十二、後主趙建徳

 

「さしあたり、当方のお聞きしたいことからはじめたいが、いかがでござる」

 呂嘉に異存はない。

「ここを先途とまかりこしている。いかようにも、決着をつけてしまいたい」

 番禺城陥落のあと戦果がまとめられ、桑広羊のもとにも報告書が届いていた。しかしその報告内容は、まったく満足のいかないものであった。その点を、桑広羊が指摘した。

「ご宝物・外洋船・海人一族。これらの行方についてお訊ねしたい」

 宝蔵庫の中身が消えていた。事前に持ち出された可能性が高い。焼け落ちた蔵の灰燼のなかに、宝物の痕跡すら見いだせなかったのである。

 王宮は炎につつまれたが、造船所も全焼した。南越の造船技術は明らかに漢の水準を越えていた。貴重な設備や備品・道具、さらには記録類がすべて失われたいま、いかにして技術を受け継ぐか。

 港に船が一艘も残っていなかった。開戦前には外国籍もふくめ、まだ十艘ほど繋留していた。それが残らず出帆してしまっていた。武帝は、すぐにも海外交易を実行するよう命じている。航海の準備・訓練に既存の船舶は必須である。

 海人といわれる一族が家族ぐるみ、姿を消していた。乗組員や船大工を、伝統的にひきついできた一族である。造船と操船に欠かせない人びとである。


 ふたりは改めて向きなおった。深夜の交渉が、はじまろうとしていた。

 茶を一服すすったのち、呂嘉はゆっくりと口をひらいた。

「ご指摘の件、お答えいたす」

「またれい。記録をとりたいが、よろしいか」

「ご随意に」

 桑弘羊は、手元の鈴を鳴らした。ほどなく、若いおとこが手文庫を提げてあらわれ、弘羊のとなりにすわった。

「おりよく、わが府邸に逗留中の書生がおるので、記録を取らせる。わが家に所蔵する資料を読み、一晩中書写をつづけても飽きない熱心な若者だ。司馬遷という」

 父親は太史令で、「天下の遺文・古事」を収集し、諸国の伝承を取材していた。司馬遷もまた父にならい、各地を旅し、見聞を広めている。西南夷に使者として赴き、帰ってきたところだという。

 呂嘉は、そのおとこをいちべつした。司馬遷は呂嘉の目をまっすぐに見て、小さく目礼した。

 ――すなおな目だ。

 呂嘉はそれだけを思った。ことばは交わさなかった。

「ご宝物は、焼失と盗難の危険があったので、べつに保管してある。蒼梧王より、そっくりお渡しする。これにより、王侯・将官・国人の罪の不遡及と生命の安全を、保証していただきたい」

「承知した」

 交渉というよりも、まるで世間ばなしをするように、淡々と語られ、へいぜんと諾否の反応が示された。

「造船所の焼失は、わが方の過失ではない。火をつけたるはお手前の手のものと推察しておる。失われたものは、取り戻せない」

「外洋船は、二十艘あったと聞いているが」

「すべて出航しているが、二艘だけ、べつの港につないである。うち一艘は、後主の身代わりにお渡しする」

「ほかになん艘、いただけるか」

 桑弘羊の問いに、呂嘉は応えない。弘羊はさらにたたみかけて問いかけた。

「後主におたねがご誕生とか」

 すでに情報はまわっていた。よどみなく呂嘉は肯んじた。

「くわえてもう一艘、進呈する」

「呂一族の配流先が決まった。益州である」

「蜀か」

「いや、益州郡不韋県。滇国のまだ西にある。配流にいたる道のりの無事を保証する」

 西南夷の地域である。平定されて間もない。道中の困難が容易にしのばれる。このときだけ、司馬遷と名乗るおとこは顔を上げた。

「ご配慮かたじけない。ならば、こころいたものをひとり、お渡ししよう。このおとこに海人一族の部下をつける。こやつは、船の建造と外洋の航海に長けている。まず船を新たに作られよ。その後、新造船に乗り込んで、このおとこの先導で行けば、南洋、西洋いずこの海洋も往来は意のまま。港々に知己がおる」

 祖王趙佗の嫡子趙始の師傅しふ趙成は、晩年陸に上がり、後進の指導にあたった。むすこがあとを継ぎ、やはり船に乗り、船を作った。趙就ちょうじゅという。 そのおとこが、航海と造船の技術移転をするという。

「よかろう。で、この担保は、どのように」

「わしの命とひきかえる。羅伯はすでに後主にお会いしておるで、わしの役目は終った。羅伯にはつなぎの仕事がある。約定を果たすべく、すぐにも解き放たれよ」

「帝に言上のうえ、ご沙汰をえる。一両日、ゆるりとされよ。ご貴殿にはぜひにも、王陵墓のありかを、お聞かせいただかねばならぬでな」

 桑弘羊はうっかり口をすべらせた。交渉がスムーズに運び、つい気を緩ませてしまった。のちに悔やむことになる。

 ――才子、才に溺れたるか。

 呂嘉は声に出さず、腹で笑った。すでに覚悟は、決めている。

 ふたりは客室に移された。幽閉ではない。客人の待遇である。

 翌日、羅伯は出立した。「伝」という通行手形を渡されている。

 趙建徳が赦された。

 その知らせがもたらされたあと、呂嘉はひとり祝杯をあげ、少時まどろんだすえ、消え入るようにみまかった。

 老衰である。

 かろうじて支えていたのは「気」の力であった。風船がしぼむように、「気」の抜けた呂嘉のからだは、小さく縮んでいた。文字どおり「精根尽き果てた」、そんな態である。

 二度死ぬひとはいない。名のない遺骸は、建徳に引き渡された。


「なにものでございますか」

 司馬遷は、細かい事情を知らない。

「亡霊よ、化け物といっていい」

 吐き捨てるようにいって、桑弘羊は目をそむけた。

「亡霊、ですか。ずいぶん高齢のように見えましたが、いったい何歳だったのでしょう」

「すでにいちど死んでいるから、亡霊にちがいあるまい。歳は、百や百十は越していようが、はて、わしも知らぬ」

「王陵墓のありかとは」

「あやつの誇りとひきかえに、からだを寸刻みに切り刻んでも、問いただそうと思うていたが、せんを越された。地獄の底まで引きずってゆきおったわ。けだし見事というべきか」

 このときだけ弘羊は、自嘲するように頬をゆがめた。天才を自任する自信家が、ひとに見せたことのない表情だった。


 なにがあったのか、司馬遷は疑問に思ったが、ほどなく忘れた。

 かれの父司馬 たんが、亡くなったのである。武帝の封禅の儀式に参加できなかったことを苦にして、憤死したのだという。これを契機に司馬遷は父の遺志を継ぎ、『史記』の執筆を決意することになる。


 司馬遷は、趙建徳とほとんど同時期のひとである。前一三五年の生年というから、このとき二十六歳。ただし、異説もある。

 二十歳のとき、みずからの意志で長江、黄河両流域の大旅行を敢行していらい、武帝に随行して全国の主要地域を踏破した。西南夷にも足跡を残している。しかし、湖南の長沙あたりまでは足を伸ばしているものの、嶺南へは一歩も足を踏み入れることはなかった。

 その司馬遷にして、『史記・南越列伝』において、「呂嘉は小忠のひと」であったと、酷評している。理由は、「趙佗の後裔を絶やした」からだという。

 そのじつ南越国を滅ぼしたのは、武帝による漢帝国の中央集権強化という政治的必要によるものであり、南越国の内部紛争はきっかけにすぎない。手段はどうであれ、南越国の内属化、郡県化は時代の要求であり、滅亡もまた歴史の必然であった。

 さらに、番禺城陥落のあと逃亡した趙建徳と呂嘉は捕らえられ、呂嘉は斬首されたが、建徳は長安へ送られ、のち述陽侯に再封されている。趙佗の血筋につらなる趙光も随桃侯に封じられ、命までとられていない。事後も、趙一族には累がおよんでいないのである。

 結局、呂嘉とその一族が、誅殺あるいは配流され、南越国滅亡の全責任をとらされたかたちで決着した。

 ――戦火を避け、南越国とひきかえに、嶺南の大地と百越の民を永遠に残す。

 呂嘉のもくろみは成功したといっていい。

 これこそ、建国の祖王趙佗の望んだ解決策である。

「小忠のひとで結構」

 呂嘉のつぶやきが、聞こえるようである。


 前一一一年に南越国を平定した漢武帝が、旧南越領を九つの郡に分けたことはすでに述べた。その数年後、これらの郡のうち徐聞・合浦・日南の港から、数艘の外洋交易船が出帆した。インドシナ半島からマレー半島を回ってインド洋に入り、黄支国から南下し、己不程国に到達したと、『漢書・地理志』に記載されている。

 両地は、いまのインド東南海岸にあった国とスリランカで、当時の代表的な中継貿易港である。大量の絹織物が両港で積み替えられ、西方にもたらされた。南方航路を開拓し、海外交易の実現をめざした武帝が派遣した商船隊の処女航海である。この成功に力を得て、交易は回を重ね、船足はさらに伸びた。漢代、海のシルクロードは、陸のシルクロードとあいまって、ともに隆盛を誇った。

 南越国が先鞭をつけた「絹海道」は、忘れられた。


 ともあれ、趙建徳は赦された。いちど廃された述陽侯にふたたび封じられたのは、漢の「寛大さ」を誇示する意味合いがある。

 南越国は漢朝の郡県下に編入された。新体制のもと、人心を安定させ生業に勤しませるため象徴的な人物を立て、嶺南各地を慰撫して巡る方案が策定された。趙建徳が推された。南越建国の王としていまなお崇拝されている趙佗の直系の子孫である。影響力はじゅうぶんある。嶺南を巡撫し、慰労するには当を得た人選であった。

 百越各族の先祖を祭る儀式も、各地で同時におこなった。民心はやわらぎ、不満はおさまった。漢の政策は、嶺南に浸透していった。


 南越平定戦争の戦後処理が、すべて円満にとりおこなわれたわけではない。不満を持つものは、とうぜんいる。

 その代表格が、韓延年ときゅう広徳である。全滅した決死隊二千名の指揮官壮士韓千秋と樛楽の遺子だといえば、たいがい合点がいく。戦死した父の功により、それぞれ成安侯、竜侯に封じられていたが、そんなことで納得するふたりではない。

 封侯にさいしては、桑弘羊が熱心に武帝を説いた。じぶんの発案による犠牲者ということで、いささか目覚めが悪かったからで、せめてもの供養のつもりである。

 そんな縁で、戦後もふたりは桑弘羊にまとわりついていた。恩を感じるべきところを、むしろ恩に着せていたきらいがある。

 ふたりは「不満がある」といって、桑弘羊にねじこんだ。

「趙建徳は謀反の首謀者ではないか。なにゆえの重用ちょうようか」

 桑弘羊はことのいきさつを説明したが、ふたりは聞かない。ぎゃくに建徳を密訴した。

「大農丞どのはご存知あるまいが、趙建徳は嶺南でだれひとりとして知らぬもののいない、それはたいそうな人気者にござる」

 大農丞は大農次官で、財政・経済の要職である。こののち桑弘羊は、治粟ちぞく都尉とい・大司農という、さらにそのうえの高官を上りつめる。

「それを良いことに、嶺南で南越国再興の陰謀をたくらんでおる」

 ためにする讒言である。漢朝とて危険人物を野放図にあそばせてはいない。完璧な監視下におき、日常の挙措を細かく追跡し、観察を怠っていない。

 桑弘羊はその動静につうじている。趙建徳に不穏な動きはない。しかし、かげで貶める噂が流れては、治安維持のうえで、はなはだ不都合である。

 ――そろそろ、始末する時期か、もろともに。

 南越国の滅亡から三年経っていた。

 ――趙建徳ともども、このわずらわしいふたりにも、ご退場願おう。

 そうと決めるや、ただちに計画の実行にとりかかった。


 元封三年(前一〇八年)、趙建徳は、不韋県への差遣さけんをいいわたされた。公務出張である。桑弘羊の使いのものが、べつに伝言をもたらした。

「このたびのお役目、呂一族への巡撫は名目で、西南夷へのお解き放ちであるから、帰参するにおよばない。道中、心してゆけ。知ってもおろうが、韓延年と樛広徳が狙っている」

 流謫るたくにちかい扱いであるが、西南夷に入ってからの行動に制限はない。 敵と狙うものがあっても、返り討ちにしてよいという。

 さらに絹布に描かれた古地図を一枚、手渡された。

『蜀布の道』とある。

 ――真意はなにか。

 答えの出ぬまま建徳は、番禺を出立、広西から牂牁江をさかのぼり、西南夷へ向かった。羅伯と生き残りの部下がしたがった。

 五尺道で船を下りる。五尺道は、秦代いらい四川盆地から雲貴高原に通じる基幹街道である。いまの貴州 赫章かくしょうからその五尺道づたいに雲南の滇国へはいり、昆明道を西行すれば葉楡(いまの大理)にいたる。そのさき永昌道をさらに西へゆくと不韋県のある永昌(いまの保山)につくことができる。

 番禺・永昌間、総延長約二千キロ。ただの平地ではない。貴州・雲南とも、平均海抜が二千メートルを越える高原山岳地帯である。永昌で、海抜五百から三千八百メートル。辿りつくだけでも容易でない道程であるが、配流された呂一族は、すでに克服している。

 乳飲み子を抱いた小芳が、いかにしてこれを乗り越えたか。いまさらながら建徳は、小芳に深く感謝した。

 ――会いたい、会ってわびたい。

 まだ見ぬ宥和にも思いを寄せ、建徳はさきを急いだ。


 その一方で桑弘羊は、韓延年と樛広徳に密命を下している。

「帝よりのご下命である。趙建徳を追え。狙いは南越王陵墓のありかである。呂嘉なきあとこれを知るものは、もはや羅伯ただひとり。不韋県には建徳の子がいる。このこどもを人質にとり、羅伯の口を割れ。建徳はかならずこどもの命乞いをする。そこをついて羅伯を責めるのだ。もはや建徳にも、呂一族にも用はない。羅伯が口を割らねば、一族もろとも皆殺しにせよ」

 いわば、刺客集団である。韓延年と樛広徳は配下のものをひきつれ、戦支度で貴州経由雲南に向かった。

 南越国にたいするふたりの恨みは、執拗で深い。それに乗じて桑弘羊は、最後の勝負に出たのである。


 呂一族が配流された益州不韋県は、雲南滇国の西にある。条件のよい土地は、先住者に独占されている。遅れて入植した越人は、山地の開墾に従事した。先天的に百越の開拓魂を具備し、中原文化との融合で合理的なセンスを身につけた越人は、西南夷の辺境の地にあっても、逞しく活きた。しかし農耕と牧畜だけでは、日々食べてゆくだけの稼ぎにしかならない。一族を埋もれさせないために、かれらはさらに有利な生業たつきの道を模索し、おとこたちの多くは外に出た。そのうち商才のあるものは、交易に道を見出した。新開地に入植した呂一族は、すでに周辺の近隣地域とのあいだで、小規模な交易活動をはじめていた。


 建徳ら一行は、永昌道をひたすら西に向かった。博南山の西麓には大きな瀾滄江らんそうこうが横たわっている。メコン河の上流にあたる。渡し舟で江を越えれば、不韋県に入る。

 瀾滄江を渡りきった。

 渡し場に、小芳の姿を見つけた。こどもの手をひいている。宥和か。呂辰が大きく手を振って叫んでいた。呂一族の人びとが、総出で出迎えにきていた。

 建徳は船を下りるや、小芳のもとへ駆け寄り、小芳の手をとった。

「苦労をかけた。すまない」

 白く柔らかだった小芳の手は、黒く陽に晒され、かたく乾いていた。

「あなた、宥和です」

 その場にうずくまった小芳は、宥和の手を建徳の手に重ねると、建徳の両脚にすがりついて、たえきれずに大声で泣きだした。だれはばかることのない正直な姿だった。建徳も宥和もとりすがって、一緒に泣いた。

 泣き声は、やがて笑い声にかわった。渡し場は、語り合う人びとの笑い声で満ちみちた。


 建徳は一族の部落に定着した。呂一族のひとりのおとことなって働いた。羅伯もその配下も、みな過去をすてて部落に溶け込んだ。

 ときに建徳は、仲間と連れ立って、永昌道をさらに西行した。怒江を渡り、騰越・古永をすぎると密支那にでる。いまのミャンマー領だが、当時は哀牢国の中北部にあたる。哀牢国の西隣がたん国である。


 かつて大月氏に旅した張騫は、いまのアフガニスタン北部にあった大夏の市場で見かけたきょうの竹杖と蜀の布から、新たな発想を得た。

 蜀(いまの四川成都)から雲南伝いに撣国を越え、身毒しんどく(インド)を抜ければ、その西北にある大夏に到達できるのではないか、張騫はそう考えたのである。

「匈奴の地を通らずとも、大夏にゆける」

 当時、それほど匈奴は恐れられていた。

 建徳が桑弘羊から渡された古地図は、『蜀布の道』を示すものであった。

「大夏への道」、別名、「蜀(成都)、身毒 みち」とは、まさにこの「蜀布の道」をいう。後世、西南絲綢之路(西南シルクロード)としても知られることになる。

 しかし、その「蜀布の道」も、滇国に阻まれ、また匈奴が駆逐された結果、あえて新たに道を拓こうという探険家はあらわれなかった。中央アジアは安全な東西交易ルートとなり、活況を呈しはじめていたのである。

 一方、配流された呂一族に、中央アジアは関係ない。かれらはみずからが生き残るために、西南夷で有利な交易の相手と産物を捜し求めた。山嶺をよじ登り古道をたどり、より広い範囲にわたって経済資源の開発にとりくんだ。


 建徳ら一行は古地図を頼りに間道をつたい、撣国に入った。大河が南に流れていた。いまのイラワジ川である。建徳の直感がひらめいた。

 西行せずに、その川の上流から南下した。沿岸に多くのむらがあり城市があった。船を乗り降りし、各所の地場産物を物色した。

 ある邑の小さな市場で、かれらは目をみはった。翠緑玉(エメラルド)・青玉(サファイア)・紅宝石(ルビー)などの原石が無造作に積まれていたのである。建徳らは、絹・反物・茶葉・塩・陶磁器・薬剤などを運んできていた。蜀や滇各地から仕入れた商品である。あるだけの商品と交換して不韋の部落に戻った。

 地元で工房をひらき、みずから原石を磨いて、仲買人に競売せりうりした。飛ぶように売れた。かれらはこれを繰り返した。

 部落は、「珠玉の里」に生まれかわった。


 宥和の姿が見えないといって、小芳が半狂乱で工房に駆け込んできた。建徳はやすり粉を払って振り返った。小芳は投文を手にしていた。

 ――羅伯どの、おひとりで来られたし。

 と書かれてある。

「ゆかずば、なるまい」

 羅伯は起き上がった。立ちくらみがした。じつはこのところ気分がすぐれず、床に伏せっている。

「ただの風邪だ」

 とはいうが、いつもと様子がちがう。

「おれがゆこう」

 建徳は主張したが、羅伯は頭を振った。

「いや、やつらがほしいのは、わしのほうだ」

「なにが狙いだ。宝玉か」

「宝玉も宝玉。ずばり、南越国王陵墓の財宝と見た」

 一瞬、建徳はことばにつまった。かれは、王陵墓の実態を知らない。

「あいては韓延年と樛広徳。さらにそのうしろには、桑弘羊」

「かつて桑弘羊が、古地図を寄こした謎は、――」

「『蜀布の道』を教えるかわりに、王陵墓のありかを吐け、との謎解きではなかろうかと」

 ふたりは顔を見合わせた。呂辰らが庭先に、いならんでいた。黒の装束に身をつつんでいる。戦いの衣服である。

「やつらは四、五十人もおろう。われらの武器は弾弓だんきゅう、やつらの目を撃て」

 弾弓、はじき弓ともいう。古代、矢のかわりに小石や粘土をはじいた小弓である。大き目のパチンコを連想してよい。小鳥を撃つなど、猟具として使われた記録がある。


 瀾滄江を東に見おろす台地に、宥和がつながれていた。

 身を隠す草木もない黄褐色の広場の中央に、韓延年らが車座になって、待ち構えていた。かれらは一様に、黄色い着衣である。遠目には、地上に溶け込んで見える。樛広徳は、すこし離れて、渡し場を見張っていた。渡し場から台地に上る路が通じている。


「わしだ。こどもを放せ」

 低い西日を背に、羅伯が姿をあらわした。渡し場からの道をとおらず、反対側に回り、崖をよじ登ってきたものらしい。後にしたがうものはいない。落ちなんとする西日の弱い陽光が、台地のうえに羅伯の長い影を落としていた。

「もそっと寄れ。はなしが遠い」

 韓延年が、どなり返した。

「わしに用があるのではないか。こどもをさきに放せ。わしが身代わりになる」

 羅伯は両手をあげて丸腰をしめし、中央に向かってゆっくりと歩を進めた。

叔々シューシュ!」

 いましめを解かれた宥和が走り寄った。羅伯は宥和を懐にかき抱くと、地上に伏せた。

 台地の西端に、岩壁を這い上がってきた黒装束のおとこたちが躍り出た。建徳を先頭に、いっせいに駆け出し、走りながら手にした弾弓で弾丸たまをはじいた。たまは宝玉の切片である。ルビー・サファイア・エメラルドの鋭く尖った切片が、紅・青・緑、あざやかな彩色の軌跡を描いて、黄色い着衣の集団を襲った。

 勝敗は、一瞬のうちに決した。

 漢の刺客集団は目を押さえ、台地のうえで、のたうち回った。

 やがて夕日が、西山に沈んだ。

 闇がすべてを、黒く塗りつぶした。


 桑弘羊のもとに、予期せぬ土産箱が届いた。西南夷からである。

 翠緑玉・青玉・紅宝石など、目にも鮮やかな宝玉類が詰っていた。なかに古い絹布が入っていた。ひらくと、古地図である。

 新しい筆跡で、書き込みがあった。

 ――『蜀布の道』返上いたす。以後、お構いご無用に願いたし。


 宥和救出のあと、ほどなくして羅伯が亡くなった。

 いまわのきわに羅伯は、建徳に大事を語ろうとした。南越王陵墓のありかである。

「いや、待ってもらいたい」

 建徳は羅伯のはなしを押し留めた。

「この西南夷で暮らすわれらに、嶺南の財宝はいらぬ。ありかを聞けば欲が出て、心が乱れる。己に欲がなくとも、人が知れば煽り、そそのかす。もはや漢に恨みはない。嶺南に戻ろうとも思わぬ。過去を断ち切り、新たな生き方を求めたい。わしも宥和も庶人で生きる。漢とのあいだに摩擦をおこすつもりはない。ならば、聞かずにおこう。羅伯よ、王墓のありかは、おぬしが冥途の土産に持っていってくれ」

 羅伯は得心した。建徳の手を握り返し、こと切れた。


 建徳の夢は、南に向かっている。

 イラワジ川をどこまでも南下すれば大海に出る。いまのインド洋アンダマン海域である。

 かつて趙始が拓いた絹海道は、南シナ海からマラッカ海峡を経てマレー半島沿いにアンダマン海を横切り、インド洋を通過した。その海域にたどりつけるのではないか。

 宝玉の原石を求めてミャンマーの奥地を往復するあいだに知りえた知識である。いまのことばで白話バイホワという嶺南の現地語が通じる男がいて、それを告げたのである。

「港へゆけばもっといる。みな先祖はシナから来たといっている」

 その男は、とうぜんのようにいい放った。

 行ってみたい、と建徳は思った。建徳の曽祖父にあたる趙始は、すでに伝説の人である。

 幼いころに、呂嘉からも聞いている。豪放 磊落らいらくで情に篤い快男児だったという。

 航海を愛し、王位をなげうってまで、四海せましと万里の波濤を制覇した。港みなとに形跡を残し、華僑のさきがけとなった。

 ならば――古地図を頼りに、漢のしもべとなって『蜀布の道』をたどるより、趙始を慕い、イラワジ川を下って絹海道にいたる道をこそ選ぶべきではないか。

 嶺南に王国をもたらした原点は、絹海道にある。

 桑弘羊に送った土産は、漢への別離を意味していた。


 かの張騫がなそうとしてなしえなかった「大夏への道」。

 桑弘羊は、これを趙建徳に託し、拓かせようとした。

 成功すれば、横取りする。南越王陵墓のありか、さらには一族皆殺しとみつ股かけたが、すべて失敗した。

 桑弘羊は、敗北を認めた。


 張騫にたいする、漢武帝劉徹の哀惜は深かった。

 桑弘羊は、死せる張騫と寵愛をきそった。

「大夏への道」は、武帝の寵愛をとりもどす道でもあった。


 史書には、こう記されている。

 ――元封三年、南越国後主趙建徳、死す。

 嶺南から追放した年をもって、建徳の没年としている。


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