服装に迷っていた。

 ピンク色のパジャマをベッドに放り出し、小さなリボンのついた下着姿で床に座り込んでいる。目の前にある服はどれもお気に入りのものばかりを並べた。

 ヒラヒラとした飾りのついた白いワイシャツを着るのはやっとの事で決まったけれど、茶色の吊りスカートにするか、深緑色のスカートにするか、それともいっそまったく違ってワンピースにするか、ずっと決めかねていた。

 何しろ、今日は十三歳の誕生日なのだ――今日ぐらいはいつもの地味な洋服じゃなくて、お気に入りの赤いワンピースにしようと思ったが、でも、いざワンピースを目の前にすると、そんな考えはすぐに頭の片隅に追いやってしまった。

 結局、ロビンは深緑色のスカートを手にとった。

 代わりに、お気に入りの赤いワンピースは夕方のためにとっておくことにした。

 真っ白なシャツに腕を通し、ボタンを一つずつ丁寧に穴に通していく。穴を掛け違ってないことを確かめてから、スカートを穿いた。

 それからベッドの脇に置いた眼鏡ケースを手に取ると、銀色の髪を揺らして鏡の前に立った。

 鏡を見ながら、ケースの中の黒ぶちの眼鏡をかけ、髪の毛を整える。おばあちゃんがくれたものの中で、唯一この眼鏡だけは気に入っていなかった。色のついた分厚い硝子に隠れて、目の色が違って見えてしまうのだ。なんだか本当の自分じゃない気がしたし、そもそもこの黒ぶち眼鏡のデザインそのものあまり気に入っていなかった。

 それでも眼鏡をかけている理由は、太陽光が目に悪いかもしれないからと、おばあちゃんがそれだけを過剰に心配しているせいでもあった。鏡に映る茶色い目の自分を見ると、やっぱりなんだか違う気がしたが、結局そのままかけ続ける事にした。

「ロビン! 朝ごはん早く食べちゃいなさいよ」

「はぁーい!」

 キッチンからかけられた声に向かって大声をあげたが、聞こえているかは怪しい。撫でつけるように銀色の髪に櫛を通し、二つにわけた髪をそれぞれ三つ編みにする。ロビンは鞄を持って部屋を出た。ダイニングの空いた椅子に鞄を置き、いつもの席に座る。

 テーブルには、朝食と綺麗に包まれたお弁当箱が置いてあった。お弁当箱を鞄の中に入れると、鞄はいつもより少し膨らんで見えた。何が入っているのかと聞かれないかとどきどきしていたが、お母さんはそんな事に目をやる余裕はないようだった。すぐに洗濯物を持って、キッチンから裏口へ行ってしまった。

 皿に置かれた狐色の食パンにバターを塗ると、すぐに溶けて広がって、つややかになった。そこに果実が半分ほど残ったいちごのジャムを塗りたくり、口の中に頬張る。焼きたての味はいつも同じ味で、グラスに入ったミルクを飲みながらちびちび食べるのが習慣だった。義務教育であるところの学校に入ってからの八年間、ずっとこの生活を続けてきた。

 ロビンはちらりとキッチンに戻ってきたお母さんに目をやると、残っていた食パンを飲み込んでから口を開いた。

「お母さん。進路の話なんだけど」

 ロビンの国では、八年が過ぎれば義務教育が終了する。それはこの国の最南端に位置するような小さな町でも同じだった。十三歳の誕生日を迎えたロビンは、次にどうするかを考えなくてはならない時期にきていた。

 今年の八月がくれば、いやがおうでも卒業しなければならないし、そもそも一週間後には進路の希望を提出しなければならなかった。

「ああ――ええと――そうね、ちょっと待って」

 でも、それ以上に気になることがあるのか、ぼんやりした返答しか返らなかった。

「一週間後には、書いて提出しなきゃならないのよ」

 ロビンは忙しそうに歩き回るお母さんに向かって言ったが、今度こそ返事はなかった。きっと苛々させているのはわかりきっていたが、言わずにはいられない。

「ねえ」

 強く呼んだが、かえってきた言葉はたった一言だった。

「ロビン」

 立ち止まったお母さんは、やっぱり、怒るような、苛々したような口調で呼んだ。

「今、お母さん忙しいの。見てわからない? 帰ってきてからでもいいでしょう。早くご飯食べちゃって」

 そう言われてしまうと、返す言葉もなかった。

 仕方なく、皿に残ったスライスハムを口に含む。塩味が効いていた。

 ばたばたと家の中を動き回るお母さんがまたキッチンに戻ってきた時は、さきほど苛ついた気配も無くなっていた。それどころじゃないのだろう。

「そうそう。ママ、今日は遅くなるから、早く帰ってらっしゃい」

「おばあちゃんは?」

「えっ?」 

「おばあちゃんが今日来るんでしょう?」

 そこまで言われて、お母さんははっとしたように気付いた。

「忘れてたわ」

 申し訳なさそうな顔で、ロビンの頬に顔を近付くとキスをする。

「ごめんなさいね――誕生日おめでとう、ロビン。それと、本当に残念なのだけれど――」

「どうしたの?」

「昨夜だったかしら? 急にお義母さん――おばあちゃんからの伝書鳩が届いて。誕生日には来られないっていうのよ」

「えっ!」

 その時の自分の顔は相当ショックだったに違いない。

「きっと、プレゼントの用意が遅れているのよ。心配しないで。来週には必ず誕生日会をするから、今日は帰って待っててちょうだい。ね?」

 慰めの言葉をかけると、反対側の頬にキスをして、お母さんはまた離れていってしまう。

「あ、あのね、お母さん」

「なに?」

 お母さんがまた小言を言いかける前に、ロビンは早口で言った。

「今日は誕生日会に行くの。だから、お夕飯の事は心配しなくていいわ」

「まあ! そうなの?」

「ええ――そう、友達が誕生日会を開いてくれるって。だから、あたしの事は気にしないで。ほんとよ!」

 それは半分うそで、半分は本当だった。

 お母さんは微笑んだあと、本当に嬉しそうに笑って言った。

「遅くならないようにね」

「気を付ける」

 ロビンはそれだけ言ってしまうと、朝食の残りを片付けて椅子から降りた。そのままいつものように、歯を磨いて顔をあらって、少しだけくしゃくしゃした髪の毛をもとに戻す。

 すべて終わって、鏡の中にうつった自分を見ることもなく、ロビンはダイニングに置いたままにした鞄を手に取った。

「ロビン、パパに行ってきますは?」

 そう言われなくても、いつもの習慣を忘れるはずはなかった。

「行ってきます、パパ」

 玄関先に置かれた写真立ての中のお父さんに挨拶をすると、玄関から飛び出した。


 結局のところ、ロビンは知っていたのだった。

 うちには高等学校に行くだけのお金もなかったし、それを工面できるだけの余裕もない、ということを。

 かといって、お母さんがロビンの将来についてどう思っているのか想像することもできなかった。いつも忙しそうだったし、何よりそのことについてじっくりと話し合うだけの時間もなかった。いつかしなければならないとお互いに思いながら、忙しさにかまけて、とうとう引き返せないところまで来てしまったのだ。

 だから、お母さんがどう思っているのかまったくわからなかったし、ロビンもそれを言わないままにしてしまった。

 お父さんが生きてさえいれば、と何度か思ったことを、頭の中で掻き消した。

 そもそも一週間以内に、希望の進路が書けるのかわからなかった。

 たいていは上の学校に行くか、それともどこか奉公先を見つけて働きに出るのかのどっちかを選ぶことになる。どちらの自分を想像しても、どれもこれも何か違う気がして、ロビンは自然とおばあちゃんのことを少し考えていた。

 おばあちゃんは森の中の小さな家に住んでいる。

元森番をしていたおじいちゃんが住んでいた所だ。おじいちゃんが亡くなった今でも、一人でそこで生活している。

必要な分の野菜や果物を育てながら、ジャムやピクルスを作ったり、何かあった時はよく効くハーブを紅茶にして飲んだりして暮らしていた。

 たまに来るおしゃべりな鳥たちは、あれでいて放っておいても色々な事を教えてくれたし、時間がとてもゆっくり流れていた。

 ロビンは学校に通うよりも、森の中にいる方が好きだった。

 おばあちゃんはそれをあまり快く思っていなかったようだけれど、それでも水の流れに耳を傾けたり、土の上に大の字で寝転がったりする方が好きだったのだ。町に買い物に行くよりも、おばあちゃんに届け物がある時は率先して頼まれた。

 きちんと整備された町の中の方が、ロビンにとっては窮屈で仕方なかったのだ。

 ――おばあちゃんみたいになれればいいのに。

 ロビンはそう思いながら、郊外の牧場近くの家から、とぼとぼと町中の学校に向かっていった。

 学校は、町の中にある。昔はそこから見る景色も広かったが、今では押し寄せるような周りの建物におされていて、よけいに重苦しさを感じた。

 教室についてからも、午前中の授業の間、ロビンはずっと飛竜虫の事を考えて過ごした。飛竜虫はトンボのような生き物だが、とても大きくて人を乗せる事ができるらしい。実際に乗りこなす人もいるようだが、それはごく一部の人だけらしかった。

 かわりに、都会の方ではそれをもとにして作った巨大な機械――スチームバグだか、スチームドラゴンだかいうらしい――を使って飛行する人たちもいるらしい。

 ロビンはノートの端に、図鑑で見た飛竜虫を落書きしたり、消したりしながら、午前中を乗り切った。

 そうして何かひとつの事を考えることで、自分が考えなければいけないことから目を逸らしていたのだった。

 本当は、自分が誕生日だというのも忘れてしまいたかった。

 鞄の中に入っているのも、同じクラスのエラという女の子のための誕生日プレゼントだった。

 クラスの全員が、エラが今日、誕生日だということを知っている。

 でも、クラスの全員が、ロビンも今日、誕生日であることは知らなかった。

 クラス中の全員がロビンの誕生日を知らなくても、だれひとり気にしていなかった。

 エラは町で昔から商店をしているところのひとり娘で、いつもきれいな服を着ていた。それになにより、とびきりの美人だった。宝石のような青い瞳はいつもくりくりとして愛らしかったし、巻き毛の金色の髪の毛はふわふわとしていた。エラに話しかけられると、ただそれだけで緊張してしまうような、そんな魅力があったのだ。

 だけど、どうしてかロビンはエラが苦手だった。

 他人と話すのは元から苦手だったのだけれども、エラは特別だった。

 同じ女の子の自分から見てもとても愛らしいその魅力は自分にはないものだし、劣等感のせいだとわかってもいる。ただ、気のせいだと思っても、反対にエラが自分を見る目には優越感のようなものが見てとれたし、それを感じとれてしまうぐらいにエラは輝いていた。

「ロビン」

 呼びかけられて、ロビンははっと振り返った。

 振り返ると、目の前にジークが立っていた。

 ジークはクラスの中で――学校の中でも特別かっこいい男の子だ。ストレートの金髪で、切れ長の青い目をしている。エラとも仲が良くて、付き合ってるんじゃないかと噂されていたが、今のところ二人のどちらもはっきりとしたことはない。でも、二人で並んでいるところを見ると、とてもお似合いだった。

「きみもエラの誕生日会に行くんだろ?」

 にこにこと笑いながら話しかけてくるジークに、ロビンは一瞬言葉に詰まった。

 ――悪いけど用事があるの。

「う、うん。もちろん」

 頭に浮かんだ言葉と違って、ロビンの口からはそんな声が出た。

「ほんと? うれしい!」

 横からエラが唐突に飛び込んできた。その声色も表情も本当にうれしそうだったから、それ以上何も言う気はなくなってしまった。

「これで全員出席だな」

 ちびのベンジャミンが、まじめくさって表にチェックをつける。

「エラの誕生日パーティに出席しないなんて、すごくもったいないからね!」

「ベンジャミンは大げさなのよ」

 エラが笑って言うと、教室に花が咲いたみたいだった。

「それに、パーティなんて。それこそ大げさよ」

「大げさなんて事はないでしょ。エラの誕生日なんだから!」

 横から赤毛のバーバラが笑って言った。

「場所は――」と、ジーク。

「あたしのおうちよ。知ってるでしょ?」

「うん、知ってる」

「じゃあ、待ってるからね」

「エラー! ちょっとこっち来て!」

「わかった、ちょっとまって! じゃあね、ロビン」

 エラはロビンに手を振ると、女の子たちの方に行ってしまった。

「エラ! あたしたち、家に帰らずに直接行きたいんだけど。パーティの前に、ちょっと遊びましょうよ」

「いいわよ、大丈夫!」

 そんな女の子たちの声を聞きながら、ロビンは下を向いた。本当はプレゼントだけ渡して、こっそり家に帰るつもりだったのだ。だけど、行くと言ってしまったのは、なぜかどうしても断れない迫力のようなものを感じてしまったせいに他ならない。

「ジーク! ジークもちょっとこっちに来てくれない?」

 エラがジークを呼んだ。

「じゃあ、また後で」

「ええ、うん」

 ジークを見送る途中、エラがこっちを睨みつけたような気がしたのを、ロビンの目は見逃さなかった。

 ロビンは気が付かなかったふりをして、ただ鞄の中を整理しはじめた。

「ほらみんな!」

 唐突に手が二回叩かれる音がした。クラス中の視線が、一斉に扉に向けられる。スーツ姿の先生が、腰に手を当てて立っていた。

「ホームルームは終わったのよ、早く帰りなさい」

 はぁい、と元気のいい声が答える。

「いい子たちね! 最近、森が危ないらしいから、入っちゃだめよ」

 ――森が危ない?

 はい先生、という気取った返事が飛ぶ中で、ロビンはその意味を考えていた。

 クラスメイトたちが、次々と先生にお辞儀をして教室を出ていく。ロビンは落とし物をしたふりをして、もたもたしながら最後に教室を出た。

「さようなら、先生」

「さようなら、レッドリーフさん」

 にっこりと笑って送り出してくれた先生も、ロビンを祝ってはくれなかった。

 忘れていたのだ。

 ロビンは挨拶をすませると、まっすぐ家に帰った。鍵を開けて、誰もいない家の中に入る。鞄の中に入れた誕生日プレゼントを、別の鞄の中に入れ替えた。それから冷蔵庫を開けてミルクを飲みながら、帰り際に先生が言った事を思い出していた。

 ――森が危ない。

 先生は今の今まで、そんな事をはっきりと言った事はなかった。頭の中で思ってはいたのかもしれないが、妙に引っ掛かるところがある。

 ロビンのおばあちゃん――お母さんからすると義理のお母さんで、お父さんのお母さんにあたるらしい――は、森の中の古い森番小屋に住んでいた。

 お父さんが子供のころは、おばあちゃんだけこの家に住んでいたらしいのだが、ロビンが物心ついたときには、おばあちゃんはもうずっと森の中に住んでいるという印象しかなかった。

 実際は大きくなったお父さんが結婚してから、おじいちゃんのところに一緒に住むようになったらしい。その理由をはっきりと聞いたことはなかったが、お父さんも結婚して一人前になったし、おじいちゃんも足腰が悪くなったからと、様子見のつもりで住むらしい。

 お母さんはずっとおじいちゃんが来ればいいのにと言っていたらしいが、おじいちゃんはおじいちゃんで頑として古い森番小屋に住み続けた。

 だから、お母さんとしては、おじいちゃんが亡くなった時点でおばあちゃんを呼ぶつもりだった――そう聞いた事があった。でも、おじいちゃんが亡くなった今も、おばあちゃんはずっと古い森番小屋に住み続けている。

 ――たぶん、おじいちゃんが好きだったから……かな?

 いくら考えても、それ以上の理由は思いつかなかった。

 森に行くことよりも、おばあちゃんの家に行くのは、クラスメイトに遊びに誘われるよりもずっと面白かった。

 確かに、友達を作らないのにはあまりいい顔をしなかったけれど――家の周りには見た事もないハーブについて、これはお茶にすると疲れた時にいいとか、あれは火傷をしたときの薬に使うものだとか、行くたびに教えてくれるのは、学校の授業よりもすごく楽しかった。

 森番をしていたおじいちゃんの銃を見るのはどきどきしたが、それもすぐに慣れてしまった。きっと、大切な思い出のひとつにはちがいないのだ。

 ――おばあちゃん。

 ぼんやりと物思いに沈んでいると、そういえば、とこんなことを考える最初のキッカケを思い出した。

 ――森が危ないって、どういうことなんだろう……?

 改めて言っただけなら、それはそれでいいんだけど。と、ロビンはミルクを飲み干しながら思った。

 それからたっぷりと時間を潰して、ロビンは家を出た。きちんと鍵をかけて、エラの家の道筋を頭の中で考える。出かける前に、ベッドの上に出したままにしてあったお気に入りの赤いワンピースが目に入ったが、結局着替えはしなかった。

 夕方に差し掛かった空は、町をオレンジ色に染めている。

 ロビンはエラの家に向かいながら、なんとか途中で抜け出す方法はないかと考えたが、結局うまい言い訳は思いつかなかった。

 町の大通りを通り過ぎて、住宅地の方へと歩いた。

 エラの家はクラスメイトならだれでも知っていたし、それはロビンも同じだった。

 エラの家は住宅地の中でも、新しくてきれいに整備された地区にあった。静かで、裏路地のような密集地とは全然ちがう。洗濯物はひとつも見えないし、一つ一つの家に庭があって、小さくとも必ず門がついている。

 庭に植えられた花や木々の中から、黄土色の切妻屋根と白い壁の家が見え隠れするさまは、まるでおとぎ話の中に入り込んだみたいだった。それも、自然の中に存在するものではなくて、きちんとそういう風に作ってある、楽しませるために作られたおとぎ話のように思った。

 その中でも新しい家が、エラの家だった。もうすでに何人かのクラスメイトと、エラの”個人的な友達”が集まってきていた。

 開けっ放しにされた門をくぐり、ロビンはこっそりと中に入り込んだ。

「こんばんは、おばさん」

 エラのお母さんに挨拶をしてから、パーティ会場であるダイニングに入る。その景色に、思わずほう、と息を吐いた。

 部屋の中はちゃんと全員が入っても余裕があるくらいの大きさで、奥に見える暖炉の前には誕生日プレゼントが積まれている。天井からはきらきらとした飾りがぶら下がり、テーブルの上にはお菓子やケーキがたくさん乗っていた。

 なんだかとても眩しい。入口の辺りで突っ立っていると、後ろから唐突に声をかけられた。

「ロビン」

 振り返ると、エラが立っていた。

「来てくれてありがとうね」

「あ……うん」

 なんとかそれだけ答えたが、エラはそのまま行ってしまった。といってもエラと話す事なんて見つかるはずもなく、テーブルの上の盆に置かれたオレンジジュースを手に取ると、そのまま隅のソファの端っこに座って飲み始めた。

 食べたり飲んだりしていれば、特に目立つこともないだろう。

 家の中にはクラスメイトの十五人と、エラの”個人的な友達”も何人かいて、みんなそれぞれ話すのに夢中だった。

「そういえば、エラは来年になったらどうするの」

 なんとなしに誰かがし始めた話に、ほぼ全員の視線がエラを見た。

「まだ、正式に決まったわけじゃないんだけど……」

 エラはもじもじとしながら言う。 

「ハイデルの町の学校を受験するかもしれないの」

 彼女の口から出て来た言葉に、誰かが口笛を鳴らした。

 ハイデルの町!

 シュトガルトで最古の大学が残る学園都市の名を、こんな小さな町の女の子が口にすること自体、ありえないことだった。

 この辺りで一番いい学校がある場所というとそこしかない、というぐらいには有名だった。

「じゃあ、そこの大学に行くつもりなの?」

「ええ、たぶん」

 と、エラ。

「ここからじゃ遠いけど、どうやって通うんだよ」

 クロードがオレンジジュースから口を離しながら尋ねる。

「バカね、寮住まいに決まってるでしょ、そんなの」

 K・Kが本当に馬鹿にしたように言った。

「誰がバカだって!」

「そこに反応しないでよ! 本当にバカみたいに見えるわよ」

 友人たちの言い争いに、エラがくすくすと笑った。

「でも、受かったら寮住まいかもね。そっちの方が色々と安心だもの」

「寮って厳しいんだろう?」

「そうかもしれないけど、でも、安全って意味では私は寮の方がいいわ。お母さんたちも安心できるだろうし……」

 真剣に考えるエラに、クロードが感心したように頷いた。

「オレだったら一人で住みたいけどなぁ」

「あんた、無茶苦茶いうのね」

「何だよ、無茶苦茶って」

 またクロードが吠えかけて、K・Kが嫌な顔をした

「いちいち突っかかってこないでよ。たいした事じゃないでしょ」

「そういう事にしといてやるよ。今日はエラの誕生日だし」

 クロードはドーナツに手を伸ばしながら言った。

「そういやあ、隣のクラスのベスチアンってやつも」

 齧ったドーナツを飲み込んでしまってから、クロードは続けた。

「来年になったら大きな町に行くんだって言ってたよ。すっげぇ自慢してた」

「へえ! どこなの?」

「さ、さあ。そこまでは聞いてないけど」

「なあんだ」

 もごもごと口ごもるクロードに、K・Kが思わず腰に手を当てた。

「しょ、しょうがないだろ。隣のクラスの奴なんだし」

「でも、最近は上の学校に行く子も増えてきたって、先生言ってたわ」

とK・K。

「ちょっと前までは、牧場の子も多かったしね」

「家業を継ぐってやつ?」

「そうそれ」

「この辺じゃ多いしなぁ」

 今でこそ町になっているけれども、つい三十年くらい前までは、もっと小さくて、村と呼ばれていたらしい。牧畜が盛んだったから、郊外に少し土地を持っているとか、つい最近売ってしまったという人も少なくない。

「トニーも確かどっかの学校に行くって言ってなかった?」

「まぁね。高等学校なら他のとこに行かないと。まぁ、近くじゃないと許してもらえなさそうだけどさ」

「K・Kは?」

「トニーと一緒よ。近くにあるでしょ。この辺の子たちなら、みんな近いとこに行くんじゃあない?」

「そりゃそうね。ま、頭の出来の方は違うだろうけど」

「なんだと!」

 先にトニーが吼えたので、みんなどっと笑った。

「そういえば、ロビンは決まってるの?」

「えっ?」

 急に話しかけられて、ロビンは驚いた。オレンジジュースを手にしたジークが、無邪気に笑いかけている。一斉に視線がこちらを見ている。

 何の話だったかは理解しているし、でも、決まってないし、決めてないとは言えなかった。一瞬沈黙があってから、ロビンは苦し紛れに声を出した。

「あ、――ごめん、ちょっと聞いてなかった」

 肩透かしを食らったように、クロードが肩を竦め、全員が黙った。なんだか申し訳ないような、今すぐ逃げたいような気持ちになる。

「……そういえば、先生が昼間に森に気を付けろって言ってたけど。誰かなんか知ってる?」

 気分を変えようと思ったのか、ちびのベンジャミンが言った。

「森には気を付けなさいよぉ」

 クロードが先生の口調をまねて言ったので、ベンジャミンが噴きだした。今の沈黙など無かったかのように、再び和やかになる。

 今度はもう誰もロビンを見ていなかった。

「なんでも森の中で――化け物が出たとか、出てないとか――」

 怖い話でもするようにおどろおどろしく言うのに、K・Kが冷たい目で見つめる。

「なあに? 化け物って。幽霊でも出たっていうの?」

「さぁ。でも〈赤ら顔のグラーシー〉が、〈子豚ちゃん〉がどうとか、探偵がどうとか言いまわってるってさ」

「誰? そのグラーシーって」と誰かが言う。

「町の酔っ払いよ! くだらないことばっか言ってんのね。パパが言ってたわ」

 K・Kが今度こそあきれ果てたように言った。

「そもそも、なんで化け物が出て探偵が呼ばれるのよ。探偵って、ふつうは浮気調査とか、身元の調査とかする人たちでしょ」

「ロマンがないなぁ」

「クロードは小説の読みすぎなのよ」

「でも確か昨日あたり、〈子豚ちゃん〉の家の辺りが騒がしかったような――」

 〈子豚ちゃん〉ピッグマン――もとい、ピックマンについて、ロビンはある程度の事は知っていた。その最たるものが、”ピックマンと関わってはいけない”ということだった。

 だから、ロビンが知っている事といえば、他の子供たちが知っている事と大差なかった。彼らはお金持ちで、町のはずれのすばらしく大きなお屋敷に住んでいて、手が出せそうにもない高価な調度品とともに暮らしていること。なかでも長男のパーシィ・ピックマンは厭味ったらしい顔でいつもにやにや笑っていて、黒のシルクハットと揃いのスーツで、はげかけた頭と豚みたいにぶくぶく太った体を隠していること。彼のその独特の風体こそが、ピッグマンのあだ名の元になったこと。

 特にパーシィ・ピックマンはお金持ちである事を隠しもしないし、むしろ町の人々を馬鹿にしているようだった。

「そんなことあったっけ?」

「新聞にだって載ってないぞ、そんな話」

「〈子豚ちゃん〉っていうけどさ、あんだけお金があれば楽しいだろうなぁ。こんな感じで、召使にいろいろ言ってさ」

 クロードがオレンジジュースの入ったグラスの脚を持って、クルクルと回す。

「クロードはどうせ下らない事に使っちゃうんでしょ」

「そんな事ないよ! オレだったら絶対、この町をもっと大きくできるし」

「ふうん」

「信じてないな、こいつ!」

「はいはい。でも、パーシィのお父さんは英雄なのにね」

 リリーが適当にクロードを流して、話を変える。

「英雄っていったって、僕らの生まれる前の話じゃないか」

 トニーが乗っかりながらも、面白くなさそうに言った。

「あたしが言いたいのはそういうことじゃないわ。いい人の子供が、いい人ってわけじゃないってことよ」

「それ、どういうこと?」

「だからぁ、〈子豚ちゃん〉のお父さんは町の英雄でしょ。でも、パーシィ・ピックマンはそうじゃないってこと」

「英雄の血を継いでるのに?」

「あんた、あの子豚ちゃんを見てそう思うの?」

「ごめん、僕が悪かった」

 間髪入れずに謝るトニーに、どっと笑いが起こった。

 ロビンは暫くじっと中身の減ったオレンジジュースのグラスを見つめていた。

 ――帰っても、いいかなぁ……。

 だれも喋る子のいない空間に、ロビンは耐えられなくなってきたのだった。

ロビンはじっと人が見ていないのを見計らい、こっそりとトイレに行くふりをしながら、鞄を持ち出して外に出た。

 室内の人数の多い生ぬるい空気から解放されて、ほっと一息つく。そういえば、誕生日プレゼントをどうしようかと思いながら玄関から出ると、不意に人の声がしたのに気付いた。

 ――今の声……?

 近くの繁みに隠れると、耳をすます。そっと茂みの中から目を凝らすと、影になったところに、ジークとエラの姿が見えた。

「ちょっと、ジーク――どうしてあの子まで誘ったのよ」

「あの子って?」

「ロビン・レッドリーフのこと」

「いいじゃんか、べつに。クラスメイトだから誘っただけだよ。一人だけ誘わないのも変じゃないか?」

「それはそうだけど――ねぇ、あなた知らないの? あの子、本当はどういうつもりで来てるのかわかったもんじゃないわ」

「どういうこと?」

「あの子ね、ほんとはあたしと同じ誕――」

 ロビンは聞いていなかったふりをして、玄関先から声をあげた。

「エラ! どこにいるの?」

 途端に、会話がとまった。微かに、ジークはここにいて、という言葉が聞こえたような気がしたが、それに関して何も言わないでおこうと決めた。

「ここよ、ロビン! ちょっと外の空気を吸いにね。どうしたの?」

 目の前に現れたエラは、いつものように、にこやかで、花を咲かせるような愛らしい顔をしていた。

「ごめん、今日はもう帰らないといけないの。これ、誕生日プレゼント」

 ロビンは早口でいうと、鞄の中から出した包みをエラに押し付けるようにして言った。

「あら、そうなの? ――残念だわ」

 眉をハの字にして言ったが、残念という気配は微塵にもなさそうだった。

「本当にごめんね――また学校で」

「ええ、またね」

 ロビンは振り返りもせずに門から出た。後ろでは今頃、エラはジークの所に戻って、しばらくしたら中に帰るんだろうと思った。遠ざかっていく喧噪から逃げるように、住宅地の中を進んでいく。

 ――かえろう。

 別にみじめというわけではなかったが、少しだけおばあちゃんに逢いたくなった。それに、なんだか胸騒ぎがしたのも事実だ。

 ――森で、何が起こったんだろう……?

 お母さんからは、森で何か起こったなんて聞いてなかった。おばあちゃんが来られなくなった事も忘れていたぐらいだから、たぶん知らないか、黙っているかのどっちかだと思ったが、それ以上はやっぱりわからない。

 エラの家に来た時と同じ道を逆にたどりながら、さっきパーティ会場でされたなんてことない会話を思い出していた。

 ――もうちょっとじっくり聞いておけば良かったかも……。

 でも、今更戻るのも気が引ける。仕方なく、ロビンはもやもやとした気分を抱えながら、家路についた。

 町から次第に遠ざかり、石畳はやがて踏み慣らされて固くなった土の道に変わった。景色も赤煉瓦の建物から、牧場や小さな農場が広がる風景に変わっていく。この辺りは森ではないが、森と続いて木々が乱立しているところがあって、なんとなしにそっちを見た時だった。

 ――なに?

 じっと、こっちを向いている視線があった。

 思わず立ち止まってしまうほどの、強烈な視線。

 鞄を抱き、きょろきょろと辺りを見回したが、人通りはまったくなかった。人の気配も感じないし、昼間よりは暗いけれども、ロビンは人より目がいい。夜でも人の動く気配ぐらいは感じられた。眼鏡をとってしまえばいっそもっとよく見えたかもしれなかったが、今それをする勇気はなかった。

 林の暗闇の向こう側から、金色の瞳が二つ、ロビンと目が合った。

 それも人の目ではなく、獣の目だった。ぎくりとして後退る。

 ――犬? ちがう、あれは……。

 たった数秒の間だったのに、とても長い時間見られていたように思った。やがて金色の瞳は、急に踵を返して暗闇の向こうに消えてしまった。

 ロビンは暫く茫然と立ち尽くしていた。

 はっと気づいたときには、まるで夢だったかのように、そこには何もいなくなっていた。

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