九、四代目趙興

       

 前一一三年、南越国にたいする外交攻勢が、一気に加速した。前年、第四代南越王を継いだ趙興ときゅう太后に、長安への朝覲をうながす勧告団が派遣されたのである。

 正使に安国少季を立て、能弁の士・諫大夫 終軍しゅうぐんと剛勇の士・魏臣ぎしんが副使として番禺まで同道した。衛尉 博徳はくとくに命じ、桂陽に兵を駐屯させ、背後から軍事威嚇する物々しさである。桂陽は五嶺の南、いまの広東連州にあたる。番禺の北二百キロにある要衝である。五嶺の北側にも同名の桂陽郡(いまの湖南 郴州ちんしゅう)はあるが、こちらではない。ここだと番禺まで約三百キロ、軍事的脅威はやや薄れる。

 新王趙興は漢朝にたいし、南越国の内属を請願していた。むろん樛太后の主導であり、仕向けたのは安国少季である。さらにいえば、その背景には桑弘羊らが画策する漢朝のおもわくがあった。

 かつて秦朝は封建制を廃し、郡県制を施行した。中央集権国家を企図したのである。漢朝も基本は郡県制に置いたが、当初は実力がともなわず、諸侯国、列侯国などの封国が並立する変則体制でスタートした。これを郡国制という。これら封国からの統治権奪取が、漢初の課題であった。韓信・英布など建国の功臣が次つぎに粛清され、呉楚七国の乱以後、諸侯王の統治権が剥奪された。さらに漢武帝の推恩の令により、諸侯王の封地は代を重ねるにつれ、かぎりなく縮小細分化された。ここにおいて漢の中央集権化は完成したかに見えたが、これまでやや曖昧に処遇してきた周辺国家にたいする君臣関係が、にわかに問題化してきたのである。

「外藩の放任体制を許すのは、おかしいのではないか。天下はただひとりの帝王によって統治されるべきであり、外藩もまた内藩同様、その定めにしたがうべきだ」

 儒教、春秋の論理である。

 内臣である諸侯王の諸侯国が内藩とされるにたいし、漢朝周辺の異民族国家の首長は、漢の皇帝と君臣関係を結び従属する形式を保てば外臣とみなされ、その国家は外藩とされてきた。ところが、諸侯王の内藩が剥奪された統治権を、周辺異民族の外藩は、いぜん持ちつづけたのである。つまり独立国としての存在が認められ、入朝謁見の義務、王位相続の規制、軍事権のうち軍事発動の制限があるのみで、漢朝は外藩の財政権、軍事権には基本的に干渉しなかった。

 その見直し論が浮上するなか、最大のターゲットと目される南越国が、みずから内属化を求めてきたのである。

 王位についたといっても趙興はまだ年少で実績も皆無だったから、立場は名ばかりである。後見する樛太后にしても漢人であり、南越国内に支持基盤はほとんどない。漢の朝廷に頼るよりほか、道はないのである。樛太后はその手がかりを、安国少季に求め、少季は桑公羊に相談した。まさに漢朝の思う壺である。

 これまで南越国は、「外臣」としての立場をつらぬいてきた。祖王趙佗いらいの立国精神に基づいている。内属化は、南越が立国いらい一貫して保持してきた相対的独立の地位を自動的に放棄することを意味した。

 当今、南越国の実質的権威者は、丞相呂嘉である。越人の雄と謳われるほど国人の信任を得ており、威望は王に勝るとも劣らない。祖王趙佗の建国事業、ことに「和輯百越」に貢献した。臣従はしていても、趙佗とは盟友の関係に近い。趙佗もそれを認め、呂一族を厚遇してきた。呂嘉は建国いらいの丞相であり、弟の呂祐りょゆうも将軍職を堅持し、政治・軍事の実権は呂一族が掌握している。

「男はことごとく王のむすめめとり、女はことごとく王の子息の宗室に嫁す」と豪語するように、呂一族中、七十人あまりが官の高位についていた。ちなみに天子のむすめである公主を妻にすることを「尚主」という。主は公主を意味する。めとるという下世話な文字をはばかり、めとると表現したのである。ことほどさように、南越国では呂嘉の存在は大きい。

 その呂嘉が一目置くのが、蒼梧そうご王趙光である。蒼梧の秦王ともいう。蒼梧国は、いまの広西梧州市とその付近一帯である。漢朝に倣い、南越国もまた分封制度を導入していた。国のなかに国を建てて、数名の王侯を封じ、要所に配置したのである。桂林郡にこの蒼梧王を、象郡を交趾と九真の二郡に分け、交趾に西于せいう王(西甌せいおう王)を、のちに趙建徳を高昌侯に封じている。趙建徳は後主、つまり最後の南越王である。


 蒼梧王趙光は、南越国の王侯中勢力がもっとも強い。むろん呂嘉は、趙光とも姻戚関係にあった。趙光の妻もまた呂一族なのである。

 秦末漢初、斉王の座についた田横でんおうむすめがいた。田横は山東 てきのひとで、斉王田氏の一族である。秦末、陳勝・呉広が中原で決起したさい、自立して斉王となった田儋でんたん・田栄につづき斉を平定したが、韓信に追われ、部下五百余名とともに海上に逃れた。後患を恐れた劉邦は田横の罪を許し、召し寄せようとした。田横は謝絶したが、劉邦はなお謁見を強要した。他に累をおよぼしてはならぬと、田横は洛陽の手前まで来たが、節義として漢に仕えることはできない。みずから首を刎ね、意のあるところを劉邦に示した。劉邦は王者の礼をもってかれに報いた。孤島に残った五百余の部下は、すべて田横に殉じた。

 そんな田横のむすめが、劉邦の仲立ちで趙佗の夫人となり、一女を生んだ。その子が呂嘉の男児に嫁ぎ、もうけたのが趙光である。つまり趙光は、趙佗と呂嘉にとって共通の孫にあたる。

 梧州は番禺の西、直線距離にして二百キロの地である。交通の便はよい。西江が番禺に通じており、長安から番禺に入る直近の要衝である。

 趙光は沈着にして豪胆、事理をわきまえ謙譲の礼を知る、趙佗が自慢の孫といえる。趙胡の立太子が遅れた一因ともとれるが、本人は、「嫡孫ではないので資格はない」といって早々と梧州に引き籠った。国政に口を挟むことをはばかり、国防に専念する意志を明確に示したのである。

 おりしも漢朝が桂陽(いまの広東連州)に兵を集結した。梧州の北、約百八十キロ。至近距離といっていい。有事にそなえ梧州に、緊急出動態勢がとられた。朝覲勧告使節は、湖南の湘江から霊渠経由、灕江伝いに梧州をとおり、西江を下って番禺にいたる。

「使節一行の来駕にさいしては、まず梧州にて接遇されたい」

 呂嘉からの依頼が届いていた。

 趙光は衣服を改め、使節を出迎えた。長旅の労を多とし、懇切にねぎらった。翌日は、みずから先導をかってで、番禺まで案内する律儀さである。使節も謝意をかえした。

「いや、蒼梧王御みずからご案内いただけるなど誠にかたじけない。かえってご足労をおかけし、恐縮にござる」

 趙光は洒脱なひとで、西江下りの船中でも、親しく会話を交わした。正使の安国少季は緊張のあまりろくに返事もできなかったが、副使の終軍・魏臣とはすっかり打ち解け、互いの国情について忌憚ない意見を交換するまでになっていた。

その実、呂嘉の依頼には、注文がついていたのである。

「詔勅の内容をあらかじめ知っておきたいので、探ってほしい」

呂嘉の関心は、諭達される詔勅の中味にある。かねてより樛太后が漢朝に内属を請願するよう南越の大臣に働きかけていたことは、趙光も承知している。

匈奴征伐のいくさ談義にひとしきり花を咲かせたあと、趙光は剛勇の士魏臣に探りを入れた。

「『母は子のゆえに貴し』とはよく申しますが、新王のために骨身を削って説いてまわる太后には、われらから見てもつくづく頭が下がる思いです」

「それよそれ。陛下もそれをいたく気にされ、こたびの詔勅になり申した。漢の女が越に輿入れしたはいいが、夫王に先立たれ、孤立無援の境遇となり、頼むものもいないとあっては、いかにも哀れではないか。まわりはすべて越の重臣で固められている。息子の王に実権を握らせ、趙氏の王室を保とうとすれば、漢朝の力に委ねるほかない。このたびの南越内属の願い、丞相ら越人で占める重臣らがよくぞ承知したものよと、わが方でも感心しきりであった」

魏臣は当然のことのように語ったが、趙光は驚いた。太后はわが子かわいさのあまり、国の大事を独断で決めてしまったのだ。

途中、船が肇慶の湊に立ち寄ったとき、趙光は呂嘉にあて、ことの次第を密書にしたため、早馬に託した。


使節が番禺に到着した翌朝、宮中において諭達の儀式が執りおこなわれた。副使の終軍と魏臣を両脇にしたがえた安国少季は、緊張でやや青ざめた面持ちながら堂上に位置し、漢武帝の詔を告げた。趙興以下、呂嘉ら重臣に趙光ら諸王侯がいならび、謹んで承った。

「帝にあらせられては、南越国王の願い殊勝なりとの仰せである。諸侯として内属したき旨、確かにお聞き届けになられた。向後、三年にいちどの入朝を許す。朝覲を欠かさず、政務に励むようにとの詔である。このうえは、国境の関も取り外すがよい。法を改め漢の制度を導入し、黥刑・劓刑は廃止する。さらに多年の功労により丞相呂嘉以下の内史・中尉・太傅に漢印を下賜し、王兄趙建徳を術陽侯に封じるものである。ありがたく拝受されたい」

 寝耳に水の内属化宣言である。入朝の義務付け、関税の撤廃、軍備の放棄、高官任命権の移譲、漢の法令強制、これにくわえて使節は駐留し、南越の鎮撫にあたるという。

「なんたる倣岸、なんたる不遜。これが天下を統べる漢の帝のなされようか。樛太后だけでは飽きたらず、南越国まで寝取らんとのくわだてか」

 供回りのものに介護されよろよろと座に着いた老人が、うってかわって昂然と頭をもたげて抗議した。呂嘉である。

「影武者をたてられてはいかがか」

 と羅伯らが気遣うほど、ちかごろの呂嘉は老いさらばえている。

「影武者では漢の帝に礼を失するゆえ、這ってでも参る」

 そのくせ、ここいちばんでの舌鋒はいささかも衰えをみせない。

 安国少季をにらみつけ、

「いかなる存念があって、国を乗っ取ろうというのか」

 と、痛罵した。

 上座に座してはいても、漢朝の正使としての資質も経験もおぼつかない少季である。 左右に侍る諫大夫終軍と勇士魏臣にしてからが、

「はてこのものの力量や如何いかん)」

 とばかり、おしだまったまま少季の対応を静観している。

 少季は真っ青になり、からだを小刻みに震わせ、

「詔勅である、詔勅である」

 と連呼するのみで、示しがつかない。

 みかねた樛太后がその場を収め、早々に諭達の儀を終えた。

 ほどなく会場を替え、祝賀の宴にうつった。漢の使節をねぎらう祝宴である。段取りの一切を樛太后側で仕切っている。内史ら重臣も、相談にあずかっていないという。

「鴻門の宴とは、はて、いかなる仕儀にあいなるや」

 なりゆきは波瀾ぶくみである。呂嘉は早々に退散する心づもりであったが、

「漢印ご下賜の答礼をお願いしたい」

 とむりやり席に坐らせられた。

「鴻門の宴」は、「鴻門の会」ともいう。秦都咸陽郊外鴻門における項羽と劉邦の最終談判の会合である。この場で項羽の謀臣范増はんぞうがえがいた筋書きどおりに劉邦が殺されておれば、その後の楚漢の抗争はない。果たして、逃げの劉邦の面目躍如、劉邦はからくも遁走する。

「わしも劉邦にあやかるか」

 不測の事態にそなえ、将軍呂祐の親衛隊を宮門の外に待機させてある。介添えの羅伯は、背後に控えている。

「宮門を抜け出るまでの勝負だ」

 呂嘉は羅伯に耳打ちした。


 漢の使節は東面して上座につき、樛太后は南面して次座についた。南越王 趙興は北面して三座につき、呂嘉や重臣は西面して下座に坐った。趙光もその座につらなった。秦末「鴻門の宴」での席次は、項羽・范増・劉邦・張良の順である。

 酒が適度に回ったとき、樛太后はとつぜん呂嘉に詰問した。

「南越が漢朝に内属するのは、国家を利するためです。丞相はなぜ同意してくれないのですか」

 反論を意識しての質問である。答え方いかんで、漢の使節の不興を引き出そうと、あえて仕向けたのである。

 呂嘉はすこしもあわてず、静かに持論を展開した。

「よろしいか。わが南越国は独立国であって、漢の諸侯国ではない。漢に臣属しているのは、わが祖王が高祖・文帝とのあいだで交わした信義に基づくもので、いわば双方合意の約定である。一方がこの信義にもとれば、他の一方は自由にこれを破棄しうる。漢が皇恩をもって遇するかぎり、南越はつねに臣礼をもってこれに報いる。天地神明に誓い、われらから信義にそむくつもりはもうとうござらぬ。さればこそ、漢が覇者の驕りをもってわれらにあたれば、われらにしたがう義理はない」

 満場 じゃくとしてしわぶきひとつない。呂嘉は語調を強めた。

「こたびの朝廷のなされよう、まさしく覇者の驕りとみた。内属とは隷属である。われらが漢朝に隷属するいわれはない。さらにわれらから内属を願いでた事実はまったくない。われらのあずかり知らぬところで捏造されたものなら、したがう義務はまったくござらぬ。わが祖王の誇りにかけて、内属の儀はかたくお断り申す」

 ここでいう信義とは、南嶺山脈の五嶺をもって一線を画す、相互不可侵の紳士協定をさす。呂后時代に紛糾し、漢は五嶺を越えようとしたが果たせず、ぎゃくに南越が長沙辺境まで侵攻したことがある。むろん、さきに仕掛けたのは漢側である。

 呂嘉は一礼し、席を立った。漢の使節は黙然として、ただ見送るばかりで、阻止のしようもなかった。

 ひとりいきり立ったのは樛太后である。

「ええい、不甲斐なき奴ばら。かくなるうえは、わらわが遺恨受けてみやれ」

 いうが早いか、かたわらの矛をとって、呂嘉を突き刺そうとした。

 羅伯がかばって、呂嘉のまえに立った。

「待たれよ母上、お静まりくだされ」

 押しとめたのは、趙興である。ときに十六歳、ことの是非をわきまえての諫止である。

「汝がためになしたるに、さても口惜しや」

 矛がからりと手から滑り落ちた。樛太后はその場にへたり込み、去ってゆくふたりをにらみつけていた。


 将軍呂祐は、宮門の出口で呂嘉を待ち受けていた。羅伯がことの経緯を手短に説明した。戦の駆け引きに長けた呂祐は、その場ですばやく形勢を分析した。

 樛太后の詰問が、呂嘉から過激な叛漢の言質を引き出す意図からなされたことは明白である。漢の使節の面前である。あわよくば、その場で捕縛、あるいは抵抗すれば殺害しても理由は立つ。ところが太后の意に反し、肝心なときに安国少季がまったく役に立たなかった。反論ひとつ、できなかったのである。一方、ふたりの副使は終始、静観の姿勢を崩さなかった。内属の請願が南越国の総意ではなく、樛太后の恣意によるものだとの心証を強くしたかにみえる。篤実な趙光から内輪の事情を説いて聞かせれば、敵対することは避けられよう。桂陽駐留軍の発動を要請する事態にはいたるまい。幸いなことに、趙興に呂嘉を殺害する意志はない。かえって急場を救ってくれた。趙興が表に出れば事情はかわるが、南越国内に樛太后を積極的に支持する勢力は、まずないとみていい。

 結局、国に仇なす懸念材料は樛太后のみであるが、それすらひとりではなにもできない木偶でく(人形)のような存在である。

「されば、背後で糸を操る傀儡師くぐつしは、」

 呂祐は呂嘉に問いかけた。ふたりは思わず顔を見合わせた。

「桑弘羊か」

 経済官僚にして、漢武帝の寵臣。新たな財源を求めて、財政建て直しに余念のない、漢朝の切り札的存在といっていい。

「いずれ、はなしをつける機会もあろう」

 孫ほど歳のはなれた桑弘羊を、呂嘉は終極の好敵手ライバルと見立てたのである。


 宴席は一触即発の危機をはらんだまま、かろうじて暴発は免れ、散会した。

 宮中を脱した呂嘉は、将軍の衛兵に護られ、府邸に戻った。

 この日を境に呂嘉は病と称し、宮署には出仕せず、府邸に閉じこもった。府邸が作戦本部の様相を呈した。大臣らが見舞いにかこつけもたらした情報をもとに、ひそかに対抗策が講じられた。

 南越国は勢力を二分したのである。もはや敵は樛太后ではない。ずばり漢朝である。漢の使節は番禺にとどまり、鎮撫の名のもとに国王を傀儡とし、全土の制覇をもくろんだ。


 南越国内属化の詔勅はすでに発令されていた。法令の改変がおこなわれ、国軍の総指揮は国王から漢朝使節の手に移った。しかし将軍呂祐は指揮権を返上せず、兵站を押さえ、兵営に立て籠もった。国境の関は開放せず、従前どおりの警備をつづけている。これにたいし桂陽に駐屯する漢の部隊は、動かなかった。宮署の近衛兵は解散し、使節団の衛兵がこれにかわった。丞相呂嘉以下の内史・中尉・太傅ら重臣はそろって出仕せず、国家機能は停止した。百姓ひゃくせいは不安な面持ちで、息をひそめて成り行きを見守ったが、不穏な兆しは見られなかった。番禺の港はまだ閉鎖されていない。外航船は港に錨を下ろしたまま、出帆の時期をうかがっていた。

 こうした南越の国情を、安国少季は漢の朝廷に報告し、救援を要請した。みずからの無能無策を告白するにひとしい。副使はこれとはべつに、趙光から得たくわしい内情を桑弘羊にあて報告していたから、武帝劉徹はすでに情況を掌握していた。

「南越国がこと、いかように扱うべきか。もはや、あの役立たずに任せておくわけにはいかぬ」

 さしあたっての対応を、桑弘羊に諮問した。

「強攻策をとるには、時期尚早かと思われます。いまはかたちのみ急援軍を派遣し、南越内部の抗争を煽るのが得策ではなかろうかと、愚考つかまつります」

「して、救援の兵はいかほどか。一万か、二万か」

「万を越えれば、世間の目を引きます。かたちのみの救援にござりますれば、さしあたり千か二千」

 大軍を発動するための誘い水である。桑弘羊は、武帝を注視し、千か二千と、目で念を押した。誘い水は、呼び水ともいう。生還を期しえない犠牲部隊である。有能な経済官僚は、費用対効果の算盤勘定をあたまではじいていた。


 武帝は大臣の荘参を召し、南越鎮撫の部隊二千名の出動を命じた。

 荘参は耳を疑った。

「二千名でございますか」

「どうした。多すぎるか」

「高祖の御世、陸賈りくかはたったひとりで南越へ乗り込み、戦わずしてかの国をしたがわせた由。ひとりにくらべれば、二千はいかにも多い数にございます。一方、秦の始皇帝は嶺南征伐に五十万の大軍を動員しながら、五年もの歳月を費やしております。かほどに力攻めは難しいものにございます」

「分かっておるわ。かといって、いまの世に陸賈はおらず、さりとて南越征伐に大軍を派兵するだけの名目がない」

 武帝劉徹は鼻白んで、虚空を見あげた。十年まえなら匈奴征伐というだけで、思いのままに大軍団を動員できたものだ。ところがいまは、民意の動向を考慮しなければならず、さらに歴年の外征で疲弊した財政の支出配分も考えなければならない。時代はかわった。武帝といえど、恣意によっては一兵たりとも動かせない。輿論や戦費を無視して強行するわけにはいかないのである。

「おそれながら」

 二千の兵と聞いて荘参が難色を示したのを見て、口を挟んだのが桑弘羊である。これまで、財政という専門以外で発言することはなかったから、武帝も意外に思った。

「南越国の王母樛太后の弟 樛樂きゅうがくが、姉の窮状を救うために決死隊の出撃を志願しております。またかつて済北王の丞相をつとめた韓千秋が樛樂を助けて、決死隊の指揮を執ると名乗りを上げております。壮士韓千秋は知るひとぞ知る放胆な猛者つわものにて、『微々たる南越国がいかほどのものか』とうそぶき、『三百の勇士あれば、呂嘉の白髪首、討ちとってみせよう』と豪語いたしておりますれば、このたびのお役目にはうってつけではなかろうかと、あえて言上つかまつります」

 桑弘羊の秘策は、人選すら周到に準備していた。武帝はその場で快諾した。

 時を移さず、韓千秋と樛樂は二千名の勇士をひきいて南越に下った。

「悲願達成のおりには切り取り勝手」

 と、武帝から異例のおことばを賜っている。一旗挙げんものと、決死隊の面々は、実力以上に意気込んだのである。



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