三、趙始と絹海道
「いずれ漢は牙を剥いてくる」
趙佗が亡くなる五、六年前というと、漢の武帝劉徹が即位を目前にひかえた時期である。このころから趙佗は、さすがに老いの衰えを自覚しはじめていた。
執務が長時間におよぶと倦怠感に襲われ、集中力を欠いた。過去に手がけた類似の事例を思い出そうとして、記憶が容易にたどりつかない。それでいて思いがけないとき、不意にその記憶が甦る。いちど思い出すと、その関連することどもがとめどなくつぎつぎに想起され、はっと気づいたときは、脇息を枕にそのまま寝入っていた。
「われながら情けないしだいだが、お主はどうか」
同病相哀れむの思いあまって、呂嘉にこぼすこともある。呂嘉とはひと回り以上はなれているが、この歳になればさほどの差はない。
「なんの、夢うつつは日常茶飯のことで、うたた寝のあとなど、これまでのことはすべて夢のように思うこともありますぞ」
呂嘉は冗談ともつかぬ答えで、趙佗の気を紛らせようとする。
――お寂しいのでござろう。
孫やひ孫でごったがえす呂嘉の府邸にくらべると、表面の華やかさとはべつに、趙佗の居住まいは静かなものであった。息子の世代はすでになく、孫の世代に移っていた。 しかもその後継者はかぎられていた。
「長生きしすぎたのかもしれぬ」
「なにをいわれる、まだまだこれからではござらぬか」
打ち消しながら先行きへの懸念は、呂嘉をも弱気にさせる。
「しおどきでござろうか」
叱責覚悟で、ついに呂嘉は禁句を口にした。
「太子を立てられてはいかが」
さきの太子
ほんらい南越国二代目国王を名乗るべき嫡子の趙始は、みずからの意志で太子の座を放棄した。かわって選んだのは、西方航路開拓という前人未到の道である。
中国南方からインドシナ半島に沿ってマラッカ海峡にいたる東南アジア航路は、先秦時代からすでに知られており、丸太から作った
前一九〇年、趙佗
この航海は、インドを経由しアラブ・アフリカをめざす、西方交易の開拓が目的である。帆に季節風を受け、海流に乗り、波濤を蹴立てて南下した。
最初の難所が、マラッカ海峡である。海面はうそのように静まり返っている。ほとんど風がない。手漕ぎに
目的は西方航路にある。乗りかえる船の用意はない。趙始は、自船での一貫航海を主張した。
「ならば海賊ども、退治てくれよう」
「おう、いかにも。そうでのうてはいかん」
南越船の
やがて躊躇なく、船はマラッカ海峡へ進入した。案の定、海賊に遭遇するや、待ってましたとばかりに、商船の装いをかなぐり捨てた。船底から武器を引っ張りあげて甲板にならべ、戦闘開始の軍旗を高々と掲げた。軍旗は白地に黒糸で鮮やかに、「趙」の一字を縫い入れてある。南越国の商船はたちまち軍船に早がわりした。
いつもと勝手がちがい、小船に分乗して押し寄せた攻撃側がうろたえた。海賊といっても、多くはにわか仕立ての漁師あがりにすぎない。戦場の実践で鍛えた「趙」の猛者連には、ややもの足らぬ相手だが、ここを先途とたちまち平らげ、余勢を駆って海賊の根城へ乗り込んだ。捕獲した数十艘の小船が、道案内の
海賊の本拠地は海峡の小島の寒村にある。男どもが荒稼ぎに出払ったあと、年寄りと女こどもだけがひっそりと隠れ住んでいる。趙始らはこの島に上陸するや躊躇なく、逃げ戻った残党もろとも全村を殲滅し、焼き払ってしまった。
この一件が海峡一帯に伝わり、俗謡に「趙旗船団ゆくところ、海賊船は避けてとおる」と誇大に恐れられたものである。
その後、航路の治安が確保されると、マラッカ海峡を越えベンガル湾に出た。ここには、バングラデシュからガンジス川を遡るインド・ルートがあり、さらに西をめざせば、スリランカ経由でインド洋へ出て、アラビア海を横断するルートがある。航海の途次、要所要所で交易をかさねてきた船隊は、ここで二手に分かれた。
一隊はインド各地を巡って交易し、潮の流れと季節風が反転するころあいを見計らって、帰国の途についた。残りの一隊は、さらに西へ向かってアラビア半島をめざした。アラビア半島から半島沿いに南下すれば、アフリカの東端にいたるのである。
絹海道―海のシルクロードとして、中国南部から東アフリカに達する航路を拓き、通商交易の
全航程約五千海里。一海里一・八五二キロだから、ほぼ一万キロである。片道の航程に一年を費やす大航海であった。
この航海のおり、象牙・香薬・瑠璃製品・銀の小箱などが、はるかかなたのアフリカやペルシャ湾地域からもたらされている。これら舶来品の行方については、のちに詳述する。
余談だが、帰国の航路でマラッカ海峡をすぎるさい、趙始は殲滅した海賊の廃村を訪れ、生き残ったものを探している。貧しさゆえの親の悪行とはいえ、こどもに罪はない。乞食どうぜんで各地に散らばった遺族や孤児を探し出し、当座の食糧をあたえ、配下のものを残置させて、ひとり立ちするまで見守った。説得に応じるものは船に乗せ、南越国へ連れ帰ったのである。
なかにひとり、利かぬ気の童子が趙始の眼にとまった。親にはぐれ身よりもなく、歳も名もわからぬこどもだが、趙始になつき、南越国の乗組員を恐れなかった。四、五歳になろうか。こどもながら、趙始にまとわりつき、身の回りの世話をやこうとする健気さと、教えたことを忘れない利発さが気に入った。
この時代、番禺の
漢代初期、まだ南越国内で絹は織れない。中原から大量に仕入れ、交易の目玉商品としていたことがうかがわれる。
絹織物の起源は四、五千年まえだともいうが、中国は「絹の国」として、早くから西方世界に知られていた。古代ギリシャや古代ローマでは中国を「seres」(
西方ルートの航海に成功して以来、何艘もの商船が往来を重ねるうち、交易の利便をはかるため、航海の拠点となる港ごとに、水や食糧・資材の補給と調達、交易品の卸小売をになう市がひらかれ、やがて初期のマーケット街が形成されていった。長旅の疲れを癒す宿場や歓楽地としての機能も生まれ、大勢の人びとが集まる場所になった。陸(おか)に上り商売換えをする船乗りもあり、評判を聞いて出稼ぎにくるものもいた。いまに残る
安定した航海ルートが確立するにつれ、定期的に訪れる国ぐにが増えていった。通過する領海の支配者や、寄留する地域の
趙始は交易のかたわら、ときに南越国の国王代理として国交をひらき、軍事同盟をむすび、通商促進、居留民の保護などの盟約を取り交わしたりもした。南越国の全権大使には、うってつけの役柄である。
海外交易は歳月を重ねたいまも、かわらず盛況がつづいている。漢との友好関係が保たれるかぎり、輸入した産物の引取り先は保証され、交易の繁栄はゆるぎなかった。南越国の豊かな財政をささえた海の男たちは、時期が来ると船を下り、故郷へ戻って、後進に道を譲った。海外の気に入った地に安住し、第二の故郷とするものもいた。
大航海のあと十年もすると、趙始はほとんど帰らなくなった。軍事侵略を嫌い、植民地を持たなかった。海外に特定の拠点を造らなかったから、交易のつど居留地は転々とした。
その動向は、帰港する配下や趙成からの便りで、つねに趙佗のもとに伝えられていたが、それもいつしか途絶えた。海難にあったか、病に倒れたか、交易ルートの停泊地に探索の手は打ったが、確たる消息を得られぬまま、歳月だけがむなしくすぎていった。
「
太子の座を久しく空席のままにしておいたのは、趙佗に似合わぬ未練があったからである。
趙始の嫡男
余談だが、その数世紀後、趙蘇の末裔とおぼしき女傑が、青史に片鱗をのぞかせる。三世紀なかば呉の時代、交州全域で動乱が頻発した。ほぼ南越国の旧領にあたる一帯である。二四八年、ベトナム北部の九真郡で義軍をひきい
ちなみにいまのベトナム歴史においては、紀元前一七九年から一〇世紀までを北属時代と呼び、中国の侵略下にあった時期と位置づけている。前一七九年といえば、南越国が最終的に甌駱国を攻略し、支配下においた年である。
唐の崩壊後、五代十国といわれた時代、嶺南に自立した
その南漢が、ベトナム北部に侵略、旧安南都護府の統治を回復しようとした。八年におよぶ抗戦をへて、ハタイ省
紀元九三八年、呉権の新王朝開府をもってベトナムは主権を確立、独立したとみなされている。侵略者の系譜は、稗史からも抹殺される運命にある。いまベトナムで趙佗の系譜をたどる手立てはない。
趙始は若年で甌駱国の征略に参戦し制圧に成功するが、父の意に反して太子の座を退く。やがて生まれたばかりの趙蘇と趙胡を父に託して海外に去ったのである。当時、趙佗はすでに還暦をすぎていた。子には厳しくとも孫には甘いのが人情というものであろう。趙佗にあっても例外ではなかった。
生来、趙胡はからだが弱く、幼児期からずっとむずかってばかりいたが、不憫と気遣うとしよりの懐で、蝶よ花よと可愛がられた。苦労知らずのわがまま貴公子を絵に描いたようなもので、
呂嘉は、趙始から託されていた海賊の孤児
檳榔は趙胡よりふたつ年上と数えられ、浅黒いからだはたくましく成長していた。
ことばにも不自由せず、折り目正しい挙措と忠実な性格は、海賊の孤児という出自をまったく連想させなかった。わがまま貴公子は、檳榔をすきなように
そんな趙胡もある事件をきっかけに、ふたりでいるときは、あたかも兄にたいするように態度をかえて接するようになった。食事も檳榔が箸をつけるまでは、けっしてじぶんからは食べはじめなかった。そんな日常の細かなようすまで、呂英はしっかり観察していた。のちに檳榔改め
ある事件の顛末とは、次のようなことである。
幼児期に肉親を失った賓朗は、甘えを知らないこどもだった。こどもながらにじぶんの境遇を察し、自制していたともいえる。そんな賓朗がたったいちどだけ、呂英に甘えたことがあった。趙胡の気まぐれな所業の責任を、じぶんになすりつけられたときである。
賓朗は呂英に訴えた。
「あの火付けは、わたしがなしたことではありません。趙胡さまがご自身でなされたことで、それを知ったあと現場に駆けつけたわたしの
こどもの喧嘩の仕返しである。殴られたら殴りかえせばいい。それを趙胡は悔しさのあまり、相手の住む小屋に火をかけたのである。
ふだんは賓朗に命じてやらせるのを、そのときはじぶんでやった。賓朗にいったらたしなめられる、過剰で逸脱した行為であることの自覚があったためであろう。もとよりこどものやることで、相手を驚かすていどの思いつきにすぎない。
ところが思いのほか火の手の回りが早く、火はたちまち燃え広がった。なかにいた年寄りが焼け死んだのである。ことを知って賓朗が駆けつけときには、小屋はなかば焼け崩れており、手のうちようがなかった。
趙胡は吟味の役人に、賓朗の仕業だと偽証した。仕方なくその場は賓朗も認めた。
火災の記憶は、幼児体験いらい生々しく残っている。賓朗の母親はその折の焼き討ちで殺され、生き残った身内のものも散りぢりになった。人を助けるために火中に飛び込むことはあっても、じぶんから火をかけることはぜったいにありえなかった。
そんな賓朗の性格を、役人はよく心得ていた。注意は受けたが、咎めは受けなかった。呂嘉の家令と相談し、遺族に応分の慰藉をして、穏便にことを収めた。
しかし賓朗は悔しかった。その悔しさを、つい呂英にぶつけてしまったのである。
一部始終を聞いたあと、呂英は居住まいを正し、賓朗に詫びた。
「分かりました。趙胡がなしたること、趙胡にかわりお詫びいたします。しかしお前はすでにわが身内もどうぜんのものです。いずれは趙胡を
多少大人びているとはいえ、賓朗とてまだこどもである。親身になって語る呂英のことばが嬉しかった。失った母のことばのように思え、耳を傾けた。人前で涙を見せたことのない賓朗が、呂英にむしゃぶりついて泣いたのである。迷いが吹っ切れた。
――このひとたちについていこう。南越国の国人として、この国で生きていこう。
趙胡の従僕として生きることに、こだわりはなかった。しかし矜持をすてたわけではない。趙胡には、ことの理非を説き、卑劣な行為は二度としないと誓わせた。改めて遺族のまえで頭を下げさせたのである。そのうえで、佩刀をはずし、叩頭した。
「出すぎたことをいたしました。ご存分になさってください」
「なにをいうか。過ちはわが方にある。よくぞ叱ってくれた」
趙胡は賓朗の肩を抱いて立ち上がらせ、上座に坐らせた。以後、趙胡はひと前では主従の姿勢を崩さなかったが、ふたりきりのときは兄として敬い、教えを請うた。
「趙胡も、すこしは成長したようですよ」
呂英は趙佗の肩を揉みながら、そっとつぶやいた。趙佗は目を瞑ったまま呂英の手に己が手を重ね、「うんうん」とうなずいた。
一方、嫡長孫の趙蘇はベトナムの名家を継がせるつもりだったから、幼児からおとなとかわらぬ生活のなかで、まだしも厳しく躾られてきている。ふたりには、温室と野良ほどの環境差があった。
趙蘇が亡くなった年、趙胡はすでに二十五歳である。国王の後継と目されるのは趙胡しかいない。しかしそのおり、太子擁立の声はあがらなかった。消息不明とはいえ、趙始の安否が定まったわけではなかったからである。さらに趙佗自身、すこしまえまでは「道なかば」の思いでいたことも影響している。
壮年のころさながら、みずから艦隊を仕立てて、南洋遠征に出ることも辞さない構えで、
まだまだという意識が、必要以上に趙胡を幼く評価していた。
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