一、趙佗の死

    

 南越国建国の王 趙佗ちょうたは、静かに息をひきとった。

 衰弱が顕著で容態が急変したため、親族や重臣が枕頭にかけつけ、見舞ってまもなくのことである。

 いちど目覚めたとき、意識ははっきりしており、ひとりひとりに声をかけ、ねぎらう余裕をみせていた。そして人びとが見守るなか、ゆっくりと目を閉じ、常とかわらぬ寝息をたてはじめた。やがて周囲がそれと気づかぬうちに、みずから呼吸を止めていた。

 享年百三歳、堂々の大往生といえる。国王在位は、六十七年の長きにわたった。

 かたわらで微動だにせず凝視していた老臣 呂嘉りょかが、声を忍ばせて嗚咽しはじめた。にわかに察知した孫の趙胡ちょうこがにじりより、趙佗の手をとって、

王爺ワンイエ老爺爺ラオイエイエ」(王よ、おじいさまよ)

 眠りを覚まそうとでもするかのように、いくども耳もとで叫んだ。

 呂嘉は医師を見やった。医師は首を横に振った。それが引き金となり、悲鳴に近い号哭が宮廷から城下に響きわたり、たちまち全国土に広がった。

 国人は国都に向かってひれ伏し、偉大な国王の死を悼んだ。


 南越国は五嶺山脈の南、嶺南れいなんに位置する。

 いまの広東カントン広西カンシー海南ハイナンに香港・マカオ、さらにベトナム北部を包括する広大な地域を領有していたのである。

 中原統一後、秦の始皇帝は五十万の大軍を動員し、嶺南を征略、南海・桂林・しょうの三郡をおいて統治した。秦の滅亡にともない、現地最高司令官ともいうべき南海 郡尉ぐんい趙佗が独立割拠、南越武王と称し、前二〇四年に南越国を建てた。

 漢の劉邦が項羽を破り天下を制覇するのは、この二年後である。


 国都は番禺ばんぐうにおいた。いまの広州である。

 もともと嶺南には南越族・西甌せいおう族・駱越らくえつ族などさまざまな越族が住み、百越ひゃくえつと呼ばれていた。かれら百越の民は広い範囲にわたり、部族単位で集落を形成し、水稲栽培を主とする農耕中心に、牧畜・漁労を営んでいた。

 嶺南の大地は多くの河川が縦横に入り組み、内陸交通の枢軸となっていた。一部の部族はかなり古い時代から自然発生的に船を操る方法を覚え、代を重ねるごとに伝統技術として継承していった。ときに河口を越え、遠く沖合いに流され、あるいはみずから漕ぎ出すにおよび、南海諸島や東南アジア各地まで行き来し、交易する知恵を身につけた。丸木舟や筏からスタートした舟船も、航路に見合った工夫をくわえ、構造船へと発達させていったのである。やがてかれらは嶺南の海人かいじんの祖として、航海と造船に特異な能力を発揮した。結果、嶺南諸部族の族長の土蔵には、舶来とおぼしい象牙や珠玉などの宝物が山積みされることになる。

 始皇帝の嶺南攻略の裏には、これら財宝の強奪、さらには数多の財宝を生み出す航海ルートの略取が、意図されていたともいう。

 侵略されるまえ、百越の人口は七、八十万人あったとみられる。そこへ中原から華厦かか人が大挙、南遷移民してきた。嶺南征略後、居座った秦の駐留軍五十万をくわえると、ほぼ同数の七、八十万人とみていい。かれらは雑居し、百越とのあいだで短期間に民族の大融合がおこなわれた。当時の民族政策で「和輯百越わしゅうひゃくえつ」という。

 秦の占領下、いやも応もなく百越妻の中国化、あるいは華厦人の現地化が急速に進展した。駐留軍兵士のうち四十万人が、現地の女子を娶ったといわれる。雑居した初期には、まだ母系制の社会形態であったから、ひとりの女性に複数の通いづまがいたとみれば、人口構成に矛盾はない。いずれにせよ総人口約百五十万人、これが建国時の母体となった。

 ついでながら、ここでいう華厦人あるいは華厦族とは、漢代以前の中国人の総称である。伝説の古代国家 王朝にちなんでいる。当時、中国あるいは中国人という呼称も存在した。世界の中央にある国と人の意で、中原といわれる黄河中、下流域とそこに住む人びとをさした。漢代以降は、漢人あるいは漢族と総称することになる。また、中原の外は東夷・西戎せいじゅう・南蛮・北狄ほくてきで、いわゆる化外の地、文化のおよばぬ未開の地と見下された。

 時代がくだるにつれ領土は肥大化し、中国と呼ばれる領域は何倍にも膨れあがった。秦代に二千万人しかなかった人口は激増し、こんにちでは十三億人を越えている。


 敬愛する国王を失った南越の民は、朝野上下の別なく、漢越民族の差なく、だれもがみな嘆き悲しんだ。とりわけ国王とゆかりの深い人びとは、全身を震わせ、競って哭泣した。

 ほどなく盛大な国葬がとりおこなわれた。全土から王侯・官吏・将士・黎民ら大勢の人びとが、国都番禺に押し寄せた。小さな都城は弔問の人びとで溢れかえった。

 かれらは手に手に荔枝ライチの小枝を捧げ、宮廷の門前に供えた。荔枝は生前、趙佗がことに好んだ水果くだものである。皮は硬く凹凸があり、黒っぽい赤みを帯びている。ところがひと皮剥くと、華麗に変身する。果肉は白色半透明で、つゆが光を浴びると、あたかも真珠のような光沢をかもしだす。多汁で甘酸っぱい。初夏、嶺南の特産物である。

 のち唐の時代、玄宗皇帝が寵妃楊貴妃のために早馬をしたて、八日八晩駆けとおし、旬の荔枝を長安にもたらしたことでも知られる。楊貴妃、原名 楊玉環ようぎょくかんの出自は、現広西 チワン族自治区玉林市容県十里郷楊外村である。生家の周りはいまも翠緑みどりに彩られ、荔枝林が繁茂している。ついでながら広州―長安(西安)間、いまの鉄道路線で二千百余キロ。安易な比較だが、東京経由青森―鹿児島間に匹敵しよう。


 南国は初夏から盛夏へと移ろい、暑さがいや増した。灼熱の太陽が大地を焦がす。空気が急速に熱せられ、前方の光景が揺らいで見える。そんな激しい照り返しのなか、街路樹の木陰に炎天を避け、人びとは群れをなして国王との別れに臨んだ。人いきれがくわわり、熱気はさらに高まった。

 葬送の日、柩車は四台つらなってかりもがりの宮を出発した。殉葬者や副葬品の車列が整然とあとにつづいた。途中、四台の柩車は、城内の一角で四方向に分散した。大北門・小北門・西門・大東門の四つの門から、別々に城外に出たのである。柩車のうち三台はおとりの偽装車である。それぞれが後続の車を等しくしたがえていたので、外から真偽の見分けはつかなかった。

 おりから、漢朝の密偵の潜入が噂されていた。漢の武帝が放った探子たんし(忍び)である。狙いは、宝物が副葬される陵墓のありかにちがいない。目もくらむような宝物が大量に埋葬されるであろうことは、だれもが予想できた。

 海のシルクロード、別名「絹海道」といわれる海路を通じて、はるか南方や西方からもたらされた珍しい貴重な財宝は、宮廷の御宝蔵に山と積まれている。南越国の繁栄の象徴といっていい。関市せきいちがひらかれるつど、漢の商人に売り渡され、莫大な利益を得ていた。

 この時代、番禺はすでに南越国最大の交易中心地で、さい・象・玳瑁たいまい(ウミガメの鼈甲べっこう)・珠玉・銀・銅・果実・葛布くずふの集散地として名を馳せていた。中原の都市に伍し、全国十九大都市のひとつに挙げられているほどに殷賑をきわめていたのである。


「手ぬかりはなかろうな」

 宮門で柩車の列を見送った丞相呂嘉は、かたわらにひかえた将軍 呂祐りょゆうを見すえ、みずから反芻するかのように静かに質した。南越国軍を統べる将軍呂祐は、呂嘉の実弟である。

「はっ、万遺漏なきようつとめておりますれば、ご懸念は無用かと」

「こたびの葬礼については、漢帝みかどがことのほかご執心と漏れ聞いておる。万にひとつの手落ちも許されまいぞ」

「国軍を総動員し、国境の関や間道のすべてを固め、外敵の潜入にそなえております。また忍び頭の羅伯らはくに命じ、漢の朝廷はおろか長沙の探子にも目を配っております。怪しき動きがあれば、ただちに発動いたします」

 ここまで答えた将軍は、兄弟の顔にかえって兄の丞相を気遣った。

「したが兄者、お疲れであろう。あとはわれわれにまかせ、早々にお休みくだされ」

「うむ」

 無言で呂嘉は、北の方角に目を転じた。眼前に越秀山が横たわり、その先を白雲山が覆っている。しかし呂嘉が脳裏に見遣ったものは、亡王の生地河北の石家荘であり、漢の都長安であった。


 四年前に即位した漢の武帝 劉徹りゅうてつはこの時期まだ二十歳、怖いもの知らずの青年帝王である。漢帝国の隆盛を背景に、積極外交にうってでる構えをみせていた。

 即位後まもなく張騫ちょうけんを西域に派遣、大月氏だいげっしと同盟して匈奴を挟撃する作戦を立てたが、あいにく張騫は匈奴に捕らえられ抑留すること十年余におよぶ。のちのはなしだが、ようやく脱出し、西域諸国を説いてまわったものの、歳月の流れとともに状況は一変していた。同盟に応じる国は得られず、むなしく帰朝する。出発から十三年たっていたというから、この時期の十一年後のことである。

 ただし、初期の目的は達成できなかったものの、それまで遥かかなたの遠い存在にすぎなかった西域諸国の事情と出入境ルートが漢朝につたえられ、西域―中央アジアへの道がひらかれる端緒となる。

 西域はパミール高原によって東西に分けられる。いまの新疆ウイグルまでが東である。月氏ももとは東側、いまの甘粛方面に居住していたが、匈奴に追われて西へ移ったという経緯がある。いまのアフガニスタンの北部にあった大夏だいか(トハラ)は、アレキサンダー大王の東方遠征後、紀元前三世紀にギリシャ人によって建てられたバクトリア王国の後身である。大月氏はこの大夏の北方を占領し、本拠地としていた。張騫はパミールを越え、その西、大宛(フェルガーナ)・康居(カザフ)を経て大月氏にいたったのである。張騫は大月氏に到着後、大夏の南方にも足を踏み入れている。

「それがしが大夏におりましたとき、たまたま市場をのぞくと、きょうの竹杖と蜀の布が目に入りました。入手経路を訊ねたところ、身毒しんどく(インド)から求めたものだと申します」

 

 卭はいまの四川南方の西昌である。東西を雲南に挟まれている。蜀はその卭よりさらに北方にあたる成都が中心である。雲南伝いにビルマ、いまのミャンマーを越えれば身毒に出る。大夏はすなわち身毒の西北にある。

「匈奴の地を通らずとも、大夏にゆけるのではないか」

 この大胆な発想は、匈奴に抑留された苦い経験に基づいている。しかしたとえ苦かろうと、パミールの踏破経験が、やがてシルクロードの開拓へと発展する契機となることは、いうまでもない。漢の武帝は、張騫の経験と知識に力を得て、のちに衛青えいせい霍去病かくきょへいを得るや、連年にわたる匈奴征伐を展開することになる。

 当時、漢朝の国家財政は、「金蔵には銭がうなり、穀倉には米穀が腐るほどに積まれた」と豪語するほど富裕をほこったものだが、いずれ拡大政策は蓄積を食いつぶす。近い将来必要となる軍資金の調達先として、知恵をつける側近がいて不思議はない。南越王の陵墓が、軍資金調達の宝の山として、目をつけられたゆえんである。


 始皇帝陵にみられるように、王の陵墓は生前から造営しておくのがふつうである。寿陵じゅりょうという。趙佗の陵墓は、南洋交易が頻繁になりだしたころから、丞相呂嘉の手によって、周到に準備されていた。

寡人わしの陵墓は綺羅を飾らずともよい。現世百年、死後も百年もてばたりる」

 生前、趙佗は厚葬をいましめ、薄葬を主張していた。始皇帝に随身し、青年時代の六年間をお側近くで接した経験のある趙佗は、贅を凝らした咸陽かんよう郊外 驪山りざんの始皇帝陵を実見している。また秦朝崩壊のおり、項羽の手で盗掘されたことも同時代人として耳にしている。

ところで「寡人クォアレン」(かじん)とは、寡徳かとくのひと、つまり徳の少ないひとの意で、古代の王や諸侯がじぶんを謙遜していうことばである。「ジェン」(ちん)と同様、帝王の自称としても用いられた。

「寡人は人知れず、安らぎのなかで、心置きなくゆるりと暮らしてみたい。死後もなお暴かれ曝されるなど、思うてもみたくない。人の欲をかきたてるような財物は随葬するにおよばぬ」

「心得てござる」

 趙佗にしたがい、長い歳月、苦楽をともにしてきた呂嘉には、趙佗の気持ちは痛いほどよくわかる。権謀と術策、怒号と叫喚の渦中にあって、みずからの手で戦国の世を締めくくった英傑にこそ、温もりのある永遠の安らぎの寝所が必要だ。それにふさわしい墓所の構築ができるのは、じぶんを措いてほかにいない。烈々たる自負心をもって、ぜったいに盗掘されない神聖不可侵の陵墓造営に呂嘉は知恵をしぼり、精魂をかたむけたのである。

 この時代、喪葬の習俗は「入土為安」(土に入りて安んず)、土葬が基本である。殮服れんぷくに身をつつみ、棺におさめて埋葬する。「仰面朝天」(おもてを仰ぎ天にむかう)、仰向けに天を見て大の字に寝せるのが、当時、南越国の墓葬様式であった。このころ中原の文化や習俗が急速に移入され混交融合していたので、葬礼にも折衷様式が流行はやりであった。漢越を問わず霊魂は不滅であり、死後にもひとの生活は継続すると信じられていたから、墓中に生活用品をそなえ、香を焚く炉まで気配りされていた。

 塚に擬した地が数十ヶ所開削され、それぞれが真の塚墓ちょうぼとしてねんごろに扱われた。準備の過程ですでに疑塚ぎちょうを予定する入念さである。さらに慎重な吟味をへて、最終的に四ヶ所の陵墓候補地を選択した。四ヶ所ともすでに造営工事のあらかたを済ませ、日常用品など簡単な副葬の品々は均等に運び入れられていた。宝物に属する副葬品は葬送の当日、本人の遺体とともに搬入される。

 いずれの陵墓も表面は自然の景観をそのまま利用し、はたからは容易に悟られぬ結構となっている。入口に工夫が凝らされていた。坑道が地表から数十メートル掘り下げられ、工事の重点は地下に置かれた。呂嘉は盗掘に対抗し、地表には陵墓の痕跡をいっさい残さなかった。入口は最後に岩石と土砂で厚く封鎖し、草木を植える。入口と坑道が見つからないかぎり、陵墓の存在は知られない。しかも真の陵墓は、生前にはこの四ヶ所もふくめていずことも特定しなかったし、疑塚の造営作業に携わるものもそこが陵墓だと信じ込まされていたから、盗掘者にとってはいわば疑塚数十ヶ所がすべて探索の対象となる。

 真の趙佗陵を知るのは埋葬当日、ごく数名の腹心にかぎられていた。


 趙佗は戦国の七雄趙国の出自である。祖国は、秦の天下統一で滅亡した。

 出生地真定は、いまの河北省石家荘北方の正定県にあたる。戦国と漢の両代に時代を分けて、中山という同名の国があった。趙佗の生地は、戦国中期まではこの国に属し、漢代には隣接した。

 戦国の中山国は北狄の一部族、白狄はくてきという遊牧民族の国であったが、趙の武霊王によって壊滅された。武霊王は趙佗が私淑した趙国の英雄で、趙佗が生まれる半世紀まえのひとである。戦国の生き残りをかけ、中華の伝統的兵制を捨て、騎馬民族の習俗である胡服騎射を採りいれたことで知られる。改革は的中し、この富国強兵策によって、趙国は戦国最強の秦国に肩をならべた。北に版図をひろげ、最盛時の領域は、「地は方二千里」といわれた。当時の一里は約四百五メートルだから、東西・南北とも約八百キロである。東西には、いまの北京から西に山西をぬけて銀川の手前、北上する黄河のあたりまで。南北には、魏との国境(邯鄲の南約三十五キロにある長城)を南端におけば、北端はいまの内蒙古の呼和浩特フホホトのさらに北方ということなる。じつに広大な領域である。

 のちに趙佗は、武霊王の北方経略をつねに念頭におき、南越国の経営に取りくんだ。

 一方、漢の中山国は金縷きんる玉衣ぎょくいの出土で、脚光を浴びることになる。満城漢墓の被葬者中山靖王劉勝は、玉片を金のいとで綴りあわせた殮服につつまれて埋葬されていたのである。劉勝は武帝劉徹の庶兄で、前一一三年に亡くなっている。南越国第二代国王趙胡逝去の十年後である。のちに詳述することになるが、趙胡がつつまれていたのは、玉片を赤い絹糸で綴られた玉衣である。前一三七年に亡くなった趙佗と劉勝は没年が二十四年の差でしかない。いずれも同時代の近似した思想・風潮を背景として埋葬されたとみてよい。

 かねて趙佗は秦の始皇帝に随身し、生涯その教えを尊んだ。航海術や造船法も、始皇帝の命により近侍のかたわら身につけたものである。第二次嶺南攻略では指揮官 任囂じんごうに次ぐ副官に抜擢され、これが南越建国の端緒となり、やがて西方航路開拓に着手することになる。そこでこれらの縁を奇瑞とし、みずから秦帝国の後継をもって任じ、国内や近隣外交あるいは海外交易において、はばからず帝王と揚言した。

 のちに冊封を受け臣属した漢朝にたいしては、表向き臣下の礼を欠かさなかったが、一方では、「武帝」と名乗り、帝号を僭称していたのである。もっとも臣属は臣属でも、「外臣」というゆるやかな立場だったから、朝鮮や日本のように中原周辺の少数民族国家として、独立した政権を認められていた。ときに応じて朝貢、参覲し、質子ちしを差し出せばそれでよく、内政や外交に干渉されることはなかった。ただ例外として、後嗣と皇后の冊立にのみ、中央政府の認可を要したのである。

 秦帝国はわずか十五年の短命で終わったが、その前身の時代をふくめると、秦の歴史はゆうに五百年を超える。東方世界の中原の西端にかろうじてぶら下がっていた秦の名はむしろ西側に浸透し、はるかローマ・ペルシャ・アラビアなど西方世界にまで伝わっていた。

 よく知られた話だが、チャイナの語源は秦(QIN)である。チン、チーナ、シナ、読みはかわっても、英語のスペルはCHINAで定着している。

 秦の名は、はじめて寄港する異邦の地でも、よほど通りがよかったと思われる。

「いずこのものか」

 初対面の印象は重要である。ばあいによっては追い返されることがあるし、その場で捕らえられ、拘留されることも珍しくない。

「秦からきた。秦のえにしにつらなるものだ」

 と答えれば、多くの説明を要しない。

「おお、かの秦か。遠いところからようまいられた」

 緊張が解け、旧知に再会する親しみで迎えられたにちがいない。


 はなしが脇にそれたが、趙佗の殮服についてである。

 呂嘉は趙佗から、くどいほど始皇帝のはなしを聞かされている。趙佗の始皇帝にたいする尊崇の念は、ほとんど神にたいするごときであった。陵墓にしても埋葬においても、始皇帝の分を超えることは、ぜったいにありえないのである。

 殮服の種類は、生前の格式に準拠する。最高位が金縷玉衣なら、趙佗が着用することはまずない。次位の銀縷玉衣も、三位の銅縷玉衣も、趙佗には似つかわしくない。

 趙胡の絲縷しる玉衣の絹糸は赤い色に染められていた。ならば趙佗の玉衣は、黒く染められた絹の糸で綴られていたのではないか。いうまでもなく黒は秦を象徴する色である。秦の衣服・旗旄きぼう(旗とその上の飾毛)などすべてが黒で統一されていたのである。黒の絲縷玉衣につつまれた趙佗を想像しても、不見識とはそしられまい。

 一方、陵墓については、どうだろうか。

 呂嘉は越人である。越人はもともと喪葬を重視する。「事死如事生」(死につかえるは生に事えるがごとし)、いきおい生前の格式にこだわらざるを得ず、厚葬を免れない。趙佗には趙佗としての、初代南越王の格式にふさわしい陵墓ということを考慮しなければならない。   

 現世げんせ後世ごせ、いずれにあっても、けっして人に侮られてはならないのである。

 もっとも造営工事に三十七年という長い歳月をかけ、最盛時には徒刑囚七十二万人を動員したといわれる巨大な始皇帝陵は別格である。比較の対象とするのもはばかられるが、これに比べれば、じつにささやかな規模でしかない。それでも趙佗の遺志に反し、厚葬といわざるを得ないのは、副葬品の質において、始皇帝陵であろうが、けっして引けをとるものではなかったからである。



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