五、二代目趙胡
建元四年(前一三七年)、趙胡は南越王を継いだ。漢朝に南越王としての冊封を奏請し、勅許を得た。
即位後、趙胡は改名した。「胡」の字を嫌い、「
「眜」には、「
この大事をはかるに趙胡は、呂嘉には事後報告で済ませた。
呂嘉は表情をかえず、無言で肯んじた。しかし漢朝には改名の届けをしなかったから、のちに「史記」「漢書」とも「趙胡」とのみ記され、「趙眜」と記されることはない。
一方、かれは祖父の「武帝」にならい、国内では「文帝」と僭称してはばからなかったが、漢朝にたいしては臣属の姿勢を崩さなかったから、つまり正史の記録はあくまで、「南越文王趙胡」であり、南越国内および南越外交の場でのみ、「文帝趙眜」である。
ついでながら、ここでいう「文王」とは、死後に漢朝が決めたおくり名―
「祖父帝からは、趙胡命名の由来を聞いている。秦の始皇帝から賜った尊い御名であるそうな」
かつて趙佗が始皇帝の侍臣として仕えていたおり、始皇帝の肝煎りで妻を娶ったのである。納采の儀をおえ、報告したさい、じきじきに御声を賜った。
「嫡子には始の一字を賜り、嫡子に子が生まれたときは、上は蘇、下は胡とするようにと仰せられた」
という。蘇は長子の
趙始の誕生は始皇帝崩御の年、趙蘇と趙胡は趙始三十三歳のときの子である。趙佗は始皇帝の遺志にしたがい、謹んで命名した。
「子々孫々に始皇帝の御名をつたえ、未来永劫、帝業を忘れまじきこととのご叡慮であったというが、
即位の席で、趙胡いや趙眜は、いならぶ群臣に宣言した。異議を称えるものはなく、全員が「
趙眜は、最前列の呂嘉をいちべつした。呂嘉は終始顔をあげなかったので、表情をうかがい知ることはできなかった。
ちなみに始皇帝崩御のさい、皇位継承のうらに謀略があったことは、すでに知られていた。「嫡男扶蘇を二世皇帝にせよ」という遺言を「胡亥にせよ」とすりかえたのである。扶蘇は自害し、胡亥は苦悩した。謀略に加担した丞相
かつて南越国の建国にさいし、趙佗はみずから武帝と称した。漢はまだ項羽との戦いの渦中にあったから、ことさらことわる理由もない。
劉邦の特使である
始皇帝に近侍として仕えた趙佗にとっては、南越国は秦の後身であり、漢の臣属を名乗るよりよほど自然に思えたのである。漢に使いを出すときだけ王と称する事実を漢は承知していた。あえて黙認していたといいかえてもよい。臣属の異姓王として、漢朝は諸侯なみのあつかいで、優劣の差をつけなかったから、南越側はなおのこと、この方便を既得権ととらえ、改めなかった。
しかし時代は微妙に変化していた。趙胡が南越王に即位したのは、漢の武帝劉徹の四年目である。劉徹はこの二年前に、張騫を西域に遣わしている。北方の匈奴征伐構想が、劉徹の脳裏で徐々に発酵しはじめていた。同時に南方にたいしても、
「隙あらば――、」
と、つけいるきっかけを探っていたのである。
前一三五年、趙胡即位の三年目、東に国境を接する閩越王
「好機なり」
呂嘉はこれを、千載一遇のまたとない出兵の機会ととらえた。
「わが国土が不法に侵略された。敵は異姓王である。少数民族国家同士の国境紛争にすぎない。漢朝にはかるまでもない。速やかに討って出て敵軍を排撃し、おなじ領分だけ敵の邑を攻略しても正当防衛の範囲内である。漢朝にたいしなにはばかることなく出撃し、わが国軍の偉容を正々堂々と誇示しようぞ」
呂嘉は、国王趙眜の出馬を要請した。
先王はあまりに偉大すぎた。これに比べれば趙眜の存在はなきにひとしい。国人に趙眜の威望をしめし、民心をまとめるにもあつらえの出番となる。
将軍呂祐麾下の精鋭が、いまや遅しと出撃の陣触れにそなえていた。
「いざ、陣頭に立ち、馬上に雄姿をしめされよ」
呂嘉の熱い思いをよそに、趙眜は迷っていた。この期におよんで、出陣を躊躇していたのである。
趙眜の帷幕には、かつて呉楚七国に呼応し決起をはかろうとした同志が多数を占めていた。いずれも前非を悔い、国のためにと再起を誓ったものたちであったが、過去の負い目は重かった。そのため自意識が過剰となり、必要以上に世間の評価を気にした。
これではとうてい新しい仕事はできない。趙佗の温情が仇になった。国政の刷新を期待されたかつての明晰な頭脳は窒息し、もはや軟弱な事なかれ主義の保身官僚と化していた。
ことに対漢問題は、かれらにとって最大の鬼門といえた。かれらはことの重大さに怖気づき、怯んだ。表面的には慎重をよそおい、そのじつ、みずからの決定責任を免れようとした。巧妙にこの難題の解決を、漢朝の判断にゆだねようとしたのである。
「なりませぬ」
かれらは趙眜の馬前に身を挺し、
「いま兵を起こすは、まさに漢朝の思う壺。そもそもこのたびの閩越の侵略は、わが国の出方を探らんとする陽動作戦にて、背後に漢の思惑が蔵されていることは明々白々。くれぐれも漢の術中にはまるなかれ」
趙眜はこれを帷幕の総意とうけとめ、呂嘉の要請を拒否した。全軍に出動禁止を下知し、関の門を閉じた。
一方で、漢の武帝に訴え、助成を請うたのである。
翌払暁、上書をたずさえた急使が、早馬で長安へ疾駆した。
「
呂嘉は天を仰いで慨嘆した。
「南越と閩越、両越はともに漢朝の藩臣でありますから、みだりに兵を挙げて攻撃しあうべきではありません。ところがいま、閩越は一方的に兵を挙げて臣を侵犯しています。しかるに臣はあえて兵を挙げず、ただ天子の詔にしたがうのみであります」
上書はみごとなまでに、漢帝に
漢武帝劉徹は満面に笑みを浮かべ、趙眜のとった措置を賞賛した。
「南越は藩臣の鏡である。よく分限をわきまえ、約定を守らんとする義を多とし、願い
を入れて出兵いたす」
早速、
さらに武帝は中大夫
「このたびのこと、よく臣下の礼をつくして軽挙せず、奏上にいたりしこと殊勝であるとの仰せである。このうえは朝覲し、親しく御前に拝謁されてはいかがであろう」
趙眜こと趙胡は、深々と叩頭した。
「天子が臣のために兵を興し、閩越を討たれしこと、一命をなげうってもなおご恩に報いられませぬ」
と皇恩を謝し、太子
「ただわたくし
閩越に寇掠された国境の邑をつぶさに検分したあと、閩越経由で荘助は長安へ帰った。
この折、閩越討伐軍の将軍王恢は、
唐蒙に
番禺で、唐蒙は枸醤を食した。
「これはなにか」
はじめて口にしたもので、なにげなく訊ねた。
「枸醤と申します。枸の実で作った味噌でございます」
「ほう、当地の特産であるか」
「いえ、西南夷の産物にて、西北の方にある
長安に戻り、蜀の商人にただしてみた。
「枸醤はもともと蜀の産物にございますが、隣接する夜郎国をへて、南越までもたらされたものでございましょう」
夜郎国は、いまの貴州の北側に位置した。
牂牁江は河幅が数里もあり、夜郎から軍船を繰り出せば、兵員の移動が容易である。夜郎では十万の精兵が動員できる。南越もひそかに夜郎の懐柔を狙っているから、先んずれば二倍、二十万の価値がある。
一方で南越を制する軍のそなえとし、また一方で漢朝の威を示し、西南夷を漢の支配下に置く布石となせば、まさに一石二鳥の企てとなる。
唐蒙は上書し、武帝に是非を問うた。武帝は許諾し、唐蒙を中郎将に任じ、夜郎国へ遣わした。唐蒙は千人の兵と一万の軍夫をひきい、夜郎王多同と対面した。
一万の軍夫には食糧・輜重に絹布をもたせてきた。絹の魅力には勝てない。夜郎王は唯々諾々、漢の支配下に甘んじた。
趙眜は、嬉々として上京の準備にとりかかった。
「
趙眜の上京を阻んだのは、呂嘉である。
「行ってはなりません。行けばふたたび生きては戻れませんぞ。その覚悟はおありでござるか」
このとき呂嘉は、まもなく九十をむかえようとする高齢である。ふだんは老いさらばえた、ただの老人にすぎない。
それが背筋を伸ばし、なかば閉じた眼をかっと見開き、趙眜のまえに立ちはだかって舌鋒をふるったのである。
「先王はかつてわれわれにこう訓戒された。天子に仕えてはいささかも臣礼をおこたってはならぬと。またこうも申された。朝廷の巧言を信じて、軽々に入朝参内してはならない。行けば戻れぬ。国王が人質に取られては、国は亡びると。よもやこのこと、お忘れではあるまい」
いきなり機先を制せられ、趙眜はとっさにことばに詰まった。その分、あせった頭に血がのぼった。さっと顔色が紅潮した。
「分かっておるわ。分かってはおるが、このたびは皇帝からのじきじきのお達しである。行かぬわけには参らぬ。邪魔立ては許さぬ。そこ
無礼討ちと聞いて、かえって呂嘉の怒りに火がついた。
「おもしろい、斬っていただこう。いや、お手を煩わすまでもない。この白髪っ首、己がこの手で掻き切って、ご覧にいれる。ただしそのまえに、申し上げておくことがある。嬰斎どのがことは、臣礼に順ずるゆえ慶賀いたす。さりながら王が朝覲されるは、国を亡ぼすもと。朝廷の言は眉に
いい終えるや呂嘉は佩刀の鞘をはらい、刃を頚動脈にあて、やにわにひき切ろうとした。
「待てっ、だれかある、止めよ」
趙眜が叫ぶやいなや、背後から飛び出したのは、賓朗である。賓朗は呂嘉の腕を押さえ、刀をもぎ取った。すでに呂嘉の首からひと筋の血が流れ出ていた。
「丞相どの、お気を確かにもたれよ」
呂嘉の顔面は土気色にかわっている。賓朗は呂嘉を抱きかかえつつ、趙眜にむかって大声でただした。
「王よ、なんとされる」
とっさに趙眜は、その場で
「
「王よ、臣下のまえで膝をついてはならぬ。いかなるときも毅然とされよ。南越王の誇りを、ゆめ忘れたもうな」
朦朧とした意識のなかでも、なお呂嘉は趙眜を諭していた。しかしその声は、おどろく人びとのざわめきにかき消されてしまった。
この日を境に、趙眜は病と称して引きこもった。もともと多病の質で、幼児のころから医者がかりがつづいていたから、怪しむものはなかった。漢朝へもこれを理由に入朝参内を取り消したのである。
呂嘉は一命をとりとめた。
昏睡が二昼夜つづいていた。
「粥をもて。白粥が食べたい」
この第一声を耳にしたのは趙藍だった。かの女は実家に戻り、寝ずの看病で付き添っていた。ふだんから食事にはこ
「あきれるやら、うれしいやらで、涙が止まらなかった」
と、のちに国王趙眜に語っている。
趙藍は、趙胡の邸宅へ奉公に出てから一年後、幽閉中の趙胡に嫁いでいる。趙胡から「ぜひにも」と、たっての所望であった。趙胡が趙眜を名乗るのは、まだ十六年さきのことである。
――俺の心の病を癒せるのは、この
趙胡は賓朗を使者に立て、趙藍の養家に願い出た。趙藍が呂嘉の孫娘であることはすでに賓朗から聞かされていたが、そのことにわだかまりはない。だれの娘であろうがかまわない。天真爛漫のようでいて十分な気配りのできる趙藍は、もはや趙胡にはなくてはならない存在になっていた。
趙藍は趙胡改め趙眜の国王即位後、皇后に次ぐ右夫人に遇された。だからといって日常生活に特別な変化はない。いわば侍医と家政婦を兼ねたような役回りではあったが、宮中を実質的に切り回した。慎ましやかに趙眜を内側からささえて、天寿を全うさせたのは、趙藍である。そして賓朗は家令として王家の取締りに徹した。賓朗は世に出ることなく、終生、趙眜に
趙眜の日課は、朝の煎じ薬からはじまる。やや苦味はあるが、冷まして茶のように飲む。嶺南は高温多湿である。漢方でいう湿熱の気候で、ひとは燥熱・風寒・感冒などの症状(熱気・悪寒・かぜ)にかかりやすい。煎じた中草薬には解熱・消炎・利尿という効能がある。
この朝の一杯が、趙眜の健康維持に欠かせない。現代ならさしずめ「
煎じ薬や涼茶でとどまっていれば問題はないはずだが、ご多分にもれず趙眜もまた、神仙世界、不老長生の世界に興味を持ち、みずから仙薬の調合に挑戦した。
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