十、番禺落城

 

 漢朝が決死隊二千を派兵、南下中であるとの一報が、嶺南にもたらされた。

「兵は二千か。桑弘羊の策とみえる」

 呂嘉のおもわくが外れた。漢朝の非道をなじり、天下の輿論を引きつけるには、万を越す大軍の襲来がのぞましかった。漢朝は二千の兵を当て馬に用い、呂嘉の動きを探りにでたのである。

 二千を相手の戦では、内紛処理の延長でしかない。天下の共感を喚起するには、数が足らない。かといって二千のまえでひれ伏すほど、南越国は衰弱していない。

「二千の先兵には気の毒だが、一兵も余さず血祭りにあげ、わが覚悟のほどをみせてくれる。さすれば漢は十余万の大軍をもって、あらためて南越を成敗にやってこよう。が、はたしてこれを迎え撃つべきか否か」

 呂嘉には迷いがある。そのため、結論を出し切れない。

「緒戦で勝利すれば、すかさず和議に持ち込む。緒戦でつまずき、長期戦にもつれ込んでも、負けないだけの力はある。されど、漢に比しわが方の損耗は大きく、けっして得策ではない。わが存念は、あくまで緒戦で勝敗を決することにある」

 呂嘉はそこまでいうと、手にした軍配団扇を卓上においた。

 二千の先攻部隊は殲滅する。これに異論はない。

 しかし、その後の本隊への対応については、結論を先送りした。まだ仮定の段階にすぎない。

 ――ならば迎え撃ったとして、緒戦にて勝利できない場合はどうなる。降伏か、あるいは短期決戦で玉砕か。

 軍議に出席した面々は、沈黙を守り、あえて発言しなかった。南越国の存亡がかかっていた。あるものは顔面を紅潮させ、またあるものは蒼白となって、それぞれの思惑を脳裏で駆けめぐらしていた。


 上策は外れたが、次善の策はある。呂嘉の気力は怯まなかった。

 ――漢軍の侵攻まえに、国を一本化する。

 かねての作戦を実行に移すべく、将軍呂祐に王宮出撃を命じた。

 いわゆるクーデターである。

「王の趙興はどうする。命までとるには、およぶまい。廃立するにとどめてやれぬか」

「年少とはいえ、敵の御大将である。情けは無用に願いたい」

 趙興の心根の優しさは呂嘉も承知している。呂祐ならずとも助けてやりたい気持ちは呂嘉にもあった。しかし、

「この戦は私事ではない。存亡をかけた国家の大事である。ならば情によらず、理によって判断すべきである」

 呂嘉は、呂祐の願いを斥けた。

 呂祐は呂一族からなるいわば私兵を出動し、王宮を包囲した。正規の国軍指揮権、虎符こふをもちいる国軍の移動権は王側にあり、臨時的措置として漢の使節にあずけられている。いまの呂軍は、あくまでも叛乱軍にすぎない。

 漢の使節のうち副使二名に退出を要請した。ふたりは漢の衛兵を撤収し、軍の駐屯地桂陽に後退させた。しかしふたりは城内にとどまった。義として南越王に殉じ、漢の使節としての立場はつらぬこうというのである。漢軍の撤収を見とどけ、ただちに突撃命令が発せられた。呂祐の軍は宮中に殺到した。

 南越王趙興・樛太后・安国少季、そして終軍と魏臣らが殺戮された。漢朝にたいし、呂嘉は、こうぜんたる謀反に踏み切った。

 ときに元鼎五年(前一一二年)春、南越国滅亡の前年である。

 丞相呂嘉以下、内史・中尉・太傅ら南越国の重臣に蒼梧王趙光、さらに郡県の令ら主だった官吏が集合し、趙建徳を五代目南越国王に立てた。市井に逼塞していた趙建徳は、ほんらい坐るべき国王の座に呼び戻された。先王趙嬰斎の越妻の嫡子である。嬰斎が樛姫と出合うまえに、越人のそれも呂一族のむすめと結婚していたことは、すでに述べた。漢越対決の構図が明確に示されたのである。


「迎えが来た。ゆかねばならない」

 建徳は、樛芳に別れを告げた。

 ――いつかこの日が来る。

 予感が現実のものとなった。

 呂嘉の叛乱が成功したことは、すでに知れ渡っていた。趙興も、樛太后も、もはやこの世のひとではない。

 ――どうして、じぶんの身近にいる人びとが、殺しあわなければならなかったのか。

ことに弟のように可愛がっていた趙興の死は、信じたくない思いで一杯だった。

 建徳を送り出し、ひとりになった小芳は、あらためて覚った。

 ――建徳は二度と戻ってこないのではないだろうか。

 ゆうべ建徳とは、故郷のはなしをした。

「小芳のふるさとは北国だったね」

「もとの趙の国。邯鄲という城邑まちよ。十歳までそこで暮らして、それから長安へ出たの」

 樛姫に誘われ郷里をあとにした。そしていまは南方の番禺にいる。

「わたしの先祖も趙のひとだ。邯鄲よりもっと北にある真定だと聞いている」

 真定はもとの東垣とうえん、いまの石家荘である。

「いちど行ってみたかった。冬にはずいぶん雪が積もるらしい」

「とても寒いのよ」

「こうしていれば、大丈夫だ」

 建徳は小芳をひきよせ抱きしめた。熱い吐息が小芳の耳元をおおった。

「戦になるの」

「ああ」

 なおも問いかけようとする小芳の唇が、建徳の口でふさがれた。


 番禺城に新たな主が誕生したとき、韓千秋と樛樂がひきつれた二千名の決死隊は、すでに南越国の領内に侵入していた。国境の関門は無防備で、侵入後もまったく抵抗にあわなかった。かれらは都城をめざして、がむしゃらに進軍を続けた。通過する先々の村邑そんゆうでかれらは友好的な村びとに出迎えられ、食糧や宿舎の提供を受けた。はじめは緊張して対応していたが、やがてその待遇に慣れだした。

「野宿で干し肉や乾飯かれいいだけの食を覚悟していたのだが、こうもよくしてもらうと愛着がわくな」

「なに、いずれわがものになったときには、倍にも十倍にもしてお返しするさ。そうと思えば、気楽なものだ」

 かれらは南越国をみくびり、警戒心を緩めはじめた。すでに勝利のさきの恩賞に心が奪われていた。

 いうまでもなく農民を使った、呂嘉の偽装工作である。敵の力を軽視し、緊張感を欠いた二千名の決死隊は、あたかも吸い込まれるように、都城に向かって行軍した。

 番禺まで四十里の石門に足を踏み入れたときである。四面に埋伏した南越軍の兵士が、とつぜん襲いかかってきた。決死隊はおどろき、算を乱したが、劣勢のなか、かろうじて踏みとどまった。

「待て、あわてるな。敵は雑兵だ。隊列を整えろ。さきへ進め。敵にうしろを見せるな」

 韓千秋は声を嗄らして下知した。敵味方、入り乱れての白兵戦になった。南越軍は決死隊の疲れに乗じて、どんどん新手を投入してくる。いちど崩れた態勢は、容易にもとへ戻らない。波に洗われるように、ひとり、またひとり、決死隊員は草むらに埋没していった。

 樛樂が悲鳴を上げて馬から転げ落ちた。顔面を矢で射抜かれ、その場で絶命した。ついで韓千秋も深々と槍で胸を突き刺され、数合斬りあったのち首をとられた。決死隊二千名の勇士は、番禺を目前にしてことごとく斬り死にしたのである。

 勝者の呂嘉は、かえって眉をひそめた。

 ――桑弘羊、恐るべきやつ。きやつの思いどおりに、ことが進んでいる。これで大軍の出動が可能になったが、はたしてどう出るか。

 将棋の駒どうぜん、二千の人命を犠牲にしてはばからぬ筋書きである。十万にせよ二十万にせよ、いずれ全面対決はまぬがれない。

 ――短期決戦であれば、勝利に導く自信はある。長期にもつれ込めば、かなわぬまでも互角に戦ってみせる。しかし、それだけで戦は容認できない。ほかに取るべき手立てはないのか。

 呂嘉の模索はつづいていた。

 

 呂嘉は、かごに乗って戦場 あとを検分した。足腰が弱っている。広大な戦場を回りきるだけの体力はもう残っていなかった。

 敵の戦死体が戦場に散乱している。文字どおり死屍累々の惨状である。味方の損耗もはなはだしかった。漢側とほとんど同数の死傷者をだしていた。

 かつて秦の嶺南攻略のはじめ、血で血を洗った惨劇が、いま同じこの地で、百年を待たずに繰り返されようとしている。

 ――戦いは回避できぬのか。この嶺南の豊饒の沃地が、ふたたび血塗れた悪夢の大地に戻ろうとしている。止めることはできぬのか。

 じぶんはもういい。もはや朽ち果て、死を待つだけだ。しかし、多くの無辜の民を、あたら戦渦に巻き込んではならない。ましてや春秋に富む嶺南の若者を、みちづれにすることだけは、避けなければならない。

 老いた呂嘉は苦悩した。枯れたのどを絞って呻吟した。霞んだまなこに趙佗の姿が、ぼおっと浮かび上がった。

 ――祖王よ、許されい。無辜の国人を巻き添えにはできぬ。嶺南の地を戦場にはできぬ。

 南越国一国とひきかえに、嶺南の民と大地を永遠に残す。

 呂嘉は心を決めた。

 ――かまわぬ。南越国がこと、すでにお主に託してある。遠慮は無用ぞ。思う存分にことをはこべ。そしてつぎには黄泉の国にて、ふたたびあいまみえようぞ。

 ときならぬ雷鳴が、趙佗の声を代弁した。

ごう!」

 稲妻が光り、南国特有の大粒の雨滴が天からばらばらとこぼれ落ちた。雨滴の一粒ひとつぶに真珠の輝きがある。

 雨滴は草木をひたし、大地をうるおす。やがて雨水は細流となり、大河の流れとなる。大河 珠江パールリバーの流れは、さらに南海の大海原にそそぐ。そして南海は、四海へと通じるのである。

 ――この流れを、絶やしてはならない。

 呂嘉は顔を上げた。雨は容赦なく顔を打った。

 ――わしとわが一族が打たれれば、すむことだ。

 迷いは吹っ切れた。

 そうと決まれば、呂嘉にはまだやるべきことが残っている。


 呂嘉は新王趙建徳の名で全土に臨戦態勢を敷き、漢朝との全面戦争にそなえた。五嶺の要衝をかため、番禺城の防備を強化した。

 そのうえで桂陽に駐留する路博徳を通じ、武帝あての書状を桑弘羊に手渡したいと、丁重に願いでた。ほどなく桑弘羊から「承知した」との回答が届いた。呂嘉は長安への遣いを、羅伯に命じた。

「わしの影をひとりともなうがよい。武帝の歳に合わせ、一番若いのがよい。わしのせがれと称し、人質に立てる」

 この年、武帝は四十六歳である。五十代はじめの影が選ばれた。呂嘉の実年齢の半分に満たない。

 その一方で、蒼梧王趙光を宮中に招き、国王趙建徳の名で、国政にたいする大方案が呂嘉から示された。重臣らが臨席した。

「遠からず漢朝の大軍が南越を襲う。番禺城に国王を擁し、呂一族だけで抵抗する。お主には、呂氏軍を除く南越国軍の指揮権すべてを委ねるゆえ、これをひきいて各地の城ごとに立て籠もり、番禺城落ちなば、戦わずして漢軍に降服してもらいたい。番禺城、いや南越国とひきかえに、嶺南の地と百越の民を救う。漢に求める条件はただひとつ、百越の民を嶺南の地に残し、大地の恵みを享受させること。これにつきる。漢があくまで戦いを挑むときは、やむをえない。玉砕を覚悟してもらいたい。地にもぐり野山に潜んで、最後の一兵にいたるまで抗戦する。老いたるもの、女こどもは海に逃せ。四海のうち、港のあるところ、かならず同胞はいる。同胞を頼れ。ただし、そうならぬよう、漢朝が呂氏一族の処罰だけで兵をおさめるよう、手は打っておく。決して早まってはならぬ。冷静に戦の趨勢をみきわめ、沈着に判断をくだすのじゃ」

 趙光は呂嘉の意志を察していた。異論はあるが、己が胸裏にたたみこんで承知した。ただ新王趙建徳が、哀れでならなかった。

「新王は丞相と運命をともにされるのか」

「武帝の胸ひとつだが、義をもって案ずれば。そうなる」


 韓千秋、樛樂以下二千の決死隊全滅の知らせが、長安にもたらされた。武帝は血相をかえ、激怒した。

 結果はすでに織り込み済みである。怒ってみせればたりる。次の一手を打つために、効果を狙った演出のはずだった。しかし演技を超えて、しんそこ武帝は激怒した。

「南越 、ようもやってくれるわい。呂嘉の奴輩やつばら、ここまでやるとは思わなんだ。いまに見ておれ、いたいほど目にものみせてくれよう。手加減はいらぬ。潰せ、呂嘉もろとも南越国を潰してしまえ」


 元鼎五年(前一一二年)秋、漢武帝劉徹は、伏波将軍路博徳・楼船将軍楊僕・戈船かせん将軍鄭厳・下瀬かせ将軍田甲・馳義侯 何遺かいを派遣し、総勢十万の兵を動員、五路軍に分け、番禺に向かって進撃を開始した。

 すでに広東領内の桂陽に駐屯していた伏波将軍の衛尉路博徳が、一路軍をひきいた。楼船将軍楊僕は、二路軍をひきいた。この両路軍が、漢軍側の主戦部隊となった。

 他の三路軍は嶺南の要地に布陣し、南越国軍を包囲した。主だった戦闘は、都城番禺に通じる河川沿いに集中した。漢軍は慎重に兵を進め、番禺近郊に迫った。

 二年目の春から夏にかけ、楼船将軍楊僕は精兵をひきいて尋峡(いまの清遠中宿峡)を攻め落とし、つづいて番禺城の北三十里にある石門を、深夜の水戦で突破した。石門は番禺城を守護する直近の要衝である。決死隊が全滅した戦場は陸上だった。

 大量の軍船と軍糧を鹵獲した楊僕の船団は、伏波将軍路博徳の船隊と会同し、番禺に向かって進攻した。漢の両路軍は、東南と西北の二方向から、番禺城を挟撃した。

 番禺城は珠江に臨み、白雲山の天険に拠って護られている。天然の要害である。城門をかたく閉じ、守りに徹すれば、外からは容易に落とせない。

 そこで用いられたのが内間ないかんの策である。孫子に、「内間なるものは、その官人に因りてこれを用う」とある。城内に間者を潜りこませ、中原出身の先祖をもつ官吏に近づく。危機感をあおり、利をもって漢への内応を誘い、内から崩す工作である。

 包囲は旬日におよんだが、なお城内は整然とし、動揺の兆しはみられなかった。南遷した人びとはすでに中原を忘れ、南越国人として同化している。漢人の意識は薄い。 内間の策は失敗した。

「草というたか。土地に根付き、根を張る忍びの草がおろう」

 武帝の脳裏に二十六年まえの記憶が鮮やかに甦った。

 開国の王趙佗の陵墓探索のため、現地に潜ませた残置諜者である。

「代をかわったいまも、つなぎはついております」

 桑弘羊は神妙にこたえた。

 陵墓に埋蔵された財宝の追跡はあきらめていない。樛姫と安国少季に肩入れした理由のひとつでもある。草からは、越秀山など城からさほど離れていない近郊のいくつかの丘陵の名が伝えられている。

「南越国がわがものになれば、発掘はたやすい。草を用いて、城内に火を放て」

「天下の名城、惜しんで余りありますが、やむをえません」

 承諾したが、桑弘羊には策がある。

 全城に火を放てば、埋蔵物に延焼しないともかぎらない。

「焼くのは宮署だけにとどめよ」

 草への指令に条件をつけたのである。

 このやり取りは「飛奴フェイヌー」(伝書鳩)を用いた、当時の高速通信手段によっている。

 五日後、草は密命実行の段取りを完了した。


 楊僕と路博徳の両将軍は、大風の日をもって総攻撃をおこなうことに決していた。

 おりしも、南からの生暖かい風が速度を増し、強風に変じた。城門に積まれた干草や芝木に、火がかけられた。投擲機で油樽が投げ込まれ、火矢が放たれた。火はたちまち燃え上がり、城内のここかしこで火柱が音を立てて沖天に燃えさかった。阿鼻叫喚の巷を、人びとは逃げまどった。

 城内を守護する呂祐は軍を総動員し、火消しにまわった。一方で、北と南の城門を開け、城内の非戦闘員を逃がした。城門の外は白雲山と珠江であり、敵軍の死角となっている。

 火消しの効果があったためか、火はそれ以上には燃え広がらなかった。ほっと安堵の胸をなでおろしたとき、とつぜん中央の宮苑付近に大きな火の手が上がった。


 宮苑は宮署の内でも、もっとも粋をこらした園林部分である。

 西に宮殿があり、一池三山―湾月(弓張月)形の池と蓬莱・方丈・瀛州えいしゅうの三神山を配し、北から南に石床の曲水(湾曲の川)が流れている。園林には、桃・梅・茘枝ライチ楊梅ヤマイチゴ橄欖オリーブ杜英モガシ(観賞用の常緑高木)・榕樹カジュマル樟樹クスノキに、冬瓜トウガン・葡萄・葫蘆ヒョウタンなど、四季折々の草花・樹木・果実が植えられ、鹿などの走獣が放たれていた。さらに池には蓮花ハス蒲草ガマが浮かび、亀・スッポン・魚・河蚌カワガイが遊泳していた。これらが西隣にあった造船所ともども、このときの火災で焼失したのである。二千年後に発掘された「南越宮苑」遺跡から、四十余種類の植物の種や実が動物の残骸とともに出土している。


 ここまで籠城に徹し、じゅうぶん持ちこたえた。もはや打って出る必要もない。城を枕に討ち死にする覚悟で、呂祐軍は脱出者の盾になった。

 呂嘉は趙建徳をともない、呂氏一族からなる数百名の兵士をひきつれ、珠江から船で逃れた。城内に残した部下には、投降をいいわたしてあった。

 城門が破壊され、漢兵が突入した。城内は大混乱をきたした。逃げ場を求めて、人びとは城門に殺到した。自刃した呂祐とその側近以外は、武器を捨て家財を投げ出し、つぎつぎに投降した。

 宮苑を焼けつくした番禺城は、翌日の未明、陥落した。


 順徳は呂嘉の郷里である。いまの順徳は佛山に包括されるので、番禺の西隣ともいいうるが、往時の中心地を直線で結ぶと、番禺(いまの広州)の南三十キロに位置する。

 番禺の包囲網を突破し、船で順徳に逃走した呂嘉は、石涌せきよう・金斗の二城に立てこもった。追撃した伏波将軍路博徳は、対岸から太縄で編んだ橋をかけて兵をわたし、一挙に両城を攻め落とした。その橋が、順徳大良の伏波橋として、いまに伝えられている。

 呂嘉と趙建徳は捕縛された。呂嘉は路博徳のまえに引き出された。

「呂嘉どのか、番禺城はすでに落ちた。なにゆえの逃走か。この期におよんで、命を惜しまれての所業か」

「そこもとのあずかり知らぬこと。この世にいまさら、なんの未練があろうや」

 呂嘉は、羅伯の復命を待っていた。条件を示し、桑弘羊いや武帝劉徹からの回答を待っていたのである。

 嶺南の地と百越の民の運命は、羅伯に託してあった。漢の攻撃が、番禺城でとどまれば降伏する。全土におよべば焦土決戦も辞せず。ふたつにひとつの選択しかない。

そのことを、路博徳は知る由もない。

「南越国代々の王陵墓のありかをお教えいただきたい。ことに初代王趙佗どのの陵墓は、帝がことのほかご執心であらせられる」

 武帝からは直々に仰せつかっている。また桑弘羊からも、尋問の最重点項目として指示されていた。

笑止しょうし。わしがそれをいうとでも、お思いか」

 誘供剤(自供誘発剤)が大量に投与された。しかし腹を下すばかりで、効き目はない。

「吐かぬとあっては、いたしかたない。ちと手荒いが、からだに聞くことになる」

「漢は礼を知らぬとみえる。宰相のわしを鞭打つか。それとも蛮族と侮り、鞭打ってとうぜんと思いたるか」

 路博徳は目をそらした。かれとて本意ではない。職務が優先した。

「打て」

「――」

 鞭打つまでもなかった。老齢にくわえ連日の尋問で衰弱した呂嘉は、すでに事切れていた。舌噛み切って自害したのである。

 枯れ木のように細った呂嘉の首が、遺骸から斬りはなされ、瓦礫と化した番禺城大北門外の獄門台に懸けられた。

 趙建徳は長安まで護送された。劉徹は、趙建徳を殺さず、城中に幽閉した。


「はて、――」

 路博徳は合点がいかなかった。歴戦の将である。数々の修羅場をくぐり、多くのひとの死を見てきている。それにしても呆気ないといえば、あまりに呆気ない呂嘉の死である。

 獄門台に懸けられた呂嘉の首に対峙し、

「はて、――」

 路博徳は、もういちど独りごちた。


 これよりさき、叛乱首謀者の捕縛が伝えられると、籠城していた南越国の各郡県令、諸王侯はすべて開城し、投降した。蒼梧王趙光も投降し、のち「随桃侯」に封じられた。桃に随うとは、「桃李いわざれども、下おのずからけいをなす」と古諺にあるが、「徳のあるひとのところへは、黙っていてもひとが集まってくる」の意をふくんだものか。投降した趙光を、漢の徳を慕って降服した「ういやつ」として許す武帝の度量を示したのである。蹊はこみちである。

 総じてきわだった戦火は、都城番禺とその近郊のみにとどめられた。嶺南の国土のほとんどは戦をまぬがれ、平穏裡に終息した。立て籠もったものは投降し、漢軍に城あるいは軍署を明け渡した。武装解除後の将兵は取調べのあと、呂一族以外は罪に問われることなく、放免された。将兵官吏のうち、漢の新政府に請われて要職につくものもいたが、その多くは、いずれも自己の意志で在野に甘んじた。

 呂氏一族は、都城西郊外の仮施設に収容された。身重の小芳もそのなかにいた。


 元鼎六年(前一一一年)十月、開国の祖趙佗いらい五世九十三年、ここに南越国は滅亡した。







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