さくら

夏空蝉丸

第1話

 僕は病院に行くのが好きだった。と言ってもあの壁や看護師や医師から構成された白い世界が好きだったというわけではない。ましてや、健康そうな老人が他人の迷惑を考えずに話しかけてくるのも、アルコールだかなんだかの鼻にツンとくる消毒の臭いなんかには嫌悪感があった。それなのに時折仮病でもして病院に行きたくなるのは、ただ単純に彼女に会えるとかもしれない。と心の奥底で考えているからだった。

 僕は小さい頃から病気がちで季節の変わり目には必ずと言っていいほど熱を出していた。小学校低学年までは付き添いをしてくれていた母親だったが、高学年になるとパートを理由にして一人で通院させられることが多かったと覚えている。

 あれは間違いなく五年生のときのことだった。ゴールデンウィーク前に熱を出した僕は、歩いて五分の総合病院まで来ていた。近いとは言え、体温計のデジタル表示は三十八度を超えていただろう。小学生の身には辛かったはず。事実、内科診察受付までの記憶がない。忘れたわけではないと思う。何故なら、その時のことを鮮明に思い出すことが出来るから。

 わざと保険証を落としたわけではない。受付の医療事務による問診表の説明が、病人にとっては長かったのだ。だから、ポケットから出すときに握力を失った。すぐ拾おうと思ったが、自分の体が水中にいるときのように重たくて動けない。そんな状態なのにピンボケて網膜に映る医療事務の苛立ちだけは痛いほど感じられる。

 一度しゃがんだら立ち上がれない。僕は、そんな予感を心の片隅に浮かべつつ冷たそうな床に近づこうとした。

「大丈夫?」

 何処からか突然現れた彼女は、微笑んでから拾った保険証を受付に渡す。医療事務のおばさんは、無表情で受け取ると、椅子に座れと命令する代わりに背を向けて他の仕事を始めた。それを合図に待合場所の長椅子に僕たちは並んで腰掛ける。

「私のこと知っている?」

 振り向こうとした。でも、体が拒否する。仕方がないので視線だけ送る。

 彼女は元気そうだった。頬は白いが赤みがあり生命観は失われていない。肩まである髪はさらさらしていて息を吹きかけたら大騒ぎしそう。風邪で嗅覚がやられていなければ、きっといい匂いがするだろうと漠然と考える。白いパーカーに細い紺色をしたデニムのパンツ。テーマパークに遊びに行くような爽やかな雰囲気。

「私は知っているよ」

 その言葉に僕は記憶の糸を辿り始める。そう言われてみると学校で会ったことがあるような気がしてくる。ただ、自信も無いし、夢を見ているかのように考えが纏まってこない。それでも意識を集中しようとして椅子に力なくもたれた。

「話しかけちゃってごめんね。私も熱あるときはそんな感じなのに、ちょっとでも良くなると忘れちゃうんだよね」

 そう言って彼女はうつむいた。僕は何か話しかけなきゃと思いつつも思うだけ。体がだるいことを免罪符にそのまま沈黙を続けていた。

 僕の名前はすぐに呼ばれた。看護師の声に反応する。壊れかけのロボットのように立ち上がり、歩き出す。

「頑張って」

 単なる病人に頑張るようなことなど何もない。勿論、そんなことを言うつもりも気力もない。

 元気な状態ならば数秒で到着する診察室まで。僕は彼女が送ってくれていることに気づかない。ドアを開けて入る瞬間に右手を軽く振っている彼女が見える。嬉しかった。医師におきまりの診察を受けている間も看護師に注射をされている間もその気持ちを伝える言葉を考えていた。でもいい台詞は浮かんでこない。

 診察室をでると真っ先に彼女を探した。だが、見当たらない。当然のことだと分かっていても寂しかった。心の片隅で期待していた。彼女が待っていてくれることを。

 僕はさっきと同じ長椅子に座る。ぬくもりが失われて冷たくなった場所は、熱がある体には少しだけやさしく感じられた。


 中学生になってクラスは一緒にならなかったものの、美術部で再会した。病院では会うたびに話をしていたから、再会というほど大げさなものではない。

「やあ」

 彼女は微妙な挨拶をしてきた。心臓の鼓動は何故か速くなる。でも平静さを装う。

「ここに決めたの?」

 僕の小声の質問に黙って頷く。それを見たときに僕の中では他の部活動の候補は消滅していた。

 二人は性格というよりもっと根源的な部分で似通っている。僕はそう感じていた。クラスの女子たちは勿論のこと、男子の友人たちより気持ちが分かるよう。近くにいることでストレスが溜まることもない。むしろ、お互いの存在を感じるだけで癒されるようだった。

 彼女がいない日のデッサンはちっとも進まない。下校を促す曲が流れるまで無意味に校庭を眺めているだけ。出席日数が心配になるくらい彼女は休んでいたから、僕の描く絵は遅々として仕上がるまで時間がかかる。それでも、三年生になるまでにはそれなりにデッサンやらポスターやらを完成させていた。


 それは僕が三年生になった始業式から丁度一週間後の昼休みだった。

「ねえ、引越しするって聞いた?」

 同じクラスになった美術部の女生徒が話しかけてきた。僕は、何のこと? と答える。すると女生徒は芝居がかった表情で説明を始める。聞き進めるほどに自分の顔が青ざめていくのが分かる。女生徒は僕のことを気にもせずに話を進めていたが、段々と横道に逸れていく。聞いていたら嫌気が差してきたので口を出す。

「何で知っているの?」

「本人が教えてくれたから。聞いていないの?」

 女生徒はしばらく一人で話し続けていたが、記憶にない。当然のこと午後の授業も上の空だった。

 僕はたゆたう気持ちを隠しながら部室にいた。堂々巡りになりそうな思考を排除するためにクロッキーを行う。絵を描いている間は余計なことを考えない。速写ならなおさらのこと。僕は校庭にいた野球部員をモデルにして没頭する。

「上手だね」

 鉛筆を置き大きく息を吸ったところで、彼女が声をかけてくる。振り返ると幽霊のように現れた彼女が立っていた。僕は彼女に向かって口を開きかけたところで、重苦しい緊張感を感じる。クラスメイトの女生徒だけではない。後輩たちも聞き耳を立てている。いくらデッサンに夢中になっている振りをしても、手が止まっていれば一目瞭然。

 僕は立ち上がり彼女の手を取る。軟らかく、少しだけ冷たい。

「ちょ、ちょっと。何処に行くの?」

 僕は黙ったまま彼女を引っ張る。目的の場所があったわけではない。人目につかない場所を探していただけだった。校舎を繋ぐ渡り通路に来たところで、彼女は突然手を引く。

「待って」

 か弱い声とともに彼女は丸くなって咳き込む。僕は慌てて立ち止まり、彼女の背中をさする。すると一分も経たないうちに発作はおさまり、呼吸が落ちついてくる。

「もう平気。心の準備ができていなかったから、体がびっくりしちゃった」

 彼女は無理やり微笑する。

「何でこんな時期に?」

「卒業するまで。って言ったのだけど……」

「でも」

 僕は誰もいない中庭に視線を移す。視界の片隅で彼女が顔を上げる。その動きに反応して向き直った僕のことを真摯に見つめている。

「引っ越すだけだから。いなくなるわけじゃないから」

 冷気を含んだ春風が僕たちに襲い掛かると、彼女は驚いたように髪を押さえる。いくつかの花びらが降ってきてセーラー服の模様になる。水玉みたい。そう思いながら吸い込んだ空気に春と彼女の匂いがして、僕の苛立ちを溶かしていく。


 幾年を経た今も春になると思い出す。特に花びらの雪が降る日には。唐棣色の世界の中で、微笑んだ彼女が存在している。間違いなく実在している彼女が伸ばしてきた手を、微熱の中で掴み損ねる。握り締めた僕の手には一片の淡い色が残っていて、ほのかに甘い匂いがしていた。

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さくら 夏空蝉丸 @2525beam

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