第28話 アイツを思い出す

目の前に広がるのはつい最近見た景色と一緒だった。


 「………………」


 ここからはまだ崖には遠い。優香は少し離れた場所にある森の中から海を眺めていた。


 「……何が変わると思ったんだろ……私」


 自殺しようとしたあの日、優香はひたすら絶望していた。春風が事故にあった日も恐ろしい絶望に包まれたが、それ以上の絶望だった。

 自分を救ってくれた大好きな人がいなくなる感覚。あの事故の日、その感覚を思い知ってから優香に休まる日はなかった。


 奇跡的に怪我は無かったが、一向に目覚めない春風の側にいるのは針を心臓に射し込むような辛い日々だった。その辛さは日が経過する度に増えて行き、いつ破裂するかわからない程優香の精神は張り詰めていった。

 だからだったのか。あの日、突然心臓が動くと止まるを繰り返す春風を見て優香は病院を飛び出してしまっていた。見ているのに耐えられず、春風に死がついにやってきたのだと確信してしまったのだ。あの時の優香の思考に希望などなかった。もう春風が死んでしまうと、それしか頭になかった。


 それが心を完全に覆い尽くした時、優香は崖に向かって走っていた。春風がいたからこそ今の自分がいたのだ。その春風がいないなら生きていても何の意味もない。

 春風の存在は大きくそれは優香にとって世界ともいえる程だった。優香の日々を形作っている存在であり、その不在は世界の崩壊を現していたのだ。

 本気で死ぬ気でいた。崖に向かって走る事に何の恐怖もなかった。

 だが――――それは失敗に終わった。優香が死ぬ事はできなかった。


 「何も……変わるわけなんてないのに」


 自殺を止めたのは誰なのかもわからない男子――――ではなかった。以前、転入手続きのため学校へやってきた際の顔を見た事があったのだ。転校生の噂は絵里子から聞かされていたので、すぐにその男子が転校生であると優香は理解できた。

 まさか、その男子に転校前に出会うとは思わなかったが。

 こんな周りに何も無い場所で何をしていたのか知らないが、とにかく優香は鉢合わせてしまい自転車を犠牲にして彼は自殺を止めた。


 まさかの出来事だった。止められるなど全く思ってなかった。本来なら自分は今頃海の中へと身を投げておりこの世にいないはずだった。

 そう考えると急に涙が溢れてきた。自分は何て事をしたのだろうと急速に思考が冷えていき、ようやく本能の警鐘が響き全身が突然竦み出す。

 そして優香は悲鳴のように思い切り声を出して泣いていた。目の前にいる自分を救ってくれた男子がかなり困った顔をしたが、構わず泣いてその身体を思い切り叩いていた。

 もう自分は死ねない。今の自分は死ぬ事を怖いと思っている。また崖に向かって走っても身体が震えて足が止まってしまうに違い無く、このまま春風のいない世界を生きるしかなくなってしまった。

 流す涙には色んな感情が含まれていた。惨めや無様や安堵や狼狽など様々な感情が入り交じり、わけもわからず優香は泣きわめいた。


 これからどうすればいいのだろう。春風のいない世界など優香は生きたくないが、死ぬ覚悟はもう無くなってしまった。目の前の恩人を恨めればまだよかったのかもしれないが、そんな気は全く生まれない。かといって感謝するつもりにもなれず、優香は泣き止んだ後途方にくれてしまった。

 何も考えられず、ただ座ったままでいる事しかできないあの時。



 そんな空っぽの状態だったからか――――あの洋介の言葉は無意味に優香の奥底へと響いた。



 ただ、春風を嘆き見る事しかできない優香に死ぬ以外の答えを見いださせたのだ。


『た、楽しい事なんか他にもあるって!』  


 その言葉はただのフォローだった。それ以上の意味はなく、その場にいる優香に何か言おうとして出た苦し紛れの一言だった。

 優香の事を何も知らない中途半端な同情から出た言葉。

 だが、その言葉は偶然でも確実に優香を導いたのだ。


 『…………楽しい事……あるの?』


 これまでは病院にいる春風を“見る”事しかできなかった。だが、空虚な心と空っぽの思考に一時的陥った事により、他の事を考える隙間がこの時生まれたのだ。


 その瞬間出てきたのは「自分に何ができるのか」という事だった。あの倒れて今にも死にそうだった春風に対して本当に何もできないのかという疑問だった。

 優香は何かしたかった。それに意味があろうとなかろうと春風に対して何か行動をしたかった。

 それが何の意味もない馬鹿馬鹿しいモノだったとしても。

 優香はくだらない決意したのだ。

 自分が変わる事が出来たなら――――――春風が元気になるかもしれない、と。


 『本当に楽しい事…………あるの?』


 それは何の解決にもなっていない事だったが、何もできずにいた優香にとってこの願掛けは神の啓示にも等しいモノだった。

 対象は目の前にいる転校生の深谷洋介。変わった自分でこの男子と仲良くする事ができれば願いは叶うと優香は勝手に決めていた。

 今までの自分をやめ“強い自分”でいられるならば、と。


 この時、クラス全員にという考えも当然浮かんだが、そこまで行くと行動以前の問題になるので優香はやめた。洋介に変わった自分を見せるだけでも相当な決意と苦労だったのだ。

 そう決めたなら行動は早かった。無理矢理に洋介と約束事を交わし、学校が終わるとすぐに教室を出て近くにある古屋のそばで洋介が現れるのを待った。普段とは全く違う自分を見せるのは心臓がはち切れるような思いだったが、どうにか優香はその日を過ごした。


 するとその甲斐があったのか、神様が願いを叶えてくれたかのごとく春風は元気になっていた。昨夜までは死の境を彷徨っていたのに、奇跡としか思えない出来事が起こったのだ。

 これは偶然だ。それ以上も以下も何もないと、その自覚は当然あった。

 だが、これは優香の望んだ結果であり、その事実はもっとも大事な事だった。

 優香は願掛けを続けようと決意した。その日も洋介と一緒に楽しい事探しを続行した。


 途中、春風を見かけてしまい強制的に終了してしまったが、偶然にも洋介を見つけたのでホッとした。仲良くするのに、いきなり消えてしまったりしては洋介の心象が悪くなってしまう。そうなればこの願掛けは失敗だ。あの転校生と仲良くしなければならないので、不仲になるワケにはいかない。

 その後、洋介との距離を詰めるために優香は自分の話をした。過去を語るのは心の傷に響く事だったが、春風のためと思えば頑張れた。

 そう、こうしていけば春風はどんどんよくなっていくはず。


 最初がうまくいったからだろう。二日目の優香は洋介と親密になっていけば春風が元気になっていくのだと信じて疑っていなかった。

 だが、神様は優香を弄んでいた。優香の決意をいとも簡単に無に帰してしまった。



 春風の死という結果を持って。

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