彼と人。
「行ってしまうのですね……」
逆巻く時間の渦の中で、脳裏に蘇った愛する人の声が私の記憶を引き出す。
「すまない。私の判断の善し悪しを、この目で確かめなければならない」
涙を流し懇願する君を残して旅立つのはこの身が裂ける想いだった。
華奢な君を抱き寄せて、口づけを交わした。
「私は父親失格だ」
私の子を身ごもった君は、首を振ってから力強い笑顔を浮かべた。
「この子の父親はあなたです……。この子が……この子が幸せになれる世界を創って来てください……」
誰よりも幸せにしたかった君が望んだ最後の願いだった。
────
────
肌を撫でる水の感触、流れる水の音に、私はゆっくりと意識を……。
「ごほあっ……!」
空気と一緒に体内へ侵入した水にむせ返った私は勢いよく上体を起こし何度もせき込んだ。どうやら川の浅瀬で仰向けになっていたらしい。
むせるのを落ち着けながら立ち上がり、周囲を見渡した。
周囲は夜の静寂と闇に包まれていた。私が立っている川の周りには木々が生い茂り、時折、風が茂みを揺らしている。
「着いたのか……」
元いた時代と大差のない光景を目の前にして、多少の疑念を覚える。
川からあがり周囲を見渡す。ちいさな動物や昆虫の気配が辺りからするが、人のそれはない。
「ん?」
少し下流へ降りた川の中央に位置する大きな岩。そこに何かつかえているのが見えた。
ざぶざぶと川に足を踏み入れ近づいていき、それを手に取る。
それは見たことのない不思議なものだった。
厚さは木の皮ほどだが色は白で、手に取ってみた感触はさらさらと心地よく、広げてみると三角に近い形をしており、それぞれの辺に穴が空いている。
「なんだこれは……」
見た事がない時点で考えた所で答えは出ないだろう。が、おそらくこれが人工物だということは直感でわかっていた。
これが流れて来たであろう上流に人がいる。
私がそう考えるに至った瞬間、裂くような悲鳴が周囲の静寂を破った。
人の悲鳴だ。それも上流の方から聞こえた。私は手にした謎の人工物を握りしめ、声のした上流へと駆けだした。
上流に向かうにつれ、茂みは段々と深さを増していく。私は足を取られないように気を付けながら悲鳴の主の元へと歩を早めた。
少し進んだ所で、小さいが女性のものと思われる声が聞こえてきた。その声を頼りにさらに進むと、段々と声がはっきりとしていく。
そして、女性の声に混じって低い唸り声が聞こえるようになった頃、私は茂みを抜け、木々の開けた場所に出ることが出来た。
「く、来るな! 穢らわしい魔物め!」
ぽっかり木々が捌けたその場所には、一人の若い人間の女性と、周囲の木々と変わらない背丈の大男のような魔物が対峙していた。
ぱきっ、と足下で枝の折れる音がした。
「だ、誰だ!」
焦った表情で女性がこちらを振り返った。
「……人。助かった……」
この時、女性の言葉がわからない事に気が付いた。
私を見た女性の顔に泣きそうな程の安堵の色が浮かぶ。だが、
「……って、裸!?」
視線が私の体に行った途端、彼女は驚きと恥ずかしさの混じったような悲鳴を上げて目を逸らした。
「な、なんで裸なんですか!」
女性は途端に頬や耳を紅く染め声を張り上げる。
「もう一人、人間がいやがったのか」
大男のような魔物の地に響くような低い声が響いた。
また、この時同時に魔物の言葉は変わらず理解出来ることに気付いた。
「まとめて喰っちまうか」
「なに物騒な事言ってんだ。冗談か?」
「あ!?」
私が話し掛けると魔物は大きく驚いたような表情をし、周囲をきょろきょろと見渡した。
「い、今のはおめぇが言ったのか……?」
私を指さし、疑うような口調で魔物が言う。見ると、人間の女性も驚いた表情をしていた。
「ああ。……おかしいのか?」
言いながら、魔物の近くまで歩を進める。
魔物は私の質問にポカンと口を開けている。
「ちょ、ちょっと!」
女性の横を通り過ぎようしたとき、女性がいきなり声をあげた。
立ち止まり、視線を向けると、女性は警戒して後ずさりしていた。
「あ、あなた、に、人間ですよね……?」
「すまない、君の言葉がわからないんだ」
言ってから、私の言葉も彼女に通じる筈がないと気付いた。
「その言葉……」
彼女が何か言い掛けているとき、突然背後から陰が伸び私を覆った。
女性が悲鳴をあげる。
次の瞬間、私は大男の手に握られていた。
「なんだ?」
拳の中で圧迫されながら、俺は魔物を見上げた。
「おれ考えるの苦手なんだ。だからとりあえず二人とも喰ってからにする」
聞き捨てならない内容をさらっと魔物が発した。
「魔物が人間を喰らうのか?」
私の言葉に魔物の眉間に皺が寄った。
「質問ばかりうるさいぞぉ! 静かに喰われろ!」
私を握った拳が魔物の口へと運ばれていく。どうやら対話をするには少し知性の足らない魔物らしい。
女性の悲鳴が聞こえた。
「いただきまぁす」
この状況だけではまだ不確定要素が多い。が、私を喰らおうとする大男の魔物、それを眼前にし悲鳴をあげ恐怖する人間の女性。
いまこの瞬間の私の立ち位置が決まった。
「あ、あっついい!」
魔物が悲痛な叫びをあげ、私を放り捨てた。
「おっと」
投げ捨てられた私は、すぐさま空中で体勢を立て直し地に降り魔物を見据える。
「あついいいい!」
魔物は私をつかんでいた手に火傷を負ったらしく、痛みに苦悶し声をあげ逃げ出す。
少々、やりすぎた気もするがこれくらいは然るべきものだろう。
「い……今のって……。その手……」
背後の女性が私の姿を見て声をあげる。
「ま、魔法……?」
魔法により炎を宿した私の右の手。私はこの手で魔物の手の中を焼き、脱した。
「あなたは一体……」
女性の声は震えている。言葉はわからないが、また驚かせてしまったのかもしれない。
そっと彼女を振り返る。違和感。
彼女の瞳には、私が危惧した恐怖や驚きはなく、ただ羨望さえ入り交じったようなキラキラとした眼差しが浮かんでいた。
「すごい! すごいです!」
女性は鼻息荒く私に近づき、手を取って熱っぽい口調で続ける。
「魔法使い様だったんですね!? うわぁ、かっこいいなぁ! いいなぁ!」
すでに炎が消えた右手を興味津々に彼女は見る。
「あ、まだあたたかい!」
言葉はわからないが、その姿はまるで無邪気な子供のようだった。
不意に、握っていた私の拳が開き、ひらりと何かが落ちた。
それは、河で拾った謎の人工物が焼け焦げたものだった。
「あ」
それを見た女性の目が点になる。
「私の、パンツ……」
小さな声で彼女が呟く。
反応からしてこの人工物は彼女の物なのだろうか。
私が拾おうとした瞬間、横から彼女の手が伸び奪い取るように人工物をさらっていった。
「さ、探していたんですよ! ひ、ひろってくださったんですよね……!」
何かを言う彼女は、ひきつった表情でじりじりと後ずさりしていく。その目からは羨望が姿を消し、私に対する警戒心が芽を出している。
彼女に近づこうとしてみる。
「ひっ……!」
彼女は小さく悲鳴を漏らしながらさらに後ずさる。
「あの、えっと……、ごめんなさい!」
そう言った次の瞬間、彼女は走って逃げ出してしまった。
どうやらどこかで怖がらせてしまったらしい。
「……難しいな」
ため息をつき、私は彼女が消えた茂みの方の木の枝に飛び乗った。
地をいく彼女にばれないように後を付けることにしたのだ。
私の目的を果たすためには、もっとこの時代の情報が欲しい。その為に彼女に人が集まる集落まで案内させる。
私は、必死に駆ける彼女の背を視線に捕らえ、追跡を開始した。
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