四、呉楚七国の乱


「いまにして思えば、趙蘇が急逝したあの年が、立太子の好機だったかも知れぬ」

「呉楚七国が乱を起こした、あの年でござるな」

 回顧する趙佗に、呂嘉が応じた。向き合っていながら、ふたりの目は相手を見ていない。網膜のなかでは、往時がよみがえっている。

「さよう。建国いらい、ちょうど五十年。泰平の世に生まれ育ち、戦を知らぬ若輩どもが、国政に黄色いくちばしを入れだしたものだ。国家の存立が問われている危機じゃというに、決起だ、反漢だと、ことばをもてあそび、まるでひとごとのように、浮かれ騒いでおった。ことに趙胡 には真底、はらわたが煮えくり返った。二十五にもなって、わきまえるどころか、反漢派の総大将に祭り上げられ、有頂天になっておった」

「趙蘇どのの喪も明けぬに、軽挙妄動は慎まれよ、といくどもお諌めしたが、趙胡どのはお聞き入れにならなかった」

「あやつらには、漢のほんとうの怖さが、まるで見えていない。じぶんらの行動がどれだけ国を危うくするか、考えようともしない。あのおり、趙始がいてくれればと、どんなに思ったことか」


「呉楚七国」の動乱で国境に緊張が走り、「すはこそ」と殺気立ったおりである。反漢の是非をめぐって国内の輿論がふたつに割れた。いまでいう保守対革新の図式であるが、新旧勢力の対立でもある。

 若者中心に反漢派が、趙胡を立てて攻勢に出た。建国につくした親の世代が中心の親漢派は、正論をもって漢朝を擁護した。常在戦場の建国当初の張りつめた時代とちがい、ようやく太平に慣れはじめたころの国論対立である。空論が正論を凌駕しかねない趨勢に、趙佗はいらだちを禁じえなかった。

 おりしも嫡孫の趙蘇が、任地の交趾郡で急逝したのである。流行り病が原因だったらしい。前触れなく、あっけなく逝ってしまった。

 国事多難なおりの弔事である。交趾郡は遠い。おいそれと駆けつけるわけにもいかない。趙胡も二十五歳、弔問に出向かないまでも、ことの是非をわきまえて、おのずから行動を慎んでしかるべきである。ましてや趙蘇が亡くなったこのとき、次期南越国王の最短距離にいるのは趙胡ではないか。

 そんな立場の趙胡が、趙佗の危惧をよそに、国論をまとめるどころか、逆に周囲をあおり、「決起すべし」と強硬論を展開し、親漢派の弱腰をなじったのである。


「あのおり諌めて、太子に立てておれば、まともに立ち直っていたかも知れぬが、いまとなっては繰り言にすぎぬか」

 呂嘉をまえにして、めずらしく趙佗は歯切れが悪い。ためらいがちに呂嘉の同意を引き出そうとしている。

「いや、当時、かまっているだけの余裕はござらなかった。なんとなれば、わが国の内廷深く漢朝の密偵が潜入し、決起の動向を探っておったくらいで、趙胡どのの言動など、逐一、都へ報告されていたから、危ういことでござったよ」

 呂嘉は、すくめた首を平手で打つ格好をしてみせた。


 呉楚七国の乱、収束して十年にもなろうか。

 漢朝は、文帝のあと立った景帝の三年(前一五四)、内戦に見舞われた。高祖劉邦の兄劉仲の子呉王 が、他の諸侯六国に呼びかけ反乱に踏み切ったのである。

 景帝に智嚢ちのう(知恵袋)と呼ばれた寵臣がいた。晁錯ちょうそという。 有能ではあったが、調和に欠けた。中央集権の強化を企図し、諸侯地方政権の反発をかった。というか、あえて反感を誘発した。景帝の恩寵をバックに、劉姓諸侯の領地削減策を断行したのである。

 楚・趙・膠西こうせいが領地を削られ、呉も二郡削減の詔書を受けた。理由はあっても難癖に近い。ただし表立って景帝を謗るには、はばかりがある。そこで非難は、「君側の奸」晁錯に集中した。

 もともと呉王濞には、景帝にたいする私怨があった。景帝がまだ文帝の皇太子だった時代、ゲームのうえの諍いから、わが子の太子を殺されているのである。いらい濞は病と称して参内せず、領内に閉じこもってしまった。そして、領民に減税してみたり、他国の亡命者をかくまってみたりと、これ見よがしに、朝廷をないがしろにする行為にでた。晁錯はこれを「謀反の前兆なり」とみて、懲罰を要求したのである。

 劉濞には、かつて高祖劉邦から「謀反の相」を指摘された、いわば「前科」がある。

「汝には謀反の相がある。向後五十年の間に内乱を起こすものがあれば、それは汝であろう。慎むがよい」

 劉邦のいましめに、濞は頓首とんしゅして答えた。

不敢プゥガァン」(あえていたしません)

 頓首とは頭を下げて地面あるいは床面に打ちあてる最上の敬礼である。そのおり劉邦に軽くたたかれた背中の感触は、いまでも記憶している。冷や汗で、肌着が張りついていた。

「してやられたか」

 五十年前のはなしにこじつけられてはかなわない。

 もはやこれまでと呉王劉濞は二十万の大軍をもって決起し、漢朝が派遣した地方官を殺した。「奸臣晁錯討伐」を表向きの旗印としたが、こうぜんたる反逆であった。山東の膠西・膠東こうとう菑川しせん・済南に楚・趙の諸国も呼応し兵を挙げ、漢朝に立ち向かった。

 呉王は南方の閩越(いまの福建)・東越(いまの浙江)、さらに長沙にも使者を出し、援軍を募った。東越は出兵に応じたが、閩越は誘いに乗らなかった。

 長沙については、打診した相手が「もとの長沙王の子」と『史記』に但し書きがある。長沙は呉芮以来、呉臣・呉回ときて五代目呉著のとき、後嗣がないことを理由に、前一五七年、断絶させられていたのである。

 漢朝最後の異姓王も時の流れには抗えなかった。劉氏による中央集権化の布石にほかならない。そのあとは景帝の子劉発が長沙王となっているが、まだ三年目である。呉氏の旧臣や残党が「時こそいたれ」と、復活を待ちわびている。

 また呉王は使者に託した書簡のなかで、

「南越の長沙に近い不平分子を糾合し、長沙以北を鎮定し、西の蜀・漢中へ進出されよ」

 とあおっている。

 さらに同じ文中でこうも嘯いている。

「寡人(呉王濞)は平素から南越と親善して三〇余年におよび、その王・諸豪族はいずれも士卒を分けて寡人につくことを辞さない。かくてまた南越の軍三〇余万を用いることもできるのである」

 同じ書簡が、趙佗のもとにも届けられた。

「ゆうてくれるわ」

 趙佗は一笑に付し、使者を追い返した。

寡人わしは高祖劉邦・文帝劉恒とのあいだで臣属不可侵の盟約を結んでいる。漢帝の臣たるを誓い、漢朝の命にしたがう約定である。漢の意に反し、南越がみずから五嶺を越えることはない。呉王濞との付き合いは高祖の兄の子なればこその親しみからで、それとて漢の臣たる身分の領域をこえるものではない。漢朝に謀反するやからに組する意志は毛頭ない」

 趙佗は国境の関を封鎖し、叛乱軍の逆流を防ぐ一方、国内に厳戒態勢をしいた。専守防衛の構えは崩さないが、漢軍あるいは叛乱軍の出方しだいでは、いつでも一戦交える覚悟である。

 二分した国論が反漢に傾きかけた矢先の趙佗の決断である。反漢派は窮地に立たされた。

 呉王濞にはすでに応諾の約定をかわしている。

 一部の強行グループは、脱国してでも反漢の意志を貫きたいと、決死の覚悟を口にした。事態は切迫し、いちいち説得している暇はない。

 荒療治ではあったが、趙胡もろとも強行グループを全員一網打尽に捕らえ、幽閉した。外部との接触を絶ってしまったのである。

 趙佗の甘い顔しか見てこなかった趙胡には、相当なショックであったろう。これいらい放免後も、趙胡の饒舌は影をひそめた。酒や音曲にうつつを抜かす、文字どおりの花々公子ホァホァコンズ(放蕩息子)をよそおい、国政に口を挟むことをやめた。

 このおり、趙佗の怒りを鎮め、鬱屈した趙胡をかばい、身の立つようにと裏で奔走したのが呂嘉であり、呂英であった。


 幽閉中、不摂生がたたったのか、趙胡は病の床に伏せることが多かった。いまさらかんの虫でもあるまいが、幼児のころに頻発した神経症の病が尾をひき、頭痛や不眠を訴えたのである。侍医にしてからが、「心の病だ」として、親身には診てくれない。

 そんな趙胡を見かねて、呂嘉が「奥向きの用に使ってくれ」といって、趙藍ちょうらんを寄こしたのである。妹で趙佗夫人の呂英が気配りした結果であることは、いうまでもない。趙藍は、呂嘉の孫娘にあたる。呂姓のままでは、「また呂嘉がいらぬことを」と反発して棚上げされる。わざわざ趙姓の一族の養女にしたうえでの奉公である。 心根の優しい子で、よく気が利き、呂氏を鼻にかけないから使用人にも評判がよい。ついつい手元に引き止めておくうちに、きおくれてしまったという内輪の事情があった。

 しかし本人は屈託ない。祖父から打診されるや、その場で引き受けた。趙胡の幽閉されている府邸へは、賓朗が案内した。

 趙藍は薬研やげん擂槌すりぎ乳鉢にゅうばちを持参してのご奉公である。薬研は、刻んだ生薬しょうやくを粉末にする道具であり、粉末にした生薬は、擂槌と乳鉢で混ぜあわせるのである。かの女は、漢方の処方に長じていた。

 趙胡はとこに伏せたまま、趙藍を引見した。

「俺の評判を聞いているか」

 いきなり趙藍に問いかけた。

「はい、でも」

 口ごもったまま、となりの賓朗をみて助け舟を求めた。

「遠慮はいりません。ご存知のことを素直に申し上げればよいのです」

 賓朗は趙藍の性格を知っている。生地の趙藍を紹介したい。

「では申し上げます。少爺シャオイェ(若様)は、世間知らずの放蕩息子だともっぱらの評判でございます」

 図星をつかれ、趙胡が床から跳ねおきた。

「すこしは遠慮いたせ」

 趙藍は、首をすくめて笑いをこらえた。

 その場で趙藍の奉公がきまった。

 翌朝から、かの女はなりふりかまわず襷がけで、厨房から納戸まで奥向きの世話をはじめた。侍医の意見をもとに薬を調合し、食事の調理もみずから手がけた。趙胡はこどものころからの悪い癖で極端な偏食だったが、趙藍は意に介さなかった。趙胡の好き嫌いを受け付けず、なんでもうつわにもり、余そうものなら、口をとがらせた。

「大丈夫たるもの、好き嫌いを申されてはなりません。出された料理はかならず箸をつけ、まず味わってみるものです」

 いわれてしぶしぶ食べてみると、これがなかなかうまい。食わず嫌いでずっときたものが、趙藍の料理の腕がよかったためか、しばらくたつうち、なんでも食べられるようになった。

 ものじせずはきはきと意見をいう趙藍に、ふつうなら、

「なにをいうか。これが俺のやりかただ」

 と抵抗してみせるはずの趙胡が、文句もいわずしたがっている。

 かたわらにいる賓朗は、半信半疑のおももちで、なりゆきを見守っていた。

 中草薬の効果が出たのか、あるいは規則正しい食事がつづいたためか、趙藍の巧みな誘導もあって、目に見えて趙胡の酒の量が減った。

「たまにはからだを動かしなされ」

 邸内の草木の剪定にかこつけて、趙胡を部屋から追い出した。陽にあたることのすくなかった趙胡の顔に生気がもどった。

「さあ遊びましょう」

 趙藍からゲームをせがむこともある。すごろくが流行りである。六博漆盤りくはくしつばんをかこみりく博子はくし(コマ石)の先後を競う。ちなみに双六すごろくや囲碁など勝負を争う遊びを博奕ばくえきという。博奕は、ばくちとも読む。金品を賭けない博奕は気乗りしない。趙胡は浮かぬ顔でつきあっていた。

わたくしの勝ちです」

 さきに上がった趙藍が、手をたたいて喜んだ。天真爛漫を絵に描いたような喜びようである。趙藍の嬌声につられて、趙胡も声をだして笑った。

 庭先でまきを割っていた賓朗にも、その声が届いた。賓朗は振り上げた斧の手をやすめ、汗を拭った。目にうっすらと涙が滲んでいた。

 ともすれば湿りがちだった邸内に、春の陽気が差しこんだ。半年もたたないうちに、趙胡のからだから病が脱けおちた。


 呉楚七国の乱は、決起から三ヵ月で破綻した。晁錯が誅殺された見返りに、呉王濞は、漢朝に内応した東越に殺された。

 反乱平定後も表面上、諸侯国は存続した。しかし実態は名ばかりの諸侯国に成り下がった。封国の国政権は召し上げられ、封土はかぎりなく削減された。漢帝国は郡国制の名の下に、実質的な中央集権に向けて皇帝権力の強化をはかっていた。


「いずれは南越国にも、漢朝は容喙ようかいしてこよう」

 ことがこのままで済むとは思えない。反漢決起の挙動があったとみなされれば、封土返上、一族誅滅の口実となり、したがわなければ、軍を差し向けられる。漢朝の思惑ひとつで、南越国の帰趨が決まるのである。

「戦って勝てるか」

 趙佗の問いに、呂嘉は答えなかった。かわりに大きくかぶりをふった。

 全面的な総力戦になれば、これはかなわない。しかし簡単には済まさせない。漢朝側にも相当の被害と損失を覚悟してもらう。

 戦火は嶺南のみならず、嶺北にもおよぶこと必定である。長沙が戦場になれば旧楚の地全域に波及し、長江以南の治安が乱れ、漢朝の威信が問われることになろう。

 下策である。漢朝としては避けたい戦法である。

 では局地戦のばあいにはどうなるか。小規模な戦なら南越にも勝機はある。とすれば漢の側も面子めんつをかけて巻き返しに出るだろう。いきおい長期戦にもつれ込むことは避けられない。

 嶺南には広大な土地があり、無限の海域がある。南越側は地の利を生かし、臨機応変に、退いては攻め、攻めては退いての遊撃ゲリラ戦法で、遠征軍を翻弄はできる。これを陸と海とで展開すれば、勝てないまでも、戦局を互角に保つことだけは可能である。

 どちらが先に根をあげるか。無辜の民を犠牲にしての、無益な根競べといっていい。漢朝があえて起こす戦ではない。

 いにしえより戦の妙は、「戦わずして勝つ」ことにある。「百戦百勝」は、かならずしも最善の策ではない。

 孫子の兵法では、戦の勝ち方に順位をつけている。暴力によらず、智慧によるのを上位においている。現代風にいうと、コストとロスの少ない戦が上位である。

 結論からいうと、「謀略戦」で打ち勝つのを最上とし、つぎに「外交戦」による勝利をあげている。敵の城を攻めるという「攻城戦」は最下位である。

 六十年まえ、南越征伐戦争の教訓はいまも生きている。

 往時、秦朝は短期決着をもくろみ五十万の大軍を投入したが、案に相違してずるずると長期戦にもつれ込み、果てしない消耗戦に突入した。第二次征伐軍として新たに戦場に乗り込んだ趙佗らは、和戦両様の構えに戦法をかえ、いわば「謀略戦」と「外交戦」により、嶺南を統一に導いたのである。

 戦争の悲惨さは身をもって体験している。ましてや長期の消耗戦などは、唾棄すべき形態である。勝敗の如何にかかわらず、「前功 ことごとく棄つ」(もとの木阿弥)、過去の蓄積はまったく灰燼に帰すのである。これほど無益で無意味なことはない。


「戦、それも長期におよぶ武力闘争だけは、ぜったいに起こしてはならない」

 過去に、劉邦や呂后とのあいだで、虚々実々の駆け引きがあった。

 自立か隷属か、開戦にいたったばあいもあったが、漢朝政権はまだ不安定な要素を残していたから、玉虫色の外交決着でことを収めた。

 このたびもまた玉虫色が望ましい。しかし漢朝はもはやかつてのような軟弱政体ではない。武帝劉徹の黄金時代を迎えようとしていた。

 こんな時代には、けっして弱腰で対応してはならないのである。

「やれるものならやってみろ」

 というくらいの意気込みを見せつけるに十分な、力の誇示が必要である。

 漢という後背地(ヒンターランド)あってこその成果ではあるが、南越国の海外交易は順調である。

 航海術は日ごとに熟練度を高め、商船隊は年ごとに編成の数を増していた。表面的な臣属はしていても、独立独歩の気迫と意欲は嶺南に満ち満ちている。充実した財政基盤に支えられ、国の守りをさらに強化すべく、西方の新式武器の導入や兵制の改革にも心がけてきている。陸戦力は国の規模の差で劣るが、海戦力においては、ゆうに漢朝のレベルを凌駕している。それでいて、

「問題は、ひとが足らぬことだ」

 趙佗の懸念は、この一点に絞られる。

 将兵ともに人材不足は否めない事実である。

「国力の増強と国体の刷新が必要だ。いつまでもわしら年寄りが、国政を牛耳っておっては、若い芽が摘まれ、育つものも育たぬ」

 時期がいたれば、年寄りは隠居し、孫の面倒でも見ているのが、世の理(ことわり)というものである。

「国中に子や孫があふれ、近隣の国ぐにの若者が、喜んで馳せ参じてくれる、そんな体制にもってゆかねば、わが南越国は漢朝に呑みこまれてしまう」

 呉楚七国の乱のさい、決起に走る強行グループを説得できず、結局、荒療治で対症せざるを得なかったことへの反省がある。

 あとさきかまわず若い芽を摘んでいては、国も老朽化する。

「そろそろしおどきではないか」

 呂嘉にして、この認識がある。

 ならば、「己が舞台の幕引は、己が手でやる」しかない。

 残された時間のないことは、だれの目にも明らかである。楽観は問題の先送りでしかない。だれもが気づいていたが、しかしだれもいいだせなかった。

「趙佗の次」、の対応である。

 あらためて趙佗は決断した。

「趙胡を太子に立て、後継者としての立場を明確にする」

 同時に反漢派メンバーの名誉を回復し、旧の職務に復帰させる。稚拙ではあっても国を想うてなした行為にちがいない。使える情熱や能力なら、いつまでも眠らせたままにしておいてはならない。

 過去を水に流し、国人がひとつになって、新しい時代を切り開かなければならない。若い世代に希望をもたせ、危機意識に立って国政に参画してもらうのである。

 趙佗は立太子の布令をだし、太子つきの近習をもとめた。意欲ある若者はこぞって名乗り出た。趙胡のもとに若い叡智が結集した。

 この布令は老若双方から歓迎された。

 子のためならば、と父が職を退いた。母は嫁に一家の首座を明け渡した。国人は国王に倣い、若者を前面に押しだした。世代の交代が加速された。

「戦時に国を治めるのはたやすい。武をもって強圧すればたりるからだ。しかし平時に国を治めるには、文をもって道理を説き、さまざまな意見をもつ国人を導かなければならない。これは一朝一夕にできることではない。趙胡のまわりに、平時の治世をゆだねることのできる若い有能な人士が集まり、国人を正しく導いてくれさえすれば、寡人はいつでも安心して、黄泉よみじとやらへ旅立てる。趙胡へは、文治、これをもって国是とするよう、いい残しておく。ところで、お主には気の毒だが、これが育つまで、まだまだ働いてもらわねばならぬ。寡人がもとへくるのは、もうひと汗もふた汗もかいたあと、ということになる」

 趙佗は、布令に先立ち、呂嘉に後事を託している。

「愚かにも寡人は、いつまでも趙始にかなわぬ夢を抱きつづけていたらしい。その分、趙胡を甘やかし、軟弱な性格に損なってしまった。誤りの過半は寡人にある。そこでじゃ、いまさらながら趙胡がこと、お主に頼む。寡人なきあと趙胡を見守ってやってくれ」

 趙佗は老いた手を老臣の肩にやり、しみじみと述壊した。遺言ともとれる。

「お主とともに築いたこの国、主体はあくまでもお主ら越人のものである。盟約に反し、漢が無体な要求にでるなら、あえてしたがう必要はない。南越は百越の民の意志を尊んで、帰趨をさだめよ。五嶺の南は、けっして漢朝の思いどおりにはならないことを、身をもって示すがよい。趙胡にもよくいい聞かせておくが、趙胡がその任に堪えられないばあいは、廃立もやむなし。お主の存念にゆだねるゆえ、よきにはからえ」

「王よ、申されるまでもないこと。この呂嘉、最期のご奉公とこころえ、この国の行く末をよう見とどけたうえで、ふたたび御許へ馳せ参じましょうほどに」

 呂嘉は悲痛な声をふるわせ、趙佗を仰ぎ見て、きっぱりといいきった。この時期、呂嘉とてすでに八十路やそじの坂を越えている。

「もはやこれ以上老いるわけにもゆかず、ましてや死ぬるわけにはゆき申さぬ」

 幽鬼さえよせつけない鬼気迫る魂魄をささえに、呂嘉は、趙佗亡きあとの南越国の運命に向き合うことになる。


 趙佗の手元に残されていた嫡男趙始の太子印は、立太子の儀のあと、趙胡に渡された。亀鈕きちゅう金印で印面には「泰子たいし」とある。趙胡にとっては、いわば「親の形見」の意味合いがある。父趙始の分も合わせ、南越国の二代目を踏襲するのだと自覚を促した。趙胡用には、新たにもうひとつ作った。玉印で印面はやはり「泰子」である。「泰」は「太」を意味する。仮借という。漢字の六書りくしょのひとつで、適当な文字のないときに、他のおなじ音の字を借りて代用することである。六書とは六体ろくたいともいうが、漢字の成立を説明する六種の分類で、象形・指事・会意・形声・転注・仮借をさす。

 太子は「儲君ちょくん」(もうけのきみ)すなわち世継ぎの君、「王」位の継承者であり、その地位はあらゆる王公大臣の上である。ということは丞相呂嘉の上位にある。

 平常は、国王の指導の下で、朝政の処理を学ぶ。国王が巡狩あるいは征討で他出するさいは、朝政の主宰を代理する。

 立太子を機会に趙胡は、呂嘉を「仲父ちゅうほ」と呼ぶようになった。仲父とは父の二番目の兄弟にあたる伯父(叔父)のことで、父に次ぐひとをさす。敬称である。かつて秦王政が呂不韋をこう呼んだことは、よく知られている。秦王政、のちの秦始皇帝である。

 国政はむろん、私事においても助言を求め、苦言に耳を貸すようにとのいましめをふくんでいる。趙佗の発案である。いうまでもなく、じぶん亡きあとの趙胡を危惧しての措置である。

 趙胡はたしかに、生まれながらの公子にちがいない。ほどなく太子の地位に慣れてしまう。一方、趙佗はあいかわらず多忙である。ひきもきらず客が訪い、またみずからも縁辺へ足をはこんだ。手にとって仔細に教えるだけの時間はなく、趙胡が代理するさいは「仲父」呂嘉に補佐させた。

 しかし趙胡は、国王の祖父の表面的な日常仰臥をのみ模倣し、形の背後にある内実にまで踏み込もうとしなかった。呂嘉にたいしても律儀にかしこまり、師事している風をよそおったが、真に学ぶことを怠った。

 かえって呂嘉を煙たがり、これを敬遠したのである。







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