十一、一族配流

     

 南越平定戦争のさなか、武帝は巡幸の途次にあった。

 山西の河東郡左邑桐郷に来たとき、南越の国都番禺城陥落の捷報がもたらされた。かれは上機嫌でこの地を「聞喜県」と改めた。

 河南の河内郡汲新中郷に来たとき、路博徳が呂嘉の首をとったと上奏した。そこで劉徹はまたこの地を「獲嘉県」と改めた。

 両地名とも、現存する。


 嶺南平定後、漢朝は、もとの南越国を九郡に分けた。

 南海、合浦、蒼梧、郁林、交趾、九真、日南、そして儋耳たんじ珠崖しゅがいである。

 やや煩瑣ではあるが、いまの地名に比定すると、順に広州、広西合浦・北海、広西梧州、広西貴県、ベトナム北部、ベトナム中部、ベトナム中部、さらに海南西部、海南東北部にあたる。

 南越の名は、抹殺された。


 同時期、漢朝は南越の西方、西南夷といわれる地域も平定し、武都(甘粛東南)、牂牁(貴州東南)、越嶲えつすい(四川西南)、益州(雲南西南)など八郡を設置した。いまの貴州・雲南から四川の西部高原にいたる一帯で、数百という小国に分立していたのである。ただ比較的規模の大きな夜郎国やろうこく滇国てんこくだけには、独立した外藩としての存続を許している。

「漢とわれとどちらが大きいか」

 と「夜郎やろう自大じだい」な質問をし、漢の使者を面食らわせた、「井のなかのかわず」の大国同士である。夜郎国は貴州西部に、そして滇国は雲南昆明にあった。

 その滇国のさらに西方には、哀牢夷あいろういがいて、やはり漢に内属した。いまのミャンマーをふくむ雲南の西部領域である。怒江ヌーチアン大峡谷と哀牢山系を境界にしている。

 昆明の西約三百五十キロ、境界線の東側、大峡谷の南端あたりに永昌(いまの保山)がある。この付近に、益州郡二十四県のひとつとして新たに設けられたのが、不韋ふい県である。元封二年というから南越滅亡の二年後になる。

 その不韋県に、呂嘉の一族が配流されたのである。

「不韋」の名からは、秦の丞相 呂不韋りょふいが連想される。呂不韋もまた蜀への遷徙せんしをいいわたされた。自身はもはやこれまでとほぞをかため、酖毒ちんどくをあおって果てた。しかし、その呂不韋の一家眷属に奉公人、あわせて一万人は、蜀に送られたのである。

 この時代、益州八郡のなかに蜀郡がある。不韋県は、おなじ益州でも益州郡のひとつの県だから、あきらかにべつの地域である。

「不韋」の「韋」は、「違」の古字である。不韋県、つまり不違県は、「そむかざる県」の意をこめた命名とみていい。大理石で有名ないまの大理市が、不韋県の東北東約百キロはなれた地点にある。

 配流された呂氏一族の移民人口がどれくらいあったか、じつはよく分かっていない。ただ新設された不韋県の人口が、短期間でにわかに増加したという傍証が残されているので、かなりのひとが移動したことは、容易に推測できる。


 はなしは、呂氏一族配流の二年前にさかのぼる。

 漢の都長安に一年余 とどめられ、ようやく立ち返った羅伯は、番禺城大北門外の獄門台のまえにたたずんでいた。落城から数ヶ月経っている。むろん呂嘉の首は、もうない。城内からは再建の槌音がほこらしげに鳴りひびき、職人や荷車を引く人びとが、ひっきりなしに出入していた。いずれも地元に住む百越の民であり、すっかり越人化した南遷移民の漢人らにちがいなかった。

 ――国替えはなかった。

 嶺南平定戦後、懸念された百越族の強制移民は、回避できた。

 この事実を確認し、羅伯は安堵の胸をなでおろした。形のうえでは漢の挑戦を受け応戦したが、実質的に南越国を差し出した呂嘉の秘策は成功したとみていい。

 国替えは、妄想ではない。事実として存在する。

 時代は前後するが、いまの浙江南部から福建にかけて、東甌とうおう東越とうえつなどと呼ばれる国があった。南越国同様、独立した異民族勢力である。閩越びんえつ族と総称していい。呉楚七国の乱後、漢は東甌の民を江淮こうわいの地、淮河以南の長江流域へ強制移住させた。そして南越国滅亡の翌年、こんどは東越国人をことごとく、同じ江淮の地へ移住させたのである。隋唐の時代に再開発されるまで、いまの福建は無人の地と化した。

「東越は土地が狭いうえ、地勢が険しく、おまけに閩越人は凶暴で、しばしば裏切りを繰り返す」

 これが理由である。『史記・東越列伝』に、天子の言として記されている。漢の権力は、統治の便という自己都合のもとに、ひとつの民族を絶滅させるにひとしい強制移民ですら、平然と実行できるまでに強大化していた。

 南越国の百越にたいしても、この戦後措置が検討されていたのである。実行されれば、百越の民は嶺南を追われ、絶滅の危機にさらされるところであった。

 呂嘉は機先を制して、講和の密使を長安に派遣した。開戦の直前である。数ヶ条からなる講和条件を提示し、漢側の再考をうながした。「利をもって」説いたのである。密使の役目をになったのは、羅伯である。長安へは呂嘉の子息として「影」(影武者)が同行した。人質要員である。

 この「影」は、通常は呂嘉の身代わりとして働く。姿かたちが呂嘉に酷似していたから、遠目には見分けがつかない。呂嘉の子息としてもじゅうぶん通用する。じつは呂嘉の遠縁にあたるおとこで、もともと呂辰りょしんという名があった。しかし「影」に名はいらぬ。名を捨て、符牒で呼ばれていた。仲間ことばである。日本ならさしずめ、いろはの「いの字」といったところである。仕事で表に出れば、むろん呂嘉あるいは子息そのものになりきる。

 呂辰が「影」に選ばれたのは祖王趙佗薨去の直後だったから、もう二十六年になる。人生のほとんどを「影」ですごしてきたおとこは、その人生の最後に、「呂辰」の名を取り戻した。呂嘉がそれを許したのである。


「ゆくか」

 羅伯があごをしゃくった。目でうなずいて、呂辰はあとにつづいた。初老の旅商人たびあきんど主従といった態である。ふたりは白雲山の山麓づたいに、城外を西に向かって歩いた。冬の日は早い。山の端がくっきりときわだつころ、大門と柵で囲まれたひとつの集落に着いた。降伏した呂一族の収容施設である。

 番人にみやげを渡し、案内を請うた。小銭という便利なものは存在しない。じつは南越国には、まだ貨幣の習慣がなかったのである。物々交換の時代のまま推移してきた。とうぜん漢に移行してから、貨幣経済は急速に発達する。

 番人は門の外から大声で呼んだ。

小芳シァオファンにお客人じゃ」

 大門の内側は、正面に大通りが直線に敷かれ、見通しがよくできている。監視にはつごうがよい。道の両側には住宅が建ちならんでいた。中庭をはさんで東西南北に建物を配置する四合院のようなつくりが一区画である。建物ごとにさらに細かく部屋を仕切ってあるから、一区画に数十家族が居住できる。さらに戸口ごとに小さな門がついている。その門を押して、おんながひとり外へ出た。

 赤子を抱いている。

「小芳か、わしじゃ」

 羅伯が被り物をとった。

「叔々《シューシュ)(おじさん)」

 小芳の目に涙があふれた。

「みて、宥和ゆうわよ」

 抱いていた赤子を示した。

 羅伯と呂辰は食い入るように、宥和と名づけられた赤子を見つめた。宥和は怯えもせず、小芳の腕のなかで、ふたりのおとこを見つめ返した。

 小芳には、羅伯らが長安から戻ったことは、察しがついていた。なればこそ羅伯の口から、長安に引かれていった趙建徳の消息が知りたかった。すでに処刑されたという噂もあった。否定してほしかった。しかし、

「――」

 聞けなかった。聞くのが、怖かったからである。

「よう似ておられる。なんと凛々しいお顔立ちではないか。ご無事でお産みになられたか。宥和どのといわれるか。それで、あのおかたはどうしておいでじゃ」

「わしなら、ここにおるぞ」

 問うまでもなかった。奥からしわがれた声が聞こえた。奥といっても門からいくらもない。

 羅伯は声の方角へ駆けより、その場でひざまずいた。

「おいたわしや宰相どの」

「これこれ、久しぶりじゃというに、挨拶もなしに、なんじゃ。無作法な」

 歩くことも不自由な、腰の曲がった老婆にしか見えなかった。しかしその軽口は、機嫌のよいときの呂嘉のものにちがいなかった。

「そうよ。ここでは老婆でとおっておる。孫娘がようしてくれるで、不足はない。それより、待ちかねておった。みやこで首尾はいかがであった」

 目脂めやにでなかばふさがっていた老婆の目は一変し、往年の南越国宰相呂嘉の透徹した目に戻っていた。

 処刑されたはずの呂嘉が老婆になりすまし、ここにいたのである。

 羅伯は、呂嘉に復命した。

「われらは講和提示の生き証人として、長安に止めおかれました」

 一呼吸おいて、羅伯は語りはじめた。

「戦は呂一族のみで戦う。それも都城番禺とその近隣にかぎる。それ以外の地では南越の国軍は籠城に徹し、時期を見て開城するので、攻撃側は包囲するにとどめてもらいたい。支配者がかわっても南越の軍民は反抗せず、服従する。ただし、戦後の国替え、集団移民だけはぜったいに受け入れられない。南越の国人、百越の民を嶺南の地に残すこと。この条件さえ呑んでいただければ、黙って降伏する。すべての責めは、呂一族が受けよう。いかなる処罰も甘んじて受ける。配流地についても条件はつけない」

 ここまで一気に告げて、羅伯は息を継いだ。呂嘉の反応をうかがったのである。呂嘉は目を瞑ったまま、聞き入っている。

 羅伯は、つづけた。

「漢の武帝侯あて書状を渡したうえで、この内容を桑弘羊どのへ直接伝えましてございます。提案は、おおむね了承され、実施に移されたものと見受けられます。南越国王の助命嘆願についても、お聞きとどけいただきました。いまなお建徳さまは、長安に幽閉されておられますが、ご無事でございます。その他いくつかのことについては、じかに丞相と『利をもって談義したい』由にございます」

 南越平定戦争に漢朝が十万の大軍を出動する直前、遣わされた密使である。桑弘羊の回答は、身代わりの呂嘉が処刑される以前のものである。羅伯らの拘留は一年余におよんだが、帰還した。

 ――国王の助命、

 このことばを、小芳はたしかに耳でとらえた。

「建徳さまは、長安でご存命ですか」

 小芳はすがる目で、羅伯を見つめた。

「お元気ですとも。いずれご対面のおりもございましょう。お子をしっかり育てられ、いましばし、お待ちください」

 建徳の命は、武帝の手のうちにある。戦後処理はこれからである。幽閉が解かれてはじめて、再会の機会を考えうる。小芳とその子のためには、確実な情報をこそ伝えなければならない。安易な慰めなどなんの役にもたたない。このことを慮って、いままで黙っていたのである。

「『利をもって談義したい』、そう申されたか。おもしろい。小芳にお子ができたことも、建徳どのにお伝えしなければならぬ。都へ出ようぞ。わしも桑弘羊にうて見たくなった」

 羅伯と呂辰をねぎらったあと、呂嘉は曲がった腰を伸ばし、晴れ晴れした顔をみせた。

 ――小芳とその子のためにも、かならずご対面の機会を見いださなければならぬ。

夕餉のしたくをしていた呂辰が、小芳に向かって呂嘉の顔つきでやせた腹をたたいてみせた。決意したときの、呂嘉のくせである。小芳は、いつもの屈託ない表情に戻った。呂辰を手伝い、夕餉のしたくに精を出した。


 ひと月まえ、収容所の一角で、ときならぬ赤子の産声があがった。男児である。さきの見えない虜囚生活で希望を失いかけていた呂氏の人びとは、再生の希望をこの赤子に託した。呂一族の期待を込めて、だれもが誕生を喜んだ。

「どうぞ良きお名をくださりませ」

 小芳は、呂嘉に命名を願った。

「そうよのう。趙姓は避け、呂姓とし、宥和ゆうわと名づけよう。『許す、心を和らげ静める』の意じゃ。漢越、民族のわだかまりを棄て、恩讐を越えて、ともに仲良く歩みよる。それをこの子に託すのじゃ。いまは呂宥和、いずれときがいたれば、趙宥和と名乗ることもできよう。小芳よ、でかした。このうえは元気で、立派な子に育ててくれ」

「あい」

 宥和を抱きしめ、小芳は心のなかで趙建徳に語りかけていた。

 ――建徳さま、宥和ですよ。宥和と呼んでやってください。宥和はえらいですよ。きょうはむずかりもせず、元気にお乳をいただきました。早くお帰りになって、抱き上げてくださいませ。


「吉報を待つのじゃ」

 小芳にいいおくと、呂嘉は羅伯をともない、長安に上った。呂辰は残った。小芳母子の介添え役である。収容施設の人びとに、流刑地送りの噂が立ちはじめていた。不安はあったが、小芳はまどわなかった。

「お帰りをお待ちしております」

 けなげにも背筋を伸ばし、もと老宰相を送りだした。


 呂一族の収容施設を出た呂嘉は、白雲山の西麓を南に向かってゆっくり進み、古蘭湖(いまの流花湖)のあたりまで来ると、越秀山を東に見て足をとどめ、羅伯にだけ聞こえる低い声でしみじみと語りはじめた。遺言に近い。

「かの戦のおり焼失してしまったが、山紫水明を模した都城の宮苑には三山一池を配し、曲水をめぐらし、外から清冽な水を引き入れていた。水源は白雲山の菖蒲澗しょうぶかんじゃ。川水は甘露を思わせる甘い味がしたから、その川を甘渓とよんでいる。城外の東北から西南に流れているが、越秀山の南麓あたりで東西に分かれ、城壁を護る濠となって南の珠江に注ぐ。宮苑に取り込んである川は、越秀山から流れ落ち、甘渓に合流した、その支流じゃ」

 焼け落ちたとはいえ、丹精を凝らし、年月をかけて構築した園林である。わが子どうぜんの感慨がある。

 呂嘉はいま、親しい友に昔話を聞かせる風情を装い、大事を語ろうとしている。羅伯もまたそれと気付き、呂嘉に応じてゆったりと越秀山を眺めた。人が行き交う街道に足をとどめたふたりには、故郷の山に離別を告げる老人の寂寥が漂っている。

 そのじつ呂嘉は口を動かしていない。口の動きからことばを読み取るのは、それほど難しい技術わざではない。目のいいものなら、一町さきからでも読み取ることができる。

恐るべきは草のものである。どこにだれが潜んでいるか分からない。呂一族のなかにいるかもしれないのである。だから収容施設ではひと言も触れていない。「壁に耳あり」のたとえは、絵空事ではない。事実の反映である。

 そもそも大事を伝えるとき、記録に残る文書を用いてはならないというのは鉄則で、奥伝・秘伝のほとんどは口伝くでんである。呂嘉もそのひそみに倣おうとしている。

「曲水に通じる越秀山の水源をあたれ。祖王の陵墓は越井崗の真下にある。水源をたどって進めば、その下にいたる。二代王の陵墓はその西、象崗山の中腹にあり、石の扉で塞がれている。三代王の陵墓はこの古蘭湖の西、それ、そこの鳳凰崗にある」

 呂嘉は西を向いてあごをしゃくった。そこは、いまの西村シーツンにあたる。そこから東に向かって三代の王墓が並んでいるというのである。

「わしもこの歳では、二度とここへは戻れんじゃろう。呂祐もなきいま、王陵墓のありかを知るものはだれもおらんようになる。わしが地獄の底まで、この秘め事を持っていっても詮ないことだ。いつの世か、この嶺南のために、百越の民のために役立つ日が来れば、ためらわず王墓の扉を開けることだ。財宝が埋葬されておる。そのためにも羅伯よ、あとはおぬしに託す。複数に伝えると争いになるから、かならずこの秘事は一子、あるいは一人いちにんにのみ相伝し、後世に伝えよ。だれに伝えるかはおぬしが裁量すればよい」

「なにをおいても建徳さまにはお伝えせねばなりませぬ」

「それもおぬしが決めればよい。わしは建徳さまには伝えず、お子とともに別の人生を自由に歩んでいただきたいと願うておる」

 思いがけぬ指摘に羅伯は驚き、呂嘉の顔を見やった。

 呂嘉は素知らぬ顔つきで、さきを続けた。

「わしはあすぬるやも知れぬで、ことのついでにいうておくが、古来、王の陵墓を定めるのに『昭穆しょうぼくの制』というものがある。昭は明らか、穆はつつしむの意で、宗廟の順位をあらわす名じゃ。中央が太祖で、二世・四世・六世を左につらねて昭という。三世・五世・七世は右につらねて穆という。番禺の都城を眼下におく越秀山の主峰越井崗を中央に見立て、まず祖王の陵墓を定めた。象崗山はその右で、鳳凰崗はさらにその右に当たろうが」

「確かにおおせのごときでありますが、ただ二世・三世の順がちごうてはおりませぬか」

「違うてはおらぬ。祖王のお心のなかで、二世はご嫡男の趙始さまじゃ。ただしご遺体はない。霊魂をのみ葬ってある。三世は祖王のご逝去にともない即位された趙胡さまにお譲りして、四世のご陵には任地の交趾こうしで早世されたお兄君の趙蘇さまを分葬してある。だから嬰斎さまは五世の陵墓になる。これらの手配りは祖王の寿陵を造成する過程で、順次とり計らった。多くの偽塚をつくって天下をたばかったのはそのためじゃ。南越国が滅び去ったいま祀りは絶えるが、埋葬した財宝は漢の武帝にだけはぜったいに渡さん。だからこそ建徳さまには伝えておらぬ。無用の争いに巻き込みたくないからじゃ。知らなければ済む幸せということもある」

 呂嘉はそれきり口を閉ざし、越秀山に向かって深々と頭を下げた。羅伯もそれに倣った。


 越秀山の主峰越井崗に中山記念碑が建てられたのは一九二九年、孫文逝去の四年後である。「孫先生読書治事処」の八文字が刻まれている。記念碑はいまもなお健在である。


 桑弘羊は寝所で横になっていたが、なかなか寝つかれなかった。考え出すと止まらない性質たちである。よせばいいのに寝入りばなに、また考えごとをはじめてしまった。南越国の国庫歳入の皮算用である。あと一年もすれば、南越国は漢朝の郡県支配下に編入できる。

 ――年間の財政収入のうち、どのくらいの比率で漢朝政府の財源にまわせるか。

 ――南越平定戦争では、十万の兵を動員した。被害は最少で食い止められたが、予算以上に戦費がかかっている。短期間で回収したい。南越国の歳入から半分はまわしたいところだが、それだけの歳入が見込めるかどうか。

 ――南越はもともと農業国で、自給できるだけの穀物しか作っていない。畜牧や漁業にしてもおなじことだ。冶金や紡績は、まだはじまったばかりで、上質品にいたっては漢から購入している水準にすぎない。ただし、陶器や漆器、それに玉器には見るべきものがある。ことに玉石彫刻と木彫刻にかけては、高い評価ができる。しかしそれだけなら、南越の領内をどうにかまかなうだけで手いっぱいだから、他にまわす余裕などとても見込めない。漢の支配下に組み入れる以上、領内の社会経済の振興をこそ優先すべきであろう。

 ――懸念材料はまだある。南越国は、銅銭を鋳造も発行もしなかった。漢の通貨は南越の市場ではまったく通用していない。南越国内は、いまだに物々交換の自然経済が大手を振って闊歩している状況だという。無理もない。肝心の需要が国内に育っていないのだから。しかし、貨幣というものは、農・工・商の交易の路が通じれば、だまっていても流通するものである。貨幣の需要がないということは、いったい原始経済のまま、推移してきたということか。


 有能な経済官僚は、眠ることも忘れ、深夜の熟考に熱中した。かれは声をだして、自問自答した。ひとりで結論をまとめるときの、習癖である。

「結局、異国との海上貿易以外に見るべきものはない。というより、この海上貿易こそが究極の宝の山、無尽蔵に掘り出しうる――」

「さよう、打ち出の小槌にござる」

 出し抜けに、暗がりから声がかかった。

「なにものか」

 桑弘羊は、牀上ベッドで跳ね起きた。

 ぞくっと、背筋が冷えた。

「まさか――」

「その、まさかでござる。もと南越国丞相呂嘉、打ち出の小槌を持参し、お目どおりに参上つかまつった」

「捕縛され、首を落とされたのではなかったか」

「かわいそうに、最高齢の影がひとり、わしの身代わりになって果てた」

「――」

 弘羊は、腹のなかで舌打ちした。いまさら間違いでしたとは、口が裂けてもいえないではないか。

「今宵はなんとした。殊勝にも自訴してまいったか」

「なんの、手土産持参で、世間ばなしに参ったまで。ご迷惑なら、そっこく退散いたす」

「いや、しばし待たれい。せっかくのご来訪、茶など用意させる」

 暗がりに目がなれるにつれ、桑弘羊は、腹が据わってきた。燭台を寄せ、相手に向きなおった。端にもうひとり控えているものがいる。

「他のおひとりには、以前お会いしている。やはり深夜の闖入だったが」

「その節は、ご無礼いたしました。今宵は主人が、お礼を申したいとたっての願いにて、ふたたびまかり越してございます」

 ことのぜひはともあれ、一度ならず二度までも侵入されている。門を閉じ、不寝番が詰めていながら、漢朝高官の府邸が、やすやすと侵入を許しているのである。

 ――たいした手口だ。

 警戒の不備を責めるまえに、むしろ弘羊は感心した。

「して、御用の向きとは、先回のご確認であろうか」

「ご明察」

 鶴のような、という形容がある。まさに鶴のように枯れた呂嘉が、ふわりと地上に降り立った。そんな雰囲気で弘羊のまえに、呂嘉はあらわれた。飄々とした、自然体である。

 弘羊は、ふたりを書房(書斎)へいざなった。

「打ち出の小槌を持参された、とな」

「さよう、そこもともご所望であろう。ちがうかな」

「まさかただでとは参るまい。なにと交換される」

「まず、南越国 後主こうしゅ趙建徳、なにとぞ幽閉を解いていただきたい」

「その儀については、すでにお許しを得てある。当初、帝におかれては、はなはだご立腹され、即刻斬首せよとのきついお達しでござったが、――」

 文字どおり、間一髪のところだったという。趙建徳が捕縛された当時の状況は、まさに険悪をきわめていた。じじつ呂嘉は、身代わりだったにせよ、即決処断されている。

 クーデターによる四代目国王殺害と決死隊二千名の全滅が漢朝に与えた衝撃は、けっして小さいものではなかった。武帝の怒りは、その首謀者に直接向けられた。筋書きを書いた桑弘羊自身が舌を巻くほどの、それは完璧な仕上がりだったからである。

 しかしこの当時、趙建徳は市井に潜み、ふたたび城に迎えらればかりで、建徳名義であったにせよ、両事件には直接関与していない。先回、桑弘羊邸へ闖入し、その後、拘留されていた羅伯が必死に説いた。ようやく誤解は解け、建徳の長安送りにつながったのである。もっともその分、武帝の呂嘉にたいする激怒は、数層倍した。





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