第一章 旅立ちと、日常
第496話 旅立ちと、日常①
その日は、晴天だった。
雲一つもない空。潮風も心地よい。
帆船の甲板にて、長い黒髪が風に揺れる。
遥か遠くにあるグラム島を見据えるのは、美しい少女だった。
年の頃は十六、七ほどか。
長い黒髪に同色の瞳。女神もかくやといった美麗な顔立ちに、抜群のプロポーション。身に纏うのは、背中と半袖の縁に炎の華の紋が刺繍された白いタイトワンピースだ。足には黒いストッキングを纏い、茶色の長いブーツを履いていた。
――サクヤ=コノハナ。
終末思想を抱く危険な裏組織。悪名高き《ディノ=バロウス教団》の盟主であり、アッシュ=クラインの正妻を主張する少女だった。
まあ、実際のところ、見た目は少女でも、実年齢は二十四歳になるのだが。
彼女は今、海上にいた。
帆船の甲板で風を感じながら、愛しい人がいるグラム島に目をやっていた。
憂いに満ちたその横顔に見惚れて、近くの男たちが息を呑むのだが、声を掛ける勇気まではないようだ。
サクヤは、誰にも邪魔をされずに物思いに耽っていた。
と、その時だった。
「寂しそうだね。サクヤさん」
不意に、声を掛けられた。
サクヤが、ゆっくりと振り返ると、そこには一人の女性がいた。
年齢は二十代前半。薄紅色の長い髪を右側だけ結いだ女性である。
少し背の高いスレンダー系の美女であり、すらりとした美脚の持ち主だった。
服装は、アロン大陸中部特有の、足にスリットの入った衣装。その上に、丈の短いベージュ色のジャケットを着ている。
彼女の名は、キャスリン。
傭兵団 《フィスト》に所属する傭兵だ。
サクヤにとっては、顔見知りの女性だった。
「あら。キャスリンさん」
「キャスでいいよ」
キャスリンは、ニコッと笑った。
「君とジェシカさんとは、長い付き合いになりそうだしね」
と、告げる。
サクヤは、「ごめんね」と少し苦笑を浮かべて、
「私の都合に付き合わさせちゃって」
「あはは。気にしなくていいよ」
キャスリンは陽気に笑う。
「これはちゃんとした依頼だしね。アッシュ君からも前報酬で貰っているし」
「……ありがとう」
サクヤは、目を細めて礼を言った。
サクヤは今、グラム島から旅立ったところだった。
目的地は、《ディノ=バロウス教団》の総本山があるセラ大陸の北部地方だ。
サクヤはケジメをつけに行くのだ。
盟主の座を降り、教団を退団するつもりなのである。
これは、すでに《ディノ=バロウス教団》の
しかし、幹部たちは、そう簡単には納得してくれないだろう。
間違いなく、多少の揉め事は覚悟しなければならない。
そのための傭兵団 《フィスト》だ。
キャスリンたちの仕事は、サクヤの護衛。そして用件を終えた後、彼女と
それを、アッシュから依頼されたのである。
「安心していいよ。こう見えても、ぼくらはオズニアじゃあ屈指の傭兵団だから」
キャスリンは、慎ましい胸を張って、そう告げた。
ただ、その後に苦笑を浮かべて、
「けど、やっぱり寂しそうだね。サクヤさん」
「それは当然よ」
サクヤは溜息をついた。
「だって、しばらくはトウ……アッシュに会えないんだよ」
ジト目でキャスリンを見やる。
「キャスだって、ホークスさんと何ヶ月も会えなかったら辛いでしょう?」
「うっ、それはそうだね」
と、恋人の名を出されて、キャスリンが頬をかいた。
「それに、あそこには、オトハさんやサーシャちゃんがいるんだよ」
まだ微かに島影が見えるグラム島に目をやり、サクヤは呻いた。
「私が留守にする間、二人とも、きっと無茶苦茶愛されるよ。それに、シャルロットさんも近い内には……」
「……はは」
サクヤのその呟きには、キャスリンは苦笑いしかできない。
「
「私たちだって、簡単に受け入れた訳じゃないよ」
サクヤが、キャスリンに視線を戻す。
「色々と話し合った結果なのよ。それにまだ問題も多いわ。男爵位さえとれば、アティスの法律的にはOKでも、経済的な問題もあるしね」
「いや、侯爵令嬢に、王女さままでいるんでしょう? いざとなれば経済面は大丈夫じゃないかな? それに」
キャスリンは、あごに指先を当てて口角を崩した。
「こないだ、ミランシャさんも、遂に正式参戦を表明したんでしょう? あの人ってグレイシア皇国の公爵令嬢だって話だし」
「アッシュはその点は絶対に筋を通すのよ。奥さんたちの実家にお金を工面してもらうなんてまずしないわ。けど、それにしても……ミランシャさんかぁ……」
サクヤは、肩を落として溜息をついた。
「あれにはやられたわ。ミランシャさんって、もっと奥手だったと思ってたのに」
実は、ミランシャもすでに帰国している。
一週間前。アッシュの実弟であるコウタと彼の友人たちと共に、一足先にグレイシア皇国へと帰国しているのである。
ただ、その時にミランシャは事件を起こしたのである。
ハウル家所有の鉄甲船が停泊する港にて。
『アタシ、アシュ君のことが好きなの』
そう告げて、見送りに来た大観衆の前で、彼にキスをしたのだ。
完全に不意打ちだった。
アッシュは、目を丸くしていた。
『つ、続きは次に会った時にね!』
ミランシャは、口早にそう告げると、そそくさと鉄甲船に乗り込んでいった。
遠目でも耳や顔が真っ赤になっているのを、サクヤは見逃さなかった。
はあっと溜息をつく。
「分かってはいたけど、これでミランシャさんの正式参戦かぁ。それに……」
サクヤは、キャスリンを一瞥した。
「レナの調子はどう?」
そう尋ねると、キャスリンが「はは」と乾いた笑みを見せた。
「まだ船室で寝てるよ。あの体力自慢の子がもうぐったりとだよ。ただ、時々ベッドの上で『ふへへ』って笑ってるみたい」
「……それはよく分かるよ。本当によく。体力的にも心境的にも」
サクヤは、何回目なのか分からない溜息をついた。
次のステージに進んだのは、別にミランシャだけではなかった。
まだ確認はしていないが、確信はしている。
レナもまた、次のステージ――そう。『ステージⅢ』に至ったのである。
それも多分、昨夜の内にだ。
サクヤたちの出立は、本当ならば昨日の予定だったのだ。
平日だったので見送りはアッシュのみ。
ユーリィとシャルロットは工房の店番を。オトハは教官として、サーシャたちは学校に行っている。前日に送別会をしてもらったので寂しくはなかった。
何より旅立ちまでの数日間は、オトハもサーシャも差しおいて、たっぷりとアッシュに愛してもらったので、サクヤとしてはホクホクだった。
しかし、旅立ちの当日。
傭兵団の団長として旅に同行するレナと、アッシュは会話をした。
すると、アッシュは何故か眉をひそめたのだ。
会話はさらに続く。アッシュは、ますます眉根を寄せた。
どうも話がかみ合ってない様子だった。
レナは、ずっとキョトンとした顔をしていた。
そして、
『……悪りい。サク。ジェシカさん』
不意に、アッシュが、サクヤとジェシカに声を掛けてきた。
『すまねえが、出発はもう一日だけ待ってくれ。二人は、今日はうちの工房に泊ってくれたらいい。ただ……』
アッシュは少し躊躇いつつも、口を開いた。
『少し込み合った話になりそうだ。今日はもしかすっと帰らねえかもしんねえ。オトやユーリィたちにはそう伝えておいてくれないか』
『え? トウヤ?』
サクヤが目を瞬かせると、アッシュは視線をホークスの方に向けた。
『ホークスさん。あんたたちの方は、今日分の滞在費を出すよ。けど』
ポン、とアッシュは、レナの肩を叩いた。
『ちょっとレナと話がしたい。団長を借りていくがいいか?』
『へ? アッシュ?』
レナがキョトンとした様子で、アッシュの顔を見上げた。
途端、騒ぎ出したのはダインだ。
『ふざけんな! お前、レナさんに何をする気っすか!』
しかし、それを黙らせたのはキャスリンだった。
『あ、うん。いいよ。いいよ。行ってきて』
ニッコリと笑うキャスリン。小さな声で『頑張って。レナ』と告げるとが、レナ当人はまだ分かっていない顔だった。
『まずは飯に行くか。そこでちゃんと話をするぞ。レナ』
そう告げるアッシュに、
『おう! 飯だな! けど、話って何だ?』
と、レナは元気に応えていた。
――翌日の朝。
港湾区で待つサクヤたちの元に、アッシュとレナがやって来た。
レナは、昨日までの元気一杯な様子から一変していた。
いや、元気なのは変わりないと思うが、アッシュの右腕に両腕でしがみついて、ひょこひょこと歩いているのである。時折、ふうっと熱い吐息を零していた。彼女の肌は赤みを帯びていて、表情はどこか陶然としているような様子だった。
女性陣は、流石に察する。
サクヤは複雑な気分ながらも遠い目をし、意外と初心なジェシカは顔を赤くして、キャスリンは『おお! 遂に!』と両手を固めて興奮していた。
ちなみに男性陣――ホークスとダインは、すでに船室にいた。ダインには酷なものを見せてしまうと気遣い、ホークスが彼を捕獲……もとい保護しているのだ。
その予感は、見事に的中したようだった。
『……待たせて悪かったな』
アッシュが告げる。
それから、自分に右腕に掴まるレナに視線を向けた。
対するレナも、顔を真っ赤にして、アッシュの顔を見上げた。
『……分かってんな。レナ』
アッシュは、優しい顔で、レナの前髪をくしゃりと撫でる。
すると、レナは赤い顔のまま、コクコクと頷き、
『う、うん! 自分を大事にだろ! もう充分によく分かったから!』
そう答えた。
『ん。そうだ』と、アッシュがわしゃわしゃとレナの頭を撫でる。レナは『もうやめろよォ、アッシュのアホォ』と、気恥ずかしそうに、アッシュの手を掴んだ。
『ああ。分かった。分かった』
アッシュは目を細めて。
『けど、マジでそんな時が来たら、昨日、俺が伝えたことはちゃんと思い出すんだぞ』
そう告げてレナの両頬を抑える。彼女は、ビクッと硬直していた。
そして口をパクパクと動かしてから、『ア、アッシュのアホォ』と呻いていた。
そんな中、サクヤは、おもむろにアッシュに近づいた。
『……トウヤ』
ジト目で幼馴染の名を呼ぶ。
そうして、くいっと彼のつなぎの袖を指先で掴み、
『次は私の番じゃないかな? もう一日、延長したらダメ?』
そうお願いするが、
『……いや、流石に、これ以上、ホークスさんたちを待たせる訳にはいかねえだろ』
幼馴染には、かぶりを振られた。
『サクにはマジですまねえと思っている。この場で引っ叩いてくれてもいい』
『う~ん、相手はレナだし、私としては、そこまで怒ってないかな?』
サクヤは苦笑した。
『ここで、トウヤがそこまでする理由があったんでしょう?』
『まあ、ちょっとな……』
アッシュは嘆息した。
『どうも俺はレナの本質を読み違えていたみてえだ。それを土壇場で気付いちまって、このままだとマズいと感じたんだ。そんで話をしてみたんだが、それも全く平行線でさ。もう態度で示すしかねえと思ったんだ』
一拍おいて、
『……いや。結局それも言い訳だよな。今回はマジで不義理だ。オトにもサーシャにも、それに、シャルにも謝らなきゃならない。ただ、それでも』
そこで、アッシュは、キャスリンと話をしていたレナの方に視線を向けた。
『レナ』
彼女の名を呼ぶ。レナは『お、おう!』と、かなり緊張した面持ちで振り向き、トコトコとアッシュの元に駆け寄った。
アッシュはレナの腰に手を添えて、グッと強く抱き寄せた。
レナを腕の中に完全に納める。
レナの顔が、カアアっと赤くなった。
アッシュは彼女に告げる。
『レナ。本当に自分を大切にするんだぞ』
『う、うん……』と頷くレナ。
普段は活発な彼女も、今はとても大人しかった。
アッシュは、ふわふわとした表情のレナを地面に降ろしてから、
『……キャスリンさん』
アッシュは、キャスリンに真剣な眼差しで向けた。
『依頼を少し変更するよ。サクの護衛は変わらねえ。けど、用件を終えてこの国にまで送り届けるのは、サクとレナの二人に変更だ。二人を必ず無事に送り届けてくれ』
そう願った。
その後、アッシュは、サクヤもグッと強く抱きしめた。
こうして、サクヤたちは旅立ったのである。
「……う~ん」
船上で潮風を感じながら、キャスリンが腕を組む。
「やっぱり、これって《フィスト》の最後の仕事になるのかな? アッシュ君の雰囲気だと、レナは寿退職になりそうだし……」
「あはは。ごめん」
サクヤが苦笑を零した。
サクヤとレナ。ある意味、二人揃って寿退職の旅になりそうだった。
「まさか、ここでアッシュがこんな積極的に出るなんて思ってなかったわ」
「う~ん、あの時、何か二人で話をしていたみたいだったけど……」
キャスリンは、頬に手を当てて小首を傾げた。
しかし、ややあって、
「まあ、いっか。ぼくとしては寂しいけど、親友の幸せが一番だしね」
言って、背中を向ける。「レナの様子を見てくるよ」と告げて去っていった。
残されたサクヤは小さく嘆息し、視線をグラム島に向ける。
「……もう。トウヤの馬鹿」
あそこで、どうしてレナに気を向けるのか。
確かに色々と受け入れている。レナはれっきとした同志の一人だ。
彼女を気にかけること自体は構わない。
しかし、正妻を自認するサクヤとしては、流石に嫉妬を抱いてしまうのである。
(……むう)
まあ、それ以上に、
(………トウヤ)
彼と離れ離れになるのが、どうしようもなく寂しかった。
サクヤは、グラム島の影に再度目をやる。
そして、
「……トウヤぁ、会いたいよォ、トウヤぁ」
早速、ホームシックに陥るサクヤであった。
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