六、歌舞曲『四海兄弟』

 

 庭さきにおり、腹ごなしに武器を揮うこともある。

 剣やほこの類である。手元にある剣は、飾りの豪華な宝剣が多い。実用的ではなく儀式用の佩剣である。重量はあるが殺戮を前提とする剣ほんらいの凄みには欠ける。数回振るだけですぐに飽きる。ほこは、ぼうげきなどである。いずれも諸刃もろはの剣に長い柄をつけているが、刃さきに枝のないものを矛、片枝つきを戈、両側に枝のついたのを戟という。柄が長いから、操作の基本を知らなければ容易に揮えるものではない。ぎゃくに振りまわされるのが落ちである。趙眜は剣よりもほこを得手とした。興にいれば賓朗に剣を持たせ、ほこで立ち稽古することもあった。 勝つまでやめようとはしない性格は、若いころからかわらなかった。

 趙眜は生涯、戦を体験しなかった。軍隊の操練も御簾ごしに眺めるだけで、みずから軍配を揮うことはなかった。幼児期の乳母日傘がたたり、まわりが荒行を許さず、じぶんからはあえて厳しい修行を望まなかったから、武器を手にしても通り一遍の扱いしかできなかった。

 平時に人を襲うことも襲われることもなかったから、いずれの武器も実践で用いる機会はついになかった。だからこれらの武器を揮っても心身の高揚には結びつかず、かえって、むかしの屈折した思いが甦った。

 賓朗や趙藍にしみじみと、語ることがあった。

寡人おれは若いころ、祖父や父のように男らしく生きたいとおもった。これらの武器を思う存分に揮って、未開の大地や海洋を切り開く人生に憧れたのだ。しかしそんなことはできるはずがない。親に捨てられたといういじけた気持ちと、そのころの鬱屈した思いは、その後いつまでも心のなかにわだかまっていた。だがいまになって、いやむしろいまだからこそ、反省もできるし、懐かしく思いだすこともできるのではないか。近ごろでは、そう思えるようになってきた」

「捨てられたなどとお思いになってはなりませぬ。拾われたわたしがいうのもなんですが、趙始さまはいつもお子さまのことを案じておられました」

 趙眜の述懐は、ときに賓朗からたしなめられることがある。大航海の帰路、趙始にまとわりついていた賓朗には、趙始のぬくもりが昨日のことのように思い出される。

「おじさまはなぜ王位を捨ててまで、海外に飛び出されたのでしょう」

 趙始の事跡はほとんど伝説に近い。趙藍は素朴な疑問を口にした。

「祖王趙佗さまのご意向もあったと伺っております」

「どういうことだ。おれも聞いておきたい」

 趙眜も身を乗り出して、賓朗にはなしのさきを促した。

「天下統一を果たした始皇帝が五十万の大軍を派遣し嶺南を攻略したことはご承知のとおりですが、じつは始皇帝は祖王に特殊な任務をお与えになっていた由にございます。それが『嶺南平定のあかつきには、朕がため南海に遠洋航路を拓け』というご遺訓であったそうです。これを受けた祖王は南越建国後、大船団による西方交易をはじめられ、その采配を趙始さまに託されたのです。趙始さまは一徹なお方でしたから、航路の開拓に徹すべく太子の位を返上され、海に向かわれたのです」

「太子や王であっても航海はできようが」

「短期間であれば、それも可能です。しかし国王が長期間不在では、国が成り立ちませぬ。趙始さまは、始皇帝のご遺訓と祖王のご意向をお酌みになって、多くの国ぐにと交易という平和的互恵関係に立って、友好交流の実を達成しようと決意されたのです」

「国を引きずっておれば、好むと好まざるとにかかわらず領土の拡大、人や財産の略取という征服意欲を免れない。交易に徹するためならば、むしろ国と離別したほうが有益と判断されたのだろうか」

「始皇帝のご遺訓にもうひとつ、『因習をうちやぶり、民族の垣根をとりはらい、広く海外に智識を求め、秦の文化と技術を伝播せよ』というおことばがあります。趙始さまはこのおことばを座右の銘として、つねづね復唱しておられました」

 趙始が始皇帝に出会うことはついになかった。だとすれば趙始は、父趙佗を通じて始皇帝のメッセージを受け取っていたことになる。それはとりもなおさず趙佗のメッセージでもある。太子を辞し、四海に乗り出し、いまのことばで「通商王国」といったニュアンスの国際的シンジケートを構築する。それは趙始にこそふさわしい選択ではなかったか。

 ――おれに父趙始の真似はできぬ。

 卑屈ではなく、むしろ晴ればれと趙眜は思った。


 ときおり趙眜は、興に乗じて編鐘へんしょうをかき鳴らし、太鼓を打ち、笛を吹いた。楽府は内宮にある。楽師は辛笈しんきゅうという若い宦官がつとめている。趙眜は楽曲のイメージが湧くと、楽府にあらわれ、思いのままに演奏した。そのつど辛笈に命じ、採譜させたのである。辛笈は一音もあやまたずこれを記録し、再現することができた。天才といっていい。さらに趙眜の荒削りな楽律を整え、合奏のために編曲した。

「これはすばらしいですね。人間じんかんに混在する多くの魂が天上でひとつに溶けあう、そんな連想が広がります。民族統合の曲といっていいでしょう。大勢の人にお聞かせしたいですね。きっと共感してもらえます」

 批評めいたことは口にしたことのない辛笈が、いつになく興奮気味に高く評価した。じぶんでもかなり自信のあった趙眜はこれに気をよくし、さらに積極的な発想をめぐらした。

「われながら、ひさびさの快作である。振り付けもくわえ、舞妓ぶぎ総出の大掛かりな曲に仕立てあげ、これをもって、歌舞の宴を催そうぞ」

 舞踏の起源は、先祖の祭りにあるという。祈りが深まるにつれて先祖がのりうつり、大仰に跳ねてみせる巫女のしぐさがその起源だというのである。柔軟に舞い踊り、かつ唄う「玉舞人」という南越王墓の出土物が、その模様を現代に再現してくれている。

「せっかくである。漢族・百越族、すべての先祖の祭りとしよう。国内の各種族にそれぞれの民族舞踊を披露してもらうよう働きかけてくれ。丞相以下、国人すべてに祝ってもらう。近隣諸国や南洋・西方の国ぐににも呼びかけ、大勢のひとに観てもらおう」

 番禺城の北側は越秀山によって守られている。小高い山上から市街地が一望できる。その山上、いま孫中山記念碑と鎮海楼の建っている中間あたりに越王台があった。別名歌舞台ともいう。趙佗の時代から群臣がつれだって山を登り、宴を催し、飲みかつ食らい、謡い舞う、そんな場所だった。

 その越王台に野外の舞台を設け、民族歌舞祭りの夜宴を張ったのである。急な予告にもかかわらず、世界各地から交易の相手国が参集した。海外の主だった居留地からは同胞が現地でもうけた家族を帯同して、久々に里帰りした。国内各民族の代表が舞台にあがり、それぞれの民族歌舞を出し合った。

 篝火で煌々と照らしだされた舞台では、宮廷歌舞楽団が趙眜の新曲を披露した。勇壮かつ温和で人間味あふれるメロディにのって舞妓が踊った。呂嘉が感動して、趙眜に訊ねた。

「やあ、これはすばらしい。しみじみとしたなかに、人間のつながりが感じられる。なん

と題されましたか」

「仲父にお褒めいただくと、いささかむずがゆいが、『四海しかい兄弟けいてい』と名づけました」

 論語にいう「四海のうち、みな兄弟なり」である。「天下のひとはみな兄弟のように分けへだてなく親しむべきだ」という意である。

 呂嘉は膝を打って、得心した。

「先帝にお聞かせしたかった。これこそ先帝のご意志でござった。お父君の趙始さまはまさにこれを実現するために、大海へ船を出されたのでござる。まことにありがたや。これまで生きながらえてきた甲斐があったというもの。これに勝る親孝行はござらぬ、よくぞかなえられた」

 呂嘉の涙は、まだ枯れてはいなかった。溢れる涙でくしゃくしゃになった呂嘉のしわだらけの顔を、孫の趙藍が懐紙でそっと拭った。そのうしろで、呂英が微笑んでいた。

 番禺は不夜城と化した。なかでも越王台の一角はひときわ明るく照らしだされ、奏楽が華やかないろどりをそえた。興奮に酔った大勢の人びとは幸せに浸っていた。 催しは夜を徹しておこなわれ、山海の珍味がここぞとばかりにふるまわれた。


 趙眜は、季節に応じ、巡狩、舟遊びも欠かさなかった。

 嶺南の山野に馬を走らせ、獲物を追って矢を射った。

 珠江に船を浮かべ、魚を釣り、水に潜った。

 もはやだれを怨むこともなかった。だれを羨むこともなかった。ひとと争うことを忌み、 ひとが幸せに生きられる世が一日でも長くつづくことを願った。

「漢と争ってはならぬ。ふたたび戦を起こしてはいけない。平和のなかでこそ南越国は富を保証され、国人の安らかな生活が維持できるのだ」

 かつての趙佗の思いは、いまや趙眜の願いに乗り移っていた。


 ひとくちに「創業は易く、守成はかたし」というが、難易の度合いに差があるわけではない。向き不向きがあるだけである。趙佗は、紛れもなく創業のひとであった。王位こそ継がなかったが、趙始もそうである。趙佗は長期政権であった分、後半は守勢に回らざるを得なかったが、つねに積極的な創業的意欲を忘れなかった。

 往時の南越国は、南海に臨む東側をのぞき、北・西・南側をそれぞれ長沙・閩越、夜郎やろう甌駱アウラクなどの国々に接していた。

 いまの湖南一帯にあたる長沙国とは五嶺をはさんで、つねに敵対関係にあった。均衡ある敵対は、和平を保つ要件でもある。均衡が破れると、即、紛争につながる。緯度こそちがうが、古代の三十八度線である。適度の緊張をもって、大過なくすぎた。

 閩越とは、いまの福建から江西のほぼ中央、余干を境に拮抗していた。東甌もふくめおなじ越族だが、族同士の抗争は習性といっていい。抗争の果てに、時代は前後するが、東甌・閩越とも長江と淮河のあいだに強制移住させられている。

 いまの四川南部から貴州西南部さらに雲南にかけての地域は西南夷と呼ばれ、夜郎国が最大であった。この夜郎国は漢に服属するまえ、南越に役属していた。南越の要請に応じて、役務要員を提供していたのである。域内を流れる牂牁江の下流は番禺に通じ、船が自由に往来していたというから、継続的に水手かこの手配を要請していた可能性がある。

 甌駱国は前一七九年以来支配下におき、南越国の領土はベトナム中部まで広がっていた。

 この領域をいかにして守り、維持発展させるかが課題であった。

 趙眜の後半生は、南越国の守成を貫くことに捧げられたのである。


 呂嘉の命を賭けた諫言のあと、趙眜は十二年間、南越を統治した。

 即位からだと通算十四年間である。この間、一貫して入朝することはなく、漢帝に謁見する機会はなかった。しかし友好関係は損なわれず、漢朝から咎めを受けることは一切なかった。

 趙眜は、趙佗の教えを忠実に守り、文治に徹した。漢朝にたいし臣礼をおこたらず、季節ごとの貢納を欠かさなかった。

 歌舞の夜宴の四年後、趙眜は重篤の病を得た。太子の嬰斎は、帰国の許可を請い認められたが、臨終には間に合わなかった。

 趙眜の死後、漢朝は文王とおくりなした。


 趙眜の死の翌日から国葬の前日まで、口にいえないほど忙しい日々がつづいた。すべての整理がすんだあと、ひとりぽつねんと居室に座していた趙藍を見舞ったのは、賓朗である。賓朗は趙藍を慰労したのち、改まって別れを告げた。

「右夫人には文王ご存命のおりから、過分なお引き立てを賜り、ありがたきことと、感謝いたしております。されど、まことに遺憾ではありますが、この賓朗、本日は最後のご挨拶にうかがいました。今後とも右夫人にあらせられては、ご機嫌うるわしく、お健やかにお暮らしなされますよう、願っております」

「このたびはあなたにもたいへんお世話をいただき、深く感謝しております。落着き先は、お決まりですか」

 忙しさに紛れ事情を聞いていなかったので、なにげなく訊ねた。

 賓朗はさびしげに頭を振って、静かに答えた。

「いえ、もとより身寄りとてないわたくし奴には、ゆくあてなどございません。このうえは王に殉じて、あの世までもお供させていただく所存でございます」

 思わず趙藍は、顔を上げて賓朗を直視した。

「そこまでいたさずとも、王はご満足でしょう」

「いえ、王のお父君趙始さまに拾われていなければ、とうの昔になかった命でございます。南越国で暮らすことができ、ましてや尊いお方にお仕えさせていただくこともできました。南越国の国人として死ねれば、本望でございます」

 趙藍は涙がこみあげそうになった。話題をかえた。

「そなたはどうして妻帯なさらなかったのです」

 聞かなければよかったと、趙藍は悔いた。

「想う方はおられなかったのですか」

 かの女は目を開けていられなくなった。賓朗がじぶんを凝視しているのが伝わった。 ズキンと胸の奥で小さな痛みが走った。

「ございました。ございましたが、おそばにいられるだけで十分に幸せでございました」

 沈黙が流れた。やがて賓朗はいとまごいをした。

 趙藍はつねとかわらぬ口調で、賓朗に用をいいつけた。

「きょう、まだ日のあるころに、わたくし以下数名の妃嬪が王のもとに参ります。そなたには、ぜひ介添えをお願いいたします。」

「ありがたく最期のご奉公をさせていただきます」

 賓朗は静かに立ち上がった。


「あたしもご一緒させていただきますよ」

 実家さとへ戻ったとばかり思っていた呂英が、ひょっこり顔をのぞかせて、趙藍に微笑みかけた。

「太皇太后さま」

「よしておくれよ。お英さんでじゅうぶんだよ」

 呂嘉の末の妹である。趙藍にとっては祖母同然の存在である。呂英は「趙佗帰漢」後も長安に残された皇后にかわり、趙佗の日常の世話をしてきた。趙始とはいくつもちがわなかったが、趙始はつねに母にたいする礼で慕った。気さくなひとで、呂一族や趙佗夫人を鼻にかけることはまったくなく、ひとの面倒見がよかったから、「お英さん」「お英夫人」と漢越双方のひとたちから慕われた。趙佗の逝去時には、

「あたしゃ、まだやることが残っている」

 といって、あとを追うことをしなかった。孫の趙胡の行く末が気がかりだったからである。そもそも趙藍を趙胡の府邸の奉公にだそうと呂嘉に進言したのは、この呂英である。

 趙藍・趙胡の紅娘ホンニャン(縁結びの立役者)といっていい。その趙胡こと趙眜が亡くなった。久しぶりの里帰りは、呂嘉に別れを告げるためであった。

「趙胡が亡くなって、あたしの仕事も終わったようだし、趙藍が趙胡と一緒にゆくというから、あたしもつれていってもらうことにしたよ」

「そうか、よく分かった。なあに長くは待たせない。ほどなくわしの用もすむ。先王と一緒に、待っていてくれ。苦労をかけた」

「なあに、じゅうぶん楽しかったよ。でも、兄さんにはまだひと仕事残っている。手伝えないけど、うらまないでおくれ」

 かの女は身につける印章から、名前の部分を削った。

最初もとにかえって、ただのお英で迎えてもらうよ」


 宮中の一室で、四人の妃嬪が毒を飲んで殉死した。妃嬪のなかには先帝趙佗夫人もふくまれていた。

 賓朗は呂英の遺体に手を合わせた。さまざまな思いがきのうのことのようによみがえっていた。

 呂英に深々と叩頭し、想念を振り切った賓朗は、趙藍に目を移した。うっすらと化粧した趙藍の死に顔は、安らかで美しかった。

 賓朗は趙藍の手をとり、胸元で合わせようとした。まだ温もりが残っていた。一瞬、趙藍がその手を握り返した、と賓朗は感じた。賓朗の涙が一滴、趙藍の頬に落ちた。 趙藍の涙のようにみえた。


 皇宮を辞した賓朗は、大北門を出て象崗山に登った。山上の朝漢台にいたり、北を向いて漢朝に遥拝した。趙佗に倣い、趙眜もまた漢朝にたいする臣礼を怠らなかった。賓朗もそれにしたがった。しかしそれだけにとどまらず、さらに己が覚悟の誓いを心に立てた。

 ――南越は盟約を忘れず、つねに漢朝を尊び、臣礼を捧げた。されば漢朝もまた南越に、皇恩をもってお報いくだされたし。まんいちこの義に違背せしときは、われたとえ鬼神、魂魄となりても人間じんかんに降り来たり、およばずながらも、かならずや一矢報復つかまつる。

 賓朗が殉死の場所に、朝漢台を選んだ由縁である。

 朝漢台の両脇に背の高い檳樃びんろうの樹が植わっていた。賓朗は北に向かって一本の檳樃樹の下に立ち、梢を見上げた。頭上数尺の高さである。賓朗は梢をにらみつけた。


 おりしも檳樃狩りに登ってきた杣夫そまふが、賓朗自刎の現場を目撃し、遺骸をひきとりにきた賓朗の郎党に、つぎの証言をしている。

「ええ、そのお方は、北に向かって遥拝されたあと起ちあがり、立ったまま剣を横にしてうなじにあて、力を込めて引切ったのでございます。なんと、首は胴を離れて刎ねあがり、檳樃樹の梢に喰らいついたものですから、それは驚きました。かっと見開いた両眼は北の方角をにらみつけておりました。首のないそのお方の上体はそのあとも朝漢台上で、番禺城を守護するかのように剣を振り上げたまま、仁王立ちになっておりました」

 興奮のあまり跪拝叩頭をくりかえす杣夫のことばにしたがい、郎党は檳樃樹の梢を窺い、さらに周り一帯をくまなく探したが、首は見つけられなかった。郎党は首のない賓朗の遺骸を棺に納め、葬儀の役人に引き渡した。棺は殉葬者の車に載せられた。


 その朝漢台の二十メートル下に趙眜の陵墓があり、そのなかで、辛笈しんきゅうは作業に没頭していた。埋葬する楽器や楽典を運び入れ、整理にいとまがなかったのである。譜面を見れば頭のなかで音楽が自然に流れ出る。いまや墓室は小奏楽堂となって妙なるメロディで充満していた。辛笈は幸せを感じていた。こどものころから、宦官という特殊社会で生きることを運命づけられ、さびしい孤独のなかで成長した。やがて楽器と出会った。楽器は、孤独を忘れさせてくれた。楽器に触れているときだけが、自分の存在を確認できる唯一の機会であった。鉦・笛・編鐘、器楽の演奏に、才能が目覚めた。趙眜に見出され、若くして要職をあずけられた。

 越王台の歌舞の夜宴は、趙眜だけでなく、辛笈にとっても、音楽の集大成といえた。ことにあの夜の『四海兄弟』は、生涯に残る絶妙の歌舞曲であった。多くの人が感動した。

 ――幸せだった。あの幸せを与えてくれた王なら、殉じても悔いはない。

 埋葬の後、墓室の石門は閉められた。空気が遮断され、記憶が徐々に薄れていった。


 当時、殉死は、漢朝によってすでに厳しく禁じられていた。発覚したばあい、封土召し上げなど厳しい処分があった。

 呂嘉はすべてを承知していた。官譜にはいずれも、病死と記録した。







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