八、樛姫の誤算


 樛姫きゅうきは番禺に下るさい、嫡男趙興のお付きとして、遠縁の少女をひとりともなっていた。樛芳きゅうほうという。年齢は趙興の倍だったから当時十二歳、りっぱな姉貴分である。趙興のゆきたい場所へはどこへでもつれてあるいたから、小芳シァオファンと呼ばれて、越人社会にも溶け込んでいた。趙興の小さな先生である建徳とも仲がよく、三人はまるで兄妹あるいは姉弟のようにつるんで、番禺郊外を遊びまわった。

 あるとき羅伯が食事の席で、からかったことがある。

「小芳は大きくなったら、建徳のお嫁さんになるといい」

叔々シューシュ(おじさん)ったら、じょうだんばっかりいって。本気にするよ」

 小芳はいつものように、大きな目を愛らしくくるくる回して、軽口で切りかえしたが、建徳は真っ赤になって、うつむいたきり、顔を上げない。

「じょうだんにきまっているよ。悪いんだから」

 羅伯を打つまねをして、小芳は建徳をかばった。そんなやり取りを、トンボの尻尾に紐をつけて遊んでいた趙興が不思議そうに見つめた。トンボは尻尾を切って、飛んでいった。


 漢朝は高祖劉邦にはじまり、恵帝・文帝そして景帝ときて、五代目の武帝が即位したのは、前一四一年、劉徹十六歳の正月である。父景帝の十四皇子のうち第九子にすぎないから、生まれながらの帝王だったわけではない。立太子は前一五〇年、七歳のときである。

 景帝のはく皇后には子がなく、側室 栗姫りつきの生んだ栄がはじめは太子に立てられていた。しかし皇后をめぐる宮中闘争があり、徹を生んだ王夫人が皇后になるにおよび前太子は廃立され、そのあとを受けての立太子である。祖母にとう太后、叔母に館陶かんとう長公主という実力者の後ろ盾あってこその擁立である。女の業のすさまじさを、年少期にしてすでに感得していたといっていい。

 祖母の竇太后は文帝の后、長公主はその子で、景帝の姉にあたる。劉徹の最初の后は、長公主のむすめである。陳后、幼名 阿嬌あきょう、十六歳年長なうえ世継ぎができなかったので、のちに劉徹の長姉平陽公主のとりなしで衛子夫えいしふが寵愛されるにおよんで廃后される。匈奴征伐の大将軍衛青は、その衛子夫の異父弟である。ついでにいえば驃騎将軍霍去病の母は、衛子夫と衛青の姉にあたる少児しょうじである。つまり霍去病は、衛皇后の甥ということになる。

「雄材大略」をもって知られる一代の英傑漢の武帝劉徹も、そのはじめは、はなはだ窮屈な立場におかれていたのである。

 皇帝劉徹の後ろ盾、祖母の竇太后に代表される守旧派は、「黄老こうろうの学」の信奉者で、大の儒学嫌いときている。「黄老の学」とは、黄帝と老子を祖とする哲学―道教のことで、無為自然を本旨とする。そんな背景があったから、当時の新思想ともいうべき儒学を、無用にして危険な学問とみなし、目の敵にしていた。

 かれら守旧派の監視の目をかすめ、青年皇帝はのちの大漢帝国の興隆に向けて着々と構想を実行してゆく。まずは人材の抜擢である。

 さきに述べた張騫、また衛青や霍去病の例に顕著であるが、漢の武帝劉徹は、人材の登用にすぐれた成果を残している。

 即位してまもなく、賢良方正にして、直言極諫の士の推挙を求める詔勅が出された。「野に遺賢なからしめる」という儒教理念に基づく。出自・門閥にとらわれることなく在野から広く有能の士を集めるもので、このとき賢良に挙げられ登用されたのが、公孫こうそんこう董仲舒とうちゅうじょである。ともに武帝時代の代表的儒家の学者である。公孫弘はのちに丞相となる。

 董仲舒は論文形式の試問に、こう進言した。

「人材を養成するためには、皇帝直属の太学の設置が不可欠であります。太学は人材をあつめ、教導する根源です。太学を興し、優秀な教師をそろえ、人材の養成にあたらせますよう」

「郡県の長は、中央政府の意向に沿って民を教導する師帥しすい(教師・統帥)です。ならば諸侯・郡守に、その吏民のなかから優秀な人材を選ばせ、毎年三名を推挙させ、制度化すればいかがでしょう」

「『春秋』が説くところによれば、天下はただひとりの天子によって統治されるべきであります。さらに理想政治の実現のためには、学問の教養あるものこそが、官吏となるべきでありましょう。学問とは孔子の道であり、教養とは六芸りくげいであります。これ以外のものは排斥すべきです」

 六芸とは、「易」「書」「詩」「礼」「楽」「春秋」をいう。儒教を政治の指導理念に据え、これを学び、これに通達することを官吏の必須条件においた。中国の文官登用試験である「科挙」の制度の原型である。武帝はこれらの答えを「し」とし、董仲舒を抜擢した。またこの進言を取りあげ、のちに儒教をもって国の教えとする。

 しかし儒家の希求するものはあくまで「先聖の道」であり、主張するものは「賢人政治」の理想である。漢朝がいま当面する喫緊の課題、財政問題の解決のためには、べつの才能を発掘しなければならなかった。

 財務官僚として非凡な才能を発揮した人物に、桑弘羊そうこうようがいる。洛陽の商人の子として生まれ、十三歳で宮中に出仕した。会計・財務の才を武帝に見出され、側近として生涯仕えた。武帝の三、四歳下というから、嬰斎が南越王に立った前一二三年ころは三十を越えたばかり。新進気鋭、若手官僚中のホープで、側近中の側近である。

 当時、相次ぐ匈奴戦の遂行でさしも富裕を誇った国家財政が破綻寸前にまでおちいっていた。財政の建て直しが求められるなか、新たな財政政策を立案し、試行した。いずれも一過性ではなく、長期継続して施行できる政策である。正式の実施は数年後になる。

 塩・鉄専売(前一一九年)、均輸法(前一一五年)、平準法(前一一〇年)などを実施し、国家財政の再建に成功した。均輸法というのは物資の買い付けと輸送を官営でおこなうもの、平準法というのは買い付け物資の市場放出時期を統制し、物価の調整をおこなうものである。それぞれ均輸官、平準官という専門機関を設置し、国が直接その運営にあたった。それまで膨大な利益を独占していた大商人は排除され、その運営利益は国庫を潤した。

 この政策の発想を、桑弘羊は南越国から得た。南越国では、官営の海外交易によって輸入した舶来品を、やはり官営の関市によって漢の商人に販売していたのである。南越国と商取引のある桑弘羊の実父がその情報をもたらした。


 一日いちじつ、自邸に戻った桑弘羊は、実家の父からの紹介でひとりの男と対面した。

「なにようであろうか」

 年こそ若いが、桑弘羊は政府の要職をになっている。初対面の相手には警戒心をもってあたる。

「お目通りいただき、かたじけなくぞんじます。それがし、姓は安国、名は少季と申し、灞陵はりょうのものにございます」

 覇陵は、文帝の陵墓のある地である。長安の東十キロの灞河にかかる橋を、灞橋とも灞陵橋ともいう。魏の王粲おうさんは『七哀の詩』で、「南のかた灞陵のおかに登り、こうべめぐらして長安を望む」と万感の思いを一詩に託し、唐の李白は『灞陵行 送別』で、「君を送る灞陵亭、灞水流れて浩々たり」と、戦乱を避けて長安を捨てた王粲おうさんをじぶんの思いに重ねあわせている。いずれも名君といわれた文帝の善政がベースにある。東に旅するひとを送る場所として有名になるのは唐代以降である。

「じつはそれがし、南越国王とその后にいささか関わりあるものにて、お願いの儀これあり、まかりこしてございます」

 南越国と聞いて、桑弘羊ははなしを受ける気になった。そうでなければ、だれの紹介であろうが、自邸で客の応対はしない。期日をあらため役所で面会すると、断るのがつねである。

 安国少季は、かたわらに置いた大きな包みをひらいた。両手を広げてあまりある、みごとな象牙だった。

「西のかなたの異国より舶来せし、大象の牙にござります」

 非洲―阿非利加アフリカ洲の象牙である。南越国の商船が直接アフリカから輸入した物産だという。

「それがし、南越国王に委託され、かような品々をお父君に吟味していただいており申すが、本日まかりこしたるご用の向きは―」

 桑弘羊は手を鳴らして用人を呼んだ。奥の間へ安国少季を招じ入れたのである。


 趙嬰斎の多忙な日々は、即位以来二年間、かわらずつづいていた。

 朝廷からは入朝をうながす使者がたびたび訪れていたが、そのつど言を左右にし、嬰斎自身が長安へ赴くことはなかった。丞相呂嘉をはじめとする重臣のすべてが祖王趙佗の遺訓を盾に、朝覲に反対したことにもよるが、嬰斎もまたその真意を了とし、みずからの意志として入朝を拒んだのである。

 かわって次子の趙慶ちょうけい質子ちしとして都にった。皇宮侍衛の身分は名目だけとしても、まだ五歳である。嬰斎は躊躇したが、めずらしく樛姫が積極的に賛意を示し、引かなかった。樛姫が同行し、後見するというのである。早手回しに朝廷の合意を取り付け、いそいそと長安へ出立した。

 趙慶を入朝させるにさいしては、樛姫がみちがえるほど張り切って気配りした。樛姫は貢納する品々の見繕みつくろいを、みずから買って出たのである。漢越双方の事情に通じているから、勘所かんどころのとらえかたが堂に入っている。この仕事のために樛姫は終日、御宝蔵にこもって収納品を物色し、郊外にある野生動物の放牧場にまで足を運ぶ念の入れ方だった。放牧場には異国からもたらされた珍奇な動物が、あるものは野生のままで、またあるものは馴化され特殊な訓練をほどこされていた。

 貢納品の内覧の席で、嬰斎は瞠目した。かれ自身がはじめて目にする光景であった。都人の驚嘆が目に見えるようであった。

 大きな象が後ろ足で立ったり、逆立ちをしてみせたりした。鸚鵡おうむがことばを発し、歌をうたったのである。

 舶来品を荷車に山積し、大象を引きつれ、鸚鵡をかたに乗せ、一行は都へ旅立った。狙いたがわず、漢武帝はことのほか喜び、かくべつの褒章を賜った。

 それいらい樛姫は番禺と長安を好きなように行き来している。いぜんのように宮廷に閉じこもって、ぐずぐずと愚痴をこぼさないだけましというものである。嬰斎も樛姫のするに任せた。国事の多忙にくわえ、私事にも忙しくなりはじめたからである。

 そんなおり、嬰斎は旧知の間柄である安国少季と再会した。樛姫が番禺まで帯同してきたのである。

 安国少季は、長安時代の若い嬰斉に樛姫を紹介した縁結びの立役者、いわゆる「月下氷人げっかひょうじんといっていい。当時の安国少季は、長安でも名うての花々公子プレーボーイだった。おぼこな田舎出の貴公子に近づいてじぶんの女をあてがい、金づるにするなどは、お手のものである。なんどか遊び歩き、嬰斎の好みと懐具合を確認したうえで、飛び切り洗練された都会風美女を紹介した。これが樛姫である。嬰斎はたちまち樛姫に夢中になり、結婚してしまった。 

 樛姫に未練のあった少季は臍をかんだが、実益を優先させた。もっとも関係は途絶えたわけではない。嬰斎の目を盗んでは、密会を楽しんでいた。嬰斎が南越の国都番禺に移ったあとも、樛姫の手引きで舶来高級品の漢越間交易に手を染め、千里いや五千里の道を遠しとせず、まめに逢瀬の機会をこしらえていた。その一方で、南越国王になった趙嬰斎に臆面もなく再会し、腐れ縁に近い交遊を復活したのである。

「国王にふさわしい、おもしろい遊びをしようではないか」

 誘ったのは少季である。政務に多少慣れだしたころから、夜はときおり出歩く機会もあった。ただし昼間に関しては、ひとがかわったように脇目も振らず仕事の虫できた嬰斎に、魔がさした。

「おもしろいとは、どのようなことか」

紂王ちゅうおうの故事をごぞんじだろう。『酒池肉林』をまねて遊んでみないか。『長夜の飲』としゃれてみてはいかが」

 酒と女、夜昼忘れ、歓楽のきわみをつくしてみないか、という誘惑である。嬰斎はあいまいながら、それでも首をたてに振った。


 前一一四年、長い病に犯されていた趙嬰斎が病死した。「明王」とおくりなされた。太子の趙興が、南越国第四代目の国王に即位した。趙興は十五歳に達していた。樛姫は太后となり、後見した。

 国王となった趙興には、専門の近侍がつく。お役御免となった樛芳は、いわば部屋住みのような待遇で取り残された趙建徳のもとに身を寄せた。建徳が願ったのである。

「屋敷を出て、市井に生きる。ともに暮らしてくれまいか」

 もとより異存はなかった。小芳は小さくうなずいた。

 のちに国を二分する呂樛の政争をよそに、ふたりは市井の片隅で、ひっそりと生きた。

 名を捨て、みずから選んだ庶人の暮らしである。貧しいながらも、だれはばかることのない自由な生活のなかで、建徳と小芳は日々のささやかな幸せをかみしめて生きた。しかしその幸せは、一時いっときのものでしかなかった。


 病死した嬰斎は南越国王の位にあった九年間、長安へはいちども足を運ばなかった。『史記・南越列伝』にある、「入朝すれば諸侯と同等に扱われることを恐れ、病気を盾に、あくまで入朝を拒んだ」という記載からは、太子時代の属国根性は毛ほども感じられない。祖王趙佗いらいの立国精神をつらぬき、独立政権の保持を意識していたと思われる。しかしその一方で、「ほしいままに殺生し、気まま勝手を楽しんだ」とも記されているのである。

「気まま勝手を楽しむ」のは、ていどの差はあれよく見られることで、さほど非難にあたらない。しかし、「ほしいままな殺生」とは、ただごとではない。


 南越国王の死が巷で小さな話題になったころ、南越国の醜聞スキャンダルもまた、長安の界隈を駆けめぐった。亡くなった嬰斎は生前、「酒池肉林」に耽っていたというはなはだゴシップめいた消息は措くとして、南越国では死刑囚にたいし、五体を切り刻んだり解剖したりということが、ひんぱんにおこなわれていたという猟奇的なスキャンダルである。嬰斎自身かつて一再ならず、みずからこれに手を貸すこともあったというのである。黥刑げいけい(顔に入墨の刑)や劓刑ぎけい(鼻切りの刑)は従来からおこなわれていたからいまさらの感もあるが、南方の蛮族の国、文化果つる地での異常なできごとの暴露に、人びとは嫌悪感を禁じえなかった。

この消息ニュースが都からもたらされたとき、呂嘉ら南越国の上層部は、そこに作為的な不自然さを感じた。地元では噂すらないまったくの作り話に思えたからである。

 ぎゃくに地元では、樛太后と安国少季との私通の噂で持ちきりだった。かりにもさきの后である。私通は、王が亡くなられたあとからだ、いや生前からだった。あまつさえ、少季は食味後の古傷ものを王に紹介した、というおちがついていた。興味本位の俗人にはたまらない話題である。井戸端や酒席で、日ごと夜ごと、おおいに盛り上がったものである。

 さらに噂は尾鰭おひれをつけた。樛太后は安国少季とはかり、御宝蔵の宝物を勝手に持ち出し、帝へ献上したり、私的に売買したりしていただの、その運搬で都に上ったものは、奴隷として売り飛ばされるだの、はなしの種はつきなかった。

「為にする噂もあれば、事実の反映もあろう。いずれにせよ末期的現象といわざるをえない。ついに来るべきものが来た。漢朝が南越に介入する前触れと見ていい」

 閉じかけた目を半眼に見すえ、だれにいうでもなく呂嘉はつぶやいた。ふと、脳裏に祖王趙佗の顔が浮かんだ。晩年のものではない。まだ二十台のなかば、秦が南越を制覇したころの面影である。このころ呂嘉はまだ小童にすぎない。

 若い趙佗は威勢がよく、全身に活気を漲らせていた。中原からの流れ者の一団が、呂嘉のむらで悪事を働き、逃走中だった。趙佗は呂嘉らをつれて、あとを追った。ようやく追いついたとき、趙佗は腰に佩いた鉄剣を、鞘ごと呂嘉に渡し、

わっぱ、これが使えるか」

と怒鳴った。まえから欲しかった鉄製の剣である。夢中で応えた。

「使える」

「おまえにくれてやる。いくぞ、おれにつづけ」

 趙佗は矛を手に、一味のなかに飛び込んだ。遅れじと呂嘉もまた剣を揮ってあとにつづいた。それが趙佗との仕事のはじまりだった。

「鬼神をもひしぐ、それほど圧倒的な働きぶりであったよ」

 往時が甦り、声に出していった。

「いま、なんとおおせられましたか」

 近侍のものが、怪訝そうに聞きかえした。

「いや、なんでもない」

 ――参りますぞ、最期のひと仕事。正念場にござれば、祖王よ、とくと御覧ごろうじろ。

 呂嘉は、ふたたび目を瞑った。


 この時期、元狩年間(前一二二―前一一七年)、漢の武帝は長安の西南に昆明池を掘削し、楼船を用いた水軍の訓練に余念がなかった。周囲四十里、当時の一里は四百五メートルであるから、周囲十六キロにおよぶ人工湖での水軍調練である。南越国を仮想敵としたものにちがいない。実戦にうつす日が近づいていた。

「帝より、急げとの思《おぼ)し召しである」

 声を励まして、桑弘羊は命じた。

「はっ」

 安国少季は、かしこまって南越国「諭達使節」の詔を拝受した。外交使節の正使である。

 ――十年かかった。

 樛姫が南越から涙ながらに訴えるふみを、はじめて寄こしてから十年たっている。色と欲との二股かけて、ようやくここまでたどりついた。嬰斎をたぶらかせる段取りだったが、いがいと堅物で、筋書き通りにことは運ばなかった。しかし嬰斎はいい時期に死んでくれ、意図的にばら撒かれた噂は真実味を帯びた。あとは邪魔立てをする国許の古鼠どもを始末してしまえば、南越一国手に入る。漢朝に半分持っていかれても、分け前はじゅうぶんある。

深々と叩頭しながら、少季はひそかにほくそ笑んだ。

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