二、陵墓秘匿


 屈強な衛士が街の角々に立ち城内を警護し、城門を出入する人びとに眼を光らせていた。

 南国の夏、微かな風でも吹けば人びとは涼を求めて、夜中でも戸外にたむろする。国境の関の検問はきびしいが、国内の郡の移動はかなり自由である。弔問の時期、都城は開放され、夜昼かまわずひとの渦でごったがえしていた。そんなひと群れのなか、ひそかに潜入者の探索がすすめられていたのである。


 南越国の都である番禺城は、いまの広州市街地のほぼ中央にあたる中山四路、五路一帯にあった。南越宮苑という御苑にかこまれた南越国宮署(宮中と官署)を中心にして、都の街なみが形成されていた。

 南は珠江に臨み、北は白雲山の峻険に守られている。東西両面にも小河が流れ、珠江に通じている。そしてその内側に城壁が張り巡らされていた。南側のみ城壁をさらに一層重ね、二重の城垣としている。珠江の上陸地点から直接入城できるので、防御のそなえを厚くしたのである。


 当時、越城または趙佗城と呼ばれた番禺城は、いまの街路名でいえば、東は芳草街から西は華寧里まで、北は越華路から南は西湖路までの、こぢんまりとした街なみの内側を占めていた。

 眼をひくのは、宮署のなかに造船所が設けられていることである。秦代のものを引き継ぎ、当時、すでに大型外洋帆船を建造していた。機密保持の必要からあえて宮殿内にとりこんだものであろうか。

 城内はいわば邸宅街といってよく、宮署のまわりに政府要人の府邸と官員の住宅が建ちならび、これにくわえて官営の各種ご禁制産品の作坊があるのみで、庶民の居住する地域ではなかった。作坊街は、王家の玉彫り・金銀製の器皿・象牙漆木の器具・錦や絹の織物などの作業場が城内の一角に軒をならべる、簡素なたたずまいである。それでも裏にまわれば卸小売りに応じていたから、隠れた高級専門店街の賑わいもあり、長安・洛陽などから漢の商人が買付けのため、遠路はるばる往来していた。目の肥えた粋人の顧客もひそかに訪れており、付近には自然発生的な接待所も黙認され、便宜がはかられていた。さらには象牙・犀角・カワセミ・獣皮などを持ち寄る東南アジアや南洋諸島からの商客もあった。かれらは原材料を工芸品と交換し、本国へ持ち帰った。


 平面図にたとえると、都城は北に向かって逆さにした茶碗を横から見たような末広がりの半円形で、周囲を城壁でとりかこまれている。この時代の番禺は、周辺約五キロの小さな都城である。城壁には東西南北の各要所に城門がもうけられ、街道が通じていた。

 庶民の居住する陋巷ろうこうや定期 いちから発展した常設の商店街は隣接する城外に置かれ、その外側に田畑を耕作し、果樹園を営む多くの南越族居民の集落があった。

 北方郊外にある白雲山を筆頭に、都城の四周数百里には、いたるところに無数の山嶺丘陵がある。白雲山系の南端にあたる越秀山は都城の北辺に取り込んである。

 越秀山――高い山ではない。主峰越井崗で海抜わずか七十八メートル、越王故宮・越王台・越王井などの遺跡があり、東西一・五キロの山上とその周辺一帯に木殻崗・長腰崗・上山崗・蟠龍崗・鯉魚崗・象崗と呼ばれる崗が点在している。

 こんにち趙佗陵の所在地に擬せられる代表格には、禺山ぐうざん鶏籠崗けいろうこう、越秀山に属する馬鞍崗・天井崗・悟性寺、さらには白雲山菖蒲洞などがある。

 古代、いまの広州には尭山ぎょうざん・番山・禺山の三山があった。番山と禺山は趙佗の千年後、五代十国の南漢王 劉龑りゅうげんによって切り崩され、台地の上に宮殿が建てられていまはない。越秀山がもとの尭山である。鶏籠崗はいまの広州東駅から八百メートル北にいった地下鉄燕塘駅付近と見られる。あたりに燕嶺や馬蹄崗の地名もある白雲山の東麓である。大小の山々が起伏して連なっているが、いずれも低い。

 越秀山は地理環境に恵まれ、古来、風水の宝庫といわれた。湧きおこる王者の気を鎮めるために明代、鎮海楼が建てられた。上れば眼下に城下の賑わいが広がり、臨めば前面に珠江が滔々と流れる。南越王趙佗はことのほかこの山を愛した。

 趙佗の晩年、寿陵を建造するにあたり、呂嘉は本人の意向を打診している。暗黙のうちに趙佗が認めた場所としては、越秀山を筆答に挙げていい。だれもが思う最有力の候補地である。だからこそ、この地域を中心とし、都城郊外の崗をつらねて嶺に接する広大な範囲に数十か所の偽塚を築き、今世はもとより後世にいたるも目眩めくらましにかけ、陵墓のありかを秘匿したのである。


 北方西側に大北門があり越秀山に接する。

 北方東側の小北門からは白雲山に通じる街道がのびている。

 鐘楼さきの西門を抜けると浮丘を経て西校場(西練兵場)にいたる。

 珠江の支流を渡ればいまの佛山で、珠江水系のひとつ西江に沿ってさらに西に向かうと肇慶ちょうけい梧州ごしゅうに出る。そのさきの上流 灕江りこうを遡れば桂林の絶景が眼前にひろがる。ふつう漢都長安との往来にはこの水路を利用する。かつて嶺南征略のおり、運河・霊渠れいきょが完成し、秦軍五十万の大軍の大部分を輸送した水路である。水域に世界最古といわれる斗門(ロックゲート)をいくつも設置し、上下流の水位差を克服、長江水系と珠江水系を結ぶ水上航行を可能にした。

 東の大東門はいまの番禺学宮のさきにある。

 番禺学宮は孔子廟ともいわれ、明代に建てられた。かつて大革命の時期、広州農民運動講習所、略して農講所が置かれた学舎である。第六期所長に毛沢東、担任教員に周恩来が名をつらねている。門を出ると、東校場(東練兵場)があり、そのさきには珠江沿いに広大な原野が横たわっている。北に発し東から水脈を注ぐ珠江水系の東江を挟んで、いまの広州経済技術開発区と世界の工場と喧伝される東莞とうかんがある。東莞を南に下れば深圳しんせんであり、さらにゆけば香港へ出る。

 いまこれら城門付近には、地下鉄駅の乗降口が建っている。

 大北門に越秀ユェシゥ公園コンユァン、小北門に小北シァオベイ、西門に西門口シーメンコウ)、大東門に農講所ノンジァンスォウ)である。

 都城の南を流れる珠江は南下するにつれ、海と見紛うばかりに大きな湾をなし、陸との境を際立たせている。往時、珠江デルタはまだ姿をみせず、湾内の砂洲越しに、いまの珠海と澳門マカオが河口のあたりにかいま見え、さらにその奥に南海の広がりが望見できたのである。いまの番禺・中山と順徳の一部は、湾のなかに大小の砂洲として点在するにすぎず、満潮時には湾内に水没した。


 弔問の国人に見送られ、大北門・小北門・西門・大東門の四門から別々に、粛々として城外に出た葬送の隊伍は、霊柩の旗に導かれ、神妙に行進した。あえて直進を避け、前後左右に迂回を重ねたのは、追悼の国人を一定の地点で振り切り、漢の密偵など盗掘追尾者をあぶりだすためであった。隊伍の指揮官は将軍呂祐の直属である。隊列の多くは囚人からなる工兵である。武器に替えて作業用の工具を手にしている。かれらは生還を期しえない闇の殉葬者となる。むろん死出の行進とは知らされていない。

 漢の密偵はいずれも場数を踏んだ手練揃いだったが、白昼の追尾には手を焼いていた。民家の途絶えた田舎道では見送りの人もまばらとなり、己が姿を露呈してまで近づくことはためらわれた。しかも四方向に分散されたため、組ごとの編成が手薄となり、相互の連絡にこと欠いた。とうぜん南越側は、討っ手をさしむけている。


 大北門を出た葬送の隊伍が、遠目からは見えにくい物陰を通過した直後、その死角で無言の斬りあいが発生した。他国者とおぼしい旅装の追尾者数人めがけて鉄菱が撒かれ、飛刀が放たれた。かれらはいずれもこの第一撃を、かろうじて避けえたが、ためにその正体を白日のもとにさらす結果となった。漢の密偵は四人である。攻撃の手は休みなく、しつように獲物を追った。

 街道の並木の陰で二つの物体が地を跳ね、空中で交錯した。刃が一閃し、木漏れ日の長い光線をかき散らした。一方の胸に匕首が深々と突き刺さり、地上に転げ落ちた。

 生き残った三人の漢の賊はその場から逐電した。

 格闘中、突き刺した武器はけっして抜かない。返り血を恐れることもあったが、抜く一瞬、防御の態勢に隙が生じる。敵が複数のばあい、隙は敵の逆襲の好餌となる。

「いずれの手のものか」

 たおれた賊の衣服をあらため身元を確認していた配下に、密偵狩りかしらの羅伯がたずねた。

「はっ、おそらくは漢帝の御許おんもとからと」

 微かな芳香は、高貴な殿上人のお側近くに侍るもののみが身につける秘香にちがいなかった。

「長沙ではないな」

しかとさように」

 隣国の長沙の賊ならば、ひとり残らず殺すのが掟である。初代長沙王の呉芮ごぜい以来、北に国境を接する長沙は南越のいわば天敵で、異姓王の呉氏から漢帝劉氏の一族にかわっても、なお敵対関係は継続した。五嶺は越えない、越えさせない。隠密裏に国境を侵犯したばあいの罪は死をもって贖うのが、両国 探子しのび同士の暗黙の協定であった。

 しかし漢朝側の密偵なら、はなしはべつである。

 かれらの不法侵入が、わが方の弱みにつけこまれるものでなければ、闇に葬るよりむしろ表沙汰にする。政治問題化し、外交の手段に利用するのである。あえて逃亡を許したのは、生き延びた密偵の口から南越側の決意を暗黙裡に代弁させるためであった。

 発覚した密偵は、殺されても文句はいえない。恐れるのは、情報を吐かされたり、生かされて反間はんかんに使われたりすることである。反間とは、孫子の兵法にいう逆スパイにほかならない。

 いまは南越国の決然たる覚悟を、漢帝にみせつければたりる。ひとり殺せば十分であると、羅伯は判断した。

 ものいわぬむくろとなった無名の探子は、間髪をおかず、あくたのように取り片付けられた。野犬のかぎつけるも惜しむ迅速さである。

 他の三門から城外へ出た別の三台の柩車においても、やはり同様な措置がとられていた。

 小北門をぬけた柩車の列を追尾した長沙国の密偵三名は、全員刺殺した。

 西門を出た柩車の隊列を追尾した密偵二名は生け捕ったが、ふたりとも自害した。いずれのものとも知れなかった。

 大東門を通過した柩車の一隊を追尾した密偵は、二組あった。一組の密偵三名は斬り死にした。もう一組の三、四名は遁走した。やはり漢朝が差し向けた密偵と判断し、追及を打ち切った。

 伝書鳩が数羽、北に向かって飛翔するのが認められた。漢の密偵が長安に消息を送ったものであろう。二日もあれば届く。鳩は鴿こうとも記すが、「飛奴フェイヌゥ」と呼ばれる高速通信手段で、この時代すでに実用化されていた。阻止する必要があれば、鷹を放てばよい。

「われらが決意を、都に伝えてもらおう。すておくがよい」

 羅伯もまた趙佗亡きあとの南越国を支えるべき影の重鎮のひとりである。丞相呂嘉の意に沿って、二代目に継承される南越国を守りぬかねばならない。


 国王の逝去にともなう政権の交代が、混乱もなく迅速にとりおこなわれ、一方、葬儀の隊列が厳戒警備で守護されている状況が、武帝劉徹のもとに復命された。

「こたびは叶いませんでしたが、秘かに放った密偵は、殺されたもの以外すべて地にもぐり、草となってなお陵墓のゆくえを探索しつづけております」

「地にもぐり、草となるとは――」

「はっ、かの地の陋巷ろうこうに身を隠し、父子相伝、孫子まごこの代にわたっても、なお使命をはたす残置諜者にございます」

 忍びのもの、草のものである。百越人から見れば、ひと目で漢人と知れるが、住民の過半は漢人である。代を重ねるごとに融合を深め、地元に根付き、さらに根を張る。

 副葬品を埋蔵した趙佗の陵墓は、所在地不明のまま青年武帝の胸裏にしまいこまれた。

 記憶が甦るのは二十六年後である。


「劉徹ごときに、この南越の財宝を奪われてたまるか」

 呂嘉は、趙佗ですら二度にとどまった「反漢」の意志を、みたび決意した。

 最初は、劉邦に対抗し独立割拠した建国時。二度目は、「別異蛮夷、隔絶器物」(南越を差別し、鉄器の貿易を禁止する)という敵対政策で経済封鎖に出た呂后に、こうぜんと反旗を翻したときである。

 ――老骨にかけても、己がこの手で南越を守ってくれる。

 葬送の日、自身にも近寄る老いを奮い起こし、呂嘉はあらためて亡き趙佗に誓った。 後継者が一人前に育つまでは、けっして弱音を吐いてはならなかった。そして南越国の遺宝は、ぜったいに漢に渡してはならなかった。


 趙佗の薨去二十六年後、漢の武帝は南越国を攻略した。趙佗陵のありかを秘したまま、呂嘉は朽ち果てた。武帝のしつような責めにもかかわらず、頑として口を割ろうとしなかったのである。

 趙佗の陵墓は、数十ヶ所の疑塚伝説のなかに埋もれてしまった。


 趙佗没して三百余年後の三国時代、広州は呉の孫権に占領された。孫権もまた南越王陵墓に埋葬された宝物に、すくなからぬ関心をいだき、将軍呂瑜を派遣し、徹底探査にあたらせた。呂瑜は帯同した数千人の兵に命じ、古老の伝聞をたよりに、広州近郊の要所をくまなく掘りかえした。恥も外聞もあったものではない。こうぜんたる盗掘であった。

 結果、三代目 趙嬰斎ちょうえいさいのものと思しき王墓だけはかろうじて掘りあて、玉璧・金印・銅剣を得た。しかし、初代・二代目の王墓はついに探しあてることができず、中途で作業を断念した。膨大な経費負担にたえられない、わりにあわない盗掘だったのである。

 巧妙に秘匿した呂嘉の執念がまさっていた、といっていい。








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