三、趙始と絹海道

     

「いずれ漢は牙を剥いてくる」

 趙佗が亡くなる五、六年前というと、漢の武帝劉徹が即位を目前にひかえた時期である。このころから趙佗は、さすがに老いの衰えを自覚しはじめていた。

 執務が長時間におよぶと倦怠感に襲われ、集中力を欠いた。過去に手がけた類似の事例を思い出そうとして、記憶が容易にたどりつかない。それでいて思いがけないとき、不意にその記憶が甦る。いちど思い出すと、その関連することどもがとめどなくつぎつぎに想起され、はっと気づいたときは、脇息を枕にそのまま寝入っていた。

「われながら情けないしだいだが、お主はどうか」

 同病相哀れむの思いあまって、呂嘉にこぼすこともある。呂嘉とはひと回り以上はなれているが、この歳になればさほどの差はない。

「なんの、夢うつつは日常茶飯のことで、うたた寝のあとなど、これまでのことはすべて夢のように思うこともありますぞ」

 呂嘉は冗談ともつかぬ答えで、趙佗の気を紛らせようとする。

 ――お寂しいのでござろう。

 孫やひ孫でごったがえす呂嘉の府邸にくらべると、表面の華やかさとはべつに、趙佗の居住まいは静かなものであった。息子の世代はすでになく、孫の世代に移っていた。 しかもその後継者はかぎられていた。

「長生きしすぎたのかもしれぬ」

「なにをいわれる、まだまだこれからではござらぬか」

 打ち消しながら先行きへの懸念は、呂嘉をも弱気にさせる。

「しおどきでござろうか」

 叱責覚悟で、ついに呂嘉は禁句を口にした。

「太子を立てられてはいかが」

 さきの太子 趙始ちょうしの廃嫡以来、三十年以上になる。


 ほんらい南越国二代目国王を名乗るべき嫡子の趙始は、みずからの意志で太子の座を放棄した。かわって選んだのは、西方航路開拓という前人未到の道である。

 中国南方からインドシナ半島に沿ってマラッカ海峡にいたる東南アジア航路は、先秦時代からすでに知られており、丸太から作ったり舟による原始的渡航がおこなわれていた。刳り舟は単材から複合材の使用へと移行した。さらにかいの技術を取り入れ、帆柱を立て、帆を張るにおよんで初期の木造帆船ジャンクへと進化した。秦の嶺南征略後、本格的な造船所が番禺に設けられ、技術水準の高い大型外洋船が建造されるようになった。この造船所は南越国に引き継がれ、航海術の進歩・操船技法の向上とあいまって、新造船がつぎつぎに処女航海に乗り出し、海上交通が活発化した。いまのマラッカ海峡までは、数度の演習航海を重ね、手馴れたものとなっていた。

 前一九〇年、趙佗 帰漢きかん(漢朝に帰属)の六年後、六艘の大型帆船をつらねた南越国の商船隊は、まだ若い趙始を頭に満を持して出航した。古強者ベテランの趙成が乗り込んで、要所に目を配った。趙成は趙始の師傅しふ(師匠)であり、後見役でもある。

 この航海は、インドを経由しアラブ・アフリカをめざす、西方交易の開拓が目的である。帆に季節風を受け、海流に乗り、波濤を蹴立てて南下した。

 最初の難所が、マラッカ海峡である。海面はうそのように静まり返っている。ほとんど風がない。手漕ぎに牽夫チェンフー(船曳き)による陸上からの牽引をくわえ、ゆっくり航行する。そこを狙って海賊が跋扈したのである。難を避けるには、海峡手前からマレー半島に上陸し、陸路を西岸まで出て船を乗りかえる半島横断ルートしかない。

目的は西方航路にある。乗りかえる船の用意はない。趙始は、自船での一貫航海を主張した。

「ならば海賊ども、退治てくれよう」

「おう、いかにも。そうでのうてはいかん」

 南越船の水手かこ海人かいじんの末裔である。先祖代々、根っからの海の荒くれぞろいときている。でなければ、南越建国に携わった秦国水軍の生き残りである。海賊退治と聞いて反対するものはなく、かえってひそかに喜んだ。このところ太平無事がつづき、からだをもてあましていた。かれらはなまった腕を撫し、勇んで出番にそなえたのである。

 やがて躊躇なく、船はマラッカ海峡へ進入した。案の定、海賊に遭遇するや、待ってましたとばかりに、商船の装いをかなぐり捨てた。船底から武器を引っ張りあげて甲板にならべ、戦闘開始の軍旗を高々と掲げた。軍旗は白地に黒糸で鮮やかに、「趙」の一字を縫い入れてある。南越国の商船はたちまち軍船に早がわりした。

 いつもと勝手がちがい、小船に分乗して押し寄せた攻撃側がうろたえた。海賊といっても、多くはにわか仕立ての漁師あがりにすぎない。戦場の実践で鍛えた「趙」の猛者連には、ややもの足らぬ相手だが、ここを先途とたちまち平らげ、余勢を駆って海賊の根城へ乗り込んだ。捕獲した数十艘の小船が、道案内の曳航船タグボートになる。

 海賊の本拠地は海峡の小島の寒村にある。男どもが荒稼ぎに出払ったあと、年寄りと女こどもだけがひっそりと隠れ住んでいる。趙始らはこの島に上陸するや躊躇なく、逃げ戻った残党もろとも全村を殲滅し、焼き払ってしまった。

 この一件が海峡一帯に伝わり、俗謡に「趙旗船団ゆくところ、海賊船は避けてとおる」と誇大に恐れられたものである。

 その後、航路の治安が確保されると、マラッカ海峡を越えベンガル湾に出た。ここには、バングラデシュからガンジス川を遡るインド・ルートがあり、さらに西をめざせば、スリランカ経由でインド洋へ出て、アラビア海を横断するルートがある。航海の途次、要所要所で交易をかさねてきた船隊は、ここで二手に分かれた。

 一隊はインド各地を巡って交易し、潮の流れと季節風が反転するころあいを見計らって、帰国の途についた。残りの一隊は、さらに西へ向かってアラビア半島をめざした。アラビア半島から半島沿いに南下すれば、アフリカの東端にいたるのである。

 絹海道―海のシルクロードとして、中国南部から東アフリカに達する航路を拓き、通商交易のじつをあげたのは、南越国の時代、この趙始船団をもって嚆矢こうしとする。

 全航程約五千海里。一海里一・八五二キロだから、ほぼ一万キロである。片道の航程に一年を費やす大航海であった。

 この航海のおり、象牙・香薬・瑠璃製品・銀の小箱などが、はるかかなたのアフリカやペルシャ湾地域からもたらされている。これら舶来品の行方については、のちに詳述する。


 余談だが、帰国の航路でマラッカ海峡をすぎるさい、趙始は殲滅した海賊の廃村を訪れ、生き残ったものを探している。貧しさゆえの親の悪行とはいえ、こどもに罪はない。乞食どうぜんで各地に散らばった遺族や孤児を探し出し、当座の食糧をあたえ、配下のものを残置させて、ひとり立ちするまで見守った。説得に応じるものは船に乗せ、南越国へ連れ帰ったのである。

 なかにひとり、利かぬ気の童子が趙始の眼にとまった。親にはぐれ身よりもなく、歳も名もわからぬこどもだが、趙始になつき、南越国の乗組員を恐れなかった。四、五歳になろうか。こどもながら、趙始にまとわりつき、身の回りの世話をやこうとする健気さと、教えたことを忘れない利発さが気に入った。檳榔チャウと名づけ、帰国後、呂嘉にあずけた。成長したチャウは賓朗ひんろうと呼ばれ、趙始の次子趙胡の終生の扈従こしょうとなる。


 この時代、番禺のいちには、中原から運ばれた銀・銅・鉄器、絹織物に、海外の香薬・琥珀・瑪瑙・水晶、それと地元嶺南産の真珠・玳瑁・果物・布などが見られたと、『史記・貨殖列伝』に記されている。

 漢代初期、まだ南越国内で絹は織れない。中原から大量に仕入れ、交易の目玉商品としていたことがうかがわれる。

 絹織物の起源は四、五千年まえだともいうが、中国は「絹の国」として、早くから西方世界に知られていた。古代ギリシャや古代ローマでは中国を「seres」(賽里斯セレス)と呼んだ。「絹を産する国」の意である。中国の絹は、アラブの芳香・インドの胡椒とともに珍重され、高額で取り引きされた。海陸を問わず活発に交易され、その輸送ルートは、「絹の道―シルクロード」の異名をとったのである。海路なら「絹海道」、海のシルクロードである。

 西方ルートの航海に成功して以来、何艘もの商船が往来を重ねるうち、交易の利便をはかるため、航海の拠点となる港ごとに、水や食糧・資材の補給と調達、交易品の卸小売をになう市がひらかれ、やがて初期のマーケット街が形成されていった。長旅の疲れを癒す宿場や歓楽地としての機能も生まれ、大勢の人びとが集まる場所になった。陸(おか)に上り商売換えをする船乗りもあり、評判を聞いて出稼ぎにくるものもいた。いまに残る華人街チャイナ・タウンのはしりといっていい。多くの嶺南人が現地に居留し、華僑のさきがけとなったのである。

 安定した航海ルートが確立するにつれ、定期的に訪れる国ぐにが増えていった。通過する領海の支配者や、寄留する地域の老頭子ボスには寄港のつど挨拶を欠かさず、税金もしくは見ヶ〆みかじめ料を収納した。

 趙始は交易のかたわら、ときに南越国の国王代理として国交をひらき、軍事同盟をむすび、通商促進、居留民の保護などの盟約を取り交わしたりもした。南越国の全権大使には、うってつけの役柄である。

 海外交易は歳月を重ねたいまも、かわらず盛況がつづいている。漢との友好関係が保たれるかぎり、輸入した産物の引取り先は保証され、交易の繁栄はゆるぎなかった。南越国の豊かな財政をささえた海の男たちは、時期が来ると船を下り、故郷へ戻って、後進に道を譲った。海外の気に入った地に安住し、第二の故郷とするものもいた。

大航海のあと十年もすると、趙始はほとんど帰らなくなった。軍事侵略を嫌い、植民地を持たなかった。海外に特定の拠点を造らなかったから、交易のつど居留地は転々とした。 

 その動向は、帰港する配下や趙成からの便りで、つねに趙佗のもとに伝えられていたが、それもいつしか途絶えた。海難にあったか、病に倒れたか、交易ルートの停泊地に探索の手は打ったが、確たる消息を得られぬまま、歳月だけがむなしくすぎていった。

寡人わしの長寿とひきかえに、さきに逝ってしもうたか。あるいは異国か海賊の捕囚となって、いずこかに存命し、助けを求めているのかも知れぬ。夢枕にでも立って、安否を告げてもらえぬものか」

 太子の座を久しく空席のままにしておいたのは、趙佗に似合わぬ未練があったからである。


 趙始の嫡男 趙蘇ちょうそは、祖父趙佗と甌駱アウラク国の安陽王アンズオンヴォンとの遺約にもとづき、交趾こうし郡尉に就き、実質的に甌駱国を引継いだ。交趾郡は、いまのベトナム北部にあった甌駱の民の住む地域である。趙始に嫁いだ趙蘇の母は、安陽王の公主むすめだったから、趙蘇は越南ヴェトナム王家の血筋をひいている。その趙蘇も父に倣い、甌駱族の女を妻にしたが、三人の子を残して、二十代なかばで早世した。のち南越国滅亡後、難を逃れた趙蘇の血脈は、ベトナムのに落ち延びたというが、確たる伝承はない。

 余談だが、その数世紀後、趙蘇の末裔とおぼしき女傑が、青史に片鱗をのぞかせる。三世紀なかば呉の時代、交州全域で動乱が頻発した。ほぼ南越国の旧領にあたる一帯である。二四八年、ベトナム北部の九真郡で義軍をひきい趙女史バー・チェウが蜂起した。趙女史、名は趙氏貞チェウ・ティ・チン、地方豪族 趙国達チェウ・クォク・ダトの妹である。つねに鎧をまとい、金のかんざしを挿し、凛として象にうちまたがり、侵略軍を蹴散らしたという。犀に乗って海に入った、祖先の安陽王を彷彿とさせる逸話である。最後に蜂起は鎮圧され、趙女史は清化タインホア省富田フーディェンで討ち死にした。戦没地にはいまも趙女史廟が祀られてある。

 ちなみにいまのベトナム歴史においては、紀元前一七九年から一〇世紀までを北属時代と呼び、中国の侵略下にあった時期と位置づけている。前一七九年といえば、南越国が最終的に甌駱国を攻略し、支配下においた年である。

 唐の崩壊後、五代十国といわれた時代、嶺南に自立した劉岩りゅうがん(のち劉龑りゅうげんと改名)は九一七年広州に都し、国号をはじめ大越と称し、翌年漢と改称する。史書中には「南漢なんかん」と呼ばれる地方政権である。劉氏はもとが商人からの転進だったから商才にすぐれていた。早くから海上貿易を重視し、アラブ半島やペルシャ湾地域の国家、さらに南アジアや南海諸国との貿易で多大な富を蓄積した。南漢の大宮殿は、金銀と真珠で飾られ、一世を風靡したものである。九七一年、宋朝に攻略され滅亡する。焼け落ちた宮殿跡から、きらびやかな真珠や宝石が詰まった甕が掘り出された。四十六個あったという。

 その南漢が、ベトナム北部に侵略、旧安南都護府の統治を回復しようとした。八年におよぶ抗戦をへて、ハタイ省 唐林ドゥオンラム出身の将軍 呉権ゴー・クエンは民族軍をひきい、白藤バックダン江の戦いにおいて南漢の水軍を粉砕し、侵略軍を一掃した。戦勝後、呉権は古螺コーロア城に都し、越呉ヴェトゴー朝をひらいた。古螺城はいまのハノイ市ドンアイン県にある。

 紀元九三八年、呉権の新王朝開府をもってベトナムは主権を確立、独立したとみなされている。侵略者の系譜は、稗史からも抹殺される運命にある。いまベトナムで趙佗の系譜をたどる手立てはない。


 趙胡ちょうこは、趙始の次子である。兄の趙蘇とは、じつは同年の異母兄弟になる。

 趙始は若年で甌駱国の征略に参戦し制圧に成功するが、父の意に反して太子の座を退く。やがて生まれたばかりの趙蘇と趙胡を父に託して海外に去ったのである。当時、趙佗はすでに還暦をすぎていた。子には厳しくとも孫には甘いのが人情というものであろう。趙佗にあっても例外ではなかった。

 生来、趙胡はからだが弱く、幼児期からずっとむずかってばかりいたが、不憫と気遣うとしよりの懐で、蝶よ花よと可愛がられた。苦労知らずのわがまま貴公子を絵に描いたようなもので、乳母おんば日傘ひがさで甘やかされ、過保護で育てられたのである。こらえることのできない直情径行の性格が、ときに傍若無人とみなされ、歳を重ねるにつれ、暴走を危惧されるようになっていた。

 呂嘉は、趙始から託されていた海賊の孤児 檳榔チャウを身近で養育していたが、ことばや躾ができたころから、学問や武術、操船訓練などを趙胡とともに学ばせ、一方で趙胡の面倒をみさせた。じつは、わがまま三昧の趙胡の将来を危ぶんだ趙佗夫人の呂英が、兄の呂嘉と相談して、決めたものである。

 檳榔は趙胡よりふたつ年上と数えられ、浅黒いからだはたくましく成長していた。

 ことばにも不自由せず、折り目正しい挙措と忠実な性格は、海賊の孤児という出自をまったく連想させなかった。わがまま貴公子は、檳榔をすきなようになぶって遊んだが、檳榔はけっして逆らわなかった。つねに一歩下がって、趙胡を立てることを忘れなかった。

 そんな趙胡もある事件をきっかけに、ふたりでいるときは、あたかも兄にたいするように態度をかえて接するようになった。食事も檳榔が箸をつけるまでは、けっしてじぶんからは食べはじめなかった。そんな日常の細かなようすまで、呂英はしっかり観察していた。のちに檳榔改め賓朗ひんろうを、趙胡付きの近侍とするよう進言したのも、呂英である。

 ある事件の顛末とは、次のようなことである。

 幼児期に肉親を失った賓朗は、甘えを知らないこどもだった。こどもながらにじぶんの境遇を察し、自制していたともいえる。そんな賓朗がたったいちどだけ、呂英に甘えたことがあった。趙胡の気まぐれな所業の責任を、じぶんになすりつけられたときである。

 賓朗は呂英に訴えた。

「あの火付けは、わたしがなしたことではありません。趙胡さまがご自身でなされたことで、それを知ったあと現場に駆けつけたわたしの所為せいにされてしまわれたのです」

 こどもの喧嘩の仕返しである。殴られたら殴りかえせばいい。それを趙胡は悔しさのあまり、相手の住む小屋に火をかけたのである。

 ふだんは賓朗に命じてやらせるのを、そのときはじぶんでやった。賓朗にいったらたしなめられる、過剰で逸脱した行為であることの自覚があったためであろう。もとよりこどものやることで、相手を驚かすていどの思いつきにすぎない。

 ところが思いのほか火の手の回りが早く、火はたちまち燃え広がった。なかにいた年寄りが焼け死んだのである。ことを知って賓朗が駆けつけときには、小屋はなかば焼け崩れており、手のうちようがなかった。

 趙胡は吟味の役人に、賓朗の仕業だと偽証した。仕方なくその場は賓朗も認めた。

 火災の記憶は、幼児体験いらい生々しく残っている。賓朗の母親はその折の焼き討ちで殺され、生き残った身内のものも散りぢりになった。人を助けるために火中に飛び込むことはあっても、じぶんから火をかけることはぜったいにありえなかった。

 そんな賓朗の性格を、役人はよく心得ていた。注意は受けたが、咎めは受けなかった。呂嘉の家令と相談し、遺族に応分の慰藉をして、穏便にことを収めた。

 しかし賓朗は悔しかった。その悔しさを、つい呂英にぶつけてしまったのである。

 一部始終を聞いたあと、呂英は居住まいを正し、賓朗に詫びた。

「分かりました。趙胡がなしたること、趙胡にかわりお詫びいたします。しかしお前はすでにわが身内もどうぜんのものです。いずれは趙胡をあるじとしてしたがう身なのです。されば主従間のことは、あくまで主従のあいだで決着をつけるのがことわりというもの。主の過ちを従が正さずしてだれが正しますか。正すべきときにはたとえ命を張ってでもおこなうべきです。いまからでも遅くはありません。互いの心に恨みを残さぬよう、趙胡の過ちを正してください。そうしてこそ、真の情誼が生まれましょう」

 多少大人びているとはいえ、賓朗とてまだこどもである。親身になって語る呂英のことばが嬉しかった。失った母のことばのように思え、耳を傾けた。人前で涙を見せたことのない賓朗が、呂英にむしゃぶりついて泣いたのである。迷いが吹っ切れた。

 ――このひとたちについていこう。南越国の国人として、この国で生きていこう。

 趙胡の従僕として生きることに、こだわりはなかった。しかし矜持をすてたわけではない。趙胡には、ことの理非を説き、卑劣な行為は二度としないと誓わせた。改めて遺族のまえで頭を下げさせたのである。そのうえで、佩刀をはずし、叩頭した。

「出すぎたことをいたしました。ご存分になさってください」

「なにをいうか。過ちはわが方にある。よくぞ叱ってくれた」

 趙胡は賓朗の肩を抱いて立ち上がらせ、上座に坐らせた。以後、趙胡はひと前では主従の姿勢を崩さなかったが、ふたりきりのときは兄として敬い、教えを請うた。

「趙胡も、すこしは成長したようですよ」

 呂英は趙佗の肩を揉みながら、そっとつぶやいた。趙佗は目を瞑ったまま呂英の手に己が手を重ね、「うんうん」とうなずいた。


 一方、嫡長孫の趙蘇はベトナムの名家を継がせるつもりだったから、幼児からおとなとかわらぬ生活のなかで、まだしも厳しく躾られてきている。ふたりには、温室と野良ほどの環境差があった。


 趙蘇が亡くなった年、趙胡はすでに二十五歳である。国王の後継と目されるのは趙胡しかいない。しかしそのおり、太子擁立の声はあがらなかった。消息不明とはいえ、趙始の安否が定まったわけではなかったからである。さらに趙佗自身、すこしまえまでは「道なかば」の思いでいたことも影響している。

 壮年のころさながら、みずから艦隊を仕立てて、南洋遠征に出ることも辞さない構えで、矍鑠かくしゃくとしていたのである。

 まだまだという意識が、必要以上に趙胡を幼く評価していた。






 

 




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