起床

 突如として少女の世界に、ふっと音が戻ってきた。ずっと感覚が途切れていたがために、初めは耳鳴りのような感覚があり、うるさいくらいの静寂への緊張があった。


 いまだに優しくなでて包んでくれている存在を、肌で感じていた少女は、徐々にリラックスしていった。その中でまた徐々に、肌で感じていた動きに合わせて、人間より遥かに長く大きい、呼吸の音に気付いてきた。


「あなたって…大きいのですね…」

 ふと、かすかな少女の声が無意識に漏れ出す。今度は少女自身も自分の声が聞こえた。

『…ああ…』

 するとおごそかな…声…のようなものが、少女の脳に直接響くかのように聞こえてきた。


「これは…あなたの声…?」

 少女の問いかけに、一瞬間が空きつつも、それはまた声を少女の頭に響かせた。

『聞こえるように…なったのか…?』


 その声には驚きが混じっている様子であった。少女は優しくて己が関わりたいと思える存在との、久々の会話に感動を覚えつつも震えながら言葉を絞り出した。

「ええ…聞こえるようになりました…!」


『そうか…』

 声の主と思われる彼はどこかまた困惑している様子があった。少女はその様子にリラックスしていた。すると緊張が緩んだからか、少女の中で尿意が急激に高まってきた。


 だが少女の中ではまだ儚いながらも、彼に対して恋慕のような感情があるために、言い出しづらいところがあった。何も言えぬままもじもじする少女。すると声の主は何かを察したのか、ふと少女を包んでいた身体を緩め拘束を解く。


「…あっ…」

 どこか名残惜しいような感覚もあって、少女は思わず手を伸ばしていた。だがその心の内を彼に気取られる事を恥ずかしく思い、頬を染めつつも四つんばいになって言った。


「ありがとうございます…あの…人目に付かないところってありますか…?」

 少女は頬を染めたままぺたぺたと石の床を触りながら言う。彼はなかなか応答しなかったが、しばらくすると少女の襟元が持ち上がった。

「きゃっ…?!」


 少女の襟元に温風がそよぐような感覚が走り、襟元を掴まれて持ち上げられるような感覚が走る。ゆっくりと持ち上げられては居るが、しっかりと掴むためにまた再度掴まれたために、服の生地がだいぶ掴まれている。


 少女は彼におへそや背中を見せてしまっていないかと恥ずかしく思い、頬を赤らめながら必死に手で服を伸ばして背やへそを隠そうとする。すると風を感じた後、すぐに少女は優しく地に下ろされた。


『…そこに壷がある…それに用を足すがいい…』

 少女はさらに顔を赤くする。

「あ…あの…」


『…その間…私は背を向けていよう…それでも不満か…?』

 その声はおごそかで余裕に満ちており、まるで意に介していない、といった様子であった。少女は自分が意識しすぎている事に気付き逆に恥ずかしくなり、すっと手で壷の位置を探って用を足し始めた。


 用を足し始めて緊張が解けたのか、少女の中にふと思いが生まれた。今自分を持ち上げたのはなんだったのだろうか、と。焦っていた少女にはあまり気にならなかったが、あの温風は彼の鼻息だったのかもしれない。


 彼は口先で自分をついばんで移動させてくれたのではなかろうか。それも少女の意図を汲んで、思いやりの結果離れた場所に移動してくれたのではなかろうか。少女の思考はまとまらなかったが、どちらにせよ優しくされている、というのは少女にとってこの上ない喜びであった。


 少女は見えない目を細めつつも頬を染め、ほぅっと溜め息をついた。



 勇者が目を覚ますと、そこは宿のようなところだった。そんな豪華な作りではないが、鎧や刀剣といったものも置いてあり、疲れが取れないほど粗末な作りのベッドでもない。

「気が付いたか」


 すると微笑で出迎える見知った顔がそこにあった。確か城下町の兵士を束ねる隊長の一人…だったはずだ。

「ここは…?」


 隊長は木製の分厚いマグカップをすすりながら言った。

「城下町における兵士のための宿舎だ」

 勇者が半身を起こすと、身体はまだぐったりと重かった。


 隊長がまた別のマグカップを差し出す。湯気の立つそれを勇者もすする。

「牛乳は嫌いか?」

 勇者はまだ疲れの残る笑顔で言った。


「いいえ…ありがたいです」

 隊長はまた微笑を浮かべてマグカップをすすり、ベッド脇の木製の収納付きの机を軽く指差す。そこには皿に載ったライ麦で作られた田舎パンで挟まれたサンドイッチがあった。


 勇者は促されるままに食事前の祈りを捧げると、カンパーニュとハムとチーズ、それにトマトとレタスで出来たサンドイッチをぱくりと食す。オリーブオイルとバルサミコ酢の酸味の効いたドレッシングが実に美味しい。


 フレッシュなトマトとレタスの食感と、ハムの歯ごたえと、カンパーニュの懐かしい荒いパンの食感と風味とが、熟成されたチーズのまろやかさで包み込まれる。勇者のような冒険者にとってそれは至福の時間であった。


 それを理解しているのだろう、隊長も特に何も言わずにホットミルクをすすっていた。勇者はある程度食べて落ち着いた頃に言った。

「…自分は倒れていたんですか?」


「ああ」

 隊長はそっけなくそう返した。勇者はさらに聞く。

「僧侶の彼女は…?」


「そこにはいなかったよ」

 隊長は少しうつむく様子で言った。勇者も少しうつむき、ホットミルクをすする。

「自分は彼女の転移魔法に助けられたんです…」


「そうか」

 また隊長はそっけなくそう返す。勇者は続ける。

「あの魔法使いは…僕の恋人でした…戦士は僕の恩人で師でもあった」


「…そうか」

 また隊長はそっけなく返したものの、そこには若干の苦々しさがあった。死線をくぐってきた者同士だからであろうか。


 彼らの間ではただそれだけのやり取りで通じてしまっているようだった…魔法使いだった少女と戦士だった男が死んだ、という事が。勇者はぼんやりと話し続けていた。

「今思えばあの時点で…僧侶に蘇生魔法をかけさせれば良かった…」


 隊長は顔は向けぬまま、勇者に目だけ向け、また逸らして言った。

「…物事には常に状況というのがある。思い通りにならん事もある」

 溜め息をつきながら言っているような雰囲気だった。


 勇者は理解した。そういえば彼も「この世でもっとも恐ろしいもの」の吐いた消えない炎に、大切に育ててきた仲間であり部下である、兵士を殺されていたのだった。

「…そうですね」


 勇者は自嘲気味に笑う。

「まあ、食え。もっと回復したら酒も呑ませてやろう」

 隊長はそう言うとゆで卵を机の角に何度かぶつけて殻を剥き始める。


 勇者はそれを呆気に取られた様子で見つめながら言う。

「…卵ってお高いものなんでしょう…?どうしてここまで…」

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