七、三代目 趙嬰斎

 

 前一二三年、趙眜ちょうばつこと趙胡の病死により、趙嬰斎ちょうえいさいが南越国第三代目の国王に即位した。

 太子時代、質子ちしとして十九歳ではじめて長安へ赴くまえ、趙嬰斎には結婚していた呂一族、つまり越族出身の妻があり、嫡子 趙建徳ちょうけんとくをもうけていた。

 長安では前後十三年、留められた。その間、縁あって旧趙国邯鄲のむすめ樛姫きゅうきと契りを結んだ。子がふたりできた。上を趙興ちょうこうといい、下を趙慶ちょうけいという。帰国時、興は六歳、慶は三歳であった。

 嬰斎は南越国王に即位後、漢の朝廷に上書し、樛姫をきさきとし趙興を太子とする旨、願いでた。武帝 劉徹りゅうてつは、願いにもとづき許可をあたえた。

 本来、后になるべき越族の太子妃は、泣く泣く身を引いた。嫡子の趙建徳は、武帝により術陽侯に封じられたが、九つちがいの弟の下座に座らせられた。越族の男たちは黙っていられない。喧々囂々たる非難が、新国王に集中した。ことを収めたのは、呂一族の長たる丞相の呂嘉りょかである。


 呂嘉はみずから反国王派の隠れ家(アジト)に乗り込み、いきり立つかれらの意表をついた。探子たんし(忍び)頭の羅伯らはくをつれただけの微行である。

 反国王を標榜することは、とりもなおさずそれを認めた漢朝に、異議を申し立てることになる。その反国王勢力が相当数を占めていることが表沙汰になれば、漢朝が政治介入してくる口実になりかねない。あくまで隠密裏に解決しなければならないのである。

 まず一同に軽挙をいましめた。

「ご一統、このご時世をなんと心得るか」

 リーダー格の梁堰りょうえんが不満を訴えた。若手官僚のなかでも嘱目されているひとりである。呂嘉も目をかけている。

「われわれは、国王の后が漢人か越人かで反対しているわけではありません。太子が長子か否かを問題にしているのです。長幼の序をないがしろにして、はたして国の徳が保てるものか。丞相はいかがお考えでありましょうか」

 父子のしん、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、儒教にいう五倫の徳目である。孟子が説いている。

 それぞれ五つの基本的な人間関係のあいだには、親愛の情、公の秩序、役割の分担、年齢差の尊重、偽りのないことばという五つの徳があって、これを守ることで、国家社会の規律が保たれる、とするものである。秦の始皇帝によって弾圧された儒教はこの時代、漢の武帝によって国教と定められ、政治思想の主流を占めるにいたっている。

「しかるに長を捨て、幼を立てたるは、漢にたいするおもねりでありましょうか、はたまた長安より罷り越したかの女狐にたぶらかされし結果でありましょうか」

「これ、ことばを慎め。かりにもお后さまであらせられる」

 梁堰のことばをたしなめたあと、呂嘉は全体を見回し、説得した。

「わしとてお主らの気持ちは、よう分かる。したが、いまは国内で無益な争いをしているときではない。いま漢朝にあっては、匈奴征伐の真っ最中で、衛青大将軍は出撃のたび、赫々たる軍功を立てている。この西北に向かう勢いが、いつ南方に矛さきを転じ、わが南越国に向けられるか予断を許さないものがある。このような時期だからこそわが王は、あえて長安にありしときの妻と子を后と太子に選び、漢朝にたいし二心なきところを示されたのではないか。長くかの地におられ、かの国の事情にお詳しい王にしてはじめてなしうるご英断であると、わしは思う。このご請願がすみやかに批准されたのをみても、漢朝の意図が奈辺なへんにあるかが、よく読みとれるではないか。わが一族の太子妃を説得し、ことを荒立てずに済ませたのは、わしのおもんばかりによるものじゃ」

 呂嘉は一同をみわたし、さらにことばを強めた。

「いわば恭順の意を示した以上、漢朝がわが国政にたいし介入してくるのは避けられない。かくなるうえは、いかにしてそれを表面的な受入れにのみ限らせうるかという、現実的対処しかない。いまわが王に不満をぶつけるということは、漢朝にたいする不満をあからさまにすることで、不穏な動きありとして漢朝がさらに深く政治介入してくることは必定、まさにかれらの術中におちいるも同然。お主らに自重をうながすゆえんである」

「無理無体な要求であっても泣き寝入りせよ、といわれるか」

 梁堰は食いさがる。

「いや、そうは申さぬ。われらが臣礼をつくし、なおかつ非がなければ漢朝とてうかつに手は出せぬ。にもかかわらず、よしんば漢朝が強引な介入におよべば、われらは理をもって、満天下にその理非を問うことができる。そもそも、露骨な介入が目に余れば、漢との藩属関係を見直してもよいと、祖王よりお許しをいただいている。さすればことを荒立てず、まずじっくり構えて本質を見定めてからでも遅くはあるまい。いまこの時期、軽々に結論をだすべきではないと、わしは思う」

 不満は残るが、呂嘉の正論には抗しきれない。まして祖王 趙佗ちょうたの遺訓は、かれらがはじめて耳にするはなしである。

「祖王の遺訓とはいかなるものでありましょう」

「それよ、それ。それありしゆえに、この死に損ないの老いぼれが、いつまでも世に生き恥をさらす羽目とあいなっておる。わしをして、南越国の行く末をよう見守ったうえで、あの世での言上におよぶべしとの仰せなれば、まだまだいぬるわけには参らんのじゃ。祖王はかく仰せになった。『漢と南越とは、主人と客の関係に似る。主人が客を遇するに、好意をもって遇すれば、客もまた好意をもって応える』。漢が手厚い皇恩をもって遇するかぎり、南越は臣礼をつくして報わなければならぬ。されど好意が一転、害心ともなり、皇恩が覇者の驕りともなれば、したがう義理すじはない。かれらの要求が理不尽にも傲慢かつ不遜なものにかわれば、そのような要求に甘んじるいわれはないということだ。もとより南越国には地の利がそなわっている。さらに天の時いたり、人の和が結集すれば、ふたたび自立するもよし。義理は道理みちであり、道義とくである。義理あってこその中原であり、中国である。義理を忘れ、覇道が跋扈すれば蛮夷に劣る。われらもとより蛮夷なれば、覇道恐るるにたらず。漢朝において義理を顧みざれば、南越は藩属を脱するも可、これがご遺訓である」


 南越はもともと嶺南と呼ばれる、未開人百越族の地であった。さまざまな越族が部族単位で、太古さながらの漁労・農耕・牧畜生活を営んでいた。土地は肥沃で、河川が縦横に交錯し、動植物に恵まれた常緑地帯であったから、食に不自由はない。しかし、部族同士の反目が激しく、紛争が絶えなかったので、大きなまとまりにはなりえなかった。未開に甘んじていたゆえんである。

 唯一の例外が小船による海上交易の伝統である。かれらは部族の反目を超えて、協同で小船を改良、操作した。危難にあえば、身を挺してでも助け合った。そして、南洋に向けて船を出し、航路をひらいた。この交易によって南方から入手した「犀角・象牙・翡翠・真珠など珍しい宝物」を、各部族長がそれぞれ大量に所有していたのである。

 そこに目をつけたのが秦の始皇帝である。かれは南方交易の利益を独占する目的で嶺南に侵略し、広大な地域を占領した。しかし本国がさきに亡びてしまったのである。 中原で楚漢が覇を競う間隙を縫って、現地駐留軍が独立政権を建てた。

 それが趙佗ひきいる南越国である。かれは「和輯百越わしゅうひゃくえつ」という民族統合政策で、抗争絶えない嶺南をひとつにまとめ、さらに秦始皇帝の衣鉢をついで、南方はおろか西方にまでいたる遠洋航路を開拓し、絹海道―海のシルクロードにおける交易の主導権を握ったのである。

 その後、漢に帰属したが、漢はまだ弱体政権だったので、帰属は名ばかりの表面的なものにすぎなかった。かえって中原市場の旺盛な購買力を背景に、対外交易は好調に推移し、南越国にゆるぎない繁栄をもたらした。この繁栄に異をとなえるものはいなかった。漢越ともに、恩恵を享受できたからである。

 それが武帝の登場いらい、雲行きが怪しくなってきた。

 武帝は北の匈奴にたいし従来の和親懐柔策から一転、積極攻勢に出た。同時に、他の周辺諸国にたいしても食指を動かしはじめている。東北の朝鮮半島、チベット系の羌族きょうぞくが居住する甘粛西南部から青海チンハイ東部にかけての地域、いまの貴州・雲南から四川の一部にかけての当時、西南夷せいなんいといわれた諸族の住む一帯、さらに大海に面した中国大陸東側の南方、いわゆる嶺南がそれにあたる。

 閩越びんえつ東甌とうおうにはすでに露骨な政治介入を果たしている。漢朝による国王の任命であり、民族の強制移住である。南越にたいする取組みもすでに視野のうちに入っているとみなければならない。

 とすれば、逆に「繁栄が仇にならぬともかぎらない」のである。

 祖王趙佗国葬のおり、漢朝の密偵が潜入し、陵墓のありかを探ろうと暗躍していた。 副葬品の盗掘目当てと推断し、追及の道を断った。しかし宝物はなお宮廷のご宝蔵に山と積まれている。またその宝を生み出す打出の小槌ともいうべき交易ルートや外洋航海船の建造技術、さらに操船技法などさまざまな知識ノウ技術ハウが、南越国には腹蔵されているのである。まさに南越国そのものが、垂涎の至宝を秘めているといって過言ではない。

 漢は文帝・景帝二代の節倹努力が実り、財政基盤の建て直しに成功した。経済的余裕ができると、それを軍備の拡張にあて、高祖劉邦以来の屈辱を晴らさんとした。匈奴殲滅作戦である。武帝の登場がそれを可能にした。

 ちなみに劉邦以来の屈辱とは、漢と匈奴の和親関係にある。かつて劉邦は、対匈奴掃討戦に軍をひきい、北伐した。そして、いまの山西省大同、平城付近の白登山はくとうざんで豪雪のなか包囲され、絶体絶命の窮地におちいった。奇策を弄し、かろうじて脱出したが、作戦は完敗である。

 この結果、匈奴を兄とし、漢を弟とする和親関係を結び、漢は毎年物品を貢納する義務を負った。そのなかにいわゆる和蕃公主の婚嫁こんか(嫁入り)もふくまれていた。蕃族(匈奴)を融和させるためその君長に皇女を贈るのである。嫁入りといっても正妻ではない。人身ひとみ御供ごくうにほかならない。これを屈辱といわずしてなんといおう。心ある人びとは切歯せっし扼腕やくわんした。以来半世紀余、匈奴優勢下、ときに破綻することもあったが、長城を境に和親関係は保たれた。 つまり屈辱もまた継続されたのである。

 前一三三年といえば、武帝即位の八年目、武帝はまだ二十四歳の若さである。この年、漢側は謀略を用いて匈奴軍をおびきだし、包囲殲滅しようとたくらんだが、途中で見破られ失敗した。いわゆる馬邑ばゆうえきである。これに怒った匈奴の軍臣ぐんしん単于ぜんうは、和親関係を破棄し、連年長城を越え、辺境の群落を略取した。これに対抗し、漢も辺境に軍を集結した。対匈奴本格戦争にそなえ、臨戦態勢に入ったのである。

 それから十年、趙嬰斎が南越国王に即位した年(前一二三年)、大将軍衛青の甥が叔父にしたがい匈奴出撃戦に従軍する。当時十八歳の霍去病かくきょへいである。驃騎将軍に任命されたのが弱冠二十歳。以後、数々の匈奴戦に勲功を立て、衛青とともに大司馬となったのが二十二歳。武帝の覚えもめでたく、まさに得意の絶頂にあったといっていい。しかしその二年後の前一一七年、わずか二十四歳で病死する。匈奴は帰順、あるいは漠北に退去し、漢の西北辺境は安定した。賛否はともあれその戦果は、この青年将軍に代表される。

 しかし栄光につつまれた霍去病去って、残されたのは巨大な戦費の付回しである。

「いまや漢朝は財源確保のため、鵜の目鷹の目で各地を物色しだした。国内のみにとどまらず、周辺諸国もふくめてだ。そんなかれらが、わが南越国の財富を見落とすはずがない」

 呂嘉の懸念は、この一点に絞られる。

 戦国の乱世とはちがう。いかな漢朝といえども、藩属国家にたいする露骨な強奪が許されるわけではない。まず理屈をつけて政治介入する。次にひとを遣って、徐々に国政を侵食してゆき、最後に傀儡政権としたうえで簒奪すれば、ときの輿論の非難は免れる。歴史からの非難にたいしては、歴史そのものの抹殺あるいは改竄という手がある。

「漢朝に政治介入の口実をあたえてはならない。お主らにいましばしの穏忍自重を頼みたい。さすればかれらは痺れを切らして、強引に軍事介入を断行すると、わしは見ている。さきの戦から六十年経っている。もはや往時を知るものも、わずかとなった。この南越国の実力を知るものが、ほとんどいなくなったということじゃ。最上の策は、戦わずして勝つ、これにつきる。できれば戦はさけること。ましてやわれらから戦を仕掛けることは、絶対にあってはならぬ。これが、祖王からかたく命じられている、戦のいましめである。しかるに、非がわが国にない正当防衛戦であれば、いつなりと受けて立つにやぶさかではない、が――」

 不満派のメンバーは固唾を呑んで、呂嘉のつぎのことばを待った。しかし呂嘉はそれきり口をつぐんでしまった。

一朝いっちょうことあるそのときは、干戈を交えるも辞さず、そういうことでござるな」

 呂嘉は、発言者を一瞥した。真剣なまなざしである。熱意が身内からほとばしり出ている。

 ――こういう若者がまだ存在している。

 そのことに呂嘉は救われた気がした。しかしかれらを巻き込んではならない。

 呂嘉は瞑目した。

「丞相殿、おはなしは相分かった。われら本日より軽挙妄動は慎しもう。身を養い、力を蓄え、その日にそなえる。しからば国家大事のそのおりには、丞相の馬前に馳せ参ずるゆえ、われらが志、ゆめ忘れたもうな」

 かれらは呂嘉のまえにひれ伏した。呂嘉もまた無言でかれらに礼を返した。

 羅伯は背後で、この一部始終を脳裏に刻みこんでいた。全員の顔と名前と発言を記憶し、事後の変心にそなえておく必要がある。

 賛否いずれにせよ、一時の感情で過激に発言するものほど、時間がたてば落差も大きい。現実を振り返り将来に思いをいたせば、反省もしよう。後悔も生まれよう。後悔のあとには脱落がまっている。脱落者が寝返ることは、覚悟しておかねばならない。

 恐れるのは密告である。漢朝にたいする謀叛、これを理由に軍を差し向けられては万事休すである。あくまでも漢朝の無法な侵略の犠牲者、という被虐の構図のなかで動かなければならない。相互監視のなかで反対者を封じ込め、密告を防止し、正義正論をもって旗印としなければならないのである。

 ――天下の耳目を集め、共鳴者シンパを喚起し、全土の輿論を味方にする。

 戦わずして勝つ、「不戦必勝」が狙いである。


 趙嬰斎は浮かぬ顔つきで庭前にり、池の周りを散策していた。夕食まえの一時いっとき、久しぶりにあいた余暇である。ほんらい寄り添って語るべき樛姫きゅうきは、気分がすぐれぬといって、顔もださない。

 このところ夜ごとに樛姫の癇癪が、激しさを増している。

「もはや耐えられませぬ。いったいなにを好んで、このような鄙びたところへ来たものか、悔やんでも悔やみきれませぬ」

 繰り言のあとにはきまって、帰京をせがむのである。

「都へ戻りましょう。都の空気を吸いさえすれば、こんな気うつなど、たちどころに消し飛んでしまいますわ」

 以前、都にいたときは、こんなではなかった。

 毎日が楽しく、次の日が待ち遠しいくらいに充実していた。樛姫は明るくはつらつとしていた。目鼻立ちが整いバランスのとれた肢体は、ほどよい肉付きに恵まれ、豪華な衣装がよく似合った。漢の朝廷にあって、官女のなかを遊泳する熱帯魚の華麗さを思わせた。

 ――こんなはずではなかった。

 の思いは趙嬰斎にもある。かつては都の生活になじむにつれ、

 ――ずっとこのまま都ですごしてもいい。

 と本気で思うこともあった。都での官位は低くとも、本国からは潤沢な仕送りがある。人質といっても、本国がよけいな野心をもたないかぎり、わが身に累はおよばない。すっかり都会の生活に慣れてしまい、いまさら故国に帰参せずともよいのではないか。

 ――子もある。早目に子に家督を継がせれば、じぶんは好きに生きられる。

 しかしひとり勝手な思惑に反し、父王の死で嬰斎は帰国を余儀なくされた。子の趙興はまだ六歳である。冠礼(元服)まえでは譲位の理由に乏しい。ならば国許の嫡子趙建徳に継がせればよい。おりしも十五歳、冠礼の式を前倒しにして済ませれば一人前である。

 いろいろな考えをめぐらし、頭の整理のつかないまま国許へ帰った嬰斎は、そこで一国一城の王という現実の重みというものに直面する。漢朝の一外藩とはいえ、南越は大国である。まがりなりにも、という表現は謙虚にすぎる。想像を超えた広大な領土があり、さまざまな民族からなる多数の国人がいた。

 帰国した翌日から、嬰斎は生まれてはじめてといっていいくらい、膨大な量の仕事に忙殺される。

 家臣の挨拶を受ける。通り一遍の挨拶ではない。かれらは面と向かって、議論を吹きかけてくるのである。

「王よ、いかなるご存念であらせられるか」

 皆がみな、新王たる嬰斎に施政の抱負を問う。しどろもどろでいると、かくすべきであると、各人の持論をことこまかに披露におよぶ。国訛りだらけの講釈がはじまるのである。

 祖王趙佗の建国の理想と「和輯百越」、「趙佗帰漢」の歴史的背景、絹海道の開拓と運営、父王趙眜の越王台『四海兄弟』の夜宴等、はじめて聞くはなしも多い。年配者は、涙ながらにこれを語る。国許を離れて十三年経っている。地元のことばもあらかた忘れかけているから、すこぶる聞き取りにくい。ほとんど苦行といっていい。うとうとしようものなら、遠慮なく叱責の声が響く。南越国王として、かくあれかしと願う老臣らの口調は、ついきつくならざるを得ない。しかし嬰斎の耳にはただの小言にしか聞こえない。

「国王をいうまえに、まず南越国人たるの自覚をもっていただかなければならぬ」

 とかれらが嘆くほどの認識しか、即位当初はなかったのである。

 次に国内政務の引き継ぎがある。国務にはまったく触れたことがなかったので、いちいち説明を受ける。訴訟の処理も大変な仕事である。まず訴状を読むことからはじめなければならない。これが存外、時間をくうのである。

 祖王以来、父王にしても全分野の処理・決済をじぶんでおこなっていたという。

「寝る暇もないではないか」

 と反論すると、

「然り。王たるもの、百姓ひゃくせいに先んじて起床し、百姓に遅れて就床すべし」

 と諭される。百姓とは庶人・黎民の意である。

 国璽こくじを渡される。国家の印章である。武帝行璽と刻んであるが、帝号を僭称するのは天下の大罪である。うすうす聞いてはいたが、現物を目にするのははじめてである。腰を抜かさんばかりに驚いた嬰斎は、急いで箱に入れて封印し、蔵の中にしまいこんでしまった。漢朝の忠実な朝臣としての体質が、もはや南越国三代目国王嬰斎の骨の髄まで染みわたっていた。

 国内の巡遊や国宴での接待も、重要な国事である。国土は広い。各地から熱心な拝謁の陳情がある。新任の王としての顔見世は、なにをおいてもまず実行しなければならない。対外交易の相手国からは、ひっきりなしに新王祝賀の客があり、来駕の接待は欠かせないのである。ようやく忙しさに慣れるにつれ、国王としての自覚も生まれてきた。南越国の歴史や現状を知るにつれ、しだいに愛着が湧いてきたのである。

 国入りをするまえ、気の進まぬ樛姫を説得させる一時逃れに、

「顔だけ出して国王の位をもらったら、あとは家臣に任せて長安に戻ろう。いずれにしても人質は必要だ。よく相談しよう」

 とはいってある。

 しかし事態は予期せぬ方向へと既成事実化して進んでいる。とてもではないが、樛姫にかまっていられる暇はない。気楽な長安時代の皇宮侍衛とは、わけがちがうのである。

 ぐずる樛姫をもてあまし、ときにきつく叱ることもある。多くは逆効果となる。ひと晩中泣きつづけ、翌朝、泣きはらした瞼を恨めしげにむけられる。

「都にいたころのようには、もう愛してくださらないのね。じゃあいっそ、むかしの奥さまのところへお帰りになれば」

 売りことばに買いことば、朝からひと悶着があっても、国事を休むわけにゆかない。

 たまに時間をみつけ、気分転換に珠江下りの花舟に乗せても、水が怖いの、小用に不便だなどといって喜ばない。珍しい果物を取り寄せても、食したことのないものは腹をこわすとかで手をつけない。夜は夜で、睦言のひとつでもと思って誘っても、暑い暑いといって押しのける始末である。

 一方、趙興は物怖じしないこどもで、環境への順応も早い。珍しい虫や動物がいると聞くと、早朝からでも飛んでゆくし、馬や船にも興味を示す。近ごろでは九歳上の建徳にすっかりなついて、虫の取り方、馬の御し方や帆船の操り方まで教わっている。呂嘉をも恐れず、じいじいと寄っていっては、点心かしをねだっている。

 そんな噂が侍女を通じて耳に入ると、樛姫はまた柳眉を逆立てて、ひとしきり怒鳴り散らすのであった。






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