幕間一 深淵の魔術師

第510話 深淵の魔術師

 バサリ、と。

 天空より大きな鳥が舞い降り、そこに足を休める。

 それは大きな骨だ。肋骨の一つである。

 横たわる、巨大な蛇の骨だった。

 十セージルにも至る巨体だが、頭蓋だけそこにはない。


 蛇の骸は、完全に白骨化していた。

 しかし、年月をかけて風化した訳ではなかった。

 様々な魔獣や、獣によって骸を貪り喰われた結果である。

 鳥は嘴で骨をつついた後、再び飛び立った。


 そこは、蒼い湖の前だった。

 巨大樹に覆われた森の中にある、広大な湖。

 とても澄んだ湖であり、時折、獣が現れて喉を潤している。


 と、その時だった。

 丁度、喉を潤していた大型の魔獣が顔を上げた。

 そして何かに恐れるかのように、森の奥へと逃げていく。

 直後、湖がさざ波を起こした。

 湖の中心から、波が広がっている。

 そうして。

 ぽっかりと。

 湖の中心に、闇が浮かび上がった。

 拳大の球体の闇。それは瞬く間に巨大化し、人が通れるほどの大きさになる。

 すると、闇の中から人影が現れた。


 二十代前半だろうか。

 肩まで伸ばした、頭頂部で右側が黒、左側が白という変わった髪。

 整った顔立ちの青年なのだが、顔の右半分は髑髏の仮面で覆っている。

 体には、漆黒のローブを着込んでおり、右手には大きな樫の木の杖を持っていた。

 その青年は、湖に降り立つと、驚くことに湖面を歩き始めた。

 無表情の青年は、そのまま進んでいき、湖面から大地へと移動した。


「…………」


 青年は、巨大な蛇の骨に目をやった。

 傍に寄って、さらに見据える。


「……情けなや」


 青年は、初めて口を開いた。

 老人のようであり、見た目通りの青年の声のようにも聞こえる不思議な声だ。


御方おんかたさまに最も近しき写し身を持つ者が、この有様とはな」


 双眸を細める。


「貴様には期待しておったのだぞ。それだけに残念だ」


 そう呟くと、視線を別の方に向けた。

 湖の麓。木々のない広場だ。


「少々人手が足りんな。不出来な弟子でも呼ぶか」


 コツンと。

 樫の木の杖で地面を突いた。

 途端、再び闇が生まれた。

 闇は拡大し、数秒後には縮小する。

 すると、そこには、灰色の紳士服を纏う一人の老紳士がいた。


 五十代半ばほどの年配の男性。

 くすんだ藍色の髪に、赤い眼差し。

 ポットを高く掲げて、紅茶をカップに注ぐ老紳士である。

 紅茶を注いだ姿勢のまま、老紳士は目を丸くしていた。


「……これは、我が師ではありませんか」


 老紳士は、紅茶を注ぐのを止めて呟く。


「久しいな。ウォルター」


 青年は言う。

 ウォルター=ロッセン。

 それが、この老紳士の名前だった。


「はて」


 ウォルターはポットを片手に、紅茶を啜る。


「師よ。ここはどこなのでしょうか?」


 周囲を見渡す。

 自分は先程まで、借りたホテルの一室で紅茶を楽しむ予定だった。

 だというのに、数瞬後には、湖のある森の奥に移動していた。

 師の転移術である。

 師と、わずかながらウォルターも使える『魔術』と呼ばれる術だ。

 この世界の法則、原理とは異なる力。

 その起源を知るのは師だけ。ウォルターにとっても謎の秘術である。


「とある国。アティスとか言ったか。その国にある樹海だ」


 師は淡々と答えた。


「……ほう。アティスですか」


 紅茶で喉を潤しながら、ウォルターは反芻する。

 意外にも聞いたことのある国名だった。

 一度来訪したこともある。因縁ある商売敵に嫌がらせをしに来た時だ。


「ですが師よ。どうして急に私を?」


 ウォルターが率直に尋ねる。

 師とこうして対面するのは、およそ十年ぶりだった。

 そう。十年経つのだ。だが、師の姿はまるで変化していない。

 それどころか、師事した十代の頃と全く変わらない師の姿に、流石に恐れも抱く。


(……やはり師は)


 まごう事なき人外。それを改めて思い知る。

 しかし、そんなことは、師にとってはどうでもいいことなのだろう。

 師は、無感情に、ウォルターの問いかけに答えた。


「人手が足りん。ロクに術も扱えず、あのような玩具に頼る貴様でも、猫の手代わりぐらいならば務まるだろう」


「それは手厳しい評価ですな」


 ウォルターは肩を竦めた。


「『悪魔』を目指す私としましては、いささか傷つきます」


「……ふん」


 青年は鼻を鳴らした。


「本物の『悪魔』は存外面倒見がよいものだ。なおさら手伝え」


「我が師の命ならば」


 言って、恭しく礼をした。

 次いで、彼の両手からは、ポットとカップが消えた。

 師には鼻で笑われる程度ではあるが、ウォルター自身の魔術だ。


「それで、私めは何をすればよいのでしょうか?」


「貴様には観測を手伝ってもらおう」


 言って、青年は虚空からある物を取り出した。

 それは四つの黒いオーブだった。


「……行け」


 そう呟くと、四つのオーブは天へと飛び、四方へと散った。


「……今のは?」


 さしものウォルターも眉をしかめた。


「この日のために、われが用意したものだ」


 青年は言う。


「この地は申し分のない場所だと思っていたが、まさかの本命がな」


 ブツブツとそう呟き、視線を蛇の骨に向ける。


「情けなや。だが、やはり本命ではある」


 すうっと目を細める。


「我が師よ?」


 ウォルターも視線を巨大な骨に向けた。

 どうやら魔獣の死骸のようだが、これに一体何があるのか。

 しかし、師は何も語らない。

 教えるということが、昔から雑なのだ。


(私が術の覚えが悪かったのも、一概に私のせいばかりではないと思うのですが)


 内心で苦笑を浮かべる。と、


「北の《教団》は女狐に乗っ取られた。東の鬼たちは未だ動かぬ。南の阿呆あほうに至っては国政などに夢中ときた」


 コツン、と師が樫の木の杖を突く。


「御子さまも、未だそのお姿を確認できておらぬ。ならば、我しかおるまい。勇猛なる御方おんかたさまに尽くすのは」


 そこで、青年はウォルターに視線を向けた。


「喜ぶがいい。ウォルターよ」


「……喜ぶ、ですと?」


 ウォルターが反芻すると、青年は不敵に笑った。


「我が魔術の秘奥の一つを見せてやろう。西方天――この深淵の魔術師の秘奥をな」


 言って、青年は樫の木の杖を掲げた。

 樫の木が淡く輝き始める。

 ウォルターは目を見開いた。

 そして、


「刮目して見届けよ。我が弟子よ」


 青年――深淵の魔術師が告げる。


「我が魔術の秘奥。『異界渡り』の秘術をな」

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