一、趙佗の死
南越国建国の王
衰弱が顕著で容態が急変したため、親族や重臣が枕頭にかけつけ、見舞ってまもなくのことである。
いちど目覚めたとき、意識ははっきりしており、ひとりひとりに声をかけ、ねぎらう余裕をみせていた。そして人びとが見守るなか、ゆっくりと目を閉じ、常とかわらぬ寝息をたてはじめた。やがて周囲がそれと気づかぬうちに、みずから呼吸を止めていた。
享年百三歳、堂々の大往生といえる。国王在位は、六十七年の長きにわたった。
かたわらで微動だにせず凝視していた老臣
「
眠りを覚まそうとでもするかのように、いくども耳もとで叫んだ。
呂嘉は医師を見やった。医師は首を横に振った。それが引き金となり、悲鳴に近い号哭が宮廷から城下に響きわたり、たちまち全国土に広がった。
国人は国都に向かってひれ伏し、偉大な国王の死を悼んだ。
南越国は五嶺山脈の南、
いまの
中原統一後、秦の始皇帝は五十万の大軍を動員し、嶺南を征略、南海・桂林・
漢の劉邦が項羽を破り天下を制覇するのは、この二年後である。
国都は
もともと嶺南には南越族・
嶺南の大地は多くの河川が縦横に入り組み、内陸交通の枢軸となっていた。一部の部族はかなり古い時代から自然発生的に船を操る方法を覚え、代を重ねるごとに伝統技術として継承していった。ときに河口を越え、遠く沖合いに流され、あるいはみずから漕ぎ出すにおよび、南海諸島や東南アジア各地まで行き来し、交易する知恵を身につけた。丸木舟や筏からスタートした舟船も、航路に見合った工夫をくわえ、構造船へと発達させていったのである。やがてかれらは嶺南の
始皇帝の嶺南攻略の裏には、これら財宝の強奪、さらには数多の財宝を生み出す航海ルートの略取が、意図されていたともいう。
侵略されるまえ、百越の人口は七、八十万人あったとみられる。そこへ中原から
秦の占領下、
ついでながら、ここでいう華厦人あるいは華厦族とは、漢代以前の中国人の総称である。伝説の古代国家
時代がくだるにつれ領土は肥大化し、中国と呼ばれる領域は何倍にも膨れあがった。秦代に二千万人しかなかった人口は激増し、こんにちでは十三億人を越えている。
敬愛する国王を失った南越の民は、朝野上下の別なく、漢越民族の差なく、だれもがみな嘆き悲しんだ。とりわけ国王とゆかりの深い人びとは、全身を震わせ、競って哭泣した。
ほどなく盛大な国葬がとりおこなわれた。全土から王侯・官吏・将士・黎民ら大勢の人びとが、国都番禺に押し寄せた。小さな都城は弔問の人びとで溢れかえった。
かれらは手に手に
のち唐の時代、玄宗皇帝が寵妃楊貴妃のために早馬をしたて、八日八晩駆けとおし、旬の荔枝を長安にもたらしたことでも知られる。楊貴妃、原名
南国は初夏から盛夏へと移ろい、暑さがいや増した。灼熱の太陽が大地を焦がす。空気が急速に熱せられ、前方の光景が揺らいで見える。そんな激しい照り返しのなか、街路樹の木陰に炎天を避け、人びとは群れをなして国王との別れに臨んだ。人いきれがくわわり、熱気はさらに高まった。
葬送の日、柩車は四台つらなって
おりから、漢朝の密偵の潜入が噂されていた。漢の武帝が放った
海のシルクロード、別名「絹海道」といわれる海路を通じて、はるか南方や西方からもたらされた珍しい貴重な財宝は、宮廷の御宝蔵に山と積まれている。南越国の繁栄の象徴といっていい。
この時代、番禺はすでに南越国最大の交易中心地で、
「手ぬかりはなかろうな」
宮門で柩車の列を見送った丞相呂嘉は、かたわらにひかえた将軍
「はっ、万遺漏なきようつとめておりますれば、ご懸念は無用かと」
「こたびの葬礼については、
「国軍を総動員し、国境の関や間道のすべてを固め、外敵の潜入にそなえております。また忍び頭の
ここまで答えた将軍は、兄弟の顔にかえって兄の丞相を気遣った。
「したが兄者、お疲れであろう。あとはわれわれにまかせ、早々にお休みくだされ」
「うむ」
無言で呂嘉は、北の方角に目を転じた。眼前に越秀山が横たわり、その先を白雲山が覆っている。しかし呂嘉が脳裏に見遣ったものは、亡王の生地河北の石家荘であり、漢の都長安であった。
四年前に即位した漢の武帝
即位後まもなく
ただし、初期の目的は達成できなかったものの、それまで遥かかなたの遠い存在にすぎなかった西域諸国の事情と出入境ルートが漢朝につたえられ、西域―中央アジアへの道がひらかれる端緒となる。
西域はパミール高原によって東西に分けられる。いまの新疆ウイグルまでが東である。月氏ももとは東側、いまの甘粛方面に居住していたが、匈奴に追われて西へ移ったという経緯がある。いまのアフガニスタンの北部にあった
「それがしが大夏におりましたとき、たまたま市場をのぞくと、
卭はいまの四川南方の西昌である。東西を雲南に挟まれている。蜀はその卭よりさらに北方にあたる成都が中心である。雲南伝いにビルマ、いまのミャンマーを越えれば身毒に出る。大夏はすなわち身毒の西北にある。
「匈奴の地を通らずとも、大夏にゆけるのではないか」
この大胆な発想は、匈奴に抑留された苦い経験に基づいている。しかしたとえ苦かろうと、パミールの踏破経験が、やがてシルクロードの開拓へと発展する契機となることは、いうまでもない。漢の武帝は、張騫の経験と知識に力を得て、のちに
当時、漢朝の国家財政は、「金蔵には銭がうなり、穀倉には米穀が腐るほどに積まれた」と豪語するほど富裕をほこったものだが、いずれ拡大政策は蓄積を食いつぶす。近い将来必要となる軍資金の調達先として、知恵をつける側近がいて不思議はない。南越王の陵墓が、軍資金調達の宝の山として、目をつけられたゆえんである。
始皇帝陵にみられるように、王の陵墓は生前から造営しておくのがふつうである。
「
生前、趙佗は厚葬をいましめ、薄葬を主張していた。始皇帝に随身し、青年時代の六年間をお側近くで接した経験のある趙佗は、贅を凝らした
ところで「
「寡人は人知れず、安らぎのなかで、心置きなくゆるりと暮らしてみたい。死後もなお暴かれ曝されるなど、思うてもみたくない。人の欲をかきたてるような財物は随葬するにおよばぬ」
「心得てござる」
趙佗にしたがい、長い歳月、苦楽をともにしてきた呂嘉には、趙佗の気持ちは痛いほどよくわかる。権謀と術策、怒号と叫喚の渦中にあって、みずからの手で戦国の世を締めくくった英傑にこそ、温もりのある永遠の安らぎの寝所が必要だ。それにふさわしい墓所の構築ができるのは、じぶんを措いてほかにいない。烈々たる自負心をもって、ぜったいに盗掘されない神聖不可侵の陵墓造営に呂嘉は知恵をしぼり、精魂をかたむけたのである。
この時代、喪葬の習俗は「入土為安」(土に入りて安んず)、土葬が基本である。
塚に擬した地が数十ヶ所開削され、それぞれが真の
いずれの陵墓も表面は自然の景観をそのまま利用し、はたからは容易に悟られぬ結構となっている。入口に工夫が凝らされていた。坑道が地表から数十メートル掘り下げられ、工事の重点は地下に置かれた。呂嘉は盗掘に対抗し、地表には陵墓の痕跡をいっさい残さなかった。入口は最後に岩石と土砂で厚く封鎖し、草木を植える。入口と坑道が見つからないかぎり、陵墓の存在は知られない。しかも真の陵墓は、生前にはこの四ヶ所もふくめていずことも特定しなかったし、疑塚の造営作業に携わるものもそこが陵墓だと信じ込まされていたから、盗掘者にとってはいわば疑塚数十ヶ所がすべて探索の対象となる。
真の趙佗陵を知るのは埋葬当日、ごく数名の腹心にかぎられていた。
趙佗は戦国の七雄趙国の出自である。祖国は、秦の天下統一で滅亡した。
出生地真定は、いまの河北省石家荘北方の正定県にあたる。戦国と漢の両代に時代を分けて、中山という同名の国があった。趙佗の生地は、戦国中期まではこの国に属し、漢代には隣接した。
戦国の中山国は北狄の一部族、
のちに趙佗は、武霊王の北方経略をつねに念頭におき、南越国の経営に取りくんだ。
一方、漢の中山国は
かねて趙佗は秦の始皇帝に随身し、生涯その教えを尊んだ。航海術や造船法も、始皇帝の命により近侍のかたわら身につけたものである。第二次嶺南攻略では指揮官
のちに冊封を受け臣属した漢朝にたいしては、表向き臣下の礼を欠かさなかったが、一方では、「武帝」と名乗り、帝号を僭称していたのである。もっとも臣属は臣属でも、「外臣」というゆるやかな立場だったから、朝鮮や日本のように中原周辺の少数民族国家として、独立した政権を認められていた。ときに応じて朝貢、参覲し、
秦帝国はわずか十五年の短命で終わったが、その前身の時代をふくめると、秦の歴史はゆうに五百年を超える。東方世界の中原の西端にかろうじてぶら下がっていた秦の名はむしろ西側に浸透し、はるかローマ・ペルシャ・アラビアなど西方世界にまで伝わっていた。
よく知られた話だが、チャイナの語源は秦(QIN)である。チン、チーナ、シナ、読みはかわっても、英語のスペルはCHINAで定着している。
秦の名は、はじめて寄港する異邦の地でも、よほど通りがよかったと思われる。
「いずこのものか」
初対面の印象は重要である。ばあいによっては追い返されることがあるし、その場で捕らえられ、拘留されることも珍しくない。
「秦からきた。秦の
と答えれば、多くの説明を要しない。
「おお、かの秦か。遠いところからようまいられた」
緊張が解け、旧知に再会する親しみで迎えられたにちがいない。
はなしが脇にそれたが、趙佗の殮服についてである。
呂嘉は趙佗から、くどいほど始皇帝のはなしを聞かされている。趙佗の始皇帝にたいする尊崇の念は、ほとんど神にたいするごときであった。陵墓にしても埋葬においても、始皇帝の分を超えることは、ぜったいにありえないのである。
殮服の種類は、生前の格式に準拠する。最高位が金縷玉衣なら、趙佗が着用することはまずない。次位の銀縷玉衣も、三位の銅縷玉衣も、趙佗には似つかわしくない。
趙胡の
一方、陵墓については、どうだろうか。
呂嘉は越人である。越人はもともと喪葬を重視する。「事死如事生」(死に
もっとも造営工事に三十七年という長い歳月をかけ、最盛時には徒刑囚七十二万人を動員したといわれる巨大な始皇帝陵は別格である。比較の対象とするのもはばかられるが、これに比べれば、じつにささやかな規模でしかない。それでも趙佗の遺志に反し、厚葬といわざるを得ないのは、副葬品の質において、始皇帝陵であろうが、けっして引けをとるものではなかったからである。
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